花守家でのあの壮絶な一件から、半月が経った。その間に世間は大きく動いた。異能界における花守家の痕跡は、黒峰朔也の冷徹な采配により徹底的に抹消された。
花守維信も、娘の華澄と妻の美鶴の行いを見てみぬふりをしていた責任を問われ、花守家は異能界から完全に消され実質の没落となった。紫堂煌牙も無論、責任を問われた。婚約者でありながら、華澄の行いを咎めるどころか加担したことが問題視されたのだ。
煌牙は責任を負って紫堂家の当主を解任することとなり、代わりに、煌牙の弟である煌綺が当主となった。煌綺は今回の件を重く受け止め、黒峰朔也の監督の元で、0からやり直していくことが決まった。
事件の内容も含めて、全て情報統制がなされ、この件を知るものは一部の者だけとなったが、それでも異能界の勢力図が一気に変わったことは確かだ。
そして、詩乃の生活も今までと少し変わった。黒峰邸の奥の、庭園に面した広大な離れへと生活圏が移っていた。そこは、陽光がよく差し込み、常に新鮮な花が飾られた、安らぎの空間だった。
朔也は、詩乃の“鎮魂の睡蓮”の力が完全に開花した今、彼女の外界の僅かな悪意からも遠ざけようと、屋敷の結界と警護を以前の比ではないほど強化していた。その警護は、もはや国境を守る軍隊のようだった。
「詩乃、今日から、本格的に花嫁修行を始める」
ある朝、朔也は文机に向かう詩乃へ告げた。その声には、厳しさと、それ以上の深い慈しみが滲んでいた。
「花嫁修行と言っても、家事や作法だけではない。黒峰の妻として、異能庁への届け出や、今後の家政に関する教養も必要になる。お前の立場は、もう、ただの許嫁ではないのだ。」
詩乃は背筋を伸ばし、顔を上げた。
「はい、朔也様。精一杯努めさせていただきます」
もう、あの頃の、オドオドと他人の顔色を窺う詩乃ではない。胸の奥に灯る淡い青の睡蓮の光が、彼女に揺るぎない自信と当主の妻となる覚悟を与えていた。彼女の瞳には、かつての怯えは消え、静かな決意の光が宿ていた。
朔也は満足げに頷き、一冊の分厚い書物を詩乃の前に置いた。それは、黒峰家の300年にも及ぶ歴史、当主の妻として必要な教養、そして異能界の裏側の機密情報までを記した冊子だった。
花嫁修行は、厳しくも充実していた。朝は早くから起き、黒峰家に伝わる複雑な儀礼は作法を、付き添いの年配の女中から学んだ。午後は、政治経済や時局の分析、異能庁の構成と各家の力関係など、朔也の政務を理解するための高度な教養を叩き込まれた。
「黒峰家は、単なる異能討伐部隊ではない。この国の異能秩序を維持する、根幹だ。お前は、その根を支える土壌となる。知識と教養を持たねば、俺の片腕にはなれない。俺の隣に立つ者として、世界を理解しなけらばならない」
朔也は、詩乃にただ愛されるだけの妻ではなく、対等な立場で隣に立ち、共に世界を支える真の伴侶となることを望んでいた。彼はそのために、惜しみなく時間と資源を注いだ。
休憩時間、詩乃が少しでも疲れた様子を見せると、朔也はすぐに執務を中断し、彼女の傍に寄った。
「無理をするな。俺の花は、美しく咲いていればいい。教養はゆっくりで構わない」
そう言いながら、彼の手は、いつも詩乃の胸元に触れた。熱を持った手のひらが触れるその場所には、彼の魂と共鳴する睡蓮の光が静かに脈打っていた。
「朔也様。ありがとうございます。ですが、私は早く朔也様の役に立ちたいのです」
詩乃は頰を染めながらも、彼の深い愛情を素直に受け止め、応えることができるようになっていた。
花嫁修行と並行して、詩乃の異能の安定化訓練は、朔也によって秘密裏に進められた。
訓練場所は、屋敷の地下深くに位置する、厳重な結界が幾重にも施された特別な訓練場だった。その場所は、朔也の炎でさえ制御できる、この世で最も安全な場所だった。朔也の狙いは、開花したばかりの“鎮魂の睡蓮”を、意識的な制御下で使えるようにすること。
「お前の光は、負の感情に触れることで活性化する。だが、その都度、あの夜のように命を削るような消耗をしていては、俺は許さない。お前が力を制御するのは、お前自身を守るためだ」
朔也は、自らの異能を使って、詩乃の周囲に制御された熱波と、純粋な憎悪の模倣を作り出した。それは、実際に禍神が放つ悪意の残滓に極めて近かった。
