朝の光は、久遠家の廊下を冷たいほど真っ直ぐに伸ばしていた。
昨日の夜、怜央が口にした「事故の真相」は、光みたいに残酷で、刃みたいに鮮明で――私の胸の奥に、まだ刺さったままだ。
あの人の声、揺れてた……
強いはずなのに……私の前でだけ、少し弱くなるの、ずるい。
起き上がると、窓の外は、嘘みたいに晴れている。
久遠家の朝は、いつも丁寧だ。音ひとつも、無駄がない。
だからこそ、私の胸の中だけが騒がしくて、ひとりだけ取り残されたみたいになる。
「……今日で、終わり」
小さく呟いて、私は左手の薬指を見つめる。
夫婦の証拠品だった指輪は、今朝はやけに重い。
契約満了の日。
妻役は、返却される。
返すだけ。
指輪も、立場も、……優しさも。
それが正しい。
そう思い込まなきゃ、足が動かなくなる。
洗面所で顔を洗い、鏡を見る。
目の下が少し腫れている。昨夜、泣いたせいだ。
泣く資格があるの?と、心の中の冷たい声が囁く。
私は、契約でここにいる人間。
好きになっていいわけがない。甘えていいわけもない。
でも――怜央の顔が浮かぶ。
昨日の夜、全部を話した後で、それでも私を責めなかった目。
私は身支度を整え、持ってきた荷物だけをまとめた。
部屋を出る前に、もう一度だけ室内を見回す。
整えられたカーテン、花の香り、きっちり揃えられたスリッパ。
ここで過ごした朝も夜も、全部、綺麗すぎるほど綺麗で――だから、余計に嘘みたいだ。
廊下へ出ると、使用人たちが丁寧に頭を下げた。
「おはようございます、奥様」
「……おはようございます」
奥様。
その呼び名が、喉に引っかかる。
今日で、私は奥様じゃなくなる。
いや、最初から本当じゃない。……本当じゃないのに。
礼の深さが、私の胸を締め付ける。
私、ここで――本当に妻みたいに扱われてた。
それは優しさだった。
怜央のための嘘を成立させるための、家全体の優しさ。
でも優しさほど、人を簡単に縛るものはない。
階段を下りる途中、ふと足が止まった。
玄関の方から、かすかに紅茶の香りが流れてくる。
朝食の時間――いつもなら怜央の席に紅茶が置かれて、私は妻らしく笑って、他愛ない会話をしていた。
書斎の前で、御堂慎也が待っていた。
いつも通りの黒いスーツ、いつも通りの無駄のない姿勢。
けれど今日は、目だけが少しだけ柔らかい――そう見えた。
「おはようございます、梨音さん」
「……おはよう、ございます」
最後までこの家は、私を丁寧に扱うのだ。
丁寧だからこそ、離れるのが痛い。
御堂は一歩だけ距離を縮め、手を差し出した。
そこには、薄い革のトレーがある。
「本日で契約期間が満了となります。……指輪を、お預かりしてもよろしいでしょうか」
「……はい」
私は、指輪を外した。
外す瞬間、皮膚が少しだけ引っ張られる。3か月、毎日そこにあったものが、肌から離れていく。
小さな金属音が、やけに大きく響いた。
廊下が静かすぎるせいだ。
それとも、心の中が静かになりすぎたせいだろうか。
御堂は指輪を受け取ると、目を伏せたまま言った。
「梨音さん。怜央様は――今朝、外出されました」
「……そう、ですか」
心臓が、無意味に跳ねた。
会わずに出ていくつもりだった。挨拶をしたら、終われなくなる。
でも、彼が屋敷にいないと聞いた瞬間、胸の奥が薄く冷えて、代わりに別の痛みが浮き上がる。
私、最低だ。会えないと分かったら、安心してるのに、寂しいって思ってる。
「……御堂さん」
「はい」
「怜央に、伝えてください。……ありがとうございましたって」
言葉にした瞬間、涙が出そうになって、私は慌てて目を伏せた。
ありがとうなんて、軽すぎる。
3か月分の気持ちを、そんな一言で片付けられるわけがないのに。
