たった100秒間の運命

「もし、苦手じゃなかったらなんだけど……」

控えめな口調で、彼はお店を提案してくれた。

いつもは、コンビニやワンコインの牛丼で済ませることの多い私としては、気の利いたお店を調べる手間が省けてありがたい。
頷くと、彼は「こっちです」と慣れたようにオフィス街から抜ける細道へと進んだ。

彼が案内してくれたのは、オフィス街から一本入った細道にある小さなカフェだった。

外観は白い壁に木の扉。
中に入ると、柔らかい照明に、壁一面に飾られたイラストレーション。

「……すごく素敵」
思わず声が漏れる。

水彩のタッチで描かれた風景画。
女性の後ろ姿、空を見上げる少年、植物の線画。
どれも雰囲気が柔らかくて、どこか見覚えがあるような、でも新鮮な世界。

私が目を輝かせたまま絵に近づくと、彼は後ろから様子を見ながらクスッと笑った。

「気に入ってくれたならよかった」

嬉しそうに微笑んだ彼は、店員さんと目配せをして奥の座席へと進んだ。

常連なのだろうか。
親しそうな間柄に見えた店員さんに、私もぺこりと会釈をする。

「どうぞ」と慣れたように差し出されたメニューを開き、私は再び目を輝かせた。

メニューも同様にイラストで飾られていてどのページを見ても頬が緩む。
くつくつと、優しい笑い声が聞こえ、私はハッとしてメニューの文字へと視線を写した。

まるで画集を見るかのように何も考えずペラペラとめくってしまっていた。

「本日のおすすめプレートにします。えーっと……決まってます?」
「はい、俺もいつもそれです」

そう言って、彼は手を上げ、さっと注文を済ませてくれた。

目の前に男性がひとり。
流れるようで気にならない範疇だけど、女性扱いされているような雰囲気に私は少し身を固くした。

「改めて、なんですが、この度はありがとうございました。私、高坂清花といいます」

背筋を伸ばしてそう伝えると、マイペースに水を飲んでいた彼も真似するようにお水を置いて背筋を伸ばした。

「葉山憩です。改めて名乗ると変な感じですね。そっか、さやかって読むんだ」
「そうです。よく『きよか』と呼ばれます」
「ですよね、かと思ってました。俺は、休憩の『憩』です。名前にぴったりだってよく言われます」
「イメージだけで申し訳ないですけど、ちょっとわかります」

柔らかな雰囲気に笑っていると、食事が運ばれてきた。
イラストをそのまま出したようなプレートに、今日のメインは鯖の味噌煮という和食センス。
一人暮らし女子にはとても嬉しいメニュー。
一口食べてみれば、お味も濃すぎず薄すぎず、ご飯が進む美味しさで、頬を緩める。

「このお店、よく来られるんですか?」

いつもはたったの100秒。
何も気にせず時間を共にできるちょうど良い時間を過ごしていたので、改めて時間を与えられると何を話していいのか分からない。
少し仕事スイッチを入れてそんな風に問いかけると、彼は「あー…」と小さく頷いた。

「そうですね。この店舗のイラストを担当していて」

私は食べかけていた手を止めて固まった。

「えっ……」
「新しいイラストが飾られてから来てなかったので一度行こうと思ってたので、誘ってしまいました」

恥ずかしそうにお辞儀をする憩さんに、私は目を丸くする。

「さやかさんのお仕事も知ってしまったので話さないとフェアじゃないかなと思って」

そう続けながら、喋らなくなった私を見て、憩さんは一度席を立つ。

「食事中に行儀が悪いですが……」

そう言いながらレジ横までいって、一枚の名刺を持ってきた。

「【ikoi】という名前で活動してるイラストレーターなんです」

私は今度こそ、箸を落としそうになって、そっと箸置きに戻す。

「……似てると思った」

そんな独り言を、憩さん改めikoiさんはしっかりと拾って、首を傾げる。

「似てる?」
「この動画も、ikoiさんのイラストですよね?私、ずっと好きで」

スマホのロック画面を見せると、今度は憩さんが目を丸くした。

「そうですね……。ちょっとびっくりしました。こんなことあるんですね」
「結び歌プロジェクトが始まったところから大好きで、あの、実はikoiさんのイラスト集も買いました」
「え……!お買い上げありがとうございます」
「とんでもないです……」

驚きで二人とも食事に手をつけていないことに気付いて「冷めますよね」「食べましょうか」と再び食事を再開した。

一口目ではすごく美味しいと感じたサバの味噌煮が味がしなくて驚いた。
男性と二人だなんてドキドキしていた気持ちはどこかに消え、イラストレーターのikoiさんが目の前にいることに驚きを隠せない。

楽曲を聞いてから絵を考えているんですか?
水彩にしているこだわりってあるんですか?

ついつい質問ばかりしてしまう私に、憩さんは柔らかく笑ってゆるゆると回答を返してくれる。
それが嬉しくて私は仕事の中抜けだということも忘れてその時間を楽しんでいた。

「すみません。軽くお礼するつもりが1時間まるまる……」
「いえ楽しかったです」

肩を落とす私を見て、憩さんはほんの少し目を細めた。

「また、都合良いときあれば、ご飯でも行きましょう」
「もちろんです!」

引かれてないか心配していたところに、優しいお言葉をいただき、私たちは分かれた。

「じゃあ、またコンビニで」

名前も知らない彼の名前を知った。
明日からの100秒がまた少し楽しいものになることを期待して、私は社員証を握りしめた。