軍部との激しい衝突から数日後、黒峰邸は一見平穏を取り戻していた。しかし、朔也の周囲には、目に見えない警戒の炎が常に燃え盛っていた。異能討伐部隊を退任することも辞さないという朔也の断言は、軍部上層部に大きな衝撃を与え、彼れは一時的に矛を収めたが、その思惑が消えたわけではない。
朔也は、詩乃にこの緊張感を悟らせないよう、細心の注意を払った。彼は、執務を早めに切り上げ、詩乃の花嫁修行の指導に時間を費やした。彼の態度は、以前にも増して穏やかで、その愛情は詩乃の存在を肯定し続けた。
「少し、息抜きをしよう」
ある晴れた午後、朔也は突然、そう詩乃に提案した。軍部とのいざこざで張り詰めていた空気を打破するため、そして何よりも、詩乃を新鮮な空気に触れさせたいという純粋な願いからだった。
「デートですか?」
詩乃が頰を染めて尋ねた。
「ああ。護衛はつけるが、この邸の外の空気を吸う必要がある。お前は俺の妻になる。何も恐る必要はない」
朔也は、詩乃のために特別に誂えさせた淡い藤色の着物を用意した。その着物は、彼女の透き通るような肌と鎮魂の光を思わせる清らかな装いだった。
二人は、最も人通りが少なく、しかし賑わいのある都心の一角にある老舗の喫茶店へと向かった。厳選された数名の護衛が、遠巻きに周囲を固めていたが、彼らの存在は決して邪魔にはならなかった。
木造の重厚な作りの喫茶店は、珈琲の香りが心地よく、漂い、落ち着いた雰囲気だった。窓際の席に座ると、外の喧騒が遠のき、まるで二人だけの世界にいるようだった。
「緊張しているな」
朔也は、珈琲を一口飲みながら、詩乃の指先に触れた。
「はい、久しぶりの外出で……でも、朔也様と二人でいられることが、とても幸せです」
詩乃は、朔也の指にそっと自身の指を絡ませた。
朔也は、目を細めて詩乃の表情を読み取った。
「お前の光は、今も安定している。俺のそばにいるだけで、お前の異能は鎮まっているようだ」
「はい。朔也様の熱と、私の光が、いつも共鳴しているのを感じます。」
他愛のない話が続いた後、ふと、詩乃は静かに口を開いた。
「朔也様。もし、私の異能が、本当にこの国にとって利用価値があるのなら……私の母も、同じような苦労をしていたのでしょうか」
その言葉に、朔也の表情が微かに引き締まった。彼は、軍部との対立以来、あえて詩乃の異能の話題を避けていた。
「お前の母親について、花守維信からは、何も聞いていないのだろう」
詩乃は頷いた。
「はい。父は、母のことを話すのを頑なに拒んでいました。ただ、母の旧姓が“霧ヶ原”だったということだけ、知っています」
「霧ヶ原、か」
朔也は珈琲カップを静かにテーブルに置いた。その動作1つで、周囲の空気が一変する。
詩乃は朔也の反応に驚き、顔を上げた。
「朔也様、ご存知なのですか?」
朔也は、目を閉じて深く考えを巡らせていた。
「知っている、というよりも、異能界の歴史を知る者なら、誰もが知る名前だ。霧ヶ原家は、かつて異能界において、黒峰家に匹敵する、あるいはそれ以上に特殊な家系とされていた」
朔也は、真剣な面持ちで話し始めた。
「霧ヶ原家は、その異能の希少価値と、代々受け継がれる特異性ゆえに、どの家系とも婚姻を結ばなかった。彼らの力は、生命力と魂そのものに干渉する、極めて強力で危険なものだったと記録されている」
「生命力に干渉……」
「そうだ。そして、霧ヶ原家の女性は代々、『咲耶姫の神異』を受け継ぐとされていた。その異能の象徴となる花弁は、記録によれば、満開の桜だったはずだ」
朔也は、詩乃の胸元、ちょうど睡蓮の光が灯る場所を、視線でなぞった。
「霧ヶ原家の女性の異能は、魂を鎮め、あるいは、活性化させる力を持っていたとされる。しかし、その花弁の形は、必ず桜だった。だが、お前の異能は、睡蓮だ」
詩乃は混乱した。自分自身の異能の根源が、これまで信じていたものと違うかもしれないという事実に、手が冷たくなるのを感じた。
「私の母、霧ヶ原咲良は、なぜ私にその異能を継承したのでしょうか。そして、なぜ、桜ではなく睡蓮なのですか?」
朔也は、テーブル越しに詩乃の手を強く握りしめた。彼の掌の熱が、詩乃の冷たくなった指先に伝わる。
「そこが最大の疑問だ。お前の父、維信が、お前の母について頑なに口を閉ざしていたのも、この霧ヶ原の異能が、彼の野心に利用されることを恐れたのか……あるいは……」
朔也は言葉を切った。その瞳の奥には、新たな可能性を探る冷たい光が宿っていた。
「あるいは、詩乃。お前の異能の『睡蓮』という花弁の形は、霧ヶ原家の異能が、何らかの意図を持って変異させられた結果かもしれない」
「……変異」
「桜は、一瞬の美しさと強大な活性化の力を持つ。しかし、睡蓮は、鎮魂と受容、そして水面下の深い悲しみの象徴だ。お前の異能が、桜の性質を持たずに、鎮魂に特化した睡蓮の姿をしているのは、ただの偶然とは思えない」
朔也は、維信が花守家当主でありながら、娘である詩乃の異能の発現を心底恐れていた様子を思い出した。維信は詩乃の異能を忌み嫌い、その存在自体を隠そうとしていた。
「維信がお前の母親のことを隠し、お前の異能の発現を恐れていたのは、霧ヶ原の血、あるいはお前の母の死にこの睡蓮という花弁の変異に繋がる重大な秘密があるからだろう」
朔也の思考は、速やかに新たな結論へと到達した。
「詩乃。お前の母、霧ヶ原咲良は、単なる花嫁候補ではなかった。彼女は、黒峰家や花守家をも凌駕する極めて重要な異能の鍵を握っていた。そして、維信はその鍵を隠し、お前を外部の目から守ろうとしたのか、あるいは逆にその力をお前を通じて利用しようとしたのか……」
喫茶店の賑やかな音も、二人の耳には届かない。彼らは、自らの婚約の背後にある、深すぎる秘密に直面していた。
「朔也様。私のお母様は、一体……」
詩乃は不安と戸惑いで、顔を真っ青にしていた。朔也は立ち上がり、詩乃の隣に座り直すと、彼女の体を抱き寄せた。
「恐るな、しの。どんな出生の秘密があろうと、お前は俺の妻だ。そして、俺は、お前の母の残した秘密、そして睡蓮の異能に隠された真実を必ず突き止める」
朔也の炎の熱が、詩乃の不安を包み込む。
「お前が桜でなく睡蓮であること。それこそが誰よりも美しく、俺にとって唯一無二の鎮魂の光であることの証拠だ」
朔也は、詩乃の額に口づけを落とした。しかし、彼の心は、すでに動き始めていた。霧ヶ原の謎、そして睡蓮の変異。この秘密は、軍部の介入以上に二人の運命と、異能界の秩序を揺るがす可能性を秘めていると、朔也は確信したのだった。
