推しが壁から出てきたので共に暮らします!

 二人で『闘魂』以外の野球アニメを見ていたら、あっという間に深夜三時で。それでも明日のこの時間には彼はもう居ないのだ、と思うと眠気は出なかった。

「すっげぇなー、俺からしたらこのMAJORの茂野吾郎が壁から出てきたみたいなもんだろ?」
「そうだね。推しだからそれ以上かも」
「そりゃあ尻もちもつくし、魚みたいに口パクパクさせるか」
 
 腹パンはしねえけどな、と笑いながら続ける高瀬くんに、夢乃は顔をしかめる。
 
「もう、やめてよ。いつまで覚えてるの」
「いつまでも」
「……え?」
「向こうに帰っても、覚えてるよ。大切な人との出会いだから」

 夢乃が何かを言うことはなかった。高瀬くんによって抱きしめられたから。
 自分より肩幅が広くて、細身なのに鍛えられた身体は硬くて温かい。女性にしては身長の高い夢乃も、すっぽりと包まれる。夢乃は自分が異世界にいるような感覚に陥った。

 このまま時が止まればいいな、と思ったときに、高瀬くんから声をかけられる。

「色々あったな」
「うん、そうだね」
「濃かったし、楽しかった」
「私も。鼻血吹かなくなったしね」
「そうだな」

 高瀬くんが笑ったのが声で分かった。夢乃もつられてくすりと笑みを零す。

「短い間だったけど、本当にありがとう。辿り着いた先が松崎さんのところで、本当によかった」
「そう言ってもらえて嬉しいよ。こちらこそ、ありがとう」

 ああ、ダメだな。大人になると涙腺が弱くなる。
今日と明日だけは、絶対に泣いてはいけない、と夢乃は心に決めていた。
 
(高瀬くんが褒めてくれた笑顔でさよならするんだ)

 高瀬くんが抱きしめていた腕を解く。名残惜しそうな表情に夢乃の目が涙で潤んだ。しかしそれをぐっと押し込めて、高瀬くんの背中を叩く。

「絶対優勝してね! 私の神様」
「任せろ」

 そうして二人は朝までアニメを見倒したのだった――。


 ◇

 眠気と戦いながら仕事から帰ってきて、いつも通りの夜を過ごしたあと、高瀬くんは制服に身を包んだ。夢乃も高瀬くんが来たときと同じ、上下別のパジャマを着る。二人の間に緊張が走った。

「高瀬くん、今までありがとう」
「こちらこそ、ありがとう。この恩は一生忘れねえ」
「一生……」

(記憶が消えちゃうかも、なんて言えないなあ)

 夢乃は無理に笑顔を作って頷く。

「絶対、甲子園で優勝してね」
「おう、ちゃんと見とけよ」
「うん、それじゃあ」

 いよいよ、複製原画に向かって夢乃は拝む姿勢をとった。

(高瀬くんを元の世界に帰してください……!)


夢乃は必死に願う。二人して正座の態勢を取り、夢乃は合わせた両手に力を込め、高瀬くんは膝の上に拳を作っていた。二人の間に緊張が走る。

だが、何も起きない。何度も試したが壁は少しも光らなかった。

「た、高瀬くん……」
「ああ」

 あれから小一時間が経過している。ということは。
 二人して痺れた足を一斉に投げ出した。

「失敗、した……?」
「マジで……?」
「はぁ……っ!」
「なんだよー、緊張して損した」

 高瀬くんが片膝だけ抱えて深く息を吐く。

「向こうが満月じゃなかったのかな……それとも月は関係ない?」
「いや、月が無関係とは思えねえ。他にも原因があるのかも。こっちに来た日のこと、お互い詳しく伝え合おうぜ」

 そんな高瀬くんの提案で、二人はあの日のことを詳しく語り合った。

 夢乃の場合。
仕事でトラブルがあってひどく疲れていたこと。
一度でいいから会いたいと願ったこと。

 高瀬くんの場合。
センバツに出られなかった悔しさからオーバーワークをしてしまっていたこと。
そんな日の帰り道、家の前の交差点が眩しいほど光っていて、何かと思って近づいたら身体がちぎれるような感覚がしたこと。
 その後、夢乃が目の前にいたこと。

「ってことはもしかして、私が仕事で落ち込んだり、疲れたりすることが条件……?」

 しかもあの日はしょげる程度のモノではなかった。大して飲めもしないのに、ヤケ酒しようかと思ったほどだ。

「そんな状態の松崎さん残して帰れるかよ……」

 高瀬くんが眉をひそめる。

「でも、私が安易に会いたいなんて願っちゃったから。試してみる価値はあると思う」

 満月の周期はだいたい平均二十九日半。ということは、

「あと一ヶ月間、よろしく」

 高瀬くんが少し恥ずかしそうに手を出した。
最後のお別れだと思っていた分、昨夜言ったことの恥ずかしさが急に舞い上がってくる。
けれど、純粋に嬉しかった。高瀬くんもガッカリしているようには見えなかった。

「うん、よろしくね」

 泣いても笑っても、最後の一ヶ月間。今度こそ失敗は許されない。夢乃と高瀬くんは固く握手した。