家の玄関を閉めた瞬間、私はゆっくり息を吐いた。
蓮先輩が手を離したのは、家の前の角を曲がるほんの一瞬だけ。
その指先の温度が、まだ手のひらに残っている。
「……はぁ、今日……すごかったな……」
靴を脱いでリビングへ向かう。
家の中は静かで、いつもと何ひとつ変わらない。
なのに、扉を閉めた途端、空気が急に重くなった気がして思わず振り返ってしまった。
誰もいない。
もちろん、いるはずがない。
でも――胸の奥がざわっとする。
(なんで、こんなに……落ち着かないんだろう)
鞄を置いて、自室へ向かう。
制服のポケットに入れっぱなしだった“今日のメモ”が、カサッと音を立てた。
『ひまりちゃん、蓮先輩から離れなよ』
読み返すだけで背中が冷える。
「離れろって……どうして……」
声に出した途端、部屋の空気が少しだけ揺れた気がした。
気のせいだよ、と自分に言い聞かせて、カーテンの隙間から外をちらりと見た。
夕暮れの道がオレンジに染まって、誰もいない。
普通の日常の風景。
(大丈夫……蓮先輩が見ててくれるし……)
そう思って、カーテンを閉める――その直前。
視界の端で、影が動いた。
「…………え?」
ほんの一瞬だった。
誰かが塀の向こうを横切ったように見えて、私は心臓をつかまれたように固まった。
気のせいかもしれない。
でも、確かに“誰か”がいたように思えた。
蓮先輩の「廊下で見てたやつがいた」という言葉がよみがえる。
「……こわ……」
手をぎゅっと握りしめ、部屋の灯りをつけた。
明るくなったのに、安心しない。
むしろ明るいほど、影が濃く見えて怖い。
その時、スマホが震えた。
《蓮先輩:家、ついた?》
画面を見た瞬間、肩から力が抜けた。
息が吸いやすくなる。
文字だけなのに、蓮先輩に触れられたみたい。
《ひまり:つきました。ありがとうございます》
送信後、一拍置いてすぐ既読がついた。
《蓮先輩:本当に? 今、家の前にいないけど》
その言葉に、全身が冷える。
(……え? じゃあ、さっき見えた影は……?)
スマホを握る手が震える。
返事をする前に、また蓮先輩からメッセージが届いた。
《蓮先輩:なにかあった? 声、聞かせて》
怖いのに……
その言葉が、胸の奥を甘く掴んだ。
(蓮先輩に……電話、したい……)
でも同時に、さっき感じた“誰かの視線”が、部屋のどこかにまだ潜んでいる気がしてならなかった。
カーテンの隙間。
ドアの影。
窓ガラスに映る、後ろの暗い部屋。
全部が、自分を見ているように思えた。
「……蓮先輩……」
震えた声で、私は発信ボタンを押した。



