喫茶店での会話から、世が明けても、朔夜の心は、詩乃の母親である霧ヶ原咲良の謎に囚われていた。朔也は、その日から、執務のほとんどを、この謎の解明に費やし始めた。

 彼は、詩乃を自室に呼び寄せ、その調査の意図を隠さずに伝えた。

「詩乃。お前の母親の旧姓が霧ヶ原であること、そしてお前の異能が、霧ヶ原家の本来の花弁である桜でなく、睡蓮であること。これは偶然ではない。お前の出生には、俺たちが知らされていない重大な秘密が隠されている」

 朔也は、真剣な眼差しで詩乃を見つめた。

「この調査は、軍部との対立以上に、異能界の闇の深淵に踏み込むことなるかもしれない。危険が伴う。だが、俺はお前の過去全て受け入れ未来に進むために、この真実から目を背けることはしない」

 詩乃は、静かに朔也の言葉を受け入れた。彼女の目には、不安よりも、自分自身のルーツを知りたいという強い意志が宿っていた。

「朔也様。私は、朔也様のお傍で、この真実を見届けたい。もう過去に怯える私ではありません。朔也様が、必ず私を守ってくださると信じています」

 朔也は、詩乃の覚悟に深く頷き、彼女を強く抱きしめた。

 「必ず守る。お前を巻き込むが、必ず守り抜く。お前は俺の光だ」

 朔也は、直ちに黒峰家の最も信頼できる服心たちに指示を飛ばし、極秘の調査チームを編成した。軍部の監視を避けるため、異能庁への公式な照会は避け、黒峰家に代々伝わる古文書庫と、異能界の裏情報ネットワークを駆使して「霧ヶ原家」の記録を追うことになった。

 霧ヶ原家の記録追跡は、困難を極めた。

 黒峰家の文書庫には、数百年にわたる異能家系の記録が残されていたが『霧ヶ原家』に関する記述は、二十数年前のある時期を境に、不自然な形で途絶えていた。その家系図は、詩乃の母親、咲良が生まれる少し前の世代で、まるで強力な異能で消されたかのような、空白になっていたのだ。

 朔也は、古文書庫の一室に籠り、埃にまみれた古い帳簿や、異能庁の非公式な裏帳簿を何日もかけて読み解いた。彼が見つけられたのは、断片的な情報だけだった。

 ・霧ヶ原家は、通常の異能とは一線を画す「魂の根源」に触れる異能を持ち、その力は“生命の活性化”にも使用可能であり特に、代々の女性に受け継がれる“咲耶姫の神異”は異能そのものを変質させるほどの力を持っていたとされること。
 
 ・そして、霧ヶ原家が突如として異能界から姿を消した時期が、軍部の『異能者管理体制』が最も強化された時期と完全に一致していること。

「公式記録の抹消は、異能庁の単独の仕業ではない。当時の軍部が、この霧ヶ原家の特殊な異能を、公となる前に完全に封印したと見るべきだ」

 朔也は、古文書庫の冷たい床に広がる資料を前に、結論を出した。霧ヶ原家の消滅は、単なる家系の衰退ではなく、国を挙げて行われた情報統制と異能の封印だったのだ。
 
 そして、詩乃の母親、咲良がその封印を逃れ、花守維信と結ばれたことは偶然ではなく、維信の計算かあるいは咲良自身の強い意志が働いた結果だろう。

 朔也は、維信が花守家という名門の地位と、霧ヶ原の特殊な血筋を掛け合わせることで、最強の異能者を生み出そうと画策した可能性を考えた。だが、その結果、生まれたのは、桜の破壊的な力ではなく鎮魂の睡蓮という誰も予測しなかった異能だった。

