濡れたアスファルトに反射するネオンの光彩が、夜の表皮を薄く剥いでいた。
深夜二時。繁華街の喧騒は既に記憶となり、湿気を帯びた大気のなかに沈殿していた。
女は立ち止まり、肩に滲んだ雨粒を払うと、ショットバー〈Yours〉の扉を押した。
小さな鈴の音。
こもった空気が彼女を迎え入れる。
カウンターの中央に、男がひとり座していた。
「……ここ、空いていますか」
女の声に、男はグラスを回転させていた手を止めて頷いた。
「どうぞ。今夜は珍しく静かです」
「静かなの、好きなんです。今日はうるさい人ばかりで。上司も、取引先も……自分自身も」
「自分自身、というのは面白い」
「一番うるさいのはそこなんです。脳内会議が終わらなくて」
「では、乾杯でもして、脳内会議を一時停止しましょう」
「……いいですね、そのフレーズ」
マスターの手から、グラスがふたつ、音もなく差し出された。
彼女は何を頼むべきか逡巡している。
その表情を見て、男が言った。
「僕はカンパリソーダです。失敗してもダメージが少ないから」
「保険付きの選択なんですね。私は……よく燃えるやつがいい。今日の怒りに火をつけたいので」
「では、マスター。彼女にはブレイブ・ブルを」
「なに、それ」
「テキーラとカルーアリキュール。強くて苦いけれど、後味は優しい」
マスターは黙して調合を始める。
店内には音楽が時折途切れるように、ふとした呼吸を挟みながら流れていた。
「なぜ、そんなにお酒に詳しいんですか」
「この店に何年も通っていると覚えますよ……それに、一杯目の酒は、その日の気分を語っている気がするんです」
「では、私の今日の気分は?」
「ちゃんと頑張った、でもそれでは報われない夜、といったところでしょうか」
「御名答」
グラスが静かに眼前に置かれる。
「乾杯」
「乾杯」
ふたりはグラスに口をつけた。
「なるほど、強くて苦いけれど、後味は優しいっていうの、分かった気がします」
「でしょ?」
しばらく無言が続いたあと、男はこう切り出した。
「……あの、さっきから気になっていたんですけれど」
「はい」
「あなたも、終電、逃したんですか」
「ええ。正確に言えば、逃すように歩いていた気がします……あれに乗ってしまったら、今日を終わらせてしまうから」
彼女は小さく笑った。
「私も似たようなものです。駅に向かう途中で立ち止まって、ふっと気が抜けて……それで、足がこっちに向かっていた」
「こんな時間に、こんなところで偶然出会うって、不思議ですね」
「でも、騒いでいる人と話すより、ずっといい」
「ありがとう」
男は嬉しそうに言い、彼女は少し身体の向きを男の方へ寄せた。
「片岡亮です」
「篠原灯といいます」
名を交わすことで、夜がグラス一杯分、深くなったような気がした。
* * *
店を出たのは三時を過ぎた頃だった。
雨は止んでいた。
街の灯りは少しずつ間引かれ、代わりに空がじわりと淡くなり始めている。
「歩きませんか、少し」
「そうですね……このまま帰るのも惜しい」
並んで歩く。
靴音が静かに響き、車の往来もない道に彼らの会話だけが浮かんだ。
「……ずっと、誰かとこうして話したかった気がします」
「話してみてわかることって、ありますね」
「…………亮さんは、恋愛とか、最近はどうですか」
亮は少し口を結んだが、正直に答えた。
「ずっとなかったですね。怖いというか……また誰かと関係を作るのって、手間と勇気が要るでしょう」
「わかります。でも、話しているうちに……」
「うん」
「そういうの、どうでもよくなってくること、ありませんか」
亮は立ち止まり、灯を見た。
「……灯さんと話していると、だんだんそんな気持ちになってきます」
夜の空気が、少しだけ柔らかくなる。
灯はそれを受け止めるように目を細め、ゆっくりと頷いた。
「私も。終電には乗らなかったけれど、亮さんとこうして会えたこと、よかったと思っています」
