旅行から帰宅して数日。
あやめは学校へ戻り、少しずついつもの生活に戻り始めていた。

しかし——
家に帰ると、以前とは明らかに違う空気があった。

特に三男・蒼真。

無口なのに、
いつの間にかそっと近くにいる。

あやめが廊下を歩いていると…
ふいに背後から声がした。

「……危ない」

振り返ると、蒼真の手があやめの腰をそっと支えていた。

「えっ、何が……?」

「床に水滴。滑る」

その水滴はほんの小さなものだったが、
蒼真はあやめの腰に手を添えたまま、
心配そうに見つめていた。

「ありがと……蒼真って、いつも気づくの早いよね」

「……あやめを見るのだけ、得意」

蒼真ははっとしたように目をそらし、
手を離した。

「……ごめん」

「どうして謝るの?」

「近すぎた」

「いや……気にしなくていいよ。ありとね」

蒼真の耳が、ほんのり赤くなった。


その日の夕方。
他の兄弟たちは買い出しや用事で出ていて、
珍しく蒼真と二人きりになった。

あやめがソファで本を読んでいると、
蒼真が静かに隣に座る。

距離が……近い。

「蒼真、何してるの?」

「……あやめが本読むなら、隣にいたい」

「えっ——」

「……だめ?」

「だ、だめじゃない……けど……」

心臓が大変なことになっている。

蒼真は視線を落としながら、本のページをじっと見ていた。

「……声、出して読んで」

「え? 朗読ってこと?」

「うん……聞いてると……落ち着く」

(そんな顔で頼まれたら断れないよ……)

あやめが読み始めると、
蒼真はゆっくり目を閉じ、
少しずつ肩の力が抜けていった。

「……安心する」

「え……?」

「こうしてると……あやめが、ちゃんと生きてる感じがするから」


ページをめくる手元に、
蒼真の指がふわりと触れる。

「蒼真……?」

「……手、震えてる」

「ちょっと緊張してて……」

「理由……教えて」

「それは……」

あやめは言うのを迷った。
でも、蒼真のまっすぐな目が、嘘を許さなかった。

「蒼真と……近くて……緊張するの」

沈黙。

蒼真の耳まで赤くなった。

そして、ゆっくりと…
手の甲であやめの指先を包む。

「……俺も」

「え?」

「いつも平気なのに……あやめの前だと、全部乱れる」

その告白は、声が震えるほどの本気だった。

「無口だから、言えないだけ。
でも……ずっと見てる。
ずっと気にしてる」

距離が、そっと縮まる。

「……あやめのこと、触れたいって思うの……俺だけじゃない?」

息が止まりそうだった。

あやめは、ぎゅっと胸を押さえる。

「……うん。私もだよ」

蒼真はもう一度、あやめの手に触れた。

ほんの少しの触れ合いなのに、
心臓が痛いくらい苦しくなる。

(蒼真って普段大人しいけど……こんなに積極的になれるんだ……)


ガチャッ。

玄関の音。

陽太
「ただいまー! あやめー、買ってきたぞー!」


「おや……ずいぶん距離が近いですね?」

海斗
「これは……どういう状況でしょうか」

優真
「蒼真兄……ずるい……」

蒼真は無表情を装いながら、
ほんの少しだけあやめの手を離した。

「……別に。何もしてない」

陽太
「いや、してただろ!! 顔真っ赤じゃん!」

優真
「ぼくも混ざりたい……」


「蒼真くん、こういう時だけずるいですよ?」

海斗だけは静かに見ていた。

「……三男が動き出すとは、想定外ですね」

なんだか怖い。
でも、嬉しい。

(どうしよう……みんなが甘くて……選べない)

あやめは小さく息を吐いて、胸のどきどきを隠すように笑った。