「あれ〜〜?誰もいなくなっちゃった」
今日は、冬の中でもうんと寒い2月。
窓の外はしんしんと雪が降っていて、景色が真っ白に染まっている。
4月から入学予定の中学校に見学に来た私、水瀬望花は、たった今、迷子になった。
きょろきょろと周りを見渡しながら2階の廊下を歩く。
んー。みんなどこいったんだろ。
まあ、歩いてたら会えるよね!
小学校のすぐ近くにある中学校は、外からは何度も見た校舎。
だけど中に入るのは初めてで、見知らぬ校舎にわくわくが抑えられず、気持ちが赴くままに、私は自由に歩き回る。
西棟と東棟に分かれた2つの校舎が並行に並ぶ中学校。
その間には、大きな桜の木がひとつ立っている。
新学期になると、学年全員で写真を撮るんだって。
地域の新聞によく載る評判の桜の木は、私もちょっと楽しみにしていた。
廊下から教室を覗くと、教室の窓からほんの少しだけ木の枝が見えて、私は教室に誰もいないのをいいことに、窓に向かって駆け寄った。
「わあ、大きな木」
白い花を咲かせているみたいに雪をのせた木は、写真で見るよりもずっと大きかった。
この木に満開の桜が咲いたら、すっごく綺麗だろう。
入学するのが楽しみになって、おもちのような頬が溶けていくのを感じた。
「あれ?」
木の根本に動く影を感じて、窓を開けて覗き込む。
身を乗り出すと、1階の渡り廊下から木に向かって歩いていく一人の男の子が見えた。
遠目に見ても、すらっとした体型で顔が小さいモデルのようなスタイルだった。
サラサラと揺れる黒髪を押さえつけるように付けられた黒のヘッドホン。
制服を着てないってことは、あの子も見学にきた6年生かな。
私は、にんまりと笑みをこぼして、階段を駆け降りた。
*
「ここだ」
西棟と東棟を繋ぐ渡り廊下のドアは外に繋がることもあってか、重厚な作りをしていた。
大きな銀色の扉を押し開けると、冷たい風に乗った雪が頬に当たる。
寒さに肩をすくめながら渡り廊下に出ると、大きな大きな真っ白な木が視界いっぱいに広がった。
「すっごい!」
まだまだ降り続ける雪の中で、1番の存在感を放つ大きな木。
上から見るよりもずっと壮大で、私は言葉を失った。
室内仕様でマフラーを外していた私は、しばらくして寒さに身震いをする。
マフラーを撒き直して木の根本を見ると、さっき上から見たヘッドホンを付けた男の子が、大きな木を見上げていた。
なんだか嬉しくなって、私はその男の子に向かって走り出した。
男の子は、私に気付かない様子で木を見上げている。
右から見える横顔は、骨格の美しさを際立てて、私の視線を簡単に奪った。
目にかかる前髪から覗く切れ長の目が、すっごく綺麗で、それでいて……ほんの少しだけ、泣きそうに見えた。
近くに立ち止まったというのに、彼は私に気付いていないのか、視線を向けなかった。
「真っ白だね」
もう少し近づいて後ろから声をかけると、彼はビクッと肩を動かした。
そのあと、右側左側、と確認し、私の姿を認識する。
こんなに近くで声をかけたのに。変なの。
怖がりな猫のような動きに、思わず笑みをこぼして、私はまた一歩近付いた。
「ごめんね、びっくりさせるつもりはなかったの」
ポケットから苺味のキャンディを取り出して渡すと、不思議そうにこちらを見つめる。
「なんで……?」
「美味しいものは、いつ食べても美味しいでしょ?」
言いながら、彼の顔を見上げた。
人一人分の距離まで近づくと、彼の身長はやっぱり高くて、150cmに満たない私はかなり見上げる形になった。
彼は不可解そうにこちらを見ていたけど、涙の後はなさそう。
安心した私は、少しずらされたヘッドホンに視線を合わせた。
ヘッドホンを首にかけた彼。
何を聞いていたのかなと思って耳を澄ませたけれど、静かな中庭でも、音漏れは一切聞こえてこなかった。
「見学会の途中じゃん。なんでここに?」
「えーっと、はぐれた?のかな?」
気付いたら誰もいなかったんだよね。
外雪降ってるなあとか思ってたら。あでも先生の話はちゃんと聞こうとしてたんだよ。
みんなそういえばどこいっちゃったんだろう。
いなくなる前のことを思い返し、ぶつぶつと独り言のように呟き続けた私。
結局のところは、考えてもわからないから、最後はふにゃりと笑うしかなかった。
「えへへ」
少しの間を置いて、男の子はふっと口元を緩めた。
「変な人」
ほんの一瞬、氷が解けるみたいに、彼の表情がゆるむ。
長い前髪から覗く切れ長の目尻が優しく下がった微笑みは、あまりにも甘く儚く。
雪景色に重なって、時間を止めるみたいに私の心に突き刺さった。
……綺麗。
雪景色を見たときと同じ感想が浮かぶ。
男の子に、綺麗だなんて思うのは、生まれて初めてだった。
固まった私を見て、ハッとした少年は目をそらしながら、細い声で言う。
「早く戻った方がいいよ。校内放送で呼ばれたら入学前から有名人だよ」
「うーん、確かに。でもそれも悪くない」
いつもの調子で、ふざけてきらりとキメ顔をしたら、少年は目を丸くしてからふふっと声を出して笑った。
目を細め、無邪気に笑ったその顔は、ずっと大人びて年上に見えていた少年を、幼く同い年くらいにも感じさせた。
どくりと大きく音を立てた心臓に、私は驚く。
……なにこれ。なんか、胸がいっぱいで、息がしづらい。
「あの、あなたも春からこの中学……」
「水瀬さーん?どこー?」
「もかちゃ〜〜ん」
大人の女性の声と、友達たちの大きな呼び声が聞こえた。
他の中学の子たちもいるのに、これは確かに恥ずかしいかも。
私は尋ねかけていた言葉を押し込めて、男の子に手を振った。
「行かなきゃ!またね!」
彼は、何も言わず小さく微笑んだ。
少し走って振り返ると、ヘッドホンを付け直した少年は、また桜の木を見上げていた。
雪の光の中で、静かに立つその姿は不思議なほど胸に残った。
あの桜の木に花が咲く頃、また、会えたらいいな。
そんな不思議な気持ちを残して、私は中学生になる。
*
「あっち〜〜!窓開けようぜ」
昼休みの終わりかけ。
予鈴が鳴るギリギリに帰ってきた男子たちがその足で大きく窓を開けた。