ふたりはそのまま、小さな公園のベンチに腰を下ろした。
眠る街のなかで、しかし目を閉じることもできないまま、朝を待っていた。
「あと少しで夜が終わりますね」
「終わってしまいますね」
「でも……夜が終わっても、あなたのことは忘れたくない」
彼女がふと、男の手に触れる。
そのぬくもりは、彼がずっと求めていたものに近かった。
そして──空が白み始めた。
ビルの谷間に、夜明けの青がにじみ出す。
世界が音を取り戻し始める頃、彼らの姿は光の輪郭に包まれていた。
「また会えますか」
「はい。きっと」
微笑んだ彼女の瞳に、夜と朝とが同時に宿っていた。
ふたりは、別々の方向へと歩き出した。
それは終わりではない。むしろ、始まりだった。
* * *
それから数日後。
終電のアナウンスが駅の方から聞こえてきた。
「まもなく、当駅止まりの電車がまいります……」
その声に耳を傾けるでもなく、篠原灯は改札を背にして駅前のロータリーに佇んでいた。
手には小さな紙袋。
残業帰りの部署の飲み会で、半ば義務的に配られた「感謝チョコ」の余りである。
灯は、あの夜のことを思い出していた。
ブレイブ・ブルの熱、雨上がりの街、ベンチで触れた手のぬくもり。
片岡亮──あの夜限りのつもりが、思いがけず心に残っていた。
連絡先は、交換しなかった。
ただ、「また会えますか」という言葉と、「きっと」という曖昧な約束だけを胸にしまったまま。
そして今夜も、気づけば終電を逃していた。
──また会えたりして。
そう期待しながら、手に持ったチョコの袋をじっと見つめた。
かすかな期待を抱きながら歩いた路地の角には、〈Yours〉の扉が、少しだけ開いて彼女を待っていた。
灯は胸の奥がじわりと熱くなるのを感じながら、恐る恐るそのドアを押した。
チリン、と鈴の音。
そして──そこには亮がいた。
カウンターの同じ席、同じグラス。
彼は驚いた顔をして、そのあと、笑った。
「まさか……」
「また、逃してしまいました。終電」
「僕も。まったく、懲りない。お互い」
再会の喜びは、グラスを鳴らす前の高揚となって胸に広がった。
「夢みたい」
「うん。連絡先も知らないのに、こうして会えるなんて」
「でも……そのほうがいいのかも」
「え?」
片岡はグラスに口をつけたあと、こう語った。
「連絡先も、素性も、よく知らない。だけど、だからこそ、話せることがあるような気がするんです」
灯はその言葉に、微かな違和感を覚えた。
前回の別れ際、確かに彼の目は誠実だった。
あれは、ただの一夜の温もりではなかったはず。
「でも……それって、便利な距離ということですか」
「便利というか、自由……かな」
その答えに、灯の笑みは、すっと引いた。
「私、亮さんのこと……もう少し、ちゃんと知りたかったかもしれません」
「灯さん……」
「名前だけの関係って、私は……寂しい」
彼女の声は落ち着いていたが、心のどこかが崩れかけていた。
亮は言葉を探すように視線を泳がせた。
「ごめんなさい。僕、正直に言うと……また会えるとは思っていなかった。だから、こうして再会できても、どう接したらいいのかわからなくて……」
灯はグラスをじっと見つめた。
「私は……また会えると信じていました」
その静かな告白に、ふたりの間の温度が一度冷えた。
亮が何かを言いかけたが、言葉は音にはならなかった。
やがて、彼女が立ち上がった。
「今日は、もう帰ります。タクシー、拾えるといいな」
微笑みながらそう言った彼女の横顔は、どこか遠くにいた。
夜が明けかけていた。
空の端がほのかに明るい。
オフィス街のビル群が、うっすらと朝の輪郭を帯び始めている。
街は、何事もなかったかのように目覚めようとしている。
胸元には、まだ紙袋がある。
もし、偶然にも再会することができたのなら、彼に渡せるかもしれないと思って持っていたチョコレート。
渡せなかったその重みが、不思議と冷たかった。
次に会ったときは、どうすればいい?
