昭和19年、冬ーー
もう直ぐ春が来る。春が来たら高等女学校は卒業だ。
本当は女子高等師範学校に進学する予定だったが、父に赤紙が届き出征する事となった為断念をした。
「文子」
丸型の反射ストーブの電源を落とし少し早いが就寝しようとした時、襖越しに父が声を掛けてきた。
「お父さん、どうしたの?」
襖を開けると、いつになく深刻な面持ちの父がそこには立っていた。
はんてんを羽織り居間へと行くと、こたつに入った父の向かい側に座る。
「話ってなに?」
こんな時間に一体何事だろうか。
話があるなら夕食時にすれば済む話だろう。
文子は頭に疑問符を浮かべ父の言葉を静かに待つ。
そんな中、ふとある事を思いついた。もしかしたらもう直ぐ母の誕生日なので、その相談かも知れない。そんな事を呑気に考えていたがーー
「実はな、今日……赤紙を受け取った」
「っーー」
父の言葉に頭が真っ白になった。赤紙ーーそれが意味する事は1つであり、出征するという事だ。
「おめでとう、ございます……」
これまで学校でも散々教わってきた。赤紙を受け取るのは誉れだ、お国の為に天皇陛下の為に戦える事は誉れだと。だから赤紙が来ると皆「おめでとうございます」と喜ぶ。だが、文子は今全身が血の気を引いたようになり目眩すらしている。顔が強張り上手く口角が上がらない。
「文子、私はお前の父になれて良かった。……千代と誠一を頼む」
父と文子に血の繋がりはない。文子の実父は幼い頃に病気で亡くなり、その後文子が7歳の時に今の父と実母の千代は再婚した。父には誠一という息子がいて、その時に弟が出来た。
血の繋がりはなくても父は文子を本当の娘のように可愛がってくれ、弟の誠一は未だにお姉ちゃんとは呼んでくれないが大切な家族だ。
「心配しないで。私がお母さんと誠一を守ります」
「大きくなったな……」
父はあまり和かな人ではなく弱音を吐いている所も見た事がない。そんな父が涙声で呟いた。その姿を見て唇を噛む。こたつから出ると、父の横に正座した。
「お父さん。私をお父さんの娘にしてくれて、ありがとうございました」
父はそれ以上なにも言わなかった。
それから父は春が来る前に旅立つ事となった。
見送りの朝、息を吐けば白む程空気は冷たく凍えそうだ。幸い雪は降っていない。
汽車の前に沢山の人々が集まり、白地に祝いと書かれたのぼり旗に小さな日の丸国旗を皆が手にして振っており、誰もが笑みを浮かべ万歳をする。まるでお祭り騒ぎだ。
隣の母を盗み見ればただそこに佇んでいた。弟は無表情で父を眺め、文子は必死に口角を上げた。気掛かりを父に与えてはならない。私が確りしなくては……父と約束したのだから。
ふと少し離れた場所に勇の姿を見つけた。彼は遠目で文子の父の姿を眺めていた。その目は恐ろしい程鋭く見えた。
この時は何故彼があんな顔をしていたのか分からなかった。
それから1ヶ月半が経ち、文子は高等女学校を卒業した。金銭的な事を考え進学を断念した文子は近くの軍需工場で働く事にした。
「幸子ちゃん、本当に後悔してないの?」
「もちろんよ」
高等女学校からの友人の倉持幸子は、迷いなく返事をすると笑ってくれた。薄い茶色の丸い目でこちらを見て、短い黒髪が揺れる。
彼女もまた本来ならば女子高等師範学校へ進学予定だったが、文子が進学しないと知るや否や幸子も進学を取りやめてしまった。更には同じ軍需工場で働くと言い出した。
「うちは文ちゃんと一緒にいられたらそれでいいの! だから、これからも宜しくね!」
羨ましくなる程の彼女の持ち前の明るさに、以前から助けられてきた。そして今もまたそうだ。
仕方がない事だが進学を諦めざるを得なかった文子は少なからず落胆した。更に父の出征を受け責任や寂しさ漠然とした不安を感じている。そして誰にも言えないが、父が無事に帰って来てくれる事を祈ってしまう自分に嫌悪感を覚えてしまう。
私は非国民なんかじゃない。お国の為に命を捧げる事は何においても名誉な事だ。分かっている、分かっているが……どうか生きて帰って来て欲しい。また家族で食卓を囲んでたわいのない話をしたい。
「もう春だねー!」
幸子は桜の木の下で立ち止まり額に手を翳す。淡く優しい木漏れ日に目を細めると、こちらを振り返った。フワリと彼女の白いワンピースの裾が風に揺れる。
もう直ぐ桜の花が咲くだろう。毎年心躍らせて見上げていた桜の花を今年はどんな気持ちで見ればいいのか分からない。
これまで沢山の出征する人達を見送って来た。学校でも家でも日本は神の国だと教わり、天皇陛下は偉大なお方で私達国民はお国の為に天皇陛下の為にある。そんな事は当然で、疑問を持つ事は許されない。そうじゃないと非国民となってしまう。
ただたまに思う。正しさとは何なのかとーー
「春だね」
文子も幸子の隣に並び同じように空を仰ぐ。空はとても眩しかった。