涼しい空気が教室に流れ込み、少し肌寒いくらいに頬を冷やす。
「ちょっと、そんな全開にしないでよ!寒いんだけど!」
秋になって、しっかりとブレザーを着込んだ女子グループが、そう言って窓際を睨む。
それに対抗するように、シャツを袖まで捲った男子たちが額の汗を冷ましながら、窓にもたれかかって笑った。
「そんなに着込んでてよく言うよ」
「もうマフラーでも必要なんじゃね」
「ほんっと男子って自分勝手!」
「そうだよ。あんたたちは外で遊んでたから暑いだけでしょ。早く閉めてよね」
廊下側で怒る女子グループと、窓際を陣取る男子グループ。
そのちょうど真ん中に位置する教室の中央で、私たちは喧嘩の様子を伺っていた。
「今日も始まった始まった!どっちが勝つかな〜〜」
私の前の席で椅子に大胆にまたがり後ろを向いている女の子。
耳の横あたりで結ばれたツインテールが可愛らしい、元気一杯の白木あみは、楽しそうに喧嘩の行く末を見守っている。
「仲良くしたらいいのに……。望花ちゃん、寒くない?」
穏やかな口調で眉を下げるのは、佐藤まい。
黒髪ストレートのロングヘアが大人っぽい女の子。
清楚で女の子らしいまいは、かなり人気があるんだけど……。
「ああ、そんなポテポテの頬して、普段からいっぱい蓄えてるから寒くないよね」
ふふっという笑いと共に小首をかしげながら放たれる毒舌は気持ちがいいほどに刺激的。
まいの言う通り、もぐもぐとおやつを食べていた私は、顔をあげてニヤリと笑う。
顔を上げた拍子に、淡い茶色の髪がふわっと揺れた。
「ふっふっふ、私のカーディガンは最高なのだ!」
萌え袖どころじゃないお化けみたいな長い袖を出し、ひらひらと二人の目の前で振る。
相当大きいサイズを着ているので、立ち上がるとスカートのすそがほぼ見えないんだけど、これがかわいいのです。
堂々と言い放った私に、まいとあみは一度視線を合わせてから、あははと声を出して笑った。二人の笑い声に、私は嬉しくなって一緒に笑う。
「望花って、本当に小動物系だよね。ハムスターとか?」
「ずっとなんか食べてるしね。似合う似合う」
面白そうに笑うふたりに、とりあえずお菓子を差し出すと「ほしいわけじゃない」と突き放された。
……なぜ?
今日の私のおやつは、ちょっといいチョコなのに!?
スーパーで大袋が安く売ってたから買ってもらった秘蔵品なのに!?
まあいいや、ふたりがいらないなら私がたーべよ。
差し出した手を戻そうとしたその一瞬の間に、手の上から二つのチョコレートが消えた。
苺味とミルク味の、ちょっといいチョコ!!
私はガタっと立ち上がり、その犯人である男子生徒の名前を呼ぶ。
「一葵!また取った!」
少し先で、ひらひらとチョコレートを振ってみせる子犬みたいなふわふわした短髪の男子を睨みつける。
「あげるって言ってたじゃん」
「一葵には言ってないもん!」
小学生みたいにぎゃーぎゃー騒ぐ私たちを、クラスメイトは面白おかしく囃し立てる。
気付けば、窓際男子と廊下女子の喧嘩も終わってクラスの注目は私たちになっていた。
無邪気につかみ合う私たちを見て明るく笑う。
入学してから早半年。今日も私たちのクラスは平穏です。
*
予鈴を合図に、一葵とのひともめを終えて、私は席に戻ってきた。
ちなみに勝者は一葵。私のチョコちゃん二人は、一葵の口の中へと消えてしまった。
「もう付き合っちゃえばいいのにね」
席に座るや否や、後ろに座ったまいの爆弾発言が耳に届く。
隣の席のあみが一瞬固まって、次の瞬間大きな笑い声を上げた。
「あはは!まい何言ってんの!いまだに小学生みたいなふたりだよ!?」
私は「付き合う……?」という言葉を頭に浮かべ、首をかしげていた。
そんなことより、苺味のチョコが美味しい。
あいつに取られたひとつは大きかった……。
憎しみを込めて窓際の前の方を睨むと、後ろの席の男子と喋っていた一葵と目が合ってにやりと笑われる。
シャーっと威嚇するような仕草をすれば、バカにしたように笑われた。
「もう、子供だなあふたりとも」
後ろを振り返ると、まいのお淑やかな笑顔の中に、妖艶な大人の顔が垣間見える。
「あーいう子ほど、恋心があったりするんだよ」
蛇に睨まれた蛙のように、私とあみは全身の毛を逆立てた。
「なんてね。そのチョコ私も食べたーい」
けろっと表情を変えたまいに、チョコを渡しながら、あみと顔を見合わせる。
「まいの冗談ってこわいわあ……」
「焦ったあ」と言いながら、あみは何かを思い出したようにこちらを向いた。
「そういえば望花、あの人には会えたの?」
「あの人?」
思い当たらない言葉に私はあみを見る。
「ほら、入学前に言ってたじゃん!すごく笑顔がかわいいイケメンがいたって!」
私は、お菓子を食べる手を少しだけ止めた。
見学会の日、桜の木の下で見かけたヘッドホンのイケメン。
桜が咲いた頃、もしかしたら会えるかなと期待していたけれど、葉っぱが色づく季節になっても、一度も彼を見ることはなかった。
「探してはいたんだけどいなさそうなんだよね。この学校に入学したわけじゃなかったのかも!」
私が言うと、あみはつまらなさそうに椅子の前足を浮かせた。
「名前とか聞いてないんだよね?」
「知らな〜い」
もう興味を失ったような返答をして、その会話は終わらせる。
教室の窓の外に見える桜の木。
一年生の教室は3階だから、窓際に寄らないと見えないけれど。
言ってる間に、冬になる。
あの日の、真っ白に染まった桜の木は、変わらず胸に残り続けていた。
*
「席空いてたよ〜〜!」
あみが大きく手を振る場所に集合する。
壁側近くの4人席。他に空いている席は見当たらなくて、とりあえず大急ぎで荷物を置いて場所取りをする。
「あみよく見つけたね」
「いや〜今日はやばかったね」
えへんと鼻を高くするあみ。
いつも隙間を掻い潜って、あっという間に席を見つけ出す彼女でも今日は一苦労したみたい。
それもそのはず。この日の学食は、生徒が一斉に流れ込み、廊下まで行列が伸びる大混雑だった。