そんな問いを、風がさらっていった。
そして、朝が来た。
昨夜とほとんど変わらない街並みが、今は少し遠くに見えた。
* * *
その夜も、雨が降りそうで降らなかった。
新宿の高層ビルが、湿った空気に霞んでいた。
風のない夜だった。
灯は、残業の帰りにふと時計を見て、今日も終電に間に合わないことに気がついた。
だが、足は急がなかった。
むしろ、どこかでそうなることを望んでいた自分に気づいていた。
スマートフォンの充電は切れていた。
連絡を取ることもできない。
ただ、自分の身体と心が、あの場所へと導くように動いていった。
三度目は、さすがにないかもしれない。でも、もしかして──
そう思いながら、彼女の足は自然に、〈Yours〉へ向かっていた。
扉を押すと、かすかに鈴の音が鳴った。
灯の目は、カウンターの中央に座るひとりの男を捉えた。
──いた。
同じ席、同じ姿勢。
けれど、どこか疲れているようにも見えた。
「……また、終電逃しました」
その声に、片岡亮は顔をゆっくりと上げた。
「ああ……お久しぶりです。灯さんも」
笑いながらも、声音は柔らかかった。
三度目の奇跡に、言葉をどう選べばいいのか、互いに迷っていた。
「私、たぶん……逃したくて、歩いていたかも」
「僕も……です。逃したくて、ここに来ました」
「では……これは偶然じゃなくて、選んだ奇跡?」
彼女の言葉に、男はグラスを置いて頷いた。
「会いたかった」
片岡の眼差しは真っ直ぐだった。
灯は少しだけ目を伏せた。
前回、すれ違ってしまった不器用な距離。
言葉の角度を間違えれば、また同じ結果になる気がして、息を潜めた。
「亮さんは、あのあと、私のこと……どう思っていましたか」
男は、一瞬黙ったあと、目を逸らさずに言った。
「ちゃんと、考えていました。連絡先も知らない、名前しか知らない。でも、どうしようもなく、もう一度会いたいと思っていました」
「……でも、何もできなかった」
「ええ。だから、三度目はないかもしれないと思っていました」
「……私も」
ふたりのグラスが、言葉の代わりに音を立てた。
「今日は、何を頼みました」
「また、カンパリソーダ。でも……今夜は、少し弱いかもしれません」
「では、私も弱めのをお願いしようかな。亮さんの隣に座るだけで、私、十分に酔っているから」
男は驚き、そして笑った。
「ずるいですよ、それ」
「本音です」
静かな店内に、ふたりの声と、氷の音だけが鳴っていた。
* * *
午前四時。
〈Yours〉の外は、静寂の底を薄く照らすような薄明かりに包まれていた。
並んで歩くふたりの肩が、時折かすかに触れ合う。
「灯さん」
「はい」
「もし、来週また終電を逃すようなことがあったら……」
「偶然に見せかけて、また来ます」
男は歩みを止めて、真っ直ぐに灯を見つめた。
「ちゃんと、あなたのことを知りたい。名前の向こう側にある全部を。今度は、逃さないように」
灯は、ほっとしたように目を細めた。
「私も。すれ違うの、もう嫌です」
ふたりの手が、今度は迷わずに、自然に重なった。
温度は、前の夜よりも確かだった。
そして朝が来た。
空がゆっくりと白み、街に音が戻る前。彼らはベンチに並んで座り、肩を寄せていた。
三度の偶然と、終電を逃した夜のすべてが、ここへ導いていた。
朝焼けの光が、彼らの前に広がる。
逃し続けた時間のなかで、ようやく掴んだもの。
それは、もう逃さないという、確かな想いだった。
* * *
ふたりが交際を始めて、三ヶ月が過ぎた。
とはいえ、明確に何が変わったわけでもない。
連絡先を交換し、日中にもたまにメッセージを送り合うようになった。
それでも、ふたりが最も素直になれるのは、いつだって、終電を逃した夜だった。
「今日も、逃しました」
そう言って、〈Yours〉の扉を開けると、彼がいつもの席に座っている。
「やあ、灯さん。今日も迷いなく、遅れましたね」
「迷っていません。むしろ、予定通り」
ふたりは笑った。
だって、もう、偶然ではないのだから。
終電を逃した夜は、ふたりにとっての「約束の時間」であった。
「昼間の私、本当に別人みたいで嫌になります」
灯はグラスを揺らしながら呟く。
「なぜ?」
