【文化祭まであと7日!】
黒板横の掲示板に貼られた手作りのカウントダウンカレンダーが、窓から吹き込む秋風によってパラパラとめくれていく。
私、浅田遥が所属する3年2組の教室の中は、間近に迫った文化祭の準備で、やる気と熱気に包まれていた。
そんな、10月半ばの昼休み。
「ちょっと、浅田さん!」
私は、文化祭実行委員長の佐伯璃子さんに怒られていた。
「私、『赤のペンキを持ってきて』って頼んだよね? 何で青なの⁉」
佐伯さんはそう怒鳴るなり、先ほど私が持ってきた新品の青のペンキ缶を勢いよく突き返してきた。
「……っ」
謝らなきゃ。でも、つり上がった佐伯さんの目が怖くて、謝罪の言葉がすぐに出てこない。
それにくわえて教室のあちこちからは、クラスメイトたちの話し声、机をガタガタと動かす音、ビニールテープをはがすビリビリという音――すべてが大きく耳に響いて、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。
思えば、あのときも、教室は今みたいに騒がしかった。
みんなの声や物音が重なって、佐伯さんが言ったのが、『赤』なのか『青』なのかはっきり聞き取れなかったんだ。
『あか』と『あお』って言葉の響きがよく似ているけれど、静かなときはちゃんと聞き分けられる。
でも、賑やかな場所にいると、相手の声が周りの音と混ざってしまって、何を言われたのかわからなくなってしまう。
一応、佐伯さんに確認しようとは思ったけど――本人はすでにバタバタと自分の作業に戻ってしまったから、聞こうにも聞けなくて。
それで、『忙しそうだから早くペンキを持って来てあげよう!』と思って、佐伯さんが頼んだのとは全然違う色のペンキを持ってきてしまったというわけだ。
「ごめん、なさい……」
小声でなんとか謝る私に、佐伯さんは呆れたようにため息をついた。
「まったく、もっとしっかりしてよね。最後の文化祭なんだから!」
……ん? 最後の文化祭?
「それならたぶん、来年もあると思うけど……?」
私が首をかしげた次の瞬間、佐伯さんの口元が引きつった。
眉間にぐっとしわが寄り、片眉がピクッと上がる。
「私たちの中学最後の文化祭だって言ってるの‼ もう、何なの……⁉」
佐伯さんの甲高い叫び声が耳に突き刺さる。思わず両手で耳をふさぎそうになったそのとき。
「あっ、遥。ちょっといいか?」
ふいに、背後からポンと肩を叩かれた。
「湊……!」
振り向くとそこには、私と同じクラスで幼なじみの海堂湊が立っていた。
「あっ、海堂くん!」
佐伯さんが湊に気づくなり前のめりになった。つるんとした白い頬が、ほんのりとピンクに染まっている。
「もう聞いてよ! 浅田さんってば、『赤のペンキ』を頼んだのに、『青のペンキ』を持ってきて……!」
「知ってる」
湊は小さくうなずいて、さらりと流すように返事をした。
「赤のペンキはあとで俺が持ってくるよ。美術準備室にあるやつだっけ?」
「うっ……うん、よろしくね」
さっきとは打って変わって、佐伯さんは穏やかな笑顔を浮かべると、自分の持ち場へと戻っていった。
私はというと、湊に肩を軽く押されるまま、教室の後ろのスペースへ移動した。
「大丈夫か?」
静かなスペースに着くなり、湊が私を気づかう言葉をかけてくれる。
「う、うん。でも、聞き間違えた私が悪いから……」
「次からは気をつければいいんだよ。俺も近くにいるときは、ちゃんとフォローするから」
そう言って、湊はいつもの優しい笑顔を見せてくれた。
この笑顔、小さいころから変わらないな。
私がどんなに失敗しても、どんなに落ち込んでも、『大丈夫』って安心させてくれる。そんな湊の笑顔にほっとする。
「ありがとう、湊。いつも助けてくれて……」
「気にすんなよ。ところで、実は遥に頼みごとがあるんだけどさ」
「頼みごと?」
「ああ。文化祭のときに校内を歩いて宣伝するための、手持ち看板を作るんだけどさ……」
湊はそう言いながら、私に真新しい大きな紙を2枚渡してきた。
どちらもすでに『回』の字みたいに、一回り小さな四角が灰色で薄く描かれている。
「この外側の枠に模様を描いて欲しいんだ」
湊が灰色の四角の周囲を囲う枠を指差した。
「枠に……、模様?」
「そう。線の内側にはみ出さないように描いて欲しい。模様や色は遥の好きなようにしていいからさ」
「本当に?」
さっきみたいに話の聞き間違いからトラブルになるのを避けたくて、湊に念押しするようにたずねる。
「ああ。遥が描いたものなら、きっと見てくれる人たちも興味を持ってくれると思うから。あとこれ、遥が困らないように一緒に渡しておくよ」
湊はそう言うなり、私に1枚のメモ用紙を渡してくれた。
そこには今さっき湊が私に頼んだことと、【完成したら俺に渡して! 湊】というメッセージが、綺麗な手書きの字で書いてあった。
きっと、騒がしい場所で耳から情報を聞き取ることが苦手な私のために、わざわざわかりやすいメモを用意してくれたんだろうな。
「わかった。私、頑張ってみる!」
「サンキュ。じゃあ俺、美術準備室に行くから。そのペンキも戻しておくよ」
「うん、お願い」
私は青のペンキ缶を差し出した。湊はそれを受け取ると、軽く片手を挙げて教室を出る。
よし、私も頑張ろう!