訓練場に立ち込める、微かな熱と悪意の残滓。詩乃は瞑目し、胸の奥の光に意識を集中させる。
「朔也様の炎の熱に、私の心が乱されないように……。憎しみを、受け入れて、鎮める……」
朔也の炎は、彼女の体を焼き尽くす力を持っているが、それは同時に、最強の保護者の異能でもある。詩乃は、その熱を“愛”として受け止め、自身の光で優しく包み込む練習をした。訓練を重ねるごとに、彼女の光はより緻密で安定したものになっていた。
「光よ……鎮まれ」
詩乃が深く集中すると、彼女の周囲を、淡い青色の光の膜が覆う。それは、禍神を浄化するときのような爆発的な輝きではなく、静かで、しかし揺るぎない保護と平和のヴェールだった。
「いいぞ、詩乃。その調子だ。お目の光は、俺の炎を鎮めることができる。それは、この世で最も尊い力だ。お前は俺の光であり、俺の救いなのだ」
朔也は、詩乃の訓練を真剣に見守りながらも、その言葉には隠しきれない歓喜と、絶対的な賛美が滲んでいた。彼の瞳は、もはや彼女の異能に魅了されていた。
ある日、朔也は訓練の終わりに、詩乃を強く抱きしめた。その抱擁は、彼女の体を支えるだけでなく、魂を繋ぎ止めるようだった。
「お前が、力を制御できるようになれば、もう2度と、お前を危険に晒さなくて済む。お前の力は、誰かのためだけではない。俺の心を鎮めるためにも、そして俺の未来のためにも、必要なのだ」
半月の間、花嫁修行と異能の訓練を通して詩乃の心身が整い、黒峰の妻としての覚悟が定まったことを確認すると、朔也は公的な手続きを進めることにした。
「詩乃。今日、俺たちの婚約を、異能庁と国に正式に届け出る。これは、単なる慣習ではない。公的な契約だ」
朔也は、詩乃の前に、重厚な筆と届け出の書類を置いた。書類の紙質は上質で、黒峰家の紋章が誇らしげに刻まれていた。その書類には、詩乃の新しい身分として“黒峰詩乃”という文字が記されていた。
詩乃は緊張で手が震えたが、朔也が隣で静かに、しかし絶対的な信頼の瞳で見守っているのを見て、深く息を吸った。筆を握り、自分の名と、新しい姓を書き入れる。彼女の人生で最も重く、そして甘美な署名だった。
「この届け出が受理されれば、お前は正式に俺の婚約者となる。そして、黒峰家の絶大な権力と異能庁の最高位の保護、その全てがお目を守る。誰も、俺の婚約者に指一本触れることは許されない」
朔也は、届け出を封筒に入れ、その上から自身の炎の異能で強力な封印を施しながら、詩乃を抱き寄せた。
「華澄たちが手を出すことは、もうないだろうが、万が一、お前をまた狙ってきたり、新たに狙うものが現れても彼らは黒峰の力とこの国全体をお前を通じて敵へ回すことになる。お前の安全と地位は、この国の異能秩序の頂点に据えられるのだ」
それは、詩乃の安全と地位を、この国の異能秩序の頂点に据えるという、朔也の冷徹かつ徹底的な愛の行動だった。彼は、愛する者を守るために、最も合理的な手段を選んだのだ。
その夜、朔也は届け出の受理を待つ間、詩乃を広大な庭園へと連れ出した。月光が、池に咲く美しい睡蓮の花を照らしている。空気は澄み渡り、彼らを取り巻く結界の波動だけが、静かに響いていた。
「詩乃。俺はお前を愛している。そして、お前が俺の隣にいることが、俺の命を、この炎の衝動を支えている。お前こそが、俺の鎮魂歌だ」
朔也は、詩乃の髪に挿された睡蓮の簪に触れ、優しく口付けを落とした。
「お前は、俺の炎を鎮め、俺の魂を清めた。お前が俺の妻となることは、黒峰家という家系の存続、そして俺という異能者自身の生存にとって、不可欠な運命なんだ。この運命から、もう誰も逃げられない」
詩乃は、朔也の言葉に込められた愛と、当主としての思い責任、そして彼女の存在価値の全てを感じた。詩乃は彼の胸にそっと顔を埋め、彼の肌に触れる炎の熱を、自らの光で静かに包み込む。
「朔也様。私も、朔也様の炎を永遠に鎮め続けたい。黒峰詩乃として、朔也様のお傍で、生きていきます。もう怖くありません」
二人の誓いが交わされたとき、遠くの異能庁から、婚約届けの受理を知らせる小さな光の波動が、黒峰邸の結界を優しく通過した。それは、天からの祝福のようだった。
二人の神婚への道は、今、公的に、そして運命的に、確かなものとなった。
