君のいない世界で

第一章 すれ違うふたり
雨が降りそうな放課後、優斗は校舎裏でひとり座り込む少女を見つけた。
濡れた地面にスケッチブックを抱え、表情だけがどこか温かい。
「また描いてるの? こんなところで。」
少女――澪は顔を上げ、小さく笑った。
「うん。でも、雨のにおいって好きなんだ。景色が変わる前の静けさが、なんか落ち着くの。」
優斗は首をかしげたまま、その横顔を眺めた。
クラスでも目立たず、誰かと話す姿もあまり見ない。
だけど澪の絵は、世界を抱きしめるみたいに優しかった。
「澪さ、さっき保健室に呼ばれてたけど……大丈夫なの?」
少し間が空き、澪はスケッチブックの角を指でなぞる。
「……うん。大丈夫。平気だよ。」
そう言う笑顔だけが、どこかはかない気がして、優斗は胸がざわついた。

第二章 冬のはじまりと秘密
季節が冬へ変わるころ、ふたりは自然と一緒に過ごす時間が増えていた。
絵を描く澪のそばに座り、優斗は宿題や小さな愚痴をこぼす。
澪はときどきくすっと笑い、そのたびに優斗は胸が温かくなった。
ある日、澪の指先が白く震えているのに気づいた。
「寒い? 手、冷たいよ。」
澪は慌てて手を引っ込めた。
だがその仕草は、隠している何かを明らかにしていた。
「優斗、もし……もし私がいなくなったら、怒る?」
突然の問いに、優斗は言葉を失う。
「何言ってるんだよ。いなくなるなんて……」
澪は首をふり、弱い笑顔を見せた。
「ごめん。ただ、聞いてみたかっただけ。」
その日を境に、澪は時折ぼんやり遠くを見つめることが増えた。
まるで誰にも言えない未来を、ひとり抱えているように。

第三章 告白と約束
クリスマス前の夜、学校帰りのふたりは初雪の中を歩いていた。
街灯に照らされた雪がふわふわ降り、白い世界が静かに広がる。
突然、澪が立ち止まった。
「優斗……私、ずっと言いたかったことがあるの。」
雪の積もり始めた歩道で、澪は深く息を吸う。
「わたし……優斗のことが好き。」
心臓が大きく跳ねる。
優斗は一瞬言葉を失ったが、気持ちはもう答えを出していた。
「俺も……好きだよ。ずっと。」
ふたりは雪の中でそっと手を繋いだ。
その瞬間、澪は涙を流しながら微笑んだ。
「ありがとう……。ずっと言いたかった。
 でも……私ね、長く一緒にいられないの。」
優斗の手が強ばる。
「どういう意味?」
澪は、ようやく秘密を明かした。
「私、重い心臓の病気なの。悪化してて……お医者さんは、先のことは分からないって。」
雪の音だけが、ふたりの足元で静かに積もっていった。
「それでも……一緒にいたい。」
優斗の答えは迷いがなかった。
澪は泣きながら頷いた。

第四章 残された時間
病気はゆっくり、確実に澪の体を奪っていった。
学校を休む日が増え、スケッチブックにも絵を描けない日があった。
それでも優斗は毎日澪を訪ねた。
病院のベッドのそばで宿題をしたり、澪の好きな音楽を流したりした。
「優斗って、ほんとは優しいよね。」
「ほんとはって何だよ。」
「だって、わたしの前だと顔がすごい柔らかいんだもん。」
澪の笑顔はいつも通りだったが、頬は少しずつ痩けていった。
ある日、澪はふらふらしながらベッドの横からスケッチブックを取り出した。
「これ……見てほしいの。」
そこには、優斗の横顔が何枚も描かれていた。
本を読む姿、ふざけて笑う顔、眠そうな朝の顔。
全部、澪のあたたかい線で描かれていた。
「優斗を見てる時間が、一番好きだった。」
優斗は言葉にならず、手を握るしかできなかった。

第五章 最期の春
桜が咲く頃、澪の容体はさらに悪化した。
医者は家族にだけ静かに告げたが、優斗にも察することはできた。
ある晴れた日の午後、澪は優斗に言った。
「ねえ、外に連れて行って。」
医師の許可をもらい、ふたりは病院の庭へ出た。
春の風が澪の髪を揺らし、桜の花びらが優しく舞う。
「優斗……お願いがあるの。」
「言って。」
澪は微笑み、空を見上げた。
「私がいなくなっても、ずっと悲しまないでね。
 忘れないでほしいけど……止まらないで。
 あなたの人生は続くから。」
優斗の手を握る澪の指は、もう力が弱かった。
「忘れないよ。でも、澪が言うなら……前に進む。」
澪は満足そうに目を細めた。
「優斗に出会えて、本当に幸せだった。」
その夜、澪は静かに息を引き取った。
まるで眠るように、安らかな顔のまま。
優斗は泣きながらも、澪の手から離れなかった。

最終章 澪のいない世界で
澪がいなくなっても、季節は変わり続けた。
桜は散り、夏が来て、秋がまた訪れた。
優斗は澪のスケッチブックを大切に持ち歩いていた。
ページをめくるたび、あの優しい線が胸の奥を締めつける。
だがある日、澪の絵を見ていて気づいた。
どの絵にも、澪の“生きたい”という願いが込められていることに。
――悲しむだけじゃ、澪の願いに届かない。
優斗は大学で美術を学び始め、やがて絵の教師になった。
生徒たちに絵を教えるたび、澪がそっと見守っている気がした。
春のある日、桜の木の下で優斗は空に向かってつぶやいた。
「澪、ちゃんと前に進んでるよ。
 でも、君のことは忘れない。」
風がやさしく頬を撫でた。
まるで澪が微笑んでいるように。