推しが壁から出てきたので共に暮らします!

目を覚ますと、額にひんやりとしたハンドタオルが乗せられていた。

「ああそれ、濡らすのにキッチン借りました。すんません」

あぐらをかきながら、私が差し出した『闘魂』の二巻を読み進めている高瀬くん。

「本当にすみません……」
「まあ、なんともなくてよかったです」

知らない女性と接する程度の声色に、少しだけ優しさを滲ませて高瀬くんが言う。
彼は「何とかなるだろ」が座右の銘なだけあって、このトンデモな状況も意外に受け入れているようだった。

「うわー、俺かっけえ。なんか不思議だなあ」

(うわあ、キャラブックの通りだ……!)

「しかしどうすっかなあ。ええと、お姉さん? この辺りで未成年が泊まれるところ、あります?」

原作では口が悪い高瀬くんが、丁寧語に変えて尋ねる。
自分の名前と、敬語のイメージがないからタメ口でいいことを伝えると、思案する様子なくオーケーされた。

元の世界に帰れるまで、行くあてのない彼を私の家に泊めることになった。
ソファで寝るという高瀬くんを断固拒否して、私のベッドを使わせる。

(高瀬くんが、家に、住む? 一緒に?)

信じられなくて、自分の頬を勢いよく引っぱたいた。
ぱぁん! といい音が響いて、高瀬くんが切れ長の目を見開いた。

「ちょっ、大丈夫!?」
「あの、本当に? これ、死後の世界とかじゃないですよね……」
「いやいや。お姉さん……松崎さん、Mなの? 痛いからやめろって」

美しい顔を一切崩さぬまま手を掴まれて、私はその場に鼻血を吹いた。

「で、俺のファン? なの?」
「はい……とても……」

ティッシュを鼻に詰めた私に、高瀬くんが呆れた顔をする。

「じゃ、野球好きなんだ」
「す、好きになりました。この作品見るまで詳しくなくて」
「へえ! じゃ、俺がきっかけかあ」

嬉しそうに笑う高瀬くん。原作通りの、形のいい目を無くすほどの満面の笑み。

「ちなみに、元々は野球どれくらい知ってた?」
「えと、ホームランは全て、四点入ると思っていました」
「嘘だろ!?」

そんなことある!? とゲラゲラと笑う高瀬くん。
チームメイトと下らない話をしている時の顔だ。ときめきが止まらない。

だけど、私の感激をよそに、高瀬くんがぽつりと言った。
「練習してえなあ」

その一言で、私は我に返った。
高瀬くんは今、十七歳。高校三年生になったばかり。
『闘魂』のタイムラインでは、十七歳の夏に彼は大会に出場するはずだ。

西東京大会の開幕は、七月初め。
今は三月の末だ。

あと三ヶ月で、何としてでも彼を元の世界に戻さなくては、彼の最後の夏が始まってしまう。

(この人を、絶対に元の世界に帰さなきゃ……!)

その夜、ベッドですやすやと寝息をたてる高瀬くんの気配を感じながら、私はソファでのたうち回った。
推しと同じ空気を吸っているなんて、あり得ない。

感情の大爆発を起こしながら、私は高瀬くんの顔がプリントされたクッションを抱き締めるのだった。