 「睡蓮の変異……。これは、維信の計算を狂わせた、咲良の魂の叫びなのか……」

 朔也は調査を進める一方で、詩乃の異能訓練を決して疎かにはしなかった。むしろ、彼女の異能の奥に潜む「桜」の性質を慎重に見極める必要があった。

 詩乃の新たな異能の兆しは、訓練場で現れた。

 いつものように、朔也が周囲に制御された憎悪の模倣と炎の熱を放ち、詩乃が瞑目して『鎮魂の睡蓮』の光を発動させていた時のことだ。

 詩乃の周囲を覆う淡い青のヴェールは、以前にも増して安定していた。しかし、光の中心である詩乃の胸元が、一瞬、強く赤みがかった熱を帯びた。それは、朔也の炎とは異なる、詩乃の内側から湧き上がる強烈な活性化の熱だった。

「詩乃っ!」

 朔也は反射的に炎の力を弱めた瞬間、詩乃は目を開いた。

「今、何か……見えました」

 詩乃の表情は困惑していた。

「何をだ?」

「光の向こうに、桜の花びらが、一瞬だけ、ふわっと舞ったような気がしました。とても美しくて、同時に、とても悲しい」

 詩乃の言葉を聞いた朔也の瞳は、鋭く光った。桜の花びら。それは、霧ヶ原家の女性が持つとされる、本来の異能の象徴だ。

「お前の異能は、完全に睡蓮に固定されていたわけではないみたいだ。睡蓮の鎮魂の力の下に、桜の活性化の性質が、まだ眠っている」

 朔也は、詩乃の力の本質が『鎮魂と活性化』という対極の2つの力を内に秘めている可能性に気づいた。鎮魂の光が負の感情を浄化する一方で、桜の力は生命や異能を極限まで高める力を持つ。この2つが制御できずに混ざり合えば、詩乃の命はひとたまりもない。

 この日から、朔也は訓練の強度を上げ、詩乃が『桜』の力を意図的に制御する方法を探り始めた。それは、常に詩乃の命懸けの試みであり、朔也の心臓を締め付けるような時間だった。

 朔也のこの極秘の調査と、詩乃の異能の急速な深化は、間もなく外部の勢力の注意を引くことになった。外部の動きと接触の兆しは、まず黒峰邸の結界の僅かな揺らぎとして現れた。

 ある夜、邸の護衛隊長が朔也の執務室に駆け込んできた。

「当主様!不審な異能の痕跡を感知しました。非常に微弱ですが、紫堂煌牙の異能に酷似した波動が、邸の周辺を巡回してました」

 煌牙が、裁きを受けた後も、詩乃の異能に執着している。だが、煌牙単独でこの厳重な結界に触れられるはずがない。

「煌牙の背後に軍部が資金を提供している可能性が高い。彼らは、俺が異能討伐部隊を抜けることを恐れ、外部の異能者を使って詩乃を監視し始めた」

 朔也は、炎を纏う指先で、地図上のいくつかの地点を示した。そこは、かつて霧ヶ原家が拠点としていた場所と、煌牙が潜伏している可能性の高い場所が交差する地点だった。

 さらに、数日後、異変は別の場所から報告された。

 朔也の服心である執事が、ある夜、静かに報告した。

「当主様。異能庁の裏情報筋から報告がありました。都の東都に、桜の花弁を象徴とする異能を使う、正体不明の女性の異能者出現しているとのこと。彼女は、軍部の管轄下にある異能者を襲い、情報を奪っている模様です」

「桜の花弁……」

 朔也は、強く拳を握りしめた。

 その女性異能者が、霧ヶ原家の残党、あるいは詩乃の母親である咲良と何らかの繋がりを持つことは明らかだった。彼女の行動は、朔也が追う真実、そして軍部が隠したかった秘密に、直接触れようとしていた。

 朔也は、詩乃のいる離れへと向かった。夜空は深く、月明かりが庭園を静かに照らしている。

「詩乃。我々は踏み込んではならない領域に、足を踏み入れてしまったようだ」

 朔也は、離れで眠る詩乃の顔を優しく撫でた。

「しかし、もう後戻りはできない。お前の安全と、この睡蓮に隠された真実を、必ずこの手に掴む」

 朔也は、軍部の監視、煌牙の執着、そして桜の花弁を纏う新たな異能者という3つの影が、全て霧ヶ原の謎へと収束していることを確信した。彼は、自らの炎を、詩乃の光を守るための盾として、最大限に解放する覚悟を固めたのだった。