推しが壁から出てきたので共に暮らします!



「直人! お前どこ行ってたんだよ、一ヶ月も!」

夢乃と別れたあと、出会ったときと同じ強い光に誘われて進んだら。
気がつけば俺は、青葉高校の寮へ続く道に立っていた。

そのまま寮に帰ると、泣きじゃくった顔の中西やチームメイトたちに囲まれた。
どうやらこちらの世界では、俺は一ヶ月間も「失踪扱い」になっていたらしい。

「――キャラブック四十二ページ目。中西一生、好きなタイプは清楚な女の子」

みんなの顔を見た瞬間、夢乃の世界で頭に叩き込んだ情報が、そのまま口をついて出てしまった。

「はあ!? お前、こんなときに何言ってんだよ!」

泣きながら困惑の表情を浮かべる中西の横で、目を潤ませて俺の手を掴んでいるのが、セカンドの瞬。
その奥で、仁王立ちして怒気を放っているのは、もちろんキャプテンの大将だ。

「どれだけ心配かけたと思っている! 事情によっては練習メニュー五倍だからな!」

大将の怒鳴り声の裏に、明らかな安堵の色が浮かんでいるのが分かって、急に目頭が熱くなる。
これ以上、みんなの前で泣くわけにはいかない。
俺はあわてて、大将に向かってにやりと意地悪く微笑んでみせた。

「キャラブック四十八ページ目、中条大将。内緒にしていること――未だに母親のことを『ママ』と呼んでいる」

「なっ……っ!?」

「おい高瀬、さっきからそのキャラブックって何なんだよ! 頭でも打ったのか!?」
「でも、当たってんだろ?」

心配そうに覗き込んでくる中西に言うと、中西はうっと詰まって顔を真っ赤にした。
話題を振られた大将は、わなわなと震えながら顔をゆでダコみたいに真っ赤にしている。
このままだと本当に殴られそうだ。俺は笑いをこらえて俯いた。

「馬鹿野郎! 明日から練習メニュー十倍だ!!」
「すみませんでした!」

いつもの日常の感覚に、張り詰めていた心がすっと緩んでいく。
だけど、一ヶ月も部を空けていたのは事実だ。後輩たちに副キャプテンとしての規律を見せるためにも、俺はあえて、背筋を伸ばして大声で返事をした。



そこからは、今まで通りの当たり前で、過酷な日常が戻ってきた。
十倍になった練習メニューは、なまっていた身体に猛烈な筋肉痛を容赦なく与えてくる。

夢乃と過ごしたあの愛しい日々が、まるで幻覚だったんじゃないかって思うほど。
必死に野球をして、授業中は睡魔と戦って、また野球をする。
一ヶ月のブランクのせいで腕は鈍っていたから、感覚を取り戻すために、とにかくがむしゃらに野球漬けの毎日を送った。

(二ヶ月で完璧にカンを取り戻せたのは、さすが俺だけどな)

地区大会の決勝戦では、起死回生のホームランを放った。
夢乃が言っていた『俺が一番』のポーズをきめて、ベースを全力で駆け回る。意味もなく全力疾走しすぎて、監督に思いっきり怒られちった。

そして、今――。

俺は、甲子園のグラウンドに立っている。
誰よりも長い夏にするために。溶けてしまいそうな熱い日差しを、誰よりも長く感じるために。
あのとき、夢乃と一緒にテレビで見た、本物の甲子園球場。

九回裏、十対八。ツーアウト満塁。
一打逆転サヨナラの、最大のチャンス。

バッターボックスで、俺は震える両手を強く包み込んでから、バットを握り直した。
『みんなの背中を押す、大事な手なんだよ』って、泣きながら俺の手を胸元で抱きしめてくれた、夢乃の温もりを思い出す。

(俺が打てなきゃ、チームは負ける。
――じゃねえ。俺が打ったら、チームは勝つ!)

今、夢乃が祈ってくれている気がした。
きっと、息をするのも忘れて、画面をじっと見つめているんだろうな。

ピッチャーが何度も首を振る。ようやく、勝負の球種が決まったようだ。

(どんな球が来たって、これっぽっちも怖くねえ!)

