生まれたのは昭和44年の真冬だった。 その頃はまだ蒸気機関車が走っていた。
昭和50年に新幹線がやってきて小学校入学のお祝いに乗せてもらった。
でもぼくが入学したのは盲学校だった。 今でいう視覚支援学校だ。
ぼくが生まれた時、医者も母さんも驚いた。
先天性白内障で両眼は潰れていたし口唇口蓋裂に難聴と障害のオンパレードだった。
そのおまけに予定日から2か月も遅れた上に臍の緒を首に巻き付けていて体は真っ黒だったという。
あまりに衝撃的過ぎるからまだ17歳だった母さんは写真を焼き捨ててしまった。
6年生の時、口蓋裂の手術で大学病院に入院した時、同じような口唇裂の赤ちゃんを見掛けたけど、(ぼくもこうだったのかな?)って思った。
その子のお母さんはぼくに「この子 可愛いでしょ?」って聞いてきた。 けどぼくは何も返せなかった。
17歳でぼくを身籠った母さんは親戚中から馬鹿にされ続けていた。
「何処の馬の骨とも分からんような男の子供なんか産むんじゃねえ!」 それはそれはひどかったらしい。
けれど母さんは意を決してぼくを産んでくれた。
予想をはるかに超える驚きの姿でぼくは生まれてきたけれど、母さんは死ぬまで文句も愚痴も言わなかった。
心配だっただろうし産んだことも後悔しただろうし辛かったと思う。 それでもぼくには何も言わなかった。
白内障は手術を受けたから右目は視力を回復したけど、幼稚園時代は虐めがすごくて、、、。
担任とも話してたみたいだけど1年で辞めてしまった。
その後は独りぼっちで雨の日も雪の日も留守番してたんだ。 友達は本だけだった。
盲学校には行って中学生になった。 そしたら「お前は素行が悪い。」とかで先輩から半殺しのリンチを受けて失明してしまった。
これまで読んできた物が、見てきた物が一瞬で全て無くなってしまった。
小学生時代も虐めのオンパレードだった。 クラスメートは完全無視していたし、教科書や弁当は隠されるし、、、。
家からじゃ通学できなかったから障碍者施設に預けられていたんだけど寝小便対策が殴る蹴るの集団リンチへと変わってしまった。
体中が痣だらけになった。 母さんはそれを見て唖然としてしまったけれど学校にすら何も言えずにいた。
それだけならまだいい。 ぼくは寝ている間に先輩の玩具にされていた。
パジャマも下着も全部脱がされて弄ばれるだけ弄ばれたんだ。 40年間、誰にも言えなかった。
高校を卒業してマッサージ鍼灸の勉強をしていた時も虐めは続いていた。
クラスメートはほとんどが都会組。 ぼくは田舎だから相手にはされてなかった。
実習が始まると毎週の洗濯当番はぼくだった。 他の人たちが任されたことは無い。
でもぼくは何も言わずにやってきた。 他の連中は何とも思っていなかったから。
施術を任された患者さんをいきなり横取りされたり施術中に割り込んできて勝手に施術されたり、それはそれはひどかった。
そんな1989年に持ち上がったのが高校入試闘争だった。
後輩の中学3年生が「点字で一般校を受験したい。」って申し出たのが最初だった。
校長は最初「あなたにも当然の権利が有りますから県教委に陳情しておきます。」と答えたが二学期にはそれをひっくり返して弾圧し始めた。
先生たちは賛成派と反対派に別れてものすごい口論を始めてしまった。
その中で担任は曖昧な態度を取り続けていた。
闘争が行き詰ってぼくらに声が掛けられたのは12月だった。 最初から絡んでいたら流れは変えられたかもしれない。
三学期は署名だ抗議だって動きが激しくなる一方、教頭が中学生たちを脅していることが明らかになった。
反対派の動きを見ていると中学生には厳しく言う割に高校生以上には何も言えないこともはっきりした。 つまりは卑怯者だったわけ。
後輩は法務省人権擁護委員会に人権救済を申し立てたが、それでも県教委の態度は変わらない。
盲学校出身の委員も居るのに何も変わらない。 抗議はヒートアップしてきた。
学校同士では受験の受け入れ態勢も整って県教委のゴーサインを待つだけになっていたが、試験当日まで交渉はまとまらなかった。
結局、後輩は活字の問題用紙を見て会場を去るしかなかったのだ。
その頃、ぼくの周りでは停学処分の噂が歩き回っていた。
中心になって高校生を引っ張っていたことを教頭が知って激怒したのだろう。 でもここでやってしまったら教頭が不利になるのに、、、。
その夜、高校生が「県教委に抗議文を出そう。」って言ってきた。
最初は気が進まなかったが「書くなら全て書くんだぞ。」 そう言って彼に任せたんだ。
翌日に発送された抗議文は思わぬ形で返ってきた。 校長と教頭のダブル転勤だった。
でもこれで収まるわけが無い。 2年後には推進派の先生たちがまとめて転勤させられた。
以来、不条理という不条理にあちらこちらでぶつかってきた。
もちろん今だって。
でもぼくにとっては母さんが文句の一つも言わずに居たことがたった一つの支えだと思う。
これからもたぶん不条理とは戦い続けるよ。 母さんの前で笑っていたいから。
