推しが壁から出てきたので共に暮らします!

「今日もお疲れ様でした」

壁に向かって、一人で頭を下げる。
これが、私の日課。

松崎夢乃(まつざきゆめの)、二十五歳。
名前とはうらはらに、「なんとか生きる」がモットーのリアリストだ。

「松崎さんって、彼氏いないの?」

職場でよくあるそんな質問には、
「いません」
とにっこり愛想笑いを返す。

現実主義者の私は、仕事をして、家賃が払えて、一人で生活ができる、平凡なOLだ。
普通と平均を『意識して』愛している、という方が正しいかもしれない。

そんな私が、唯一夢を見ているのは。

「高瀬(たかせ)くん、ただいま」

壁に掛けられた、二十センチほどの少年マンガの複製原画。
そこに描かれた男の子だけだ。

「ああ、高瀬くん……今日もカッコイイ……」

野球漫画『闘魂(とうこん)』のキャラクター、高瀬直人(たかせなおと)。
彼に向かって手を合わせるのが、普通を好む私の変わった日課だった。

通称・高瀬くんは、私が崇拝しているといっていいほど大好きな漫画のキャラクター。
付き合いたいなんて畏れ多い。私にとって、彼は完全に「神様」の立ち位置にいた。

だけどその日は、仕事でほとほとに疲れ果てていた。
理不尽な上司に「これだから独身の女性は気が利かない」などと言われ、メンタルはボロボロ。

たいして飲めもしないのにヤケ酒をする予定を立てたほどだ。
そんな夜だから、ついうっかり、こぼしてしまった。

「……一度でいいから、会いたいなあ」

その瞬間。
壁が、強く光った。

(え、何……っ!?)

ライトの故障なんかじゃない。
目がチカチカするほどの光の中、壁がぐにゃりと歪んでいく。

あまりの衝撃に、私は床に尻もちをついた。
痛さなんて感じなかった。だって、そこにいたのは――。

「た、た、た、」

(高瀬くん……っ!?)

二次元にしか存在しないはずの、高校球児なのに長い焦げ茶色の髪。
目元だけが開いた、鼻先までの不思議な前髪。
ハーフのような金色の瞳を不安そうに揺らして、高瀬くんが言った。

「誰? ってかここどこ、ですか?」

(圧倒的顔面美! 顔面最強すぎでは?!)
(初対面では敬語! 解釈ド一致!)

頭の中がパニックで埋め尽くされていく。
机を拳で叩きたいほどの萌えに、私は頭を抱えた。

って、悶えている場合じゃない!
高瀬くんにいつか会うことができたら、可愛い花柄の洋服を着ると決めていたのに。
現実は、上下別のヨレヨレのパジャマである。

(夢なのに、なんで可愛い服装じゃないの……!)

先ほどとは別の意味で、私は頭を抱えた。
百面相を続ける私に、高瀬くんは困り顔から怪訝な表情へと変えた。

「お姉さん、大丈夫?」
「あ、あの……」

打ったお尻が猛烈に痛いのだが、夢に違いない。それか死んだかだ。

「大丈夫?」

訝しげに、けれど地の人の良さが隠しきれない心配の声。
腰を抜かしたままの私に、高瀬くんが手を差し伸べた。

(な、なんたる幸福……!)

この手を握るまで絶対に目を覚まさないぞ! と固く誓う一方で、
仕事を頑張ってよかったと感涙しながら、その手を取る。

その瞬間、手のひらにマメだらけの硬い感触がゴツゴツと刺さった。
痛い。……リアルに、痛い。

「ええええええええええええ!!」

(なんで感覚があるの?)

高瀬くんの手のひらが刺さって痛い。
上から下まで見渡すが、彼は透けてなどいないし、
お腹辺りをグーで押してみると通り抜けもしなかった。

「え? なんで俺殴られてんの?!」

綺麗な上がり眉を下げて困惑する高瀬くん。

「えっと……高瀬直人くん、ですよね?」
「俺の事知ってるんですか?」
「青葉高校の、野球部の?」
「詳しいっすね」

目がなくなるほどのくしゃっとした笑顔で、高瀬くんが頭をかく。
原作で何度も見た顔だ。

周りを見渡せば、ここは現実で何度も見た自分の部屋。

(間違いない。これは、三次元。そして、本物)

自覚した瞬間、手を握ったままなことに気がついて、私はその場で気を失った。