早速、自分の机の上に画用紙を広げて作業を始める。
私たちのクラスの出し物はカフェ。だから、看板の枠に積み重なったレンガのもようを書くことにした。
ネットで調べた積み重なったレンガの写真を参考に、画用紙に薄く下書きしたあと、絵の具で色を塗っていく。
最初は本物のレンガらしく、赤茶色に塗ろうと思ったけど、せっかく湊が『遥の好きなようにしていい』と言ってくれたから、私の好きなパステルカラーにした。
淡いオレンジや黄色に、ピンクに水色、ラベンダー。
現実で見かけるレンガとは違う、ふんわりと優しくて、甘い夢みたいな色合い。
「浅田さん、何してるの?」
ふと、頭の上から誰かの声が降ってきた。顔を上げると、いつの間にか近くに来ていたクラスメイトの女の子と目が合った。
私の手元をのぞき込む大きな宝石みたいな瞳がキラキラと輝いている。あまりにも眩しい視線に、私は思わず下を向いた。
「えっと、レンガに色を塗ってて……」
「レンガ? えっ、めっちゃかわいい!」
思ったよりも大きいその子の声に、興味を持ったクラスメイトたちが私の周りに集まってきた。
「わあっ、綺麗!」
「その色づかい、とってもいいね」
「やっぱり浅田さんの絵って独創性があるよな」
優しいクラスの子たちに褒められて、胸の奥がぽかぽかする。
私は絵を描くのが大好きだ。一人で没頭できるし、音も気にならない。
そして、何よりも『こういう絵を描きたいな』『こんな色で塗りたいな』って自分の頭の中で想像したものを、まっさらな紙に描いていくのが本当に楽しい。
ご飯を食べるのも、時間が過ぎていくのもすっかり忘れてしまうくらい、夢中になってしまう。
――でも、学校ではそういう『一人で何かに打ち込むこと』より、誰かの指示をきちんと聞き取って正しく行動したり、相手の気持ちや場面に合わせて発言することが求められる。
湊や佐伯さんをはじめ、周りのみんなはうまくやれているのに一人だけ上手くできない。
いつも誰かと関わっては、相手に迷惑をかけてしまう。
そんな自分が、心の底から嫌になる。
「はぁ……」
放課後。私は一人で教室に残って、今日の昼休みのことを反省していた。
『赤のペンキを持ってきて』と頼まれたのに、ちゃんと聞き取れずに青のペンキを持ってきてしまったこと。
中学最後の文化祭に向けて真剣に向き合ってる佐伯さんに、『たぶん、来年もあると思うけど……?』なんてとんちんかんなことを言ってしまって、更に怒らせてしまったこと。
『まったく、もっとしっかりしてよね』
佐伯さんの呆れた声が頭の中によみがえって、胸の奥がきゅっと締め付けられたみたいに痛くなった。
「あれ? 遥?」
私以外誰もいないはずの教室に、突然誰かの声が響く。
ハッとして聞こえた方に顔を向けると、湊がドアの所に立っていた。
「まだ残ってたんだ。何かあったのか?」
「えっと、それは……」
「今日の佐伯とのこと、考えてたのか?」
……やっぱり湊にはわかるんだ。
心の内をずばりと言い当てられて、こくんとうなずく。
すると、湊が教室の中に入ってきて、私の隣の席に腰を下ろした。
「聞いて欲しいことがあるなら聞くけど」
透き通った瞳でまっすぐに私を見つめて、穏やかな声でそう言ってくれる。
そんな湊が隣にいてくれるだけで、なんだか少し安心できた。
私は少し間をおいてから、ぽつぽつと話し出した。
「私……。今日、佐伯さんに『もっとしっかりしてよね』って言われたんだ」
「うん」
「私は私なりに頑張っているつもりなんだけどさ。でも、簡単なことすら失敗しちゃうから、やっぱりしっかりしてないんだろうな……」
「いや、それは違う」
湊がゆっくりと首を横に振った。
「俺はちゃんとわかってるよ。遥は毎日、一生懸命頑張ってる」
「でもっ、周りには……」
「大丈夫。きっと、少しずつ伝わるよ」
湊はそう言って、あたたかい笑顔を見せてくれる。
本当にそうなのかな? 正直まだちょっと不安だけど、湊の言う通りになるといいな。
そのあと、私は湊と一緒に帰ることになった。
