夜が明けきらぬ薄明かりの中、朔也と詩乃は、都心から遠く離れた山奥へと車を走らせていた。数時間前に詩乃が暗号を解読し特定した場所、それは、古い神社が管理していた、異能者隔離施設だった。
道中、朔也は、父の古い手記から得た断片的な推測を、詩乃に伝えるべきか葛藤していた。
「詩乃。お前の母親、咲良様の秘密は、単純に花守維信の企みだけでは済まされない」
朔也は運転しながら、詩乃の横顔に視線を向けた。
「あの暗号が示すように、当時の軍部、そして黒峰家も関わっていた。俺の父が残した記録には、政略結婚をする前の父が、霧ヶ原の女性に対し、強い感情を抱いていたことが記されていた」
詩乃は静かに聞いた。
「朔也様の…お父様が?」
「ああ。父は、その女性の異能が『清らかで、あまりに危険すぎる』と記していた。父は、時代の流れを阻止できなかったと後悔していた。俺の勘だが、その霧ヶ原の女性こそ、お前の母親、咲良様ではないかと推測している」
朔也は、詩乃の心に、突然過去の重荷を押し付けることを躊躇した。
「これが事実なら、俺の父は、お前の母を救えなかった。そして、俺たち黒峰家は、この隠蔽の一端を担ったことになる。俺は、父ができなかったこと、お前の母の真実を守り、お前をこの手で守り抜く。この隔離施設は、その第一歩だ」
詩乃は、朔也の手をそっと握った。
「朔也様。もしそれが事実だとしても、私は朔也様を憎んだりしません。私が知りたいのは、母が何を想って私を産み、何を遺したのか、それだけです。私は、朔也様と共に真実を受け止めます」
二人の決意は、車窓に広がる鬱蒼とした森の中で、より一層固く結ばれた。
目的地に近づくにつれ、車内の空気は重く、ひりつくような感覚に包まれた。古い神社に隣接する形で、目立たないように地下へと伸びる階段が見つかった。
そこから、強力な異能抑制の力場が働いているのが、朔也の炎の感覚を通じて伝わってきた。
「ここは、異能者から力を奪うための施設だったようだ。気をつけろ、詩乃。お前の睡蓮の力も、ここでは弱まるかもしれない」
朔也は、周囲を炎の結界で覆い、わずかな光だけを放ちながら、詩乃と共に地下へと降りていった。
施設内部は、ひどく荒廃していた。壁はカビに覆われ、天井からは水滴が落ちている。しかし、その廃墟然とした光景とは裏腹に、そこかしこに人為的な探索の痕跡が残されていた。
朔也は、足跡や、壁に残された異能の傷跡を瞬時に分析する。
「先客がいた。二組だ。一つは、紫堂煌牙の、精密で粘着質な異能の残滓。もう一つは……桜の異能者の、激しく、命を削るような戦闘の痕跡だ」
煌牙は、鍵の手がかりを探していたのだろうが、桜の異能者が彼を阻止し、そして深手を負いながらも奥へと進んだようだ。
「桜の異能者の目的は、この施設で鍵を見つけることではなく、煌牙の追跡を逃れて、鍵の場所を隠すことだったのかもしれない」
朔也は推測した。彼女もまた、この真実を軍部や煌牙の手に渡すことを恐れている。
施設の奥へ進むにつれ、環境はより非人間的なものになっていった。金属製の拘束具が固定されたベッド、血液や異能の残滓を洗浄するための排水溝。
ここは、実験や治療という名の”異能の抑圧”が行われていた場所のようだった。
詩乃は、その光景を見て、呼吸を詰まらせた。
「ここは……」
彼女の心に、言いようのない悲しみが押し寄せた。
朔也は、詩乃の手を強く握りしめ、前へと進んだ。二人がたどり着いたのは、施設の最奥にある、床と壁が一面、特別な異能抑制鉱物で覆われた、小さな一室だった。
「ここだ。この部屋だけ、特に強力な抑制力が働いている。もし咲良様がここに滞在していたなら、最も力を奪われていた場所だろう」
朔也は、炎の力で抑制鉱物に熱を加え、その効果を一時的に無効化させた。
抑制鉱物の力が弱まった瞬間、詩乃から放たれる睡蓮の光が、突然、強烈に輝き始めた。その光は、抑制の力場を上回るだけでなく、部屋の隅々にまで広がり、古い壁や床に染みついた過去の感情の残滓と、激しく共鳴し始めたのだ。