「変に愛想振りまいて、メールには絵文字、雑な会議に相槌ばかり。疲れてくると、自分ってどれ? ってなるんです」
「わかります」
亮も静かに頷いた。
「昼の僕、やたらと理屈っぽい。資料作りながら『こうしたほうが伝わりやすい』って誰かの言葉をなぞるばかり。たぶん、これが"社会人"というやつなんでしょうけど」
「でもこの店に来ると、少し呼吸し直せる気がして」
「……本当の自分って、終電後にしか出せないのかもしれない」
灯は苦笑しながら言った。
「ダメな大人みたい」
「いいじゃないですか。ダメな自分に恋してくれる人がいるのだから」
灯はその言葉に、視線を伏せたままグラスを傾けた。
「私は……亮さんが、昼間どんな人かより、夜に見せてくれる顔のほうが、好き」
亮は驚いたように目を見開き、それから照れたように笑った。
「では、僕はずっと終電を逃し続けないと」
「ふたりして、終電に乗れない恋人たち」
その響きに、ふたりの笑いが静かに重なった。
* * *
その翌週、灯から一通のメッセージが届いた。
《明日、また逃してもいい?》
亮は短く返した。
《ぜひ》
その夜、ふたりは肩を並べて歩いた。タクシーの通らない裏通り。誰も急いでいない時間。雨が降りそうな空。
「この世界、好き」
灯が言った。
「昼の喧騒が嘘みたいで。誰も他人の肩書きで人を見ない。そういう夜のほうが、人を信じられる気がします」
「灯さんは、昼間の自分より、夜の自分が好きですか」
「うん。昼間より弱いし、よく泣くし、口下手だけれど……でも、夜の自分のほうが、ちゃんと好きって言える気がします」
亮はその言葉を、深く静かに噛みしめるように聞いていた。
「僕も。でも、夜の灯さんのほうが、真っ直ぐで、優しくて、少し毒舌で……好き」
ふたりは、少し照れて黙った。そしてまた、静かな朝が来ようとしていた。
「亮さん」
「はい」
「一緒に、終電を逃してくれてありがとうございます」
亮は一歩踏み出して、灯の手を取った。
「毎回、逃すつもりでいます……だって、あなたと会えるのですから」
夜明けの空は、薄いブルーに染まり始めていた。
ふたりの影がゆっくりと伸びていく。
街が動き出す前の、ほんのわずかな時間。
誰の目も届かないその静けさのなかで、ふたりはただ、手を繋いで歩いていた。
終電を逃した世界。
そこは、喧騒の外側にある、本当の自分たちが棲む場所。
これからも、何度だって、ここで会う。
そんな約束を、ふたりは互いの手の温もりで交わしていた。
深夜二時。繁華街の喧騒は既に記憶となり、湿気を帯びた大気のなかに沈殿していた。
女は立ち止まり、肩に滲んだ雨粒を払うと、ショットバー〈Yours〉の扉を押した。
小さな鈴の音。
こもった空気が彼女を迎え入れる。
カウンターの中央に、男がひとり座していた。
「……ここ、空いていますか」
女の声に、男はグラスを回転させていた手を止めて頷いた。
「どうぞ。今夜は珍しく静かです」
「静かなの、好きなんです。今日はうるさい人ばかりで。上司も、取引先も……自分自身も」
「自分自身、というのは面白い」
「一番うるさいのはそこなんです。脳内会議が終わらなくて」
「では、乾杯でもして、脳内会議を一時停止しましょう」
「……いいですね、そのフレーズ」
マスターの手から、グラスがふたつ、音もなく差し出された。
彼女は何を頼むべきか逡巡している。
その表情を見て、男が言った。
「僕はカンパリソーダです。失敗してもダメージが少ないから」
「保険付きの選択なんですね。私は……よく燃えるやつがいい。今日の怒りに火をつけたいので」
「では、マスター。彼女にはブレイブ・ブルを」
「なに、それ」
「テキーラとカルーアリキュール。強くて苦いけれど、後味は優しい」
マスターは黙して調合を始める。
店内には音楽が時折途切れるように、ふとした呼吸を挟みながら流れていた。
「なぜ、そんなにお酒に詳しいんですか」
「この店に何年も通っていると覚えますよ……それに、一杯目の酒は、その日の気分を語っている気がするんです」
「では、私の今日の気分は?」
「ちゃんと頑張った、でもそれでは報われない夜、といったところでしょうか」
「御名答」
グラスが静かに眼前に置かれる。
「乾杯」
「乾杯」
ふたりはグラスに口をつけた。