「承知しました。……それと」
「え?」
「車は、玄関に用意しております。目的地は――契約書に記載の住所でよろしいですね」
「……はい」
御堂は一拍置いてから、静かに頷いた。
そして、静かに書斎に入っていった。
書斎のドアが閉まる音を背に、私は玄関へ向かった。
指輪がない左手が、妙に軽くて、頼りない。
薬指が、寒い。
振り返らない。
振り返ったら、きっともう一歩が踏み出せない。
今、ここで止まったら――私は契約満了の正しさを裏切ってしまう気がする。
久遠家の玄関は、いつも通り美しい。
ドアノブに手をかけたようとした、その時。
外から、車のブレーキ音が短く響いた。
続けて、駆ける足音。冬の空気を裂くような、焦った気配。
玄関の扉を開けると、私の呼吸が止まった。
「梨音!」
低くて、確かな声。
その声だけで、身体が勝手に動いてしまう。
怜央が立っていた。
外出先から戻ったばかりで、コートの肩に冷たい空気がまとわりついている。髪が少し乱れて、頬がわずかに赤い。
完璧に整った怜央ではなく、急いで戻ってきた男の怜央。
……息、上がってる。
怜央が、走るなんて。
「……どうして……」
私の声が、情けないほど震える。
会いたかったが混ざってしまいそうで、怖い。
怜央は一歩、また一歩と近づいてきた。
それだけで、玄関の空気が変わる。
静寂が、彼の気配に塗り替えられていく。
「出るところだったな」
「……」
「挨拶もなしに、消える気だった?」
責める声じゃない。
ただ、確かめる声だった。
「……怜央は、いないって聞いて……」
怜央は短く息を吐く。
そして、視線を逸らさずに続けた。
「今日は、契約満了の日だろ」
私は頷くしかなかった。
頷いたら、怜央の目がほんの少しだけ細くなる。
「だから、終わらせに来た」
その言い方が、怖かった。
終わらせる――その言葉は、別れの宣告みたいで。
「……っ」
次の瞬間、怜央は玄関の真ん中で、膝をついた。
「……っ、怜央!?な、何して――」
「静かに。聞いてくれ」
低い声に、私の喉が詰まる。
怜央の手の中に、小さな箱がある。
指輪の箱だと分かった瞬間、私の胸がぎゅっと縮んだ。
「……御堂さんに返したはず……」
怜央は箱を開けた。
指輪は御堂に返したものとは別のデザインだった。
光が、朝の玄関の空気に反射して、きらりと跳ねる。
「契約は終わった」
怜央の声が、落ち着いているのに、どこか震えている。
「だから――本当の妻になってほしい」
世界が止まったみたいに感じた。
嬉しいとか、怖いとか、そんな単純な言葉が追いつかない。
ただ、現実が重すぎて、身体が固まる。
「……む、無理です」
やっと出た声は、息を混ぜたみたいに弱かった。
「私は、あなたの身分とは釣り合わない。普通の人間よ……」
「梨音」
「それに、借金返済のため、あなたをだましていた」
言ってしまった瞬間、心臓が痛んだ。
でも、怜央は目を逸らさなかった。
膝をついたまま、静かに言った。
「君が妻役をやってくれていたのは、俺のためでもあった」
「……でも、私は……」
「自分だけを責めないでほしい」
その言葉が、私の胸の奥に落ちる。
熱いのに、苦しい。
「でも、だからって……」
「君と過ごしていたこの3か月」
怜央の声が、少しだけ柔らかくなる。
「俺が君へ向けた気持ちは、本物だった」
私は唇を噛んだ。
涙が出そうになるのを、必死でこらえる。
「……でも、それは」
声が震える。
「あなたが、私を妻だと信じ込んでいたから……」
怜央は、一瞬だけ目を伏せた。
その仕草は、まるで自分の中の何かを、丁寧に拾い上げているみたいだった。
「それだけじゃない」
顔を上げる。
今度の瞳は、揺らいでいる。
強いのに、弱さを隠していない目。