普段は特進クラスと普通クラスで昼の時間帯がズレているんだけど、今日は特進クラスが実施する全国テストの関係で同じ時刻に集中していたのだ。
「こんな奥しか空いてないなんて初めてだね」
すぐ近くに中庭が見える窓。
そこに沿ってカウンター席が並び、そこにはまだいくらかの空席があったけど、一人で食べる人は少なくて、その席は争奪戦にはならないみたい。
中庭の桜の木は、色付いた葉を落とし始めている。
今年もあんな風に雪が積もるのかな。
休み時間に話題に上がったからか、あの日のことをより鮮明に思い出した。
木から視線を戻すと、カウンター席に座った人が目に映った。
サラサラと揺れる黒髪を押さえつけるように付けられた黒のヘッドホンが、私の心を奪う。
注文に向かおうとしていたふたりに背を向けて、私はカウンター席へと走った。
「あの……!」
学食は今日に限って騒音がすごい。
聞こえなかったのか、その男の子はただ前を向き、黙々と食事を続けていた。
「ねえ!」
さっきよりも大きな声で私はその背中に問いかけた。
周りに響くくらいの声に、騒がしかった学食の空気が 一瞬だけ静まる。
不自然なくらいに全員の視線が彼女に向いて、私は驚いて周りを見渡した。
けれど、当の本人は我関せずという様子で、食事をとりながら参考書を開き勉強を始める。
「あれ……?」
ざわ……ざわ……。
近くの席から聞こえてきた声の内容は、私に向かって囁かれているようだった。
「あの子、今あいつに話しかけた?」
「無視されてんじゃん、かわいそ」
「ファンかな?最近直接行く子いなかったのに」
「知らないのかな……『氷の王子』」
「勇気あるな〜〜」
私は、聞こえてくるその内容が理解できず、振り返ってくれない彼を不思議に思っていた。
呆然としている私の腕を、あみがつかんで引き戻す。
「ちょっと望花!知り合いなの!?」
「え、ううん……ちょっと、気になって……」
彼から目が離せないまま呟くと、両手をつかまれてあみの方を向かされる。
目の前に現れたふたりの友人は、焦りと心配の混じった表情をしていた。
「望花、分かってるの!?あの人、特進クラスの『氷の王子』だよ?」
「……王子?」
あみの勢いに驚きながら聞き返す。
「学食いるなんて珍しいね。いくら望花でも急に話しかけるのはやめた方がいいよ」
まいまで心配そうに私の背中に手を添えて、注文に行こうと促すから私は大人しく二人に従った。
「この間も、泣いてた子いたらしいよね」
「近づくだけで冷たくされるって」
ひそひそと周りから聞こえてくる情報に、私は驚きながらちらりとその後ろ姿を見る。
こんなにも噂をされているのに、彼はいまだに平然と食事をしている。
じゃあ、人違い……。
入学前に出会った彼は、急に声をかけた私にも優しかったし、冷たいなんて言葉は似合わない素敵な笑顔を見せてくれた。
入学前の微笑みを思い出し、会いたかったなと改めて思った。
やっと会えたと思ったのに。
注文した学食を持って席に着く。
戻ってきても、彼は変わらずカウンター席に一人で座って食べていた。
……後ろ姿とか横顔は、やっぱり似ている気がするけど。
チラチラと視線を動かしていると、食事を終えた様子の男の子は、立ち上がった。
その瞬間。彼の切れ長の瞳が、私の姿を捉えた。
時間が止まったみたいに、私は彼から視線を離せなくなる。
ヘッドホンの形、横顔の輪郭、前髪から覗く切れ長の瞳。
全てがあの日の思い出と一致した。
……やっぱり……!?
ガタッと席をたった私を、あみとまいが驚いて見上げる。
でも男の子はすっと視線を逸らし、そのまま素通りしていった。
お盆を持たない方の手で右のヘッドホンを押さえながら。
……え?なんで……?今、目合ったよね?
疑問に思ったけれど、スタスタと歩いていく背中は、追いかけることを拒絶しているみたいに冷たくて、私はそのまま見つめることしかできなかった。
*
数日経っても、彼の顔が忘れられなかった。
氷の王子というあだ名と、思い出の中の笑顔があまりに一致しない。
午後になればなくなってしまうポケットのお菓子が、今日はたくさん残っていた。
「一個もーらい!」
明るい声と同時に突然ポケットに手を突っ込まれ、お気に入りの飴ちゃんを一つ奪われたけれど、私はぼんやりとしながらそれを受け渡した。
「あいつ、どうしたの?」
「最近ずっとあんななの」
簡単に奪えてしまった飴を片手に一葵が話しかけると、あみは困ったように首を振った。
「氷の王子に、ご執心なのよ」
まいの言葉には、一葵とあみが「ありえない」と笑う。
けれど、私にはその一連の会話は何一つ聞こえていなかった。
この数日間で、気づいたことがある。
私が探していた『氷の王子』と呼ばれた彼は、特進クラスのプリンスだった。
その中でも突出した学力だという彼は、人付き合いを好まず冷徹な存在なんだそう。
そして、きっと、とても人気。
なぜなら
「望花ちゃん、氷の王子に告ったんだって!?」
「大丈夫だった!?酷いこと言われなかった?」
「顔だけはすっごくかっこいいけど、見ておくだけにしておいた方がいいよ!」
あの日の出来事がなんだかすっごく大事件になったから。
「告白なんてしてないよ。うちら見てたから」
「それ以上騒ぐと、お口縫い付けるわよ〜」
否定もせずぼーっとしている私を見かねて、あみとまいが人だかりを追い払ってくれていた。
*
彼のことを考えて考えて考えて。
放課後、ふらふらと歩いていたら、目の前に渡り廊下へとつながる銀色の扉があった。
特進クラスは、この中庭を挟んで向いにある西棟。
少し興味が湧いて、私は大きな扉をググッと押した。
涼しい風が吹き、肩を竦めながら、葉を落とした桜の木へと視線を向ける。
するとその木の根本に、既視感のあるヘッドホンが見えた。
「え」
やっぱりそうじゃん。絶対あの人じゃん。
長い間ぼんやりしていた頭が鮮明になって、嬉しさが湧き上がる。
「氷の王子〜〜!!」
名前を知らなかったから。
私は、そう大声で叫びながら、上靴のまま桜の木に向かって駆け出した。
「っ……!」
走ってくる私を、彼の驚いた目がとらえる。
