たった100秒間の運命

変わり映えのない日常の中に、ひとつの予想外が生まれた。

コーヒー習慣が三週間目に入り、仕事の集中力もいい感じに整ってきた頃だった。
時折顔を合わせるスウェットの男性との会話も楽しく、癒しの時間となっていて、なんだか久しぶりに人間関係に純粋な楽しさを感じる日々だった。
だからもしかしたら、そんな毎日に浮き足立っていたのかもしれない。

ビルの下でカバンのポケットに触れた瞬間、血の気が引いた。

あれ……社員証が、ない。

慌てて鞄を漁り、ポケットというポケットを探したけれど、どこにも見当たらない。

どうしよう……どこかで落とした?家では出してないはず……。

焦っているところに、立花さんが出社してきて、一緒にゲートを通過できたことが救いだった。
探しに戻ったら遅刻になってしまうところだった。

「はい。申し訳ないです。お昼時間中に一度探しに出ます」

総務への連絡を済ませて、ふうと小さく息をつく。
なんとか業務につけたものの、午前中の仕事はどこか上の空で、時間になってランチタイムのチャイムが鳴った瞬間、私は席を立った。

とにかく出社ルートを戻ろう。
コートを羽織りながら、エレベーターを降り、エントランスの自動ドアを開けたとき。

「……あれ?」

ビルの前に、じーっと上を見上げる不審な男性が立っていた。
不審とは言いつつ、見覚えのあるシルエットに嫌悪感は感じない。

黒のシンプルなフーディに細身のパンツ。
スーツやオフィス服の人の群れの中でぼんやりと立つ姿は、同じ時間を生きていないような不思議な存在感があった。

少し眠たげな目元に、あの柔らかい雰囲気。
間違いない。コンビニで会う……名前を知らない彼だ。

「あの……」

外に出て控えめに声をかけると、男性はハッとした様子で私と視線を合わせ、いつも通り緩やかに笑った。

「ああ良かった。これ、コンビニで、拾いました。今朝は入れ違いだったみたいですね」

言われて今朝のことを思い返す。
今朝は確かに、会わなかった。
拾ってくれたということは、そのあとコンビニへ行って落ちているのを見つけてくれたということだろうか。

「ありがとうございます。今から探しに出るところで……!」
「いえ、あの、むしろ勝手に会社名を見てしまって、ごめんなさい」

申し訳なさそうな言葉に目を丸くする。

言われてみれば、私たちは名前も知らない他人同士。
そんな相手に個人情報の塊を拾ってもらったというのに、私は彼が拾ってくれてよかったと安心までしていた。

「あの、お昼食べました?」

社員証をしっかりといつものポケットに入れて、私は彼に向き直った。

「まだ、ですね。帰りに買って帰ればいいかなくらいで出てきて」
「それなら、一緒にどうですか?お礼に奢ります」

いただいた恩は返さないと気持ちが悪い。
そんな性分に巻き込むようにしてしまったけれど、彼は緩やかにふっと笑った。

秋の光の中で、柔らかい黒髪がふわりと揺れる。
その笑顔が綺麗で、なんとなく目を奪われた。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

男性と二人で食事。
自分から言い出したことなのに、いざ目の前にするとほんの少し緊張が走って体が強張った。
でも、社員証を届けてくれた恩人を黙って帰らせるほど、身の程知らずではないのだ。