恋なんてしちゃいけないと思ってた。
視界の端から世界が欠けていく。
そんな私が、誰かの未来に触れていいはずがない。
誰かに頼るたび、自分の弱さが露わになって、情けなさに押しつぶされそうになる。
一人で抱え込んで、強がって、傷つけて。
自分で壊した距離は、もう戻らないものだと諦めていた。
見えなくなるのは景色だけじゃなくて、
希望や自信までもどんどんどんどん薄れていく毎日だった。
それなのに——
あの日、差し出された手だけは、
にじんでいく世界の中で、鮮やかに輪郭を持って見えた。
触れた瞬間、
恋しちゃいけない理由なんて全部、簡単に崩れていってしまったんだ。
*
「……着いた」
雨降りの日の朝。
昇降口についた私は、端に寄って傘を折り畳んだ。
次々と入ってくる同じ制服を着た生徒たちの流れをぼんやりと見つめながら丁寧に雫を払って巻きつける。
例年より長い梅雨は7月も中旬になるのにどんよりとした曇り空を作り上げる。
雨が続くのは憂鬱だ。濡れるし、空が暗いと登校に時間がかかるし。
人の波が止まったタイミングで、私は玄関に入って傘立ての前に立った。
顔を動かしながら自分の傘が入る位置を探し、周りの傘に当たらないように差し込む。
うまく傘を入れることができ、ひと仕事終えた気分で、胸まである茶色の髪を耳にかけた。
「菜由〜。またぼーっとしてる」
後ろから聞き慣れた声がして振り返る。
視線の先には、あくびを噛み殺した後のようで、目を潤ませたひまりが立っていた。
高梨ひまりは、同じ小学校出身でもうずっと仲の良いお友達。
まだ少し寒いような気がするけれど、まくった袖から覗く細い腕は、健康的な小麦色に日焼けしている。
「ひまり。おはよう」
しっかりと振り返って「えへへ」とゆるく笑う。
そのゆるさにひまりは呆れたように笑って、乱雑に傘を突き刺し自分の靴箱へと進んだ。
私は追いかけるように後に続く。
そこへ賑やかな男子たちの声が聞こえ、背中合わせの靴箱が混雑した。
「ひまり、この天気、今日も筋トレ?」
「雨だしそうだと思うけど」
「えーーまじかよーー」
「きっちーー」
入ってきたのはサッカー部の団体で、5人ほどの男子がわちゃわちゃと会話を繰り広げる。
サッカー部のマネージャーをしているひまりは、ぴしゃりとその賑やかさを切り捨てた。
「筋トレくらい黙ってしなさいよ情けない!」
「うるせえ鬼!」
「はあ?今日のドリンクになんか混ぜてやろうかな!」
わははと豪快な笑い声が響き渡る中、その最後尾でおかしそうに笑っていた男の子に視線が引き寄せられる。
隣に並ばないうちにすごく背がのびたと思う。
少し見上げないと見えない顔に、ググッと首を伸ばした。
ふわふわとはねている日に焼けて茶色く光る髪が、一番最初に視界に入った。
目元にかかる前髪の隙間から、くっきりした二重の瞳がこちらに向く。
目があうと、それまでの楽しそうな口角が、何かを迷うように小さく揺れた。
「おはよう……泰史くん」
「おはよ」
泰史くんの目がほんの一瞬だけ揺れた気がした。
「泰史、置いてくぞ〜!」
「菜由も早く!」
既に上靴に履き替えた男子たちとひまりは廊下でこちらを見て笑っていた。
「ああ」
一度そちらに視線を送った泰史くんは、そのまま向かうと思いきや、背中合わせの靴箱から移動して、私の前に立った。
「え……」
戸惑っているうちに、泰史くんはしゃがんで何かを拾い、彼らの元へ走っていく。
「おい誰だよこれ!」
先を行った彼は、足元に落ちていたらしいパックジュースのごみを掲げていた。
「知らねーよ、俺らじゃねーし!」
「捨ててやれよ〜〜」
「嫌だよめんどくせえ」
先にいた男子生徒とイタズラをするようにそのゴミを押し付けあって楽しそうに去っていく。
私はその大勢の後ろ姿の中で、一際目立って見える泰史くんの背中をじっと見つめるようにひまりの隣を歩いた。
*
わいわいと手前の教室に入っていったサッカー部ご一行を見送り、私とひまりはその隣の教室へと入った。
後ろのドアから入ってすぐ。
一番近い列の後ろから2番目の席に腰をおろして、私はほっと息をついた。
ひまりは、前の席に勢いよく座り、かばんの片付けもそこそこにこちらを振り返る。
「一限から数学ってついてないよね〜」
「だね。ひまり寝ないように気をつけないとね」
そう言って笑うと、ひまりは「寝ませんよ」と私の頬をむにむにと引っ張った。
笑いながらかばんを開き、教科書を取り出す。
すると、教科書の間に紛れていたプリントがひらひらと落ちていくのが見えた。
……あ。
手探りをするように手を伸ばし、大きな動作で首からしっかりと床を見る。
そのプリントを私が見つけるよりも先に、誰かの手がすっと拾い上げた。
「はい、落ちてたよ」
手渡されたプリントと同時に、頭上からふんわりした柔らかい声がかかる。
プリントから辿るように視線をあげていくと、見慣れた柔らかな笑顔が待っていた。
「ふうか、ありがと」
「いいよ〜。今日もおっとりだね」
言いながら笑うふうかこそが、おっとりした性格をしていた。
海野ふうか。彼女もまた小学生の頃からの大切なお友達。
肩下まで伸ばしたセミロングの髪をゆる〜く怒られない程度に巻いた彼女は、その髪をふわりと揺らして首を傾けて笑う。
女の子から見ても可愛らしい仕草は、いつも私の心を癒してくれていた。
「あんたらふたりといると私が生き急いでるみたいなんだよね」
「ひまりはちょっとシャキシャキ動きすぎだよねえ」
笑い合うふたりに、私も明るい笑みを見せる。
二人は小学校からの親友で、宝物。
