たった100秒間の運命

「靴擦れだけじゃないんでしょ」

しばらくして、ぼそりと憩くんが落とした言葉に目を丸くする。

「なんで……」と驚いて彼を見つめると憩くんは「分かるよ〜」と柔らかく笑った。
その笑顔を見たことで、どうしてか、堰が切れたように肩が落ちた。

「なんで分かるかな」
「なんでかなあ。ちょっとずつ清花さんのこと分かってきたのかもね」
優しい声に、自然と胸の奥が緩む。

温かい紅茶も、慣れ親しんだ自分の部屋という環境も、すべてが私を弱くさせていた。
気づけば私は、今日感じたことをぽつぽつと話し始めていた。

心の底から大好きだったはずの友人たちと繰り広げる上っ面の会話の虚しさ。
結婚・子ども・家の話。独身の自分だけが透明の壁の外にいる感覚。
自立した女性として強くありたいという自分の美学が、間違っているように感じてしまうこと。
本音のはずの気持ちを伝えるのに、どうしてか嘘をついているような感覚に陥ること。

そして本当は気付いていた。
頑なに心を固めておきながら、これが幸せだと言い切っておきながら、私自身の中にずっとある、本当にずっとこのままでいいの?という小さな不安。

「何が正解なのか。自分が本当はどうしたいのか、分からなくなってしまって」
笑おうとしたのに、声が震えた。

気付かないうちに潤んでいた瞳から、ぽたりと涙がこぼれる。
ズボンに作られた水たまりに、私は驚いて慌てて目頭に指を当ててその流れを堰き止めた。

「あぁ、なんか今日はよくないね。ごめんなさい暗いこと言って」
笑って終わらせようとして、勢いで紅茶を飲み干し席を立とうとする。

その手を憩くんが掴んで、私はバランスを崩してもう一度ソファに深く座り込んだ。
体制を崩して深く背もたれに当たった背中。

見上げた先には、らしくない真剣な表情で、私の顔を覗き込む憩くんがいた。

「ちょっと、頑なすぎるんだよ」
そう言って彼は、きゅっと優しく、でも強引にその手を引き寄せた。

「おいで」
「え……」

引き寄せられて、あっという間に包み込まれた体に、驚きと戸惑いが混じる。
肩に顎を乗せられて、優しくトントンと頭に触れる温かさに、落ち着いている自分にも驚いた。

だけどすぐに私の理性が立ち上がる。

「ちょっと、離して。私たち、そういうのじゃないでしょ。 男に頼るの嫌いなの」
そんな可愛くない言葉で彼の胸板を押し返す。

だけど、憩くんは、「んー?」とよく分からない言葉を返すだけでその腕を離してはくれなかった。
驚いて力を抜くと、再度きゅっと優しく抱きしめられる。

「自立していたいっていう清花さんの気持ちは分かってるよ。でもさ――」

肩に乗せていた顎が外されてほんの少し、私たちの間に距離が生まれる。
首の後ろで回された腕が組まれて、至近距離に彼の顔が現れた。

今更ながら、整った容姿をしていると思った。
長いまつ毛や垂れた目は優しい印象を与えるけど、骨格はシュッとして男らしい。
ぼんやりと顔を見つめていると、彼はふにゃりと笑った。

「辛いときに、近くにいる人に甘えることって、自立と矛盾する?」
優しく問いかける声に、私は何も言えずに固まっていた。

「俺はいま、辛そうな清花さんを放っておけない。隣にいて優しくしたい。理由なんてそれで十分じゃない?」
あまりにゆるく笑うから、私からも「えー……」と気の抜けた声が漏れた。

「ほら、だからおいで」
ソファに座り直して手招きをする彼に、私は迷いながら、そっと頭を預けた。
もたれかかった肩は広くて、思いの外落ち着いた。

「……っ」
落ち着くと同時に感情が溢れて、溢れ出した涙を憩くんの華奢な指先が拭い取る。

「清花さんの弱いとこ見えるのは、なんか心を許されてるみたいで嬉しいな」
至近距離で憩くんが笑う。

「からかわないでよ」
震える声のまま、強がりの言葉を返すと憩くんは優しく笑ってから続けた。

「恋愛してても結婚してても自立してる人はいるし。逆に、結婚してなくても依存体質な人なんていくらでもいる」
彼の言葉はどこか芯があって、私の凝り固まっていた概念をゆっくりととかしていく。

「清花さんは、こだわる場所ちょっと間違ってると思うよ」
はっきりと言われた「間違っている」という言葉に驚いて顔をあげると憩くんはイタズラっぽく笑っていた。

「自立した女性でいたいなら生涯ひとりでいるんだ。なんて決めつけなくていいじゃん。自立したもの同士一緒に生きていきませんか?ってそういう支え合いだってありえると思わない?」

なんだかずっと抱えていた重たい気持ちを馬鹿馬鹿しく感じる瞬間だった。
気付けば驚きで涙は止まり、私は頭を預けていた体を起こして憩くんを見つめた。

「でもそんなの少数派なことには変わりないよ」
「少数だってゼロじゃないじゃん。価値観が合う男性、意外と近くにいるかもしれないよ?ほら、俺とか」

後半は冗談のような本気のような、見たことのない挑戦的な目をしていた。
調子を取り戻してきた私は、言われっぱなしも悔しくて、少し口を尖らせてから彼に向き直る。

「じゃあ……例えば憩くんは、私と一緒に生きてくれるの?」

半分冗談で半分本気。

彼の挑戦的な目に負けたくないという強がりもあったかもしれない。
でも、今隣にいたいと、私の自立心を分かった上で弱い部分を受け止めてくれた彼と、一緒にいることに魅力を感じてしまったのも事実だった。

憩くんは動揺することもなく、すぐにあっさりと答えた。

「全然あり。清花さんといる時間楽しいし。俺の自由気ままなとこも許してくれそうだし」
その言葉には流石に動揺を隠せず、年甲斐もなく顔を赤らめてしまった。
きっとからかわれてるだけなのに、恥ずかしい。

「判断基準ひどいな〜」
笑いながら視線を逸らすと、逃がさないとでも言うように、彼は私の頬に手を当てて、覗き込んだ。

「そんな可愛い顔するんだ。本気で惹かれそう」
「馬鹿、からかわないでよ!」

じゃれ合うような距離のまま、憩くんはその夜を一緒に過ごしてくれた。
恋人らしい雰囲気なんてなかったはずなのに、なぜかドキドキして、ドキドキするのに落ち着いて、一緒にいることが心地良い。

ベッドに倒れ込んだとき、憩くんの腕が、安心させるように私を包みこんでくれた。
求めてはいけないものだと思って生きてきたから、そのぬくもりは新鮮で、悪くないと思えるものだった。