夜明け前の静寂の中、朔也と詩乃は、執務室の大きな机に向かい合っていた。机の上には、山中の廃墟で朔也が持ち帰った、古い地図の断片と暗号化された羊皮紙が広げられている。羊皮紙に書かれた薄青色のインクは、どこか詩乃の”鎮魂の睡蓮”の光を思わせる色合いだった。
朔也は、すぐさま詩乃の隣に座り、彼女が暗号解読に集中できるよう、周囲の警戒と、必要な古文書の手配を始めた。
「無理をするな、詩乃。この暗号は、当時の軍部でも最高機密とされる暗号体系に酷似している。だが、母君は、そこに何らかの個人的な変更を加えているはずだ。感情や、二人だけの記憶にヒントがあるかもしれない」
「はい、朔也様。私にできる限りのことをします」
詩乃は頷くと、花嫁修業で学んだ異能界の古い暗号解読の知識と、黒峰家の古文書から得た機密情報を照らし合わせ始めた。
羊皮紙に羅列された文字は、単純な換字式ではない。特定の記号は、異能界の古い家系の紋章を暗示し、配置されている座標は、異能庁が過去に管理していた秘密施設の位置を示唆しているようだった。
詩乃は、集中するあまり、額に汗を滲ませた。彼女の胸元で、淡い睡蓮の光が微かに瞬き、羊皮紙の暗号に共鳴し始める。彼女の指が、特定の記号をなぞった瞬間、その記号が、詩乃の心の中で微かに熱を帯びたような錯覚を覚えた。
「朔也様……この記号の羅列、ある特定の家系の家紋の配置図の順序を辿っている気がします」
詩乃の指摘に、朔也は驚いて身を乗り出した。
「家紋の配置図、だと?まさか、軍部の暗号に、私的な情報が混ざっているのか」
詩乃が指し示した記号の順序を、朔也が古文書庫から取り出させた異能家系の家紋集と照合する。すると、驚くべきことに、その順序が、かつて異能庁に存在した特定の四つの家系の家紋の配置を、正確に表していることが判明した。
その四つの家系は、黒峰家、花守家、霧ヶ原家、そして当時軍部の最高顧問を務めていた有力な家系だった。
「この暗号は、軍部だけでなく、黒峰家と花守家の最高位の者も、その真実の隠蔽に深く関わっていたことを示している……」
朔也の顔から、一瞬にして血の気が引いた。
彼の思考は、すぐに父親へと向かった。朔也の父、黒峰当主(先代)は、異能庁と軍部との複雑な関係を築き上げた人物であり、軍部の最高顧問とも親交が深かった。
朔也は、自らの血筋が、詩乃の母親の秘密と、その真実の隠蔽に深く関わっている可能性に直面したのだ。
朔也は、詩乃の暗号解読が進む一方で、自身の父の過去の記録を独自に調べ始めた。彼は、父が当時関わっていた政略結婚に関する記録を、厳重に封印されていた文書庫の最奥から探し出した。
そこには、父が政略結婚をする数年前、愛する女性がいたという、個人的な記述が残されていた。その記述は、政略結婚前の父の切実な心情を吐露したものだった。
『彼女の光は、あまりにも清らかで、この世の穢れとは無縁だ。だが、彼女が属する霧ヶ原の異能は、あまりにも危険すぎる。俺は、彼女の運命に手を貸すことができないのか。黒峰の力をもってしても、あの時代の流れを阻止できないのか……』
朔也は、その記述を読み進めるうちに、背筋が凍るのを感じた。
「彼女が属する霧ヶ原の異能……」
朔也は、父の愛した女性が、霧ヶ原家の者であったことは確信した。しかし、それが詩乃の母咲良であるという確証は持てなかった。
「あの時代の流れを阻止できない……これは、父上が、霧ヶ原の異能を巡る政略と、国による封印の動きの存在を知っていた証拠ではないか」
朔也は、父が愛する霧ヶ原の女性を救おうとしたが、当時の政略や軍部の強大な力によって阻まれ、結果的に政略結婚を選ばざるを得なかったという、悲劇的な構図を推測した。父は、愛する女性を守れず、その罪の意識から、その記録を封印したのではないか。
朔也の胸の内に、自己の家系に対する複雑な思いと、詩乃への強い贖罪の念が湧き上がった。
「俺の父が、霧ヶ原の女性を救えなかった。その過去の因縁を、俺が断ち切らなければならない。俺は、父が守れなかったもの、霧ヶ原の真実と、その娘である詩乃を、必ず守り抜く」
朔也の炎の異能は、その決意に応えるように、彼の周囲で微かに揺らめいた。
一方、詩乃の暗号解読は、驚くべき速さで進んでいた。彼女は、暗号に共鳴することで、母の咲良の感情の断片を感じ取っていた。
「この暗号は、逃亡ルートです。そして、最後に示されている場所は、『睡蓮が咲き誇る、静かなる隠れ家』のような場所を指しています……」
詩乃は、暗号が示す場所の座標を、正確に特定し始めた。それは、都心から遠く離れた、古い神社が管理する『異能者隔離施設』の地下だと判明した。
その施設は、軍部の異能者管理体制が始まる前に存在した、古い異能家系が使用していた場所だった。
「異能者隔離施設……そこが、鍵の隠し場所か」
朔也は、地図上の座標を指し示した。
その時、執務室に、護衛隊長が慌てた様子で飛び込んできた。
「当主様!都心南部の、異能庁管轄の補給路で、激しい交戦がありました。桜の異能者と、紫堂煌牙です。桜の異能者は、煌牙から何かを奪ったようですが、深手を負い、行方が分からなくなりました!」
「煌牙と、桜の異能者……」
朔也は、地図上の隔離施設の座標を指差した。
「桜の異能者は、真実の鍵を手に入れるために、この隔離施設に向かっている可能性が高い。そして、煌牙は、その桜の異能者を追っている」
朔也は、すぐに行動を起こさなければならないと悟った。桜の異能者が深手を負った今が、彼女と接触し、真実の鍵を手に入れる唯一の機会だった。
朔也は、決意を固めた。
「詩乃。お前はここで待機しろ。場所は特定できた。今すぐ俺が向かう」
詩乃は、朔也の腕を掴んだ。
「朔也様、私も行かせてください。この暗号を解読し、真実の場所を特定したのは私です。そして、この場所は、母の記憶が最も強く残っている場所かもしれません」
朔也は、詩乃の真剣な瞳を見て、その強い意志を無視することはできなかった。
「わかった。だが、決して俺の傍を離れるな。お前の安全は、俺の命と引き換えだ」
朔也は、詩乃の異能の力を信じ、彼女を同行させることを選んだ。彼女の光が、この暗い過去の謎を、切り開く鍵となると信じて。
二人は、夜明けの光が差し込む執務室を後にし、真実が眠る『異能者隔離施設』へと向かう準備を始めた。その先には、彼らの愛と運命を決定づける、あまりにも深遠な過去の因縁が待っていた。