「数ヶ月前、君は記者として俺を取材してくれたよね?」
私の背筋が、ぞくりと震えた。
「……覚えていたの?」
「事故の前までは覚えていたし、昨夜思い出した」
怜央は、箱を持つ手を強く握りしめた。
「君が書いてくれた記事、今までで一番嬉しかったんだ」
「……」
「俺を褒めるだけじゃない。ちゃんと丁寧に取材して、俺の想いを乗せている記事だった」
私の脳裏に、自分が必死で書いた文章が浮かぶ。
締切に追われながらも、彼の言葉を一語も落としたくなくて、何度も録音を聞き直した夜。
久遠怜央は天才外科医――そんな安い言葉で終わらせたくなかった。
彼の冷静さの奥にある、人の命を救うことへの執念と恐れを、ちゃんと書きたかった。
あの記事を、覚えてくれてた……
「これを書いてくれた記者のこと、思い返したんだ」
怜央の声が、少し掠れる。
「君の笑顔、真摯な仕事姿」
「……」
「思い出したら、気になってしまって……気づいたら、もっと君を知りたいと思ってしまっていた……」
怜央は、自嘲みたいに小さく息を吐いて。
「たぶん……惹かれていたんだと思う」
私の目から、堰が切れたように涙が落ちた。
止めようとしても無理だった。
ぽろぽろ落ちて、頬を伝って、指先まで震える。
「……ずるいよ……」
「何が」
「そんなこと、今言うの……」
怜央は、膝をついたまま、少し笑った。
あの完璧な微笑じゃない。
不器用で、必死で、優しい笑い方。
「今じゃないと、君は逃げるだろ」
「……逃げる……」
「君は、いつも自分を後回しにする。俺のため、久遠家のため、契約のため。……自分の気持ちだけ、置き去りにして」
私は首を振った。
違うと言いたいのに、否定の言葉が出ない。
置き去りにしてきたのは、事実だから。
私の気持ちなんて、最初から数に入れちゃいけないって。
そうやって、全部の気持ちを押し殺してきた。
怜央は、指輪を差し出した。
「梨音。俺は、君に救われた」
「……それは事故の時……」
「それも。……でも、それだけじゃない」
怜央の声が低くなる。
「記憶を失って、俺は怖かった」
「……」
「その中で、君だけが安心をくれた」
私は泣きながら笑ってしまった。
自分の方が、もらっていたのに。
彼の優しさに、何度も救われてきたのに。
「……身分差のことは?」
「久遠家のことは、俺がどうにかする」
私は、震える指で自分の頬の涙を拭った。
拭っても拭っても、落ちてくる。
「……私、怖い」
「何が」
「あなたの人生を、私が壊してしまうんじゃないかって」
「壊れない」
怜央が、はっきり言う。
「君は、俺の人生を壊しに来たんじゃない」
「……」
「君は、俺を生かした。俺はそれを、君に返したい」
返す、じゃない。
重ねる、だ。
その言葉の中に、怜央が選ぶ未来がある。
「梨音。……答えて」
「……」
梨音は、指輪を見つめた。
契約の指輪ではない。
これは妻役の証拠品じゃない。
怜央が、今、私のために差し出したもの。
私、ずっと欲しかったのは。
お金ではなくて、あなたが私を選ぶ言葉だったんだ。
「……私でいいの?」
「君がいい」
即答だった。
迷いのない声。
その迷いのなさが、私の中の逃げ道を全部塞いだ。
罪悪感も、身分差も、全部消えるわけじゃない。
でも――それを理由に逃げるのは、もうやめたい。
声が掠れる。
「私、あなたの妻になる」
怜央の喉が、小さく鳴った。
泣きそうな顔をしながら笑っている。
その表情が、私が好きになった怜央そのものだった。
怜央はゆっくり立ち上がり、私の左手を取る。
指先が温かい。確かに人の体温だ。
指輪が、すっと薬指に収まる。
ああ、冷たくない。
指輪って、こんなに温かいものだったっけ。
「契約じゃない」