二人で横に並んで廊下を歩いていたそのとき、空き教室のドアの隙間から、誰かの笑い声が漏れてきた。
誰かいるのかな? 息をひそめて、こっそり隙間から様子をのぞいてみる。
すると、同じクラスの女の子が3人集まっておしゃべりをしている光景が見えた。
一人は佐伯さん、あとの二人は佐伯さんと同じグループの女の子たちだ。
「璃子、今日の昼休み、大変そうだったよね」
「そーそー。あの浅田さんに困らせられてたじゃん?」
「ただでさえ実行委員の仕事があって忙しいのにねえ」
これ、完全に私の陰口で盛り上がってるよね……。
佐伯さんに迷惑をかけてしまった私が悪いから、愚痴っちゃっても仕方ないとは思う。
でも、実際に耳にしてしまうと――、握りしめた拳がぶるぶると震え出して、目からみるみる涙があふれてくる。
「遥、大丈夫か?」
湊が心配そうに私の顔をのぞき込んだそのとき。
「いや、私も悪かったよ」
どういうこと……?
予想とは真逆の佐伯さんの返事に、思わず涙が引っ込んだ。
佐伯さんの友達二人も、「なんで?」と不思議そうに目を丸くしていた。
「今思えば、浅田さんにペンキを持ってくるように頼んだとき、うるさい場所で頼んじゃったんだよね」
佐伯さんが苦笑いをしながら理由を話し出す。その瞳に後悔の色がにじんでいるのを私は見逃さなかった。
「それに、浅田さんが聞き取りづらそうにしてたのを気づいてたのに、忙しいからってスルーしちゃったし。あのあと感情的になって怒鳴っちゃって、本当ひどいことしたよなって思ってる」
「えーっ? 璃子、そんなに気にしてたんだ」
「なんかめっちゃ反省してるじゃん! 意外~」
呆気に取られた友達二人に、佐伯さんは「そりゃそうでしょ。私だって、完璧人間じゃないんだから」と薄く笑った。
「それに、浅田さんも浅田さんなりに文化祭の準備を頑張ってると思う。あのあと、手持ち看板の模様を一生懸命描いてたしね」
「ほら、言ったろ?」
湊がそっと、私の耳元でささやいた。
「遥が一生懸命頑張ってるのは、周りに伝わるって」
「うんっ……」
再び、私の目から涙があふれてきた。さっきみたいにショックを受けてこみ上げてくる涙じゃなくて、温かい嬉し涙だ。
きっと、私はこれからも自分の特性に悩んだり、失敗したりするだろう。
知らず知らずのうちに他の誰かに迷惑をかけて、怒られたり呆れられたりするだろう。
でも、これからも私なりに頑張ってたら、佐伯さんみたいに「あの子、一生懸命だな」って認めて、見守ってくれる人が増えていくかもしれない。
パステルカラーのレンガみたいに、普通とちょっと違っても、「いいね」と褒めてくれたクラスメイトたちみたいに。
まずはそんな自分のことを、優しく受け入れてみよう。
私は小さく息を吸って、決意した。
中学最後の文化祭まであと1週間。――明日からもっと自分なりに向き合って、一生懸命頑張ってみよう。
黒板横の掲示板に貼られた手作りのカウントダウンカレンダーが、窓から吹き込む秋風によってパラパラとめくれていく。
私、浅田遥が所属する3年2組の教室の中は、間近に迫った文化祭の準備で、やる気と熱気に包まれていた。
そんな、10月半ばの昼休み。
「ちょっと、浅田さん!」
私は、文化祭実行委員長の佐伯璃子さんに怒られていた。
「私、『赤のペンキを持ってきて』って頼んだよね? 何で青なの⁉」
佐伯さんはそう怒鳴るなり、先ほど私が持ってきた新品の青のペンキ缶を勢いよく突き返してきた。
「……っ」
謝らなきゃ。でも、つり上がった佐伯さんの目が怖くて、謝罪の言葉がすぐに出てこない。
それにくわえて教室のあちこちからは、クラスメイトたちの話し声、机をガタガタと動かす音、ビニールテープをはがすビリビリという音――すべてが大きく耳に響いて、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。
思えば、あのときも、教室は今みたいに騒がしかった。
みんなの声や物音が重なって、佐伯さんが言ったのが、『赤』なのか『青』なのかはっきり聞き取れなかったんだ。