私のゆっくりな動きをすべて「個性」として受け止めてくれる、優しい優しい存在なのだ。
「やっべーギリ間に合った!!」
そんな声が聞こえたと思ったら、ぴゅーんと音を立てるように、後ろのドアからものすごい勢いで走ってきたクラスメイトが、私たちが集まる席の真横を駆け抜ける。
突然視界に現れた存在に、私はびくりと肩を揺らした。
「わっ!」
大袈裟なくらいにびっくりする私に、その男子も驚いたようで足を止めた。
「三浦ごめん!ビビらせた!」
「う、ううん。大丈夫」
小さな声で俯きながら言うと、その空気をカバーするようにひまりが口を出す。
「ほんと、坂田は落ち着きないな!」
「まじごめんって、ギリギリだったんだよ!」
「ふふ、教室は走っちゃダメだよ〜」
ふわふわと笑うふうかを最後に、坂田くんはひまりの前にある自席にリュックを置き、すぐに男友達と話し始めた。
「やべー。三浦びびらせちゃった」
「本当だよ。お前やってんな〜〜」
坂田くんたちの男の子の輪で、会話が広がっていく。
「申し訳ない。いやでも話せてラッキー」
「うわ〜、悪いな。でもちょっと羨ましい。可愛いもんな三浦さん」
「あんまり喋んないよな〜。てか話しかけても気まずそうじゃん?」
「そこが逆にレアでいいんだろ!」
ひそひそとしているつもりみたいだけど、近くの席の私たちには聞こえてしまい、私は小さく俯いた。
長い髪から覗く耳が熱くて、思わず両手で隠す。
「菜由〜?言われてるよ〜?」
その様子を見て、にんまりとしたひまりが揶揄う。
ぷにぷにと私のほっぺをつつくひまりに、私は頭を左右に大きく動かした。
「~~っ、からかってるだけだよ……!聞こえないふりして」
言いながらも顔までほんのり赤くなり、隠すように教科書を持ち上げる。
「いやいや〜。菜由の可愛さがわかるなんて、あいつら見る目あるよ」
「菜由ちゃん、人気者!」
「もう、ふたりまでからかわないで!」
ふるふると首を振り続けると、ふたりは顔を見合わせて揶揄うのを終わりにした。
「もっとみんなと話したら、男子たち驚くだろうね」
「わかる〜。菜由ちゃん小学校のときはもっとみんなと話してたもんね。私、中学校になるまで菜由ちゃんがこんなに人見知りだって知らなかったもん」
二人の言葉に、私はぎゅっと唇を結んだ。
表情がしっかり見えるように、顔を動かしてふたりの表情を真正面から順番に見つめると、優しくも困ったような笑顔が向けられる。
大好きで宝物のはずのふたりに、何も言えてない自分が申し訳なくなって、迷うように口を開いた。
「……小学校はみんな知り合いだったから」
それでも、少しの間を置いて出た言葉は、やっぱり、誤魔化しの言葉だった。
*
「菜由〜そろそろ行く〜?」
「ちょっと待って〜」
パステルカラーのキーホルダーが山ほどついたリュックを背負ってふうかが席へとやってきた。
その手には楽譜が握られている。
放課後になり、運動部のみんなは足早に部活に向かって行ったけど、教室にも廊下にもまだまだたくさんの生徒が残って賑わっていた。
人の波に目を凝らしながら、私はロッカーからクラリネットのケースを取り出す。
「ごめん、お待たせ」
リュックを背負い、ケースを片手に席へ戻るとふうかは私の手元を見た。
「また持ち帰って練習してたの?」
「うん。私下手くそだから」
小さく笑うと、ふうかは「もう」と困ったように眉を下げた。
「何言ってるの。誰よりも覚えるの早くて、2年生でソロパートも貰ってるくせに」
「それは……クラには先輩がいないから」
「それでも下手だったらソロは頼めないよ」
にっこりと微笑られて、私は卑屈な言葉を閉じ込めた。
「いっぱい練習してるの先生も見てるんだね」
「そうかな……」
曖昧に笑うと、ふうかは「絶対そうだよ!」と声を弾ませて立ち上がった。
ふうかと私は、肩を並べて吹奏楽部の部室である音楽室へと向かった。
ゆっくりとした歩調で教室を出ると、ちょうど隣のクラスから泰史たちサッカー部の3人組が出てきたところだった。
「よっしゃ部活だー!晴れたから試合できるぞー!」
「泰史、今日こそ点取るぞ!」
「お前らが邪魔しなければな」
サッカー部の声だと分かって、私は歩幅を緩めて目を凝らす。
部活の練習着の男子生徒がぞろぞろと廊下に出てくるのを確認した。
その3番目で笑いながら出てきた泰史くん。
視線が交わって、思わずゆっくり壁沿いを歩く足を止める。
泰史くんは、後ろ向きで笑いながら出て行った二人の男子を反対側の壁に押しやるように足を早めた。
「うぉ、なんだよ泰史。急に押すなよ」
「うるせーよ。お前ら前見て歩け」
言葉は荒いけれど、行動の奥に優しさを感じて、胸がきゅっと苦しくなる。
「前?」
泰史くんに押された男子ふたりは、振り返り私とふうかに気付いて、目を丸くした。
「あ、ごめんぶつかりそうだった?」
「ううん、大丈夫だよ」
ふうかがふんわりと返すと、サッカー部男子は頬を赤らめる。
癒し系のふうかは、やっぱり男子に人気があるらしい。
「てかひまりは?もう行った?」
「うん、早々に出て行った〜。早く行かないと怒られちゃうよ」
ふうかがイタズラっぽくいうとそれぞれが「やべ」と焦った声を出す。
ひまりはサッカー部のマネとして相当重宝されているけれど、もしかしたら一番の権力者なのかもしれない。
そのやりとりが微笑ましくて小さく笑い、また歩き出した私。
教室の柱の関係で少し出ている壁に気が付かないで、そのままトンっと肩をぶつけた。
軽い衝撃を受けて「わ」と小さく声が出る。
ふらっとよろめいた先で、前にいた泰史くんが一歩下がってその体を支えた。