左側から突進した私をはらりと避けて、後ろに回るとその骨ばった手のひらが後ろから口元を覆った。
頭を抱えるように後ろから伸ばされた細い指先が遠慮がちに頬に触れて、思わず息が止まった。
口に直接触れないように距離を開けてくれているのに。
「それ悪口だから。そんな大声で言わないで」
振り返ると、整った顔を心底嫌そうに歪めた彼がこちらを見下ろしていた。
静かになった私を確認して、彼はさっと距離をとる。
「えっ……ごめん、王子って褒め言葉かと」
怒って見えた彼にそう口にすると、彼は「は?」と呟いて、呆れたようにため息をついた。
「……ばかなの?」
流れるように悪態をついたあと、やべ。と視線を逸らした彼。
その表情に申し訳なさが宿っていることに気付いて私はほっと一息。
へらりと笑って「よく言われる〜」と返すと、彼は驚いたように目をぱちくりさせた。
「じゃあ、王子様は本当はなんて名前?」
「……怒るよ」
「だって名前知らないんだもん」
調子を取り戻した私が質問を続けると、彼は小さくため息をついてから口を開いた。
「……外山蒼葉」
渋々と言った様子で伝えられた名前は、彼にぴったりのカッコよくて爽やかで落ち着いた印象。
私はぱあっと花が咲くように笑顔になる。
「蒼葉くん!素敵な名前!」
まっすぐいうと、彼は一瞬驚いたように目を見開いた。
そのあとも私が質問をすれば、彼は淡々とそれに答えてくれた。
質問が返ってくることはないし、あの日のような笑顔を見ることはできなかったけど、やっぱりみんながいう「氷の王子」とは違うと思う。
「じゃあ、もう帰るから」
そう言って去って行った蒼葉くんを大きく手を振りながら見送る。
これからもっと仲良くなれるといいな。
私は『氷の王子』の噂なんてすっかり忘れて、呑気にそんなことを考えていた。
*
校舎から離れ、同じ制服が減ったことを確認して、ヘッドホンを首にかける。
音の流れていないヘッドホンを外すと、ずっと苦しそうにしていた耳が風に触れた。
僕にとってヘッドホンは、人との関わりを遮断するための手放せないツールだった。
例え関わらないと決めていても人の中にいるのは疲れる。
気付きたいことには気付けないのに、どうして気付きたくないことには気付いてしまうのだろう。
いっそ全部、聞こえなければ気が楽だったのに。
「氷の王子〜〜」
放課後に聞いた不躾なほどに無邪気な声を思い出した。
影で囁かれる悪口を、あんなにも堂々と呼ぶ姿は正直おかしかった。
ほんのりと口角が上がり、慌ててそれを引き下げる。
嬉しそうな笑顔で駆け寄ってくる女の子には見覚えがあった。
同じ中学にいるのは知っていたけれど、入学して以来、会話をかわすのは今日が初めてだった。
*
「嘘つき」
人と関わると、必ず思い出すのはこの言葉だ。
ずっと心の奥底に張り付いて離れない、呪いのような言葉。
「何回か無視をされた。性格が悪い。無視しよう」
大声で騒ぎ立てる友人だったやつに、小学生の僕は腹を立てた。
「聞こえなかったんだよ」
小さな声で落とした言葉は、彼の怒りをさらに買った。
「嘘つき。もう二度と遊ばねえ」と騒ぐ彼にクラスメイトの視線が集まって居心地が悪かったことを覚えている。
何も知らないくせに、好き勝手に言いやがって。
「そうだね。僕は嘘つきだし性格が悪いから。お前に無視されたってなんとも思わない」
気付けばそんな言葉が口をついて出た。
僕は、なにひとつ嘘は言ってないけど。
聞こえた声の中で彼を無視したことなんて一度もないけど。
あんなやつに信じてもらえなくたって別にいい。
雑音が気持ち悪くて、右耳に触れながら、教室を出た。
その日から、僕はゆっくりと、ひとりになっていった。
入学前の2月。
中学生になるのは楽しみだった。やっと、今の人間関係から解放されると思ったから。
普通学科の見学へと向かったクラスメイトから離れ、ひとり、特進クラスの見学へといく。
お世辞にもレベルが高いとは言えなかった小学校。
特進クラスに入れば同じ小学校出身のやつらはいないから、そのためだけにすごく勉強をした。
見知らぬ生徒たちに混じって話を聞きながら、中庭の木を見た。
もう関わらなくていいと思ったら清々しいのに、どこか寂しくて苦しい。
その気持ちを自覚したくなくて、終わってからも合流することなく、中庭にある大きな木の下へ寄り道をした。
雪がしんしんと降る中庭は静かで心地良い。
雑踏の中で聞こえる音は、乱雑に絡まって僕には聴こえづらいことが多かったから。
「真っ白だね」
驚くほど鮮明に聴こえた声に体が跳ねた。
だけどそれ以上に、現れた彼女の天真爛漫な笑顔に心を奪われた。
彼女は不思議な子で。
迷子だっていうのにのんびりと僕と会話をしていた。
心を閉ざし気味だった僕も、きっと今日以外関わることのない彼女に対してはどうしてか気が抜けた。
雪が静かに降り積もる中庭では、彼女の透き通った声以外の音は何もない。
聞き取りやすい彼女との会話は、久しぶりに楽しかった。
僕の耳が不自由なことを知らない、気遣っても来ない。
そんな関わりは心地よくて純粋に楽しくて、気づけば口角が上がっていた。
「素敵な笑顔!」
自分が笑っていたことにも驚いたけれど、それよりも、満面の笑みで笑ったきみの笑顔こそが素敵で。
赤く染まった耳はしばらく元に戻らなかった。
*
あの日見た女の子は、入学してからすぐに見つけた。
普通クラスに通っている水瀬望花。
特進クラスにいる僕でも知っているような有名人。
僕とは正反対の、いつも友達に囲まれていて、明るい輪の中にいる、天性の人気者だ。
きっと関わることなんてないと思っていたのに。
ぐっと縮められたさっきの距離を思い出して、小さく笑う。
「やっぱり、変な人」
右側の耳にそっと触れ、僕は帰り道を歩いた。
今日は、冬の中でもうんと寒い2月。
窓の外はしんしんと雪が降っていて、景色が真っ白に染まっている。
4月から入学予定の中学校に見学に来た私、水瀬望花は、たった今、迷子になった。
きょろきょろと周りを見渡しながら2階の廊下を歩く。
んー。みんなどこいったんだろ。
まあ、歩いてたら会えるよね!