詩乃は、全身を震わせ、苦痛に顔を歪ませた。
「うっ……苦しい……悲しい……」
朔也は、すぐに詩乃を抱きしめ、炎の力で彼女を包み込んだ。
「詩乃!無理をするな!」
「大丈夫です、朔也様。これは……母の感情です。強い、強い悲しみと……諦め……」
詩乃の瞳から、大粒の涙が溢れた。彼女の視覚には、この部屋の壁一面に、過去の光景がフラッシュバックのように映し出されていた。
そこには、咲良が孤独に、しかし清らかな光を絶やさずに、何かを書き残そうとしていた姿があった。
そして、その光景の最後に、咲良の魂が絞り出すような、一つの強いメッセージが詩乃の意識に刻まれた。
「朔也様……分かりました……『鍵』は、ここにはない……母は、『桜の季節の夜に、光を向けよ』と言っている……」
詩乃が絞り出した言葉は、暗号のような、詩的な表現だった。
「桜の季節の夜に、光を向けよ……?」
朔也は、その言葉の意味を瞬時に考えた。桜は霧ヶ原家の異能の象徴。そして、光は詩乃の睡蓮の異能。
「桜の季節……それは、咲良様が、お前を身籠っていた時期か、あるいはお前が生まれた時期の、特定の場所を指しているはずだ」
咲良は、真実を記した”鍵”を、自分の異能の力が最も強く発動する時期と場所、そして娘の睡蓮の光がなければ開けられない場所に隠したのだ。
その瞬間、施設全体が激しく揺れた。
ドォォン!
地下の通路から、砂煙と共に、軍服姿の男たちが雪崩れ込んできた。彼らは、異能庁管轄の異能者ではなく、大佐の直属と思われる”異能者拘束部隊”だった。
「黒峰当主!そこにいるな!大人しく、女を渡せ!」
先頭に立つ部隊長は、異能抑制具を装備し、冷酷な目で朔也たちを狙っていた。
「チッ、待ち伏せか!」
朔也は、即座に詩乃を背中に庇い、炎の結界を最大展開した。
「詩乃!俺の傍を離れるな。お前は光を集中させろ。俺が道を開ける!」
戦闘が始まった。部隊は、異能抑制具を駆使して朔也の炎の力を削ごうとするが、朔也の炎は、詩乃の存在と父の過去の因縁への怒りによって、以前にも増して強力になっていた。
朔也は、炎を剣のように、鞭のように操り、拘束部隊を次々と薙ぎ倒していく。しかし、敵の狙いは明確だった。
彼らは、朔也を倒すことよりも、詩乃を拘束することに重点を置いていた。
部隊長が、特殊な異能抑制弾を発射する。朔也は、それを炎の壁で受け止めたが、その衝撃で、一瞬、炎の結界が揺らいだ。
その隙を見逃さず、隊員の一人が詩乃に向かって拘束用の異能糸を放った。
「危ない!」
朔也は、詩乃の前に飛び出し、左肩で異能糸を受け止めた。焼けるような激痛が走るが、彼は歯を食いしばる。
「朔也様!」
「構うな!詩乃、今だ、その光を使え!」
詩乃は、朔也の激痛を感じ取り、鎮魂の睡蓮の光を、全身全霊で解放した。
彼女の光は、この異能抑制の力場を完全に無視し、部屋中に充満した拘束部隊の憎悪と殺意の感情を、一瞬にして浄化し始めた。
鎮魂の光を浴びた拘束部隊の隊員たちは、一斉に動きを止め、苦悶の声を上げた。彼らの心に宿る負の感情が、強制的に洗い流され、戦意を喪失したのだ。
朔也は、その隙を見逃さなかった。左肩の傷から炎を噴出させ、拘束糸を焼き切ると、詩乃を抱きかかえて、出口へと駆け出した。
「詩乃、よくやった!次の場所へ急ぐぞ!」
朔也は、詩乃が得たメッセージ”桜の季節の夜に、光を向けよ”を脳裏で反芻していた。
このメッセージと、父の記録にあった”愛した霧ヶ原の女性”の存在。
朔也は、次の目的地が、黒峰家と霧ヶ原家の因縁が生まれた、特定の場所であることを確信した。
そこは、詩乃の母親が、命を懸けて、娘の未来と、自分たちの真実を託した、最後の隠し場所だった。
二人は、崩れかけた隔離施設から脱出し、夜明けの光が差し始めた山中を、次の真実の地へと急いだ。
朔也の左肩からは血が滲み、詩乃は疲労困憊していたが、彼らの目には、真実への強い光が宿っていた。
