現在

 2024年11月。
私は、彼女に会いに行くべきかどうかを決められず、駅前の交差点に立ち尽くしていた。信号は青に変わっている。人の流れは途切れない。けれど、私の足だけが動かなかった。行く理由はある。行かない理由もある。どちらも同じ重さで、胸の内に並んでいる。
スマートフォンをポケットから取り出し、また戻す。画面を見る必要はない。通知が来ていないことは分かっている。それでも、指先は確かめたがる。何かが変わっていないかを。彼女の名前は、真子という。声に出したことはない。ただ、頭の中で思うだけで、少し体がこわばる。その反応が何なのか、私はまだ言葉にできない。期待なのか、不安なのか。あるいは、その両方なのか。作業所は、駅から十分ほど歩いた場所にある。白い建物で、外から見ると何の変哲もない。中に入れば、消毒液と紙の匂いが混じった、いつもの空気がある。安全で、静かで、決められた時間が流れる場所だ。そこに彼女がいる。ただそれだけの事実が、私の一日を歪ませる。初めて言葉を交わしたのは、ほんの雑談だった。作業の手順、天気の話、昼休みの過ごし方。特別なことは何もない。けれど、彼女が顔を上げて相槌を打った瞬間、私は自分の呼吸が少し遅れたのを覚えている。その感覚を、私は信用しないようにしてきた。理由は簡単だ。信用した結果、取り返しのつかない場所まで行ったことがあるからだ。横断歩道を渡りながら、私は歩幅を意識した。速すぎないか。遅すぎないか。誰かとぶつからないか。些細なことが気になりすぎる日は、だいたい危ない。彼女とLINEを交換したのも、流れだったと思っている。断る理由がなかった。ただ、それだけだ。そう言い聞かせている。だが、既読がつくまでの時間が、少しずつ長く感じられるようになったのは事実だ。返事を書く前に、何度も文面を消すようになったのも。短く、無難な言葉だけを残し、感情が滲みそうな部分を削る。その作業に、妙に神経を使っている自分がいる。私は、自分の変化に敏感すぎる。けれど、鈍感でいた結果がどうなったかも、よく知っている。作業所の建物が見えたところで、再び足が止まった。無意識だった。止まってから、止まっていることに気づく。扉の向こうに、彼女がいるかどうかは分からない。休みかもしれないし、別の作業に入っているかもしれない。それなのに、胸の奥がざわつく。まるで、もう答えが出ているかのように。私は一度、深く息を吸い、ゆっくり吐いた。吸う息が浅く、吐く息が長い。体は正直だ。今日は、少し危うい。それでも、扉の前まで行った。手を伸ばし、ドアノブに触れる。冷たい金属の感触が、指先に残る。この一歩が、何になるのかは分からない。救いかもしれないし、ただの一日になるかもしれない。あるいは、引き金になる可能性だって、否定できない。私は、自分が「確信」を持ち始めたときに、一番危険になる人間だ。意味を見出し、関連づけ、世界がこちらに語りかけていると思い始める。その兆しを、私は何度も見てきた。だから今日は、目的をひとつに絞る。踏み出しすぎないこと。誰かの人生に、そして自分自身に、余計な意味を与えないこと。
扉を開けると、いつもと同じ空気が流れ込んできた。作業台の並び、紙の束、控えめな話し声。日常は、私の内側の不安など意に介さず、淡々と続いている。彼女は、奥の席にいた。目が合ったかどうかは分からない。分からないまま、私は自分の席に向かった。椅子を引き、座り、紙に向かう。決められた動作を、ひとつずつなぞる。手は、わずかに震えていた。だが、それを誰かが指摘することはない。それでいい、と私は思った。今日は、それで十分だ。再会は、幸福を約束しない。だが、破滅を約束するものでもない。私はまだ、そのどちらにも踏み込んでいない。この場所に座り、紙に向かい、呼吸を整えている。それだけだ。窓の外で、風が木を揺らした。季節は確実に進んでいる。私もまた、止まったままではいない。ただ、壊れない速度で、前に進みたいだけなのだ。