小学校のすぐ近くにある中学校は、外からは何度も見た校舎。
だけど中に入るのは初めてで、見知らぬ校舎にわくわくが抑えられず、気持ちが赴くままに、私は自由に歩き回る。
西棟と東棟に分かれた2つの校舎が並行に並ぶ中学校。
その間には、大きな桜の木がひとつ立っている。
新学期になると、学年全員で写真を撮るんだって。
地域の新聞によく載る評判の桜の木は、私もちょっと楽しみにしていた。
廊下から教室を覗くと、教室の窓からほんの少しだけ木の枝が見えて、私は教室に誰もいないのをいいことに、窓に向かって駆け寄った。
「わあ、大きな木」
白い花を咲かせているみたいに雪をのせた木は、写真で見るよりもずっと大きかった。
この木に満開の桜が咲いたら、すっごく綺麗だろう。
入学するのが楽しみになって、おもちのような頬が溶けていくのを感じた。
「あれ?」
木の根本に動く影を感じて、窓を開けて覗き込む。
身を乗り出すと、1階の渡り廊下から木に向かって歩いていく一人の男の子が見えた。
遠目に見ても、すらっとした体型で顔が小さいモデルのようなスタイルだった。
サラサラと揺れる黒髪を押さえつけるように付けられた黒のヘッドホン。
制服を着てないってことは、あの子も見学にきた6年生かな。
私は、にんまりと笑みをこぼして、階段を駆け降りた。
*
「ここだ」
西棟と東棟を繋ぐ渡り廊下のドアは外に繋がることもあってか、重厚な作りをしていた。
大きな銀色の扉を押し開けると、冷たい風に乗った雪が頬に当たる。
寒さに肩をすくめながら渡り廊下に出ると、大きな大きな真っ白な木が視界いっぱいに広がった。
「すっごい!」
まだまだ降り続ける雪の中で、1番の存在感を放つ大きな木。
上から見るよりもずっと壮大で、私は言葉を失った。
室内仕様でマフラーを外していた私は、しばらくして寒さに身震いをする。
マフラーを撒き直して木の根本を見ると、さっき上から見たヘッドホンを付けた男の子が、大きな木を見上げていた。
なんだか嬉しくなって、私はその男の子に向かって走り出した。
男の子は、私に気付かない様子で木を見上げている。
右から見える横顔は、骨格の美しさを際立てて、私の視線を簡単に奪った。
目にかかる前髪から覗く切れ長の目が、すっごく綺麗で、それでいて……ほんの少しだけ、泣きそうに見えた。
近くに立ち止まったというのに、彼は私に気付いていないのか、視線を向けなかった。
「真っ白だね」
もう少し近づいて後ろから声をかけると、彼はビクッと肩を動かした。
そのあと、右側左側、と確認し、私の姿を認識する。
こんなに近くで声をかけたのに。変なの。
怖がりな猫のような動きに、思わず笑みをこぼして、私はまた一歩近付いた。
「ごめんね、びっくりさせるつもりはなかったの」
ポケットから苺味のキャンディを取り出して渡すと、不思議そうにこちらを見つめる。
「なんで……?」
「美味しいものは、いつ食べても美味しいでしょ?」
言いながら、彼の顔を見上げた。
人一人分の距離まで近づくと、彼の身長はやっぱり高くて、150cmに満たない私はかなり見上げる形になった。
彼は不可解そうにこちらを見ていたけど、涙の後はなさそう。
安心した私は、少しずらされたヘッドホンに視線を合わせた。
ヘッドホンを首にかけた彼。
何を聞いていたのかなと思って耳を澄ませたけれど、静かな中庭でも、音漏れは一切聞こえてこなかった。
「見学会の途中じゃん。なんでここに?」
「えーっと、はぐれた?のかな?」
気付いたら誰もいなかったんだよね。
外雪降ってるなあとか思ってたら。あでも先生の話はちゃんと聞こうとしてたんだよ。
みんなそういえばどこいっちゃったんだろう。
いなくなる前のことを思い返し、ぶつぶつと独り言のように呟き続けた私。
結局のところは、考えてもわからないから、最後はふにゃりと笑うしかなかった。
「えへへ」
少しの間を置いて、男の子はふっと口元を緩めた。
「変な人」
ほんの一瞬、氷が解けるみたいに、彼の表情がゆるむ。
長い前髪から覗く切れ長の目尻が優しく下がった微笑みは、あまりにも甘く儚く。
雪景色に重なって、時間を止めるみたいに私の心に突き刺さった。
……綺麗。
雪景色を見たときと同じ感想が浮かぶ。
男の子に、綺麗だなんて思うのは、生まれて初めてだった。
固まった私を見て、ハッとした少年は目をそらしながら、細い声で言う。
「早く戻った方がいいよ。校内放送で呼ばれたら入学前から有名人だよ」
「うーん、確かに。でもそれも悪くない」
いつもの調子で、ふざけてきらりとキメ顔をしたら、少年は目を丸くしてからふふっと声を出して笑った。
目を細め、無邪気に笑ったその顔は、ずっと大人びて年上に見えていた少年を、幼く同い年くらいにも感じさせた。
どくりと大きく音を立てた心臓に、私は驚く。
……なにこれ。なんか、胸がいっぱいで、息がしづらい。
「あの、あなたも春からこの中学……」
「水瀬さーん?どこー?」
「もかちゃ〜〜ん」
大人の女性の声と、友達たちの大きな呼び声が聞こえた。
他の中学の子たちもいるのに、これは確かに恥ずかしいかも。
私は尋ねかけていた言葉を押し込めて、男の子に手を振った。
「行かなきゃ!またね!」
彼は、何も言わず小さく微笑んだ。
少し走って振り返ると、ヘッドホンを付け直した少年は、また桜の木を見上げていた。
雪の光の中で、静かに立つその姿は不思議なほど胸に残った。
あの桜の木に花が咲く頃、また、会えたらいいな。
そんな不思議な気持ちを残して、私は中学生になる。
*
「あっち〜〜!窓開けようぜ」
昼休みの終わりかけ。
予鈴が鳴るギリギリに帰ってきた男子たちがその足で大きく窓を開けた。
涼しい空気が教室に流れ込み、少し肌寒いくらいに頬を冷やす。
「ちょっと、そんな全開にしないでよ!寒いんだけど!」
秋になって、しっかりとブレザーを着込んだ女子グループが、そう言って窓際を睨む。