「なるほど、強くて苦いけれど、後味は優しいっていうの、分かった気がします」
「でしょ?」
しばらく無言が続いたあと、男はこう切り出した。
「……あの、さっきから気になっていたんですけれど」
「はい」
「あなたも、終電、逃したんですか」
「ええ。正確に言えば、逃すように歩いていた気がします……あれに乗ってしまったら、今日を終わらせてしまうから」
彼女は小さく笑った。
「私も似たようなものです。駅に向かう途中で立ち止まって、ふっと気が抜けて……それで、足がこっちに向かっていた」
「こんな時間に、こんなところで偶然出会うって、不思議ですね」
「でも、騒いでいる人と話すより、ずっといい」
「ありがとう」
男は嬉しそうに言い、彼女は少し身体の向きを男の方へ寄せた。
「片岡亮です」
「篠原灯といいます」
名を交わすことで、夜がグラス一杯分、深くなったような気がした。
* * *
店を出たのは三時を過ぎた頃だった。
雨は止んでいた。
街の灯りは少しずつ間引かれ、代わりに空がじわりと淡くなり始めている。
「歩きませんか、少し」
「そうですね……このまま帰るのも惜しい」
並んで歩く。
靴音が静かに響き、車の往来もない道に彼らの会話だけが浮かんだ。
「……ずっと、誰かとこうして話したかった気がします」
「話してみてわかることって、ありますね」
「…………亮さんは、恋愛とか、最近はどうですか」
亮は少し口を結んだが、正直に答えた。
「ずっとなかったですね。怖いというか……また誰かと関係を作るのって、手間と勇気が要るでしょう」
「わかります。でも、話しているうちに……」
「うん」
「そういうの、どうでもよくなってくること、ありませんか」
亮は立ち止まり、灯を見た。
「……灯さんと話していると、だんだんそんな気持ちになってきます」
夜の空気が、少しだけ柔らかくなる。
灯はそれを受け止めるように目を細め、ゆっくりと頷いた。
「私も。終電には乗らなかったけれど、亮さんとこうして会えたこと、よかったと思っています」
ふたりはそのまま、小さな公園のベンチに腰を下ろした。
眠る街のなかで、しかし目を閉じることもできないまま、朝を待っていた。
「あと少しで夜が終わりますね」
「終わってしまいますね」
「でも……夜が終わっても、あなたのことは忘れたくない」
彼女がふと、男の手に触れる。
そのぬくもりは、彼がずっと求めていたものに近かった。
そして──空が白み始めた。
ビルの谷間に、夜明けの青がにじみ出す。
世界が音を取り戻し始める頃、彼らの姿は光の輪郭に包まれていた。
「また会えますか」
「はい。きっと」
微笑んだ彼女の瞳に、夜と朝とが同時に宿っていた。
ふたりは、別々の方向へと歩き出した。
それは終わりではない。むしろ、始まりだった。
* * *
それから数日後。
終電のアナウンスが駅の方から聞こえてきた。
「まもなく、当駅止まりの電車がまいります……」
その声に耳を傾けるでもなく、篠原灯は改札を背にして駅前のロータリーに佇んでいた。
手には小さな紙袋。
残業帰りの部署の飲み会で、半ば義務的に配られた「感謝チョコ」の余りである。
灯は、あの夜のことを思い出していた。
ブレイブ・ブルの熱、雨上がりの街、ベンチで触れた手のぬくもり。
片岡亮──あの夜限りのつもりが、思いがけず心に残っていた。
連絡先は、交換しなかった。
ただ、「また会えますか」という言葉と、「きっと」という曖昧な約束だけを胸にしまったまま。
そして今夜も、気づけば終電を逃していた。
──また会えたりして。
そう期待しながら、手に持ったチョコの袋をじっと見つめた。
かすかな期待を抱きながら歩いた路地の角には、〈Yours〉の扉が、少しだけ開いて彼女を待っていた。
灯は胸の奥がじわりと熱くなるのを感じながら、恐る恐るそのドアを押した。
チリン、と鈴の音。
そして──そこには亮がいた。
カウンターの同じ席、同じグラス。
彼は驚いた顔をして、そのあと、笑った。
「まさか……」
「また、逃してしまいました。終電」
「僕も。まったく、懲りない。お互い」
再会の喜びは、グラスを鳴らす前の高揚となって胸に広がった。
「夢みたい」
「うん。連絡先も知らないのに、こうして会えるなんて」