至近距離の泰史くんに驚いて、胸がドキドキと鳴る。
「どんくさいな。あんま隅歩くなよ」
「う、うん。ごめん。ありがとう泰史くん」
「……別に」
彼は、いつも通りの顔ですぐにその手を話して、急いで行こうとする男子たちに続いた。
「やっぱ三浦さんって抜けてんのな」
「そんで、泰史は、昔から菜由ちゃんに優しいしな」
「幼なじみなんだっけ?いいよなあ可愛い幼馴染」
「はあ?そんなんじゃねーよ」
話の内容はよく聞こえなかったけれど、泰史くんは悪態をつきながら横目に私の後ろ姿を見た。
一瞬交わったその目に、ほんのりと温かいものを感じて、私は耐えられず目を逸らした。
*
音楽室に入り、合奏の席に座る。
完璧に暗記してしまった譜面を気持ちばかりで譜面台に置いて、私はリードを口にした。
合奏は好きだ。
大きな音楽の一員になって、その一端を担う感覚が心地よい。
でも、その席に座るために私には努力が必要だった。
湿ったリードを口にして、音程を確かめるようにソロパートを丁寧に演奏する。
各々が準備をする賑やかな音楽室の中で、透き通ったクラリネットの音がいくらかの視線を集めていたが、私は全く気が付かなかった。
泰……史くん。と、あんな距離になったのは久しぶりだった。
やっぱり背伸びたんだな。
さっきからドキドキと落ち着かない心をどうにかしたくて、自分が出す音色に集中する。
だけど、合奏が始まっても、私の心は落ち着かないままだった。
*
「やばいやばい、電車ギリギリかも!ごめん、うちら先出るね!?」
「え〜〜私走るのやだあ」
「何言ってんの、ふうかも走んの!」
「うえ〜〜、菜由ばいばい〜〜」
部活が終わり、合奏の椅子を片付けている間に、電車通学の友達に引きずられてふうかが去って行った。
あまりの勢いに私は手を振ることしかできなかったけれど、楽しそうに走る背中が眩しい。
そのあと、電車じゃない友達や後輩と片付けを終えて、音楽室を出る頃には窓の外はすっかり暗くなっていた。
通学路に、火の玉のようなオレンジ色の光が灯るのを窓から見下ろす。
いつものように終わったことを母に連絡しようとスマホを開くと、2時間前に連絡が入っていることに気がついた。
2時間前……ってことは部活始まってすぐだ。
気が付かなかった。
顔認証でロックを外し、トーク画面を開く。
目に映った文字列に、私は固まった。
〈菜由ごめんね。今日パートの方が急遽お休みになっちゃって遅くなっちゃいそう。学校で待ってられるところある?〉
スーパーでパートをしている母は、きっと今はもうレジで働いていて連絡を見ることはできないだろう。
何を返すにも困ってしまって、私はとりあえず音楽室を出て玄関へと向かうことにした。
下校時間が過ぎ、どんどん消えていく廊下の電気に心臓がきゅっとなる。
……一人で、この暗さを帰るのは怖い。
でも、もう下校時刻過ぎてるし、すぐにここの電気も消えちゃうよね、どうしよう……。
玄関の外は真っ暗で、階段の向こう側には吸い込まれてしまいそうな闇の世界が広がっていた。
最後まで明かりが灯る玄関で、途方に暮れるしかない私は、そのままその場に座り込んだ。
*
ふいに前から足音が聞こえ、足元に運動靴が映り込む。
辿るように顔をあげていくと、目の前に泰史くんがしゃがんでいた。
「泰史くん?」
サッカー部の部室は外にある。
校舎に戻ることなんてないはずなのに、どうして玄関にいるんだろう?
部活バッグを肩にかけた泰史くんは、私の顔を覗き込むように見つめる。
下から見つめられるその瞳が、どうしてか苦しくて、私はぎゅっと唇を噛んだ。
「帰るぞ」
「え……」
私の顔を確認した泰史くんは立ち上がった。
ラフな半袖半ズボンの運動着は、サッカー部の部員でお揃いのもの。
「母さん、迎え来れないんだろ」
「なんで知ってるの?」
驚いて顔をあげると、泰史くんはめんどくさそうに前髪をいじった。
「うちの母さんから連絡がきた。一緒に帰ってこいって」
「えっ……ごめん。お母さんがお願いしたのかな。でも大丈夫だよ、待ってたらお母さん来てくれると思うし。私、歩くの遅いし」
めんどくさそうに見えた彼の行動に胸がぎゅっと縮まった。
彼は優しい。
優しいから、中学生になっても私のことを気にかけてくれている。
でも、それは、彼にとっては迷惑なこと。
優しいから、放っておけないだけの、ただの同情……。
分かっているはずの事実を、改めて思い知らされたように苦しくなった。
「もうここも電気消えるから。同じ方向だし」
彼は、首を振る私に、ため息を堪えるような口調でそう伝えた。
迷惑だと思われたくない気持ちが喉まで出るけど、泰史くんの口調は優しくなくて、拒否もしづらい。
「ありがとう」
なんとかそう伝えると、泰史くんは返事をせず、私が立つのを確認してから少し先を歩き出した。
*
通学路はさらに暗く、街灯の少ない道は全く周りが見えない。
私は、いつも以上に小さい歩幅で足元を確認しながら慎重に歩く事で精一杯だった。
真っ暗闇のお化け屋敷を歩くみたいに、どこに何があるのかがわからない。
かろうじて見えるのは、オレンジ色に光る街灯の明かりと、スマホのライトで照らされている数歩前を歩く泰史くんの運動靴。
歩くの遅いって思われてるよね……。
そんな不安が頭によぎり、私はリュックの紐をぎゅっと握りしめて、泰史くんを追うように足を早めた。
泰史くんの横に並ぼうと位置をずらすと、腰のあたりに鈍痛が走った。
「わ!」
「おい」
泰史くんの声が聞こえる中、私は腰に当たった障害物に手を添えて立ち止まる。