それに対抗するように、シャツを袖まで捲った男子たちが額の汗を冷ましながら、窓にもたれかかって笑った。
「そんなに着込んでてよく言うよ」
「もうマフラーでも必要なんじゃね」
「ほんっと男子って自分勝手!」
「そうだよ。あんたたちは外で遊んでたから暑いだけでしょ。早く閉めてよね」
廊下側で怒る女子グループと、窓際を陣取る男子グループ。
そのちょうど真ん中に位置する教室の中央で、私たちは喧嘩の様子を伺っていた。
「今日も始まった始まった!どっちが勝つかな〜〜」
私の前の席で椅子に大胆にまたがり後ろを向いている女の子。
耳の横あたりで結ばれたツインテールが可愛らしい、元気一杯の白木あみは、楽しそうに喧嘩の行く末を見守っている。
「仲良くしたらいいのに……。望花ちゃん、寒くない?」
穏やかな口調で眉を下げるのは、佐藤まい。
黒髪ストレートのロングヘアが大人っぽい女の子。
清楚で女の子らしいまいは、かなり人気があるんだけど……。
「ああ、そんなポテポテの頬して、普段からいっぱい蓄えてるから寒くないよね」
ふふっという笑いと共に小首をかしげながら放たれる毒舌は気持ちがいいほどに刺激的。
まいの言う通り、もぐもぐとおやつを食べていた私は、顔をあげてニヤリと笑う。
顔を上げた拍子に、淡い茶色の髪がふわっと揺れた。
「ふっふっふ、私のカーディガンは最高なのだ!」
萌え袖どころじゃないお化けみたいな長い袖を出し、ひらひらと二人の目の前で振る。
相当大きいサイズを着ているので、立ち上がるとスカートのすそがほぼ見えないんだけど、これがかわいいのです。
堂々と言い放った私に、まいとあみは一度視線を合わせてから、あははと声を出して笑った。二人の笑い声に、私は嬉しくなって一緒に笑う。
「望花って、本当に小動物系だよね。ハムスターとか?」
「ずっとなんか食べてるしね。似合う似合う」
面白そうに笑うふたりに、とりあえずお菓子を差し出すと「ほしいわけじゃない」と突き放された。
……なぜ?
今日の私のおやつは、ちょっといいチョコなのに!?
スーパーで大袋が安く売ってたから買ってもらった秘蔵品なのに!?
まあいいや、ふたりがいらないなら私がたーべよ。
差し出した手を戻そうとしたその一瞬の間に、手の上から二つのチョコレートが消えた。
苺味とミルク味の、ちょっといいチョコ!!
私はガタっと立ち上がり、その犯人である男子生徒の名前を呼ぶ。
「一葵!また取った!」
少し先で、ひらひらとチョコレートを振ってみせる子犬みたいなふわふわした短髪の男子を睨みつける。
「あげるって言ってたじゃん」
「一葵には言ってないもん!」
小学生みたいにぎゃーぎゃー騒ぐ私たちを、クラスメイトは面白おかしく囃し立てる。
気付けば、窓際男子と廊下女子の喧嘩も終わってクラスの注目は私たちになっていた。
無邪気につかみ合う私たちを見て明るく笑う。
入学してから早半年。今日も私たちのクラスは平穏です。
*
予鈴を合図に、一葵とのひともめを終えて、私は席に戻ってきた。
ちなみに勝者は一葵。私のチョコちゃん二人は、一葵の口の中へと消えてしまった。
「もう付き合っちゃえばいいのにね」
席に座るや否や、後ろに座ったまいの爆弾発言が耳に届く。
隣の席のあみが一瞬固まって、次の瞬間大きな笑い声を上げた。
「あはは!まい何言ってんの!いまだに小学生みたいなふたりだよ!?」
私は「付き合う……?」という言葉を頭に浮かべ、首をかしげていた。
そんなことより、苺味のチョコが美味しい。
あいつに取られたひとつは大きかった……。
憎しみを込めて窓際の前の方を睨むと、後ろの席の男子と喋っていた一葵と目が合ってにやりと笑われる。
シャーっと威嚇するような仕草をすれば、バカにしたように笑われた。
「もう、子供だなあふたりとも」
後ろを振り返ると、まいのお淑やかな笑顔の中に、妖艶な大人の顔が垣間見える。
「あーいう子ほど、恋心があったりするんだよ」
蛇に睨まれた蛙のように、私とあみは全身の毛を逆立てた。
「なんてね。そのチョコ私も食べたーい」
けろっと表情を変えたまいに、チョコを渡しながら、あみと顔を見合わせる。
「まいの冗談ってこわいわあ……」
「焦ったあ」と言いながら、あみは何かを思い出したようにこちらを向いた。
「そういえば望花、あの人には会えたの?」
「あの人?」
思い当たらない言葉に私はあみを見る。
「ほら、入学前に言ってたじゃん!すごく笑顔がかわいいイケメンがいたって!」
私は、お菓子を食べる手を少しだけ止めた。
見学会の日、桜の木の下で見かけたヘッドホンのイケメン。
桜が咲いた頃、もしかしたら会えるかなと期待していたけれど、葉っぱが色づく季節になっても、一度も彼を見ることはなかった。
「探してはいたんだけどいなさそうなんだよね。この学校に入学したわけじゃなかったのかも!」
私が言うと、あみはつまらなさそうに椅子の前足を浮かせた。
「名前とか聞いてないんだよね?」
「知らな〜い」
もう興味を失ったような返答をして、その会話は終わらせる。
教室の窓の外に見える桜の木。
一年生の教室は3階だから、窓際に寄らないと見えないけれど。
言ってる間に、冬になる。
あの日の、真っ白に染まった桜の木は、変わらず胸に残り続けていた。
*
「席空いてたよ〜〜!」
あみが大きく手を振る場所に集合する。
壁側近くの4人席。他に空いている席は見当たらなくて、とりあえず大急ぎで荷物を置いて場所取りをする。
「あみよく見つけたね」
「いや〜今日はやばかったね」
えへんと鼻を高くするあみ。
いつも隙間を掻い潜って、あっという間に席を見つけ出す彼女でも今日は一苦労したみたい。
それもそのはず。この日の学食は、生徒が一斉に流れ込み、廊下まで行列が伸びる大混雑だった。
普段は特進クラスと普通クラスで昼の時間帯がズレているんだけど、今日は特進クラスが実施する全国テストの関係で同じ時刻に集中していたのだ。