『あか』と『あお』って言葉の響きがよく似ているけれど、静かなときはちゃんと聞き分けられる。
でも、賑やかな場所にいると、相手の声が周りの音と混ざってしまって、何を言われたのかわからなくなってしまう。
一応、佐伯さんに確認しようとは思ったけど――本人はすでにバタバタと自分の作業に戻ってしまったから、聞こうにも聞けなくて。
それで、『忙しそうだから早くペンキを持って来てあげよう!』と思って、佐伯さんが頼んだのとは全然違う色のペンキを持ってきてしまったというわけだ。
「ごめん、なさい……」
小声でなんとか謝る私に、佐伯さんは呆れたようにため息をついた。
「まったく、もっとしっかりしてよね。最後の文化祭なんだから!」
……ん? 最後の文化祭?
「それならたぶん、来年もあると思うけど……?」
私が首をかしげた次の瞬間、佐伯さんの口元が引きつった。
眉間にぐっとしわが寄り、片眉がピクッと上がる。
「私たちの中学最後の文化祭だって言ってるの‼ もう、何なの……⁉」
佐伯さんの甲高い叫び声が耳に突き刺さる。思わず両手で耳をふさぎそうになったそのとき。
「あっ、遥。ちょっといいか?」
ふいに、背後からポンと肩を叩かれた。
「湊……!」
振り向くとそこには、私と同じクラスで幼なじみの海堂湊が立っていた。
「あっ、海堂くん!」
佐伯さんが湊に気づくなり前のめりになった。つるんとした白い頬が、ほんのりとピンクに染まっている。
「もう聞いてよ! 浅田さんってば、『赤のペンキ』を頼んだのに、『青のペンキ』を持ってきて……!」
「知ってる」
湊は小さくうなずいて、さらりと流すように返事をした。
「赤のペンキはあとで俺が持ってくるよ。美術準備室にあるやつだっけ?」
「うっ……うん、よろしくね」
さっきとは打って変わって、佐伯さんは穏やかな笑顔を浮かべると、自分の持ち場へと戻っていった。
私はというと、湊に肩を軽く押されるまま、教室の後ろのスペースへ移動した。
「大丈夫か?」
静かなスペースに着くなり、湊が私を気づかう言葉をかけてくれる。
「う、うん。でも、聞き間違えた私が悪いから……」
「次からは気をつければいいんだよ。俺も近くにいるときは、ちゃんとフォローするから」
そう言って、湊はいつもの優しい笑顔を見せてくれた。
この笑顔、小さいころから変わらないな。
私がどんなに失敗しても、どんなに落ち込んでも、『大丈夫』って安心させてくれる。そんな湊の笑顔にほっとする。
「ありがとう、湊。いつも助けてくれて……」
「気にすんなよ。ところで、実は遥に頼みごとがあるんだけどさ」
「頼みごと?」
「ああ。文化祭のときに校内を歩いて宣伝するための、手持ち看板を作るんだけどさ……」
湊はそう言いながら、私に真新しい大きな紙を2枚渡してきた。
どちらもすでに『回』の字みたいに、一回り小さな四角が灰色で薄く描かれている。
「この外側の枠に模様を描いて欲しいんだ」
湊が灰色の四角の周囲を囲う枠を指差した。
「枠に……、模様?」
「そう。線の内側にはみ出さないように描いて欲しい。模様や色は遥の好きなようにしていいからさ」
「本当に?」
さっきみたいに話の聞き間違いからトラブルになるのを避けたくて、湊に念押しするようにたずねる。
「ああ。遥が描いたものなら、きっと見てくれる人たちも興味を持ってくれると思うから。あとこれ、遥が困らないように一緒に渡しておくよ」
湊はそう言うなり、私に1枚のメモ用紙を渡してくれた。
そこには今さっき湊が私に頼んだことと、【完成したら俺に渡して! 湊】というメッセージが、綺麗な手書きの字で書いてあった。
きっと、騒がしい場所で耳から情報を聞き取ることが苦手な私のために、わざわざわかりやすいメモを用意してくれたんだろうな。
「わかった。私、頑張ってみる!」
「サンキュ。じゃあ俺、美術準備室に行くから。そのペンキも戻しておくよ」
「うん、お願い」
私は青のペンキ缶を差し出した。湊はそれを受け取ると、軽く片手を挙げて教室を出る。
よし、私も頑張ろう!