「でも……そのほうがいいのかも」
「え?」
片岡はグラスに口をつけたあと、こう語った。
「連絡先も、素性も、よく知らない。だけど、だからこそ、話せることがあるような気がするんです」
灯はその言葉に、微かな違和感を覚えた。
前回の別れ際、確かに彼の目は誠実だった。
あれは、ただの一夜の温もりではなかったはず。
「でも……それって、便利な距離ということですか」
「便利というか、自由……かな」
その答えに、灯の笑みは、すっと引いた。
「私、亮さんのこと……もう少し、ちゃんと知りたかったかもしれません」
「灯さん……」
「名前だけの関係って、私は……寂しい」
彼女の声は落ち着いていたが、心のどこかが崩れかけていた。
亮は言葉を探すように視線を泳がせた。
「ごめんなさい。僕、正直に言うと……また会えるとは思っていなかった。だから、こうして再会できても、どう接したらいいのかわからなくて……」
灯はグラスをじっと見つめた。
「私は……また会えると信じていました」
その静かな告白に、ふたりの間の温度が一度冷えた。
亮が何かを言いかけたが、言葉は音にはならなかった。
やがて、彼女が立ち上がった。
「今日は、もう帰ります。タクシー、拾えるといいな」
微笑みながらそう言った彼女の横顔は、どこか遠くにいた。
夜が明けかけていた。
空の端がほのかに明るい。
オフィス街のビル群が、うっすらと朝の輪郭を帯び始めている。
街は、何事もなかったかのように目覚めようとしている。
胸元には、まだ紙袋がある。
もし、偶然にも再会することができたのなら、彼に渡せるかもしれないと思って持っていたチョコレート。
渡せなかったその重みが、不思議と冷たかった。
次に会ったときは、どうすればいい?
そんな問いを、風がさらっていった。
そして、朝が来た。
昨夜とほとんど変わらない街並みが、今は少し遠くに見えた。
* * *
その夜も、雨が降りそうで降らなかった。
新宿の高層ビルが、湿った空気に霞んでいた。
風のない夜だった。
灯は、残業の帰りにふと時計を見て、今日も終電に間に合わないことに気がついた。
だが、足は急がなかった。
むしろ、どこかでそうなることを望んでいた自分に気づいていた。
スマートフォンの充電は切れていた。
連絡を取ることもできない。
ただ、自分の身体と心が、あの場所へと導くように動いていった。
三度目は、さすがにないかもしれない。でも、もしかして──
そう思いながら、彼女の足は自然に、〈Yours〉へ向かっていた。
扉を押すと、かすかに鈴の音が鳴った。
灯の目は、カウンターの中央に座るひとりの男を捉えた。
──いた。
同じ席、同じ姿勢。
けれど、どこか疲れているようにも見えた。
「……また、終電逃しました」
その声に、片岡亮は顔をゆっくりと上げた。
「ああ……お久しぶりです。灯さんも」
笑いながらも、声音は柔らかかった。
三度目の奇跡に、言葉をどう選べばいいのか、互いに迷っていた。
「私、たぶん……逃したくて、歩いていたかも」
「僕も……です。逃したくて、ここに来ました」
「では……これは偶然じゃなくて、選んだ奇跡?」
彼女の言葉に、男はグラスを置いて頷いた。
「会いたかった」
片岡の眼差しは真っ直ぐだった。
灯は少しだけ目を伏せた。
前回、すれ違ってしまった不器用な距離。
言葉の角度を間違えれば、また同じ結果になる気がして、息を潜めた。
「亮さんは、あのあと、私のこと……どう思っていましたか」
男は、一瞬黙ったあと、目を逸らさずに言った。
「ちゃんと、考えていました。連絡先も知らない、名前しか知らない。でも、どうしようもなく、もう一度会いたいと思っていました」
「……でも、何もできなかった」
「ええ。だから、三度目はないかもしれないと思っていました」
「……私も」
ふたりのグラスが、言葉の代わりに音を立てた。
「今日は、何を頼みました」
「また、カンパリソーダ。でも……今夜は、少し弱いかもしれません」
「では、私も弱めのをお願いしようかな。亮さんの隣に座るだけで、私、十分に酔っているから」
男は驚き、そして笑った。
「ずるいですよ、それ」
「本音です」
静かな店内に、ふたりの声と、氷の音だけが鳴っていた。
* * *
