無菌服に着替える。
 白いフードを被り、マスクを着け、手袋を二重に装着する。
 視界が少し歪む。
 呼吸が浅くなる。

 台車を押して入室。
 機械音が一定のリズムで響く。
 ファンの回転音。
 薬品の匂い。

 花の香りは、まだ封じられている。
 この部屋では、全てが『無臭』であることが正義だ。

 検疫室はまるで別世界だった。
 白光に照らされた空間は色彩を奪い、感情までも薄くしてしまうような無機質さを持っている。
 ここでは、花も人も、ただの『対象物』として扱われる。
 
 芹葉はふと、そんな感覚に囚われた。

「香月さん、搬入書類、確認します」

 その声に、芹葉は立ち止まった。

 フード越しでも、聞き覚えのある声。
 低く、静かで、どこか懐かしい。

 芹葉は顔を上げる。
 無菌服に身を包んだ検疫官が、書類を受け取りながら、芹葉に視線を向けた。

「……(さく)さん?」

 名前が口をついて出た。
 
 (さく) 蒼志(そうし)
 三年前、研修先の検疫室で出会った彼。
 植物病理に真摯に向き合う研究者。
 淡い想いを抱いたまま、何も始まらずに終わった人。

「お久しぶりです。香月さん」

 蒼志は、変わっていなかった。
 いや、変わったのかもしれない。

 無菌フードの奥にある表情は、はっきりとは見えない。
 だが、声のトーンも、手の動きも、あの頃と同じだった。

——私の名前、ちゃんと憶えていてくれた。

 それだけで胸が熱くなる。
 芹葉は、心臓の音が速くなるのを感じた。