スマホで照らすと歩道の真ん中にあるポールにぶつかったようだった。
「あ、あはは、びっくりしたあ」
静まった泰史くんの表情が想像できて、私は笑って誤魔化す。
迷惑ばかりかけて、ごめんなさい。
そんな気持ちが自分を追い詰める中、泰史くんはいつもより数段落ち着いた声で呟いた。
「ゆっくりでいいから」
「……ごめん」
空気が重くなる中、泰史くんの肩がピクリと反応し、突然私の肩を掴む。
大きな手のひらの感覚に驚いた。
「わっ」
「菜由、自転車」
私は、音を聞くように視線を漂わせ、すぐに近くを通過した自転車に少しびっくりする。
教えてくれてなかったらぶつかってたかもしれない。
ヒヤリと嫌な汗が落ちるのを感じて、私は息を吐き出した。
「あぁ……。ごめん、教えてくれてありがとう」
へへ。と誤魔化すように笑う私に、泰史くんは何も言わない。
そのまま歩き出そうともしない彼を不思議に思って見上げるけれど、その表情はあんまりわからなかった。
「泰史くん?行こう……?」
そう声をかけると、彼は小さく息をつく。
「……手」
表情はやっぱりよくわからないけど、スマホのライトが当たる位置に差し伸べられた手が見えた。
「え……」
「いいから、手。転ばれたら俺が母さんに怒られんだろ」
待つことなく掴まれた右手に、胸がドクンと鳴った。
震えそうになるくらい緊張した手のひらを、優しく彼の手が包み込む。
迷惑そうな声は、息ができないくらいに私を苦しめるのに。
それと同時に温かくて、強くて、大きな手のひらに安心して、ずっとこのままにしていたいと願ってしまう。
「ごめんね、泰史くん」
「なにが」
声は素っ気ないのに、泰史くんは、歩幅を合わせてくれた。
段差の前では自然にスピードを落とし、狭い道では私を寄せるように内側へ導く。
言葉にはしないエスコートが家までずっと続いていた。
その間、私はドキドキする心を抑えるので精一杯で。
暗闇の世界は変わらないはずなのに、彼の手のひらが温かい光となって、私を安心させてくれていた。
*
自分の家の前を通過し、私の玄関先まで送ってくれた泰史くんは、玄関灯のつく位置まで移動して電気をつけてから手を離した。
なにかが足りない気持ちになる手のひらを誤魔化すようにぎゅっと後ろで握る。
「ありがとう、泰史くん。ごめんね時間かかって」
ぺこりと頭を下げた。泰史くんの家はお隣さん。
灯りのともった家では、きっとお母さんがご飯を作って待っているはずだった。
「……なあ菜由」
「うん?」
遠慮がちに口を開いた泰史くんに首を傾げる。
「目のこと、ひまりたちにも言ってないんだろ」
顔を上げた泰史くんのまっすぐな瞳に驚いた。
玄関の明かりで照らされた泰史くんの表情は、機嫌が悪いようにも見えなくて、感情が読み取れない。
「もし、困ったことがあったら俺に言えばいいから」
「え」
「じゃあな」
それだけ言って、自分の家のほうへ走っていく。
家の門が閉まる音が、やけに大きく響いた気がした。
泰史くんが走り去っていった道を、私はしばらく見つめたまま動けなかった。
さっきまで握っていた手の温度が、じんわりと指先に残っている。
右手を胸の前に持ってきて、ぎゅっと左手で包み込んだ。
しゃがみ込んでしまいそうなくらい、苦しかった。
……なんで、今でもこんなに優しくしてくれるの?
酷いことを言ったのは、私なのに。
『もう放っておいて。私は、泰ちゃんが思ってるほど不自由じゃない。ちゃんと見えてるもん。そんなに気を遣われると、自分でできることがなにもないみたいで、つらい』
私の鈍臭さに名前がついてから、いつも近くにいて助けてくれていた泰ちゃんに向かって投げ捨てた言葉が鮮明に思い出される。
当時の環境から、声から、傷ついた顔をする彼の表情まで。全てが鮮明に。
胸が痛む。
申し訳なさが、同時に押し寄せてくる。
毎日隣にいた彼と私の間には、それから少しずつ距離ができた。
中学生になって同級生の人数が増えてからは、泰ちゃんのことを、泰史くんと呼ぶようになった。
それでも、私は気付いている。
隣にいて、真正面から助けてくれることがなくなっても、隠れるように気遣ってくれていることを。
私がぶつからないように道を作ってくれること。
転ばないように見ていてくれていることにも。
迷惑をかけたくないのに……迷惑しか、かけてない。
玄関灯の下から隣の家を見つめるけれど、その影はほんのぼんやりとしか輪郭でしか確認できない。
あるのかないのかも不鮮明なもやもやが映るだけ。
私は、両手で目を塞ぎ、しゃがみ込んだ。
「……っ」
声を押し殺して、震える唇を噛み締める。
夜になるともうほとんど何も見えないのだ。
さっき自転車に気づかなかったときは、胸が一瞬凍りついた。
夜だけじゃなく明るい場所でも真正面から見ないと気付けないものが多くなった。
鈍臭いでは済まされない時が、もうすぐ近くまできているのかもしれない。
熱いものが流れ出すのを止めるように、ぎゅっと両目を抑える。
『私は、泰ちゃんが思ってるほど不自由じゃない』
なんて。……あんなこと言っておいて。
結局、私は一人じゃ、自分の家に帰ることもできない。
隣にいたら、どうしたって優しくしてくれる泰ちゃんに迷惑をかけてはいけない。
分かってる、だから、今の距離でいいはずなの。
でも……。
手を取られた瞬間、心臓が跳ねた。
怖さよりも、安心が勝った。
自分を情けないと思う心の隙間に、確かにあった。
泰ちゃんの手をずっと握っていたいと思う気持ちが。
……そんなこと、許されるはずないのに。
私は、思いを断ち切るように勢いよく立ち上がり玄関の扉を開けた。
