高瀬くんが私の過去を受け止めて、救ってくれたあの夜から、一ヶ月。
季節は五月の下旬を迎えていた。
仕事でミスをしてからというもの、高瀬くんは毎日のように職場まで迎えに来てくれるようになった。
そこから二人でいつもの公園に行って、彼の素振りを見守る。それが、私たちの新しいルーティン。
高瀬くんは私の睡眠不足を気遣って、夜更かしを辞めて早めに練習を切り上げてくれるようになった。
「ごめんね……夏大も近いのに、満足に練習できなくて」
申し訳なさそうに言う彼に、私はいつも笑って首を振る。
バットを肩に担いだ高瀬くんと、並んで歩く夜道。
まるで夜の散歩みたいで、公園から家までのたった十分間のおしゃべりが、仕事でトゲトゲした私の心を優しく溶かしていく。
「あー、喉乾いた。なんか冷たいもん飲みてぇ」
「じゃあ、そこの自販機で買っていこうか」
高瀬くんが飲みたいと言った炭酸ドリンクを私が買っているとき。
ふと、隣にいた高瀬くんが、空を見上げて「うぉっ」と小さな歓声を出した。
「どうしたの?」
都会の夜空だ。星なんて数えるほどしか見えないはずなのに。
不思議に思って私も上を見上げた、その瞬間――心臓がドクリ、と嫌な音を立てた。
「すげぇ。もうすぐ満月だな。月がめちゃくちゃ綺麗」
「……ほんと、だね。吸い込まれそう」
「そういや、俺がこの世界に来た日も、こんな満月だったっけなあ」
何気ない、高瀬くんのつぶやき。
だけどその言葉が、私の頭の中でフラッシュバックのように繋がっていく。
(あの日……私が疲れ果てて、会いたいって願ったあの日も……)
記憶を必死に手繰り寄せる。へとへとになってコンビニの袋を下げて歩いたあの夜、確かに私の頭上には、気味悪いくらいに丸くて大きな月が浮かんでいた。
(もしかして……互いの世界が『満月』になる日。それが、次元の扉が開く条件……!?)
そうだとしたら、もう、時間がない。
空に浮かぶ月は、すでに丸みを帯びて輝いている。明日、明後日には、完全な円になってしまう。
(高瀬くんに、言わなきゃ。帰る方法が、分かったかもしれないって)
「あのね、高瀬くん」
「ん?」
くるりと私を振り返った高瀬くんの、綺麗な金色の瞳。
ただ、その事実を伝えるだけなのに。
どうしても、言葉が喉の奥につっかえて出てこない。
胸がバクバクと激しく脈打って、冷や汗が背中を伝う。
(嫌だ。……言いたくない)
(だって、これを言ったら、高瀬くんはいなくなっちゃう)
その恐怖に気づいた瞬間、息の仕方が分からなくなった。ヒュッ、と喉から短い音が漏れる。
「……夢乃? どうした? 顔色悪いぞ」
飲み終わったペットボトルの蓋を閉めながら、高瀬くんが覗き込んでくる。
心配そうにブレザーの袖を引いてくれるその優しさが、今はたまらなく苦しい。
私は結局、「なんでもないの」と無理やり作り笑いを浮かべて、首を横に振ることしかできなかった。
◇
その日の夜。
高瀬くんが寝静まったあと、私はソファの上でクッションを抱きしめたまま、一睡もできずにいた。
初めて出会った日のこと。鼻血を出して倒れた私を、呆れながらも介抱してくれたこと。
一緒に暮らす中で見せてくれた、普通の男子高校生らしい、ちょっと子供っぽくて可愛い素顔。
じっちゃんやチームメイトを思って、雨の中で流した焦燥の涙。
そして、私の手を握って「一緒に寝て」と求めてくれた、あの熱い夜。
いつの間にか、彼が隣にいる毎日が、私にとって当たり前になっていた。
だけど。
『好きなもので、一番になりてえ。そのためなら、何だってできる』
いつだって私の心を一番強く揺さぶったのは、高瀬くんの野球に対する、どこまでも真っ直ぐで純粋な情熱だ。
(高瀬くんの夢を叶えたい。もう二度と会えなくなったとしても。……私の存在が、彼の記憶から消えてしまったとしても)
ギュッとクッションを握りしめる。
