事故から数日後。
 私はまだ、蓮先輩のことを覚えていない。
 けれど、病室に来てくれるその人――蓮先輩――の存在が、なぜか心を落ち着かせる。

「ひまり……今日は散歩に行こう」

 低く落ち着いた声。
 でも、私は顔を上げて戸惑う。

「……散歩……ですか?」

 蓮先輩は微笑むけれど、いつもより少し切なそうだ。
 手を差し出され、私は自然とその手を取る。
 なぜだか怖くはない。安心する。



 学校の近くの公園。
 桜の木の下を歩くと、風でひらひら舞う花びらが目に入る。
 どこか懐かしい気がするけれど――思い出せない。

「……ひまり、ここ覚えてるか?」

 蓮先輩が問いかける。
 けれど、私の胸の中は空っぽで、何も答えられない。

「ごめんなさい……覚えていません」

 その言葉に、蓮先輩は少しだけ眉を寄せ、でも優しく手を握る。

「いい……大丈夫だ。少しずつでいい。俺が、思い出させる」

 手を握られた瞬間、胸の奥にかすかな温かさが広がる。
 見覚えのないはずのその温もりに、私は自然と頷いてしまった。



 数日後、蓮先輩は毎日のように学校や公園で会ってくれる。
 時には小さなプレゼントをくれたり、手をつないで歩いたり。
 そのたびに、胸の奥にじんわりとした安心感が芽生える。

 ある日、蓮先輩が私の髪にそっと触れながら、ささやいた。

「ひまり……この香り、好きだったんだろ?」

 その瞬間、かすかな記憶が胸の奥で光を灯す。
 どこかで聞いたことのある言葉。
 どこかで感じたことのある温もり。

「……それ……」

 声が震える。思い出せそうで、でもまだはっきりとは思い出せない。

 蓮先輩はにやりと笑い、私を強く抱きしめる。

「いいんだ……少しずつ思い出せばいい。俺が、絶対にひまりを守るから」

 抱きしめられるたび、胸がじんわりと熱くなる。
 記憶はまだ完全に戻っていないけれど、
 この人のそばにいること――その感覚だけは確かに、心に残っていた。