視界の端から世界が欠けていく。
そんな私が、誰かの未来に触れていいはずがない。
誰かに頼るたび、自分の弱さが露わになって、情けなさに押しつぶされそうになる。
一人で抱え込んで、強がって、傷つけて。
自分で壊した距離は、もう戻らないものだと諦めていた。
見えなくなるのは景色だけじゃなくて、
希望や自信までもどんどんどんどん薄れていく毎日だった。
それなのに——
あの日、差し出された手だけは、
にじんでいく世界の中で、鮮やかに輪郭を持って見えた。
触れた瞬間、
恋しちゃいけない理由なんて全部、簡単に崩れていってしまったんだ。
*
「……着いた」
雨降りの日の朝。
昇降口についた私は、端に寄って傘を折り畳んだ。
次々と入ってくる同じ制服を着た生徒たちの流れをぼんやりと見つめながら丁寧に雫を払って巻きつける。
例年より長い梅雨は7月も中旬になるのにどんよりとした曇り空を作り上げる。
雨が続くのは憂鬱だ。濡れるし、空が暗いと登校に時間がかかるし。
人の波が止まったタイミングで、私は玄関に入って傘立ての前に立った。
顔を動かしながら自分の傘が入る位置を探し、周りの傘に当たらないように差し込む。
うまく傘を入れることができ、ひと仕事終えた気分で、胸まである茶色の髪を耳にかけた。
「菜由〜。またぼーっとしてる」
後ろから聞き慣れた声がして振り返る。
視線の先には、あくびを噛み殺した後のようで、目を潤ませたひまりが立っていた。
高梨ひまりは、同じ小学校出身でもうずっと仲の良いお友達。
まだ少し寒いような気がするけれど、まくった袖から覗く細い腕は、健康的な小麦色に日焼けしている。
「ひまり。おはよう」
しっかりと振り返って「えへへ」とゆるく笑う。
そのゆるさにひまりは呆れたように笑って、乱雑に傘を突き刺し自分の靴箱へと進んだ。
私は追いかけるように後に続く。
そこへ賑やかな男子たちの声が聞こえ、背中合わせの靴箱が混雑した。
「ひまり、この天気、今日も筋トレ?」
「雨だしそうだと思うけど」
「えーーまじかよーー」
「きっちーー」
入ってきたのはサッカー部の団体で、5人ほどの男子がわちゃわちゃと会話を繰り広げる。
サッカー部のマネージャーをしているひまりは、ぴしゃりとその賑やかさを切り捨てた。
「筋トレくらい黙ってしなさいよ情けない!」
「うるせえ鬼!」
「はあ?今日のドリンクになんか混ぜてやろうかな!」
わははと豪快な笑い声が響き渡る中、その最後尾でおかしそうに笑っていた男の子に視線が引き寄せられる。
隣に並ばないうちにすごく背がのびたと思う。
少し見上げないと見えない顔に、ググッと首を伸ばした。
ふわふわとはねている日に焼けて茶色く光る髪が、一番最初に視界に入った。
目元にかかる前髪の隙間から、くっきりした二重の瞳がこちらに向く。
目があうと、それまでの楽しそうな口角が、何かを迷うように小さく揺れた。
「おはよう……泰史くん」
「おはよ」
泰史くんの目がほんの一瞬だけ揺れた気がした。
「泰史、置いてくぞ〜!」
「菜由も早く!」
既に上靴に履き替えた男子たちとひまりは廊下でこちらを見て笑っていた。
「ああ」
一度そちらに視線を送った泰史くんは、そのまま向かうと思いきや、背中合わせの靴箱から移動して、私の前に立った。
「え……」
戸惑っているうちに、泰史くんはしゃがんで何かを拾い、彼らの元へ走っていく。
「おい誰だよこれ!」
先を行った彼は、足元に落ちていたらしいパックジュースのごみを掲げていた。
「知らねーよ、俺らじゃねーし!」
「捨ててやれよ〜〜」
「嫌だよめんどくせえ」
先にいた男子生徒とイタズラをするようにそのゴミを押し付けあって楽しそうに去っていく。
私はその大勢の後ろ姿の中で、一際目立って見える泰史くんの背中をじっと見つめるようにひまりの隣を歩いた。
*
わいわいと手前の教室に入っていったサッカー部ご一行を見送り、私とひまりはその隣の教室へと入った。
後ろのドアから入ってすぐ。
一番近い列の後ろから2番目の席に腰をおろして、私はほっと息をついた。
ひまりは、前の席に勢いよく座り、かばんの片付けもそこそこにこちらを振り返る。
「一限から数学ってついてないよね〜」
「だね。ひまり寝ないように気をつけないとね」
そう言って笑うと、ひまりは「寝ませんよ」と私の頬をむにむにと引っ張った。
笑いながらかばんを開き、教科書を取り出す。
すると、教科書の間に紛れていたプリントがひらひらと落ちていくのが見えた。
……あ。
手探りをするように手を伸ばし、大きな動作で首からしっかりと床を見る。
そのプリントを私が見つけるよりも先に、誰かの手がすっと拾い上げた。
「はい、落ちてたよ」
手渡されたプリントと同時に、頭上からふんわりした柔らかい声がかかる。
プリントから辿るように視線をあげていくと、見慣れた柔らかな笑顔が待っていた。
「ふうか、ありがと」
「いいよ〜。今日もおっとりだね」
言いながら笑うふうかこそが、おっとりした性格をしていた。
海野ふうか。彼女もまた小学生の頃からの大切なお友達。
肩下まで伸ばしたセミロングの髪をゆる〜く怒られない程度に巻いた彼女は、その髪をふわりと揺らして首を傾けて笑う。
女の子から見ても可愛らしい仕草は、いつも私の心を癒してくれていた。
「あんたらふたりといると私が生き急いでるみたいなんだよね」
「ひまりはちょっとシャキシャキ動きすぎだよねえ」
笑い合うふたりに、私も明るい笑みを見せる。
二人は小学校からの親友で、宝物。