伝える言葉は、もう決まっていた。
季節は五月の下旬を迎えていた。
仕事でミスをしてからというもの、高瀬くんは毎日のように職場まで迎えに来てくれるようになった。
そこから二人でいつもの公園に行って、彼の素振りを見守る。それが、私たちの新しいルーティン。
高瀬くんは私の睡眠不足を気遣って、夜更かしを辞めて早めに練習を切り上げてくれるようになった。
「ごめんね……夏大も近いのに、満足に練習できなくて」
申し訳なさそうに言う彼に、私はいつも笑って首を振る。
バットを肩に担いだ高瀬くんと、並んで歩く夜道。
まるで夜の散歩みたいで、公園から家までのたった十分間のおしゃべりが、仕事でトゲトゲした私の心を優しく溶かしていく。
「あー、喉乾いた。なんか冷たいもん飲みてぇ」
「じゃあ、そこの自販機で買っていこうか」
高瀬くんが飲みたいと言った炭酸ドリンクを私が買っているとき。
ふと、隣にいた高瀬くんが、空を見上げて「うぉっ」と小さな歓声を出した。
「どうしたの?」
都会の夜空だ。星なんて数えるほどしか見えないはずなのに。
不思議に思って私も上を見上げた、その瞬間――心臓がドクリ、と嫌な音を立てた。
「すげぇ。もうすぐ満月だな。月がめちゃくちゃ綺麗」
「……ほんと、だね。吸い込まれそう」
「そういや、俺がこの世界に来た日も、こんな満月だったっけなあ」
何気ない、高瀬くんのつぶやき。
だけどその言葉が、私の頭の中でフラッシュバックのように繋がっていく。
(あの日……私が疲れ果てて、会いたいって願ったあの日も……)
記憶を必死に手繰り寄せる。へとへとになってコンビニの袋を下げて歩いたあの夜、確かに私の頭上には、気味悪いくらいに丸くて大きな月が浮かんでいた。
(もしかして……互いの世界が『満月』になる日。それが、次元の扉が開く条件……!?)
そうだとしたら、もう、時間がない。
空に浮かぶ月は、すでに丸みを帯びて輝いている。明日、明後日には、完全な円になってしまう。
(高瀬くんに、言わなきゃ。帰る方法が、分かったかもしれないって)
「あのね、高瀬くん」
「ん?」
くるりと私を振り返った高瀬くんの、綺麗な金色の瞳。
ただ、その事実を伝えるだけなのに。
どうしても、言葉が喉の奥につっかえて出てこない。
胸がバクバクと激しく脈打って、冷や汗が背中を伝う。
(嫌だ。……言いたくない)
(だって、これを言ったら、高瀬くんはいなくなっちゃう)
その恐怖に気づいた瞬間、息の仕方が分からなくなった。ヒュッ、と喉から短い音が漏れる。
「……夢乃? どうした? 顔色悪いぞ」
飲み終わったペットボトルの蓋を閉めながら、高瀬くんが覗き込んでくる。
心配そうにブレザーの袖を引いてくれるその優しさが、今はたまらなく苦しい。
私は結局、「なんでもないの」と無理やり作り笑いを浮かべて、首を横に振ることしかできなかった。
◇
その日の夜。
高瀬くんが寝静まったあと、私はソファの上でクッションを抱きしめたまま、一睡もできずにいた。
初めて出会った日のこと。鼻血を出して倒れた私を、呆れながらも介抱してくれたこと。
一緒に暮らす中で見せてくれた、普通の男子高校生らしい、ちょっと子供っぽくて可愛い素顔。
じっちゃんやチームメイトを思って、雨の中で流した焦燥の涙。
そして、私の手を握って「一緒に寝て」と求めてくれた、あの熱い夜。
いつの間にか、彼が隣にいる毎日が、私にとって当たり前になっていた。
だけど。
『好きなもので、一番になりてえ。そのためなら、何だってできる』
いつだって私の心を一番強く揺さぶったのは、高瀬くんの野球に対する、どこまでも真っ直ぐで純粋な情熱だ。
(高瀬くんの夢を叶えたい。もう二度と会えなくなったとしても。……私の存在が、彼の記憶から消えてしまったとしても)
ギュッとクッションを握りしめる。
伝える言葉は、もう決まっていた。