「こんな奥しか空いてないなんて初めてだね」
すぐ近くに中庭が見える窓。
そこに沿ってカウンター席が並び、そこにはまだいくらかの空席があったけど、一人で食べる人は少なくて、その席は争奪戦にはならないみたい。
中庭の桜の木は、色付いた葉を落とし始めている。
今年もあんな風に雪が積もるのかな。
休み時間に話題に上がったからか、あの日のことをより鮮明に思い出した。
木から視線を戻すと、カウンター席に座った人が目に映った。
サラサラと揺れる黒髪を押さえつけるように付けられた黒のヘッドホンが、私の心を奪う。
注文に向かおうとしていたふたりに背を向けて、私はカウンター席へと走った。
「あの……!」
学食は今日に限って騒音がすごい。
聞こえなかったのか、その男の子はただ前を向き、黙々と食事を続けていた。
「ねえ!」
さっきよりも大きな声で私はその背中に問いかけた。
周りに響くくらいの声に、騒がしかった学食の空気が 一瞬だけ静まる。
不自然なくらいに全員の視線が彼女に向いて、私は驚いて周りを見渡した。
けれど、当の本人は我関せずという様子で、食事をとりながら参考書を開き勉強を始める。
「あれ……?」
ざわ……ざわ……。
近くの席から聞こえてきた声の内容は、私に向かって囁かれているようだった。
「あの子、今あいつに話しかけた?」
「無視されてんじゃん、かわいそ」
「ファンかな?最近直接行く子いなかったのに」
「知らないのかな……『氷の王子』」
「勇気あるな〜〜」
私は、聞こえてくるその内容が理解できず、振り返ってくれない彼を不思議に思っていた。
呆然としている私の腕を、あみがつかんで引き戻す。
「ちょっと望花!知り合いなの!?」
「え、ううん……ちょっと、気になって……」
彼から目が離せないまま呟くと、両手をつかまれてあみの方を向かされる。
目の前に現れたふたりの友人は、焦りと心配の混じった表情をしていた。
「望花、分かってるの!?あの人、特進クラスの『氷の王子』だよ?」
「……王子?」
あみの勢いに驚きながら聞き返す。
「学食いるなんて珍しいね。いくら望花でも急に話しかけるのはやめた方がいいよ」
まいまで心配そうに私の背中に手を添えて、注文に行こうと促すから私は大人しく二人に従った。
「この間も、泣いてた子いたらしいよね」
「近づくだけで冷たくされるって」
ひそひそと周りから聞こえてくる情報に、私は驚きながらちらりとその後ろ姿を見る。
こんなにも噂をされているのに、彼はいまだに平然と食事をしている。
じゃあ、人違い……。
入学前に出会った彼は、急に声をかけた私にも優しかったし、冷たいなんて言葉は似合わない素敵な笑顔を見せてくれた。
入学前の微笑みを思い出し、会いたかったなと改めて思った。
やっと会えたと思ったのに。
注文した学食を持って席に着く。
戻ってきても、彼は変わらずカウンター席に一人で座って食べていた。
……後ろ姿とか横顔は、やっぱり似ている気がするけど。
チラチラと視線を動かしていると、食事を終えた様子の男の子は、立ち上がった。
その瞬間。彼の切れ長の瞳が、私の姿を捉えた。
時間が止まったみたいに、私は彼から視線を離せなくなる。
ヘッドホンの形、横顔の輪郭、前髪から覗く切れ長の瞳。
全てがあの日の思い出と一致した。
……やっぱり……!?
ガタッと席をたった私を、あみとまいが驚いて見上げる。
でも男の子はすっと視線を逸らし、そのまま素通りしていった。
お盆を持たない方の手で右のヘッドホンを押さえながら。
……え?なんで……?今、目合ったよね?
疑問に思ったけれど、スタスタと歩いていく背中は、追いかけることを拒絶しているみたいに冷たくて、私はそのまま見つめることしかできなかった。
*
数日経っても、彼の顔が忘れられなかった。
氷の王子というあだ名と、思い出の中の笑顔があまりに一致しない。
午後になればなくなってしまうポケットのお菓子が、今日はたくさん残っていた。
「一個もーらい!」
明るい声と同時に突然ポケットに手を突っ込まれ、お気に入りの飴ちゃんを一つ奪われたけれど、私はぼんやりとしながらそれを受け渡した。
「あいつ、どうしたの?」
「最近ずっとあんななの」
簡単に奪えてしまった飴を片手に一葵が話しかけると、あみは困ったように首を振った。
「氷の王子に、ご執心なのよ」
まいの言葉には、一葵とあみが「ありえない」と笑う。
けれど、私にはその一連の会話は何一つ聞こえていなかった。
この数日間で、気づいたことがある。
私が探していた『氷の王子』と呼ばれた彼は、特進クラスのプリンスだった。
その中でも突出した学力だという彼は、人付き合いを好まず冷徹な存在なんだそう。
そして、きっと、とても人気。
なぜなら
「望花ちゃん、氷の王子に告ったんだって!?」
「大丈夫だった!?酷いこと言われなかった?」
「顔だけはすっごくかっこいいけど、見ておくだけにしておいた方がいいよ!」
あの日の出来事がなんだかすっごく大事件になったから。
「告白なんてしてないよ。うちら見てたから」
「それ以上騒ぐと、お口縫い付けるわよ〜」
否定もせずぼーっとしている私を見かねて、あみとまいが人だかりを追い払ってくれていた。
*
彼のことを考えて考えて考えて。
放課後、ふらふらと歩いていたら、目の前に渡り廊下へとつながる銀色の扉があった。
特進クラスは、この中庭を挟んで向いにある西棟。
少し興味が湧いて、私は大きな扉をググッと押した。
涼しい風が吹き、肩を竦めながら、葉を落とした桜の木へと視線を向ける。
するとその木の根本に、既視感のあるヘッドホンが見えた。
「え」
やっぱりそうじゃん。絶対あの人じゃん。
長い間ぼんやりしていた頭が鮮明になって、嬉しさが湧き上がる。
「氷の王子〜〜!!」
名前を知らなかったから。