私のゆっくりな動きをすべて「個性」として受け止めてくれる、優しい優しい存在なのだ。
「やっべーギリ間に合った!!」
そんな声が聞こえたと思ったら、ぴゅーんと音を立てるように、後ろのドアからものすごい勢いで走ってきたクラスメイトが、私たちが集まる席の真横を駆け抜ける。
突然視界に現れた存在に、私はびくりと肩を揺らした。
「わっ!」
大袈裟なくらいにびっくりする私に、その男子も驚いたようで足を止めた。
「三浦ごめん!ビビらせた!」
「う、ううん。大丈夫」
小さな声で俯きながら言うと、その空気をカバーするようにひまりが口を出す。
「ほんと、坂田は落ち着きないな!」
「まじごめんって、ギリギリだったんだよ!」
「ふふ、教室は走っちゃダメだよ〜」
ふわふわと笑うふうかを最後に、坂田くんはひまりの前にある自席にリュックを置き、すぐに男友達と話し始めた。
「やべー。三浦びびらせちゃった」
「本当だよ。お前やってんな〜〜」
坂田くんたちの男の子の輪で、会話が広がっていく。
「申し訳ない。いやでも話せてラッキー」
「うわ〜、悪いな。でもちょっと羨ましい。可愛いもんな三浦さん」
「あんまり喋んないよな〜。てか話しかけても気まずそうじゃん?」
「そこが逆にレアでいいんだろ!」
ひそひそとしているつもりみたいだけど、近くの席の私たちには聞こえてしまい、私は小さく俯いた。
長い髪から覗く耳が熱くて、思わず両手で隠す。
「菜由〜?言われてるよ〜?」
その様子を見て、にんまりとしたひまりが揶揄う。
ぷにぷにと私のほっぺをつつくひまりに、私は頭を左右に大きく動かした。
「~~っ、からかってるだけだよ……!聞こえないふりして」
言いながらも顔までほんのり赤くなり、隠すように教科書を持ち上げる。
「いやいや〜。菜由の可愛さがわかるなんて、あいつら見る目あるよ」
「菜由ちゃん、人気者!」
「もう、ふたりまでからかわないで!」
ふるふると首を振り続けると、ふたりは顔を見合わせて揶揄うのを終わりにした。
「もっとみんなと話したら、男子たち驚くだろうね」
「わかる〜。菜由ちゃん小学校のときはもっとみんなと話してたもんね。私、中学校になるまで菜由ちゃんがこんなに人見知りだって知らなかったもん」
二人の言葉に、私はぎゅっと唇を結んだ。
表情がしっかり見えるように、顔を動かしてふたりの表情を真正面から順番に見つめると、優しくも困ったような笑顔が向けられる。
大好きで宝物のはずのふたりに、何も言えてない自分が申し訳なくなって、迷うように口を開いた。
「……小学校はみんな知り合いだったから」
それでも、少しの間を置いて出た言葉は、やっぱり、誤魔化しの言葉だった。
*
「菜由〜そろそろ行く〜?」
「ちょっと待って〜」
パステルカラーのキーホルダーが山ほどついたリュックを背負ってふうかが席へとやってきた。
その手には楽譜が握られている。
放課後になり、運動部のみんなは足早に部活に向かって行ったけど、教室にも廊下にもまだまだたくさんの生徒が残って賑わっていた。
人の波に目を凝らしながら、私はロッカーからクラリネットのケースを取り出す。
「ごめん、お待たせ」
リュックを背負い、ケースを片手に席へ戻るとふうかは私の手元を見た。
「また持ち帰って練習してたの?」
「うん。私下手くそだから」
小さく笑うと、ふうかは「もう」と困ったように眉を下げた。
「何言ってるの。誰よりも覚えるの早くて、2年生でソロパートも貰ってるくせに」
「それは……クラには先輩がいないから」
「それでも下手だったらソロは頼めないよ」
にっこりと微笑られて、私は卑屈な言葉を閉じ込めた。
「いっぱい練習してるの先生も見てるんだね」
「そうかな……」
曖昧に笑うと、ふうかは「絶対そうだよ!」と声を弾ませて立ち上がった。
ふうかと私は、肩を並べて吹奏楽部の部室である音楽室へと向かった。
ゆっくりとした歩調で教室を出ると、ちょうど隣のクラスから泰史たちサッカー部の3人組が出てきたところだった。
「よっしゃ部活だー!晴れたから試合できるぞー!」
「泰史、今日こそ点取るぞ!」
「お前らが邪魔しなければな」
サッカー部の声だと分かって、私は歩幅を緩めて目を凝らす。
部活の練習着の男子生徒がぞろぞろと廊下に出てくるのを確認した。
その3番目で笑いながら出てきた泰史くん。
視線が交わって、思わずゆっくり壁沿いを歩く足を止める。
泰史くんは、後ろ向きで笑いながら出て行った二人の男子を反対側の壁に押しやるように足を早めた。
「うぉ、なんだよ泰史。急に押すなよ」
「うるせーよ。お前ら前見て歩け」
言葉は荒いけれど、行動の奥に優しさを感じて、胸がきゅっと苦しくなる。
「前?」
泰史くんに押された男子ふたりは、振り返り私とふうかに気付いて、目を丸くした。
「あ、ごめんぶつかりそうだった?」
「ううん、大丈夫だよ」
ふうかがふんわりと返すと、サッカー部男子は頬を赤らめる。
癒し系のふうかは、やっぱり男子に人気があるらしい。
「てかひまりは?もう行った?」
「うん、早々に出て行った〜。早く行かないと怒られちゃうよ」
ふうかがイタズラっぽくいうとそれぞれが「やべ」と焦った声を出す。
ひまりはサッカー部のマネとして相当重宝されているけれど、もしかしたら一番の権力者なのかもしれない。
そのやりとりが微笑ましくて小さく笑い、また歩き出した私。
教室の柱の関係で少し出ている壁に気が付かないで、そのままトンっと肩をぶつけた。
軽い衝撃を受けて「わ」と小さく声が出る。
ふらっとよろめいた先で、前にいた泰史くんが一歩下がってその体を支えた。