昭和50年に新幹線がやってきて小学校入学のお祝いに乗せてもらった。
でもぼくが入学したのは盲学校だった。 今でいう視覚支援学校だ。
ぼくが生まれた時、医者も母さんも驚いた。
先天性白内障で両眼は潰れていたし口唇口蓋裂に難聴と障害のオンパレードだった。
そのおまけに予定日から2か月も遅れた上に臍の緒を首に巻き付けていて体は真っ黒だったという。
あまりに衝撃的過ぎるからまだ17歳だった母さんは写真を焼き捨ててしまった。
6年生の時、口蓋裂の手術で大学病院に入院した時、同じような口唇裂の赤ちゃんを見掛けたけど、(ぼくもこうだったのかな?)って思った。
その子のお母さんはぼくに「この子 可愛いでしょ?」って聞いてきた。 けどぼくは何も返せなかった。
17歳でぼくを身籠った母さんは親戚中から馬鹿にされ続けていた。
「何処の馬の骨とも分からんような男の子供なんか産むんじゃねえ!」 それはそれはひどかったらしい。
けれど母さんは意を決してぼくを産んでくれた。
予想をはるかに超える驚きの姿でぼくは生まれてきたけれど、母さんは死ぬまで文句も愚痴も言わなかった。
心配だっただろうし産んだことも後悔しただろうし辛かったと思う。 それでもぼくには何も言わなかった。
白内障は手術を受けたから右目は視力を回復したけど、幼稚園時代は虐めがすごくて、、、。
担任とも話してたみたいだけど1年で辞めてしまった。
その後は独りぼっちで雨の日も雪の日も留守番してたんだ。 友達は本だけだった。
盲学校には行って中学生になった。 そしたら「お前は素行が悪い。」とかで先輩から半殺しのリンチを受けて失明してしまった。
これまで読んできた物が、見てきた物が一瞬で全て無くなってしまった。
小学生時代も虐めのオンパレードだった。 クラスメートは完全無視していたし、教科書や弁当は隠されるし、、、。
家からじゃ通学できなかったから障碍者施設に預けられていたんだけど寝小便対策が殴る蹴るの集団リンチへと変わってしまった。
体中が痣だらけになった。 母さんはそれを見て唖然としてしまったけれど学校にすら何も言えずにいた。
それだけならまだいい。 ぼくは寝ている間に先輩の玩具にされていた。
パジャマも下着も全部脱がされて弄ばれるだけ弄ばれたんだ。 40年間、誰にも言えなかった。
高校を卒業してマッサージ鍼灸の勉強をしていた時も虐めは続いていた。
クラスメートはほとんどが都会組。 ぼくは田舎だから相手にはされてなかった。
実習が始まると毎週の洗濯当番はぼくだった。 他の人たちが任されたことは無い。
でもぼくは何も言わずにやってきた。 他の連中は何とも思っていなかったから。
施術を任された患者さんをいきなり横取りされたり施術中に割り込んできて勝手に施術されたり、それはそれはひどかった。
そんな1989年に持ち上がったのが高校入試闘争だった。
後輩の中学3年生が「点字で一般校を受験したい。」って申し出たのが最初だった。
校長は最初「あなたにも当然の権利が有りますから県教委に陳情しておきます。」と答えたが二学期にはそれをひっくり返して弾圧し始めた。
先生たちは賛成派と反対派に別れてものすごい口論を始めてしまった。
その中で担任は曖昧な態度を取り続けていた。
闘争が行き詰ってぼくらに声が掛けられたのは12月だった。 最初から絡んでいたら流れは変えられたかもしれない。
三学期は署名だ抗議だって動きが激しくなる一方、教頭が中学生たちを脅していることが明らかになった。
反対派の動きを見ていると中学生には厳しく言う割に高校生以上には何も言えないこともはっきりした。 つまりは卑怯者だったわけ。
後輩は法務省人権擁護委員会に人権救済を申し立てたが、それでも県教委の態度は変わらない。
盲学校出身の委員も居るのに何も変わらない。 抗議はヒートアップしてきた。
学校同士では受験の受け入れ態勢も整って県教委のゴーサインを待つだけになっていたが、試験当日まで交渉はまとまらなかった。
結局、後輩は活字の問題用紙を見て会場を去るしかなかったのだ。
その頃、ぼくの周りでは停学処分の噂が歩き回っていた。
中心になって高校生を引っ張っていたことを教頭が知って激怒したのだろう。 でもここでやってしまったら教頭が不利になるのに、、、。
その夜、高校生が「県教委に抗議文を出そう。」って言ってきた。
最初は気が進まなかったが「書くなら全て書くんだぞ。」 そう言って彼に任せたんだ。
翌日に発送された抗議文は思わぬ形で返ってきた。 校長と教頭のダブル転勤だった。
でもこれで収まるわけが無い。 2年後には推進派の先生たちがまとめて転勤させられた。
以来、不条理という不条理にあちらこちらでぶつかってきた。
もちろん今だって。
でもぼくにとっては母さんが文句の一つも言わずに居たことがたった一つの支えだと思う。
これからもたぶん不条理とは戦い続けるよ。 母さんの前で笑っていたいから。



