総長は姫を一途に溺愛する。

教室へ向かう足が、朝の校舎に似合わないほど震えていた。
 クラスのざわめきも、廊下の靴音も、全部が遠く聞こえる。

 胸ポケットに入れた紙が、ときどき制服に触れて、まるで「早く見せろ」と言っているみたいだった。

 蓮先輩のクラスは二年生の階。
 階段を上がるたび、視界がにじむ。

(蓮先輩……怒るかな……でも、黙ってるのはもっとだめだよね……)

 教室の前に着いた瞬間、心臓が跳ねた。
 中から楽しそうな笑い声が聞こえる。
 でも、そんな声に紛れて、蓮先輩の声もちゃんと聞こえた。

 私は深呼吸して、勇気を振り絞って扉を少しだけ開く。

「……蓮先輩」

 自分でも分かるほど、声が震えていた。

 教室のざわめきが一瞬で止まり、十数人の視線が一気にこちらへ集まる。

 その中で、蓮先輩が顔を上げた。
 私を見た瞬間――表情が、ふっと変わる。

「……ひまり?」

 椅子から立ち上がり、ゆっくり近づいてくる。
 近づくほど、彼の瞳の色が深く暗くなっていくのが分かった。

「どうした。顔、少し赤い……泣いた?」

「な、泣いては……ない、けど……」

 言い終わる前に、蓮先輩が軽く肩に触れた。
 その指先があまりにも優しくて、逆に涙が出そうになる。

「ひまり、何があった?」

 その声音は、他の誰にも聞かせないような低さだった。
 私は胸ポケットから震える手で、あのメモを取り出した。

「……これが……ロッカーに入ってて……」

 紙を渡すと、蓮先輩は一度も瞬きをせずに読み、ゆっくり息を吸い込む。

 そして――表情が完全に消えた。

「……誰」

 その一言が、教室の空気を凍らせた。

 周りの生徒たちがざわつく。
 黒薔薇組の二年メンバーが三人ほど立ち上がり、蓮先輩の背後に集まる。

「蓮、なにそれ」

「まさか、ひまりちゃんに……?」

「誰だよ、こんなことしたの」

 蓮先輩は返事をしない。
 ただ、紙を指先で握りつぶすように折り、静かに言った。

「――ひまり」

「は、はい……」

「今日、ずっと俺のそばにいろ」

 命令なんだけど、優しい。
 だけど、絶対に逆らえないような熱が混ざっていた。

「離れんな。絶対に」

 その声があまりにも真剣で、胸がぎゅっとなる。
 その瞬間、涙が一粒だけこぼれてしまった。

 蓮先輩は驚いたように目を丸くし、次の瞬間――私の頬にそっと指を添えた。

「泣くな。……守るから」

 その横顔は、優しいのに、どこか壊れそうなほど怒っていて。
 私が震えているよりずっと強く、蓮先輩の心が震えているように見えた。

 教室の誰も、声を出さなかった。

 この人は本気で――
 “ひまりを奪われること”だけは許さないんだ。

 そう、痛いほど伝わった。