早速、自分の机の上に画用紙を広げて作業を始める。
私たちのクラスの出し物はカフェ。だから、看板の枠に積み重なったレンガのもようを書くことにした。
ネットで調べた積み重なったレンガの写真を参考に、画用紙に薄く下書きしたあと、絵の具で色を塗っていく。
最初は本物のレンガらしく、赤茶色に塗ろうと思ったけど、せっかく湊が『遥の好きなようにしていい』と言ってくれたから、私の好きなパステルカラーにした。
淡いオレンジや黄色に、ピンクに水色、ラベンダー。
現実で見かけるレンガとは違う、ふんわりと優しくて、甘い夢みたいな色合い。
「浅田さん、何してるの?」
ふと、頭の上から誰かの声が降ってきた。顔を上げると、いつの間にか近くに来ていたクラスメイトの女の子と目が合った。
私の手元をのぞき込む大きな宝石みたいな瞳がキラキラと輝いている。あまりにも眩しい視線に、私は思わず下を向いた。
「えっと、レンガに色を塗ってて……」
「レンガ? えっ、めっちゃかわいい!」
思ったよりも大きいその子の声に、興味を持ったクラスメイトたちが私の周りに集まってきた。
「わあっ、綺麗!」
「その色づかい、とってもいいね」
「やっぱり浅田さんの絵って独創性があるよな」
優しいクラスの子たちに褒められて、胸の奥がぽかぽかする。
私は絵を描くのが大好きだ。一人で没頭できるし、音も気にならない。
そして、何よりも『こういう絵を描きたいな』『こんな色で塗りたいな』って自分の頭の中で想像したものを、まっさらな紙に描いていくのが本当に楽しい。
ご飯を食べるのも、時間が過ぎていくのもすっかり忘れてしまうくらい、夢中になってしまう。
――でも、学校ではそういう『一人で何かに打ち込むこと』より、誰かの指示をきちんと聞き取って正しく行動したり、相手の気持ちや場面に合わせて発言することが求められる。
湊や佐伯さんをはじめ、周りのみんなはうまくやれているのに一人だけ上手くできない。
いつも誰かと関わっては、相手に迷惑をかけてしまう。
そんな自分が、心の底から嫌になる。
「はぁ……」
放課後。私は一人で教室に残って、今日の昼休みのことを反省していた。
『赤のペンキを持ってきて』と頼まれたのに、ちゃんと聞き取れずに青のペンキを持ってきてしまったこと。
中学最後の文化祭に向けて真剣に向き合ってる佐伯さんに、『たぶん、来年もあると思うけど……?』なんてとんちんかんなことを言ってしまって、更に怒らせてしまったこと。
『まったく、もっとしっかりしてよね』
佐伯さんの呆れた声が頭の中によみがえって、胸の奥がきゅっと締め付けられたみたいに痛くなった。
「あれ? 遥?」
私以外誰もいないはずの教室に、突然誰かの声が響く。
ハッとして聞こえた方に顔を向けると、湊がドアの所に立っていた。
「まだ残ってたんだ。何かあったのか?」
「えっと、それは……」
「今日の佐伯とのこと、考えてたのか?」
……やっぱり湊にはわかるんだ。
心の内をずばりと言い当てられて、こくんとうなずく。
すると、湊が教室の中に入ってきて、私の隣の席に腰を下ろした。
「聞いて欲しいことがあるなら聞くけど」
透き通った瞳でまっすぐに私を見つめて、穏やかな声でそう言ってくれる。
そんな湊が隣にいてくれるだけで、なんだか少し安心できた。
私は少し間をおいてから、ぽつぽつと話し出した。
「私……。今日、佐伯さんに『もっとしっかりしてよね』って言われたんだ」
「うん」