午前四時。
〈Yours〉の外は、静寂の底を薄く照らすような薄明かりに包まれていた。
並んで歩くふたりの肩が、時折かすかに触れ合う。
「灯さん」
「はい」
「もし、来週また終電を逃すようなことがあったら……」
「偶然に見せかけて、また来ます」
男は歩みを止めて、真っ直ぐに灯を見つめた。
「ちゃんと、あなたのことを知りたい。名前の向こう側にある全部を。今度は、逃さないように」
灯は、ほっとしたように目を細めた。
「私も。すれ違うの、もう嫌です」
ふたりの手が、今度は迷わずに、自然に重なった。
温度は、前の夜よりも確かだった。
そして朝が来た。
空がゆっくりと白み、街に音が戻る前。彼らはベンチに並んで座り、肩を寄せていた。
三度の偶然と、終電を逃した夜のすべてが、ここへ導いていた。
朝焼けの光が、彼らの前に広がる。
逃し続けた時間のなかで、ようやく掴んだもの。
それは、もう逃さないという、確かな想いだった。
* * *
ふたりが交際を始めて、三ヶ月が過ぎた。
とはいえ、明確に何が変わったわけでもない。
連絡先を交換し、日中にもたまにメッセージを送り合うようになった。
それでも、ふたりが最も素直になれるのは、いつだって、終電を逃した夜だった。
「今日も、逃しました」
そう言って、〈Yours〉の扉を開けると、彼がいつもの席に座っている。
「やあ、灯さん。今日も迷いなく、遅れましたね」
「迷っていません。むしろ、予定通り」
ふたりは笑った。
だって、もう、偶然ではないのだから。
終電を逃した夜は、ふたりにとっての「約束の時間」であった。
「昼間の私、本当に別人みたいで嫌になります」
灯はグラスを揺らしながら呟く。
「なぜ?」
「変に愛想振りまいて、メールには絵文字、雑な会議に相槌ばかり。疲れてくると、自分ってどれ? ってなるんです」
「わかります」
亮も静かに頷いた。
「昼の僕、やたらと理屈っぽい。資料作りながら『こうしたほうが伝わりやすい』って誰かの言葉をなぞるばかり。たぶん、これが"社会人"というやつなんでしょうけど」
「でもこの店に来ると、少し呼吸し直せる気がして」
「……本当の自分って、終電後にしか出せないのかもしれない」
灯は苦笑しながら言った。
「ダメな大人みたい」
「いいじゃないですか。ダメな自分に恋してくれる人がいるのだから」
灯はその言葉に、視線を伏せたままグラスを傾けた。
「私は……亮さんが、昼間どんな人かより、夜に見せてくれる顔のほうが、好き」
亮は驚いたように目を見開き、それから照れたように笑った。
「では、僕はずっと終電を逃し続けないと」
「ふたりして、終電に乗れない恋人たち」
その響きに、ふたりの笑いが静かに重なった。
* * *
その翌週、灯から一通のメッセージが届いた。
《明日、また逃してもいい?》
亮は短く返した。
《ぜひ》
その夜、ふたりは肩を並べて歩いた。タクシーの通らない裏通り。誰も急いでいない時間。雨が降りそうな空。
「この世界、好き」
灯が言った。
「昼の喧騒が嘘みたいで。誰も他人の肩書きで人を見ない。そういう夜のほうが、人を信じられる気がします」
「灯さんは、昼間の自分より、夜の自分が好きですか」
「うん。昼間より弱いし、よく泣くし、口下手だけれど……でも、夜の自分のほうが、ちゃんと好きって言える気がします」
亮はその言葉を、深く静かに噛みしめるように聞いていた。
「僕も。でも、夜の灯さんのほうが、真っ直ぐで、優しくて、少し毒舌で……好き」
ふたりは、少し照れて黙った。そしてまた、静かな朝が来ようとしていた。
「亮さん」
「はい」
「一緒に、終電を逃してくれてありがとうございます」
亮は一歩踏み出して、灯の手を取った。
「毎回、逃すつもりでいます……だって、あなたと会えるのですから」
夜明けの空は、薄いブルーに染まり始めていた。
ふたりの影がゆっくりと伸びていく。
街が動き出す前の、ほんのわずかな時間。
誰の目も届かないその静けさのなかで、ふたりはただ、手を繋いで歩いていた。
終電を逃した世界。
そこは、喧騒の外側にある、本当の自分たちが棲む場所。
これからも、何度だって、ここで会う。
そんな約束を、ふたりは互いの手の温もりで交わしていた。