私は、そう大声で叫びながら、上靴のまま桜の木に向かって駆け出した。
「っ……!」
走ってくる私を、彼の驚いた目がとらえる。
左側から突進した私をはらりと避けて、後ろに回るとその骨ばった手のひらが後ろから口元を覆った。
頭を抱えるように後ろから伸ばされた細い指先が遠慮がちに頬に触れて、思わず息が止まった。
口に直接触れないように距離を開けてくれているのに。
「それ悪口だから。そんな大声で言わないで」
振り返ると、整った顔を心底嫌そうに歪めた彼がこちらを見下ろしていた。
静かになった私を確認して、彼はさっと距離をとる。
「えっ……ごめん、王子って褒め言葉かと」
怒って見えた彼にそう口にすると、彼は「は?」と呟いて、呆れたようにため息をついた。
「……ばかなの?」
流れるように悪態をついたあと、やべ。と視線を逸らした彼。
その表情に申し訳なさが宿っていることに気付いて私はほっと一息。
へらりと笑って「よく言われる〜」と返すと、彼は驚いたように目をぱちくりさせた。
「じゃあ、王子様は本当はなんて名前?」
「……怒るよ」
「だって名前知らないんだもん」
調子を取り戻した私が質問を続けると、彼は小さくため息をついてから口を開いた。
「……外山蒼葉」
渋々と言った様子で伝えられた名前は、彼にぴったりのカッコよくて爽やかで落ち着いた印象。
私はぱあっと花が咲くように笑顔になる。
「蒼葉くん!素敵な名前!」
まっすぐいうと、彼は一瞬驚いたように目を見開いた。
そのあとも私が質問をすれば、彼は淡々とそれに答えてくれた。
質問が返ってくることはないし、あの日のような笑顔を見ることはできなかったけど、やっぱりみんながいう「氷の王子」とは違うと思う。
「じゃあ、もう帰るから」
そう言って去って行った蒼葉くんを大きく手を振りながら見送る。
これからもっと仲良くなれるといいな。
私は『氷の王子』の噂なんてすっかり忘れて、呑気にそんなことを考えていた。
*
校舎から離れ、同じ制服が減ったことを確認して、ヘッドホンを首にかける。
音の流れていないヘッドホンを外すと、ずっと苦しそうにしていた耳が風に触れた。
僕にとってヘッドホンは、人との関わりを遮断するための手放せないツールだった。
例え関わらないと決めていても人の中にいるのは疲れる。
気付きたいことには気付けないのに、どうして気付きたくないことには気付いてしまうのだろう。
いっそ全部、聞こえなければ気が楽だったのに。
「氷の王子〜〜」
放課後に聞いた不躾なほどに無邪気な声を思い出した。
影で囁かれる悪口を、あんなにも堂々と呼ぶ姿は正直おかしかった。
ほんのりと口角が上がり、慌ててそれを引き下げる。
嬉しそうな笑顔で駆け寄ってくる女の子には見覚えがあった。
同じ中学にいるのは知っていたけれど、入学して以来、会話をかわすのは今日が初めてだった。
*
「嘘つき」
人と関わると、必ず思い出すのはこの言葉だ。
ずっと心の奥底に張り付いて離れない、呪いのような言葉。
「何回か無視をされた。性格が悪い。無視しよう」
大声で騒ぎ立てる友人だったやつに、小学生の僕は腹を立てた。
「聞こえなかったんだよ」
小さな声で落とした言葉は、彼の怒りをさらに買った。
「嘘つき。もう二度と遊ばねえ」と騒ぐ彼にクラスメイトの視線が集まって居心地が悪かったことを覚えている。
何も知らないくせに、好き勝手に言いやがって。
「そうだね。僕は嘘つきだし性格が悪いから。お前に無視されたってなんとも思わない」
気付けばそんな言葉が口をついて出た。
僕は、なにひとつ嘘は言ってないけど。
聞こえた声の中で彼を無視したことなんて一度もないけど。
あんなやつに信じてもらえなくたって別にいい。
雑音が気持ち悪くて、右耳に触れながら、教室を出た。
その日から、僕はゆっくりと、ひとりになっていった。
入学前の2月。
中学生になるのは楽しみだった。やっと、今の人間関係から解放されると思ったから。
普通学科の見学へと向かったクラスメイトから離れ、ひとり、特進クラスの見学へといく。
お世辞にもレベルが高いとは言えなかった小学校。
特進クラスに入れば同じ小学校出身のやつらはいないから、そのためだけにすごく勉強をした。
見知らぬ生徒たちに混じって話を聞きながら、中庭の木を見た。
もう関わらなくていいと思ったら清々しいのに、どこか寂しくて苦しい。
その気持ちを自覚したくなくて、終わってからも合流することなく、中庭にある大きな木の下へ寄り道をした。
雪がしんしんと降る中庭は静かで心地良い。
雑踏の中で聞こえる音は、乱雑に絡まって僕には聴こえづらいことが多かったから。
「真っ白だね」
驚くほど鮮明に聴こえた声に体が跳ねた。
だけどそれ以上に、現れた彼女の天真爛漫な笑顔に心を奪われた。
彼女は不思議な子で。
迷子だっていうのにのんびりと僕と会話をしていた。
心を閉ざし気味だった僕も、きっと今日以外関わることのない彼女に対してはどうしてか気が抜けた。
雪が静かに降り積もる中庭では、彼女の透き通った声以外の音は何もない。
聞き取りやすい彼女との会話は、久しぶりに楽しかった。
僕の耳が不自由なことを知らない、気遣っても来ない。
そんな関わりは心地よくて純粋に楽しくて、気づけば口角が上がっていた。
「素敵な笑顔!」
自分が笑っていたことにも驚いたけれど、それよりも、満面の笑みで笑ったきみの笑顔こそが素敵で。
赤く染まった耳はしばらく元に戻らなかった。
*
あの日見た女の子は、入学してからすぐに見つけた。
普通クラスに通っている水瀬望花。
特進クラスにいる僕でも知っているような有名人。
僕とは正反対の、いつも友達に囲まれていて、明るい輪の中にいる、天性の人気者だ。
きっと関わることなんてないと思っていたのに。
ぐっと縮められたさっきの距離を思い出して、小さく笑う。
「やっぱり、変な人」
右側の耳にそっと触れ、僕は帰り道を歩いた。