「私は私なりに頑張っているつもりなんだけどさ。でも、簡単なことすら失敗しちゃうから、やっぱりしっかりしてないんだろうな……」
「いや、それは違う」
湊がゆっくりと首を横に振った。
「俺はちゃんとわかってるよ。遥は毎日、一生懸命頑張ってる」
「でもっ、周りには……」
「大丈夫。きっと、少しずつ伝わるよ」
湊はそう言って、あたたかい笑顔を見せてくれる。
本当にそうなのかな? 正直まだちょっと不安だけど、湊の言う通りになるといいな。
そのあと、私は湊と一緒に帰ることになった。
二人で横に並んで廊下を歩いていたそのとき、空き教室のドアの隙間から、誰かの笑い声が漏れてきた。
誰かいるのかな? 息をひそめて、こっそり隙間から様子をのぞいてみる。
すると、同じクラスの女の子が3人集まっておしゃべりをしている光景が見えた。
一人は佐伯さん、あとの二人は佐伯さんと同じグループの女の子たちだ。
「璃子、今日の昼休み、大変そうだったよね」
「そーそー。あの浅田さんに困らせられてたじゃん?」
「ただでさえ実行委員の仕事があって忙しいのにねえ」
これ、完全に私の陰口で盛り上がってるよね……。
佐伯さんに迷惑をかけてしまった私が悪いから、愚痴っちゃっても仕方ないとは思う。
でも、実際に耳にしてしまうと――、握りしめた拳がぶるぶると震え出して、目からみるみる涙があふれてくる。
「遥、大丈夫か?」
湊が心配そうに私の顔をのぞき込んだそのとき。
「いや、私も悪かったよ」
どういうこと……?
予想とは真逆の佐伯さんの返事に、思わず涙が引っ込んだ。
佐伯さんの友達二人も、「なんで?」と不思議そうに目を丸くしていた。
「今思えば、浅田さんにペンキを持ってくるように頼んだとき、うるさい場所で頼んじゃったんだよね」
佐伯さんが苦笑いをしながら理由を話し出す。その瞳に後悔の色がにじんでいるのを私は見逃さなかった。
「それに、浅田さんが聞き取りづらそうにしてたのを気づいてたのに、忙しいからってスルーしちゃったし。あのあと感情的になって怒鳴っちゃって、本当ひどいことしたよなって思ってる」
「えーっ? 璃子、そんなに気にしてたんだ」
「なんかめっちゃ反省してるじゃん! 意外~」
呆気に取られた友達二人に、佐伯さんは「そりゃそうでしょ。私だって、完璧人間じゃないんだから」と薄く笑った。
「それに、浅田さんも浅田さんなりに文化祭の準備を頑張ってると思う。あのあと、手持ち看板の模様を一生懸命描いてたしね」
「ほら、言ったろ?」
湊がそっと、私の耳元でささやいた。
「遥が一生懸命頑張ってるのは、周りに伝わるって」
「うんっ……」
再び、私の目から涙があふれてきた。さっきみたいにショックを受けてこみ上げてくる涙じゃなくて、温かい嬉し涙だ。
きっと、私はこれからも自分の特性に悩んだり、失敗したりするだろう。
知らず知らずのうちに他の誰かに迷惑をかけて、怒られたり呆れられたりするだろう。
でも、これからも私なりに頑張ってたら、佐伯さんみたいに「あの子、一生懸命だな」って認めて、見守ってくれる人が増えていくかもしれない。
パステルカラーのレンガみたいに、普通とちょっと違っても、「いいね」と褒めてくれたクラスメイトたちみたいに。
まずはそんな自分のことを、優しく受け入れてみよう。
私は小さく息を吸って、決意した。
中学最後の文化祭まであと1週間。――明日からもっと自分なりに向き合って、一生懸命頑張ってみよう。