至近距離の泰史くんに驚いて、胸がドキドキと鳴る。
「どんくさいな。あんま隅歩くなよ」
「う、うん。ごめん。ありがとう泰史くん」
「……別に」
彼は、いつも通りの顔ですぐにその手を話して、急いで行こうとする男子たちに続いた。
「やっぱ三浦さんって抜けてんのな」
「そんで、泰史は、昔から菜由ちゃんに優しいしな」
「幼なじみなんだっけ?いいよなあ可愛い幼馴染」
「はあ?そんなんじゃねーよ」
話の内容はよく聞こえなかったけれど、泰史くんは悪態をつきながら横目に私の後ろ姿を見た。
一瞬交わったその目に、ほんのりと温かいものを感じて、私は耐えられず目を逸らした。
*
音楽室に入り、合奏の席に座る。
完璧に暗記してしまった譜面を気持ちばかりで譜面台に置いて、私はリードを口にした。
合奏は好きだ。
大きな音楽の一員になって、その一端を担う感覚が心地よい。
でも、その席に座るために私には努力が必要だった。
湿ったリードを口にして、音程を確かめるようにソロパートを丁寧に演奏する。
各々が準備をする賑やかな音楽室の中で、透き通ったクラリネットの音がいくらかの視線を集めていたが、私は全く気が付かなかった。
泰……史くん。と、あんな距離になったのは久しぶりだった。
やっぱり背伸びたんだな。
さっきからドキドキと落ち着かない心をどうにかしたくて、自分が出す音色に集中する。
だけど、合奏が始まっても、私の心は落ち着かないままだった。
*
「やばいやばい、電車ギリギリかも!ごめん、うちら先出るね!?」
「え〜〜私走るのやだあ」
「何言ってんの、ふうかも走んの!」
「うえ〜〜、菜由ばいばい〜〜」
部活が終わり、合奏の椅子を片付けている間に、電車通学の友達に引きずられてふうかが去って行った。
あまりの勢いに私は手を振ることしかできなかったけれど、楽しそうに走る背中が眩しい。
そのあと、電車じゃない友達や後輩と片付けを終えて、音楽室を出る頃には窓の外はすっかり暗くなっていた。
通学路に、火の玉のようなオレンジ色の光が灯るのを窓から見下ろす。
いつものように終わったことを母に連絡しようとスマホを開くと、2時間前に連絡が入っていることに気がついた。
2時間前……ってことは部活始まってすぐだ。
気が付かなかった。
顔認証でロックを外し、トーク画面を開く。
目に映った文字列に、私は固まった。
〈菜由ごめんね。今日パートの方が急遽お休みになっちゃって遅くなっちゃいそう。学校で待ってられるところある?〉
スーパーでパートをしている母は、きっと今はもうレジで働いていて連絡を見ることはできないだろう。
何を返すにも困ってしまって、私はとりあえず音楽室を出て玄関へと向かうことにした。
下校時間が過ぎ、どんどん消えていく廊下の電気に心臓がきゅっとなる。
……一人で、この暗さを帰るのは怖い。
でも、もう下校時刻過ぎてるし、すぐにここの電気も消えちゃうよね、どうしよう……。
玄関の外は真っ暗で、階段の向こう側には吸い込まれてしまいそうな闇の世界が広がっていた。
最後まで明かりが灯る玄関で、途方に暮れるしかない私は、そのままその場に座り込んだ。
*
ふいに前から足音が聞こえ、足元に運動靴が映り込む。
辿るように顔をあげていくと、目の前に泰史くんがしゃがんでいた。
「泰史くん?」
サッカー部の部室は外にある。
校舎に戻ることなんてないはずなのに、どうして玄関にいるんだろう?
部活バッグを肩にかけた泰史くんは、私の顔を覗き込むように見つめる。
下から見つめられるその瞳が、どうしてか苦しくて、私はぎゅっと唇を噛んだ。
「帰るぞ」
「え……」
私の顔を確認した泰史くんは立ち上がった。
ラフな半袖半ズボンの運動着は、サッカー部の部員でお揃いのもの。
「母さん、迎え来れないんだろ」
「なんで知ってるの?」
驚いて顔をあげると、泰史くんはめんどくさそうに前髪をいじった。
「うちの母さんから連絡がきた。一緒に帰ってこいって」
「えっ……ごめん。お母さんがお願いしたのかな。でも大丈夫だよ、待ってたらお母さん来てくれると思うし。私、歩くの遅いし」
めんどくさそうに見えた彼の行動に胸がぎゅっと縮まった。
彼は優しい。
優しいから、中学生になっても私のことを気にかけてくれている。
でも、それは、彼にとっては迷惑なこと。
優しいから、放っておけないだけの、ただの同情……。
分かっているはずの事実を、改めて思い知らされたように苦しくなった。
「もうここも電気消えるから。同じ方向だし」
彼は、首を振る私に、ため息を堪えるような口調でそう伝えた。
迷惑だと思われたくない気持ちが喉まで出るけど、泰史くんの口調は優しくなくて、拒否もしづらい。
「ありがとう」
なんとかそう伝えると、泰史くんは返事をせず、私が立つのを確認してから少し先を歩き出した。
*
通学路はさらに暗く、街灯の少ない道は全く周りが見えない。
私は、いつも以上に小さい歩幅で足元を確認しながら慎重に歩く事で精一杯だった。
真っ暗闇のお化け屋敷を歩くみたいに、どこに何があるのかがわからない。
かろうじて見えるのは、オレンジ色に光る街灯の明かりと、スマホのライトで照らされている数歩前を歩く泰史くんの運動靴。
歩くの遅いって思われてるよね……。
そんな不安が頭によぎり、私はリュックの紐をぎゅっと握りしめて、泰史くんを追うように足を早めた。
泰史くんの横に並ぼうと位置をずらすと、腰のあたりに鈍痛が走った。
「わ!」
「おい」
泰史くんの声が聞こえる中、私は腰に当たった障害物に手を添えて立ち止まる。
スマホで照らすと歩道の真ん中にあるポールにぶつかったようだった。