見とけよ、夢乃。
俺は、野球で返すことしかできねえから。
この最高の一瞬を、お前のその目で、ちゃんと見ていてくれよ。

そして――俺の大好きな笑顔で、笑ってくれ。

カァァァン!!!

バットの芯が、完璧に球を捉えた。
鼓膜を突き破るような快音が響く。
俺は全速力で一塁へ走りながら、白球の行く末をじっと見つめた。
吸い込まれるように伸びていったボールが、バックスクリーン――フェンスを、大きく超えた。

地鳴りのような、地面がひび割れるほどの歓声がわっと沸き起こる。

「っっっしゃあああ!!!」

ホームベースを踏んだ瞬間、ベンチからなだれ込んできたチームメイトたちに、ぐっしゃぐしゃに抱き締められた。
中西はもう、顔をぐずぐずにさせて泣いている。

「直人、ありがとう、ありがとう……っ! 俺ら、日本一だ!」
「ばっか。こちらこそ、ありがとな」

一塁側の客席をこっそり見やる。
足を痛めているのも忘れて立ち上がり、鼻水を口まで垂らして号泣しているじっちゃんの姿があった。

「直人ーーー! お前は、日本一のショートだあぁぁーーー!!」

小さい身体をめいっぱい反らして、じっちゃんが叫んでいる。

『ショートは守備の花形だ! つまりすべてにおいて長けとるヤツがショートをやるんじゃ!』
『高瀬直人! 日本一速いショートになる男です!』

「……じっちゃん、それはずるいって」

さすがに涙をこらえることはできなかった。
涙と一緒に鼻水まで出てきて、きっとものすごい顔になっていたと思う。
だけど、夢乃が大好きだと言ってくれた笑顔で、俺は最高に笑えていたはずだ。

(今回ばかりは、俺が一番じゃなくて、みんなで掴んだ一番だからな)

胸が熱くなって、俺はいつも掲げる利き手とは逆の左手を、拳にして高く空に突き上げた。
左手首につけられた、青色の紐が、夏の光の中で誇らしげに揺れていた。



監督の胴上げが終わり、閉会式も終わったあとの甲子園は、驚くほど静かだった。

「おい直人、監督が早くバスに乗れってよ」
「ん、分かった」

空を見上げる。雲一つない、どこまでも突き抜けるような快晴だった。
俺は、左手をなるべく高く、天に向かって伸ばした。
チームメイトに『何それ、お前らしくねーじゃん!』って何度もからかわれた、お花柄のミサンガ。

静かなグラウンドに、小声で、自分の曲を歌う。

「直人、それ誰の曲だよ?」
「んー? 俺の」
「はあ?」

中西が不思議そうに眉をひそめる。

――きっと君が見てるから きっと君も頑張っているから
聞こえるかなどうか 君に届きますように――

今頃あいつ、画面の前で鼻水垂らしながら大号泣してんだろうな。
想像したら、愛おしくて自然と笑いがこぼれた。

(もう姿は見えないし、声も聞こえないけれど。
夢乃が、日本一になった俺を見て、笑っていますように。

最初で最後の――俺の、大好きな人へ)



月日はあっという間に過ぎて、季節は秋になった。
あいつが「一番好き」だと言っていた、少し肌寒い季節。

夏が大好きな俺としては、秋になるとどうしてもテンションが下がっちまうんだけど。
だけど、今年の秋を、俺が楽しみにしていなかったと言ったら嘘になる。
野球部を引退したら、絶対にしようと心に決めていたこと。

制服のズボンのポケットから、クリアケースで汚れないように大切に保護した写真を取り出す。
夢乃がこちらを向いて、照れたように優しく笑っている、あの日撮ったチェキのカット。

(夢乃、今頃どうしてっかな。仕事、頑張りすぎて疲れてねえかな)

写真を愛おしく見つめてから、隣を歩く親友の肩をぽんと叩いた。

「中西ー」
「ん? 何?」
「近いうちに俺、しばらく旅に出るかもだけど。心配すんなって、みんなに言っておいて」
「はあ!? お前、またどっか行くのかよ!?」
「分かんねえけどさ。……どうしても、会いてえ人がいるんだ」

空を見上げる。月は、もうすぐ完全な円になろうとしていた。
満月まで、あと二日。


拝んでいたら推しが壁から出てきたので共に暮らします 【完】