「あ、あはは、びっくりしたあ」
静まった泰史くんの表情が想像できて、私は笑って誤魔化す。
迷惑ばかりかけて、ごめんなさい。
そんな気持ちが自分を追い詰める中、泰史くんはいつもより数段落ち着いた声で呟いた。
「ゆっくりでいいから」
「……ごめん」
空気が重くなる中、泰史くんの肩がピクリと反応し、突然私の肩を掴む。
大きな手のひらの感覚に驚いた。
「わっ」
「菜由、自転車」
私は、音を聞くように視線を漂わせ、すぐに近くを通過した自転車に少しびっくりする。
教えてくれてなかったらぶつかってたかもしれない。
ヒヤリと嫌な汗が落ちるのを感じて、私は息を吐き出した。
「あぁ……。ごめん、教えてくれてありがとう」
へへ。と誤魔化すように笑う私に、泰史くんは何も言わない。
そのまま歩き出そうともしない彼を不思議に思って見上げるけれど、その表情はあんまりわからなかった。
「泰史くん?行こう……?」
そう声をかけると、彼は小さく息をつく。
「……手」
表情はやっぱりよくわからないけど、スマホのライトが当たる位置に差し伸べられた手が見えた。
「え……」
「いいから、手。転ばれたら俺が母さんに怒られんだろ」
待つことなく掴まれた右手に、胸がドクンと鳴った。
震えそうになるくらい緊張した手のひらを、優しく彼の手が包み込む。
迷惑そうな声は、息ができないくらいに私を苦しめるのに。
それと同時に温かくて、強くて、大きな手のひらに安心して、ずっとこのままにしていたいと願ってしまう。
「ごめんね、泰史くん」
「なにが」
声は素っ気ないのに、泰史くんは、歩幅を合わせてくれた。
段差の前では自然にスピードを落とし、狭い道では私を寄せるように内側へ導く。
言葉にはしないエスコートが家までずっと続いていた。
その間、私はドキドキする心を抑えるので精一杯で。
暗闇の世界は変わらないはずなのに、彼の手のひらが温かい光となって、私を安心させてくれていた。
*
自分の家の前を通過し、私の玄関先まで送ってくれた泰史くんは、玄関灯のつく位置まで移動して電気をつけてから手を離した。
なにかが足りない気持ちになる手のひらを誤魔化すようにぎゅっと後ろで握る。
「ありがとう、泰史くん。ごめんね時間かかって」
ぺこりと頭を下げた。泰史くんの家はお隣さん。
灯りのともった家では、きっとお母さんがご飯を作って待っているはずだった。
「……なあ菜由」
「うん?」
遠慮がちに口を開いた泰史くんに首を傾げる。
「目のこと、ひまりたちにも言ってないんだろ」
顔を上げた泰史くんのまっすぐな瞳に驚いた。
玄関の明かりで照らされた泰史くんの表情は、機嫌が悪いようにも見えなくて、感情が読み取れない。
「もし、困ったことがあったら俺に言えばいいから」
「え」
「じゃあな」
それだけ言って、自分の家のほうへ走っていく。
家の門が閉まる音が、やけに大きく響いた気がした。
泰史くんが走り去っていった道を、私はしばらく見つめたまま動けなかった。
さっきまで握っていた手の温度が、じんわりと指先に残っている。
右手を胸の前に持ってきて、ぎゅっと左手で包み込んだ。
しゃがみ込んでしまいそうなくらい、苦しかった。
……なんで、今でもこんなに優しくしてくれるの?
酷いことを言ったのは、私なのに。
『もう放っておいて。私は、泰ちゃんが思ってるほど不自由じゃない。ちゃんと見えてるもん。そんなに気を遣われると、自分でできることがなにもないみたいで、つらい』
私の鈍臭さに名前がついてから、いつも近くにいて助けてくれていた泰ちゃんに向かって投げ捨てた言葉が鮮明に思い出される。
当時の環境から、声から、傷ついた顔をする彼の表情まで。全てが鮮明に。
胸が痛む。
申し訳なさが、同時に押し寄せてくる。
毎日隣にいた彼と私の間には、それから少しずつ距離ができた。
中学生になって同級生の人数が増えてからは、泰ちゃんのことを、泰史くんと呼ぶようになった。
それでも、私は気付いている。
隣にいて、真正面から助けてくれることがなくなっても、隠れるように気遣ってくれていることを。
私がぶつからないように道を作ってくれること。
転ばないように見ていてくれていることにも。
迷惑をかけたくないのに……迷惑しか、かけてない。
玄関灯の下から隣の家を見つめるけれど、その影はほんのぼんやりとしか輪郭でしか確認できない。
あるのかないのかも不鮮明なもやもやが映るだけ。
私は、両手で目を塞ぎ、しゃがみ込んだ。
「……っ」
声を押し殺して、震える唇を噛み締める。
夜になるともうほとんど何も見えないのだ。
さっき自転車に気づかなかったときは、胸が一瞬凍りついた。
夜だけじゃなく明るい場所でも真正面から見ないと気付けないものが多くなった。
鈍臭いでは済まされない時が、もうすぐ近くまできているのかもしれない。
熱いものが流れ出すのを止めるように、ぎゅっと両目を抑える。
『私は、泰ちゃんが思ってるほど不自由じゃない』
なんて。……あんなこと言っておいて。
結局、私は一人じゃ、自分の家に帰ることもできない。
隣にいたら、どうしたって優しくしてくれる泰ちゃんに迷惑をかけてはいけない。
分かってる、だから、今の距離でいいはずなの。
でも……。
手を取られた瞬間、心臓が跳ねた。
怖さよりも、安心が勝った。
自分を情けないと思う心の隙間に、確かにあった。
泰ちゃんの手をずっと握っていたいと思う気持ちが。
……そんなこと、許されるはずないのに。
私は、思いを断ち切るように勢いよく立ち上がり玄関の扉を開けた。