怜央が囁く。
「これからは、本物だ」
私は、泣きながら頷いた。
そして、もう一度だけ言った。
「……騙して、ごめんなさい」
「騙されたと思ってない」
「……でも」
「君がくれた3か月が、本物だったから」
怜央は、私の額にそっと触れるように指先を置いて、冗談みたいに小さく言った。
「……うちの顧問弁護士は、契約書より婚姻届の方が書類が軽いって言ってた」
「今、それ言う……?」
「泣いてる君を笑わせたかった」
私は涙のまま、息を漏らして笑った。
泣き笑いで、胸が痛いのに、温かい。
玄関の外では、冬の空が澄んでいる。
契約満了の日。
終わりのはずだった日。
でも、私の左手の薬指が、静かに光っていた。
それは終わりじゃなくて、始まりの印だった。
昨日の夜、怜央が口にした「事故の真相」は、光みたいに残酷で、刃みたいに鮮明で――私の胸の奥に、まだ刺さったままだ。
あの人の声、揺れてた……
強いはずなのに……私の前でだけ、少し弱くなるの、ずるい。
起き上がると、窓の外は、嘘みたいに晴れている。
久遠家の朝は、いつも丁寧だ。音ひとつも、無駄がない。
だからこそ、私の胸の中だけが騒がしくて、ひとりだけ取り残されたみたいになる。
「……今日で、終わり」
小さく呟いて、私は左手の薬指を見つめる。
夫婦の証拠品だった指輪は、今朝はやけに重い。
契約満了の日。
妻役は、返却される。
返すだけ。
指輪も、立場も、……優しさも。
それが正しい。
そう思い込まなきゃ、足が動かなくなる。
洗面所で顔を洗い、鏡を見る。
目の下が少し腫れている。昨夜、泣いたせいだ。
泣く資格があるの?と、心の中の冷たい声が囁く。
私は、契約でここにいる人間。
好きになっていいわけがない。甘えていいわけもない。
でも――怜央の顔が浮かぶ。
昨日の夜、全部を話した後で、それでも私を責めなかった目。
私は身支度を整え、持ってきた荷物だけをまとめた。
部屋を出る前に、もう一度だけ室内を見回す。
整えられたカーテン、花の香り、きっちり揃えられたスリッパ。
ここで過ごした朝も夜も、全部、綺麗すぎるほど綺麗で――だから、余計に嘘みたいだ。
廊下へ出ると、使用人たちが丁寧に頭を下げた。
「おはようございます、奥様」
「……おはようございます」
奥様。
その呼び名が、喉に引っかかる。
今日で、私は奥様じゃなくなる。
いや、最初から本当じゃない。……本当じゃないのに。
礼の深さが、私の胸を締め付ける。
私、ここで――本当に妻みたいに扱われてた。
それは優しさだった。
怜央のための嘘を成立させるための、家全体の優しさ。
でも優しさほど、人を簡単に縛るものはない。
階段を下りる途中、ふと足が止まった。
玄関の方から、かすかに紅茶の香りが流れてくる。
朝食の時間――いつもなら怜央の席に紅茶が置かれて、私は妻らしく笑って、他愛ない会話をしていた。
書斎の前で、御堂慎也が待っていた。
いつも通りの黒いスーツ、いつも通りの無駄のない姿勢。
けれど今日は、目だけが少しだけ柔らかい――そう見えた。
「おはようございます、梨音さん」
「……おはよう、ございます」
最後までこの家は、私を丁寧に扱うのだ。
丁寧だからこそ、離れるのが痛い。
御堂は一歩だけ距離を縮め、手を差し出した。
そこには、薄い革のトレーがある。
「本日で契約期間が満了となります。……指輪を、お預かりしてもよろしいでしょうか」
「……はい」
私は、指輪を外した。
外す瞬間、皮膚が少しだけ引っ張られる。3か月、毎日そこにあったものが、肌から離れていく。
小さな金属音が、やけに大きく響いた。
廊下が静かすぎるせいだ。
それとも、心の中が静かになりすぎたせいだろうか。
御堂は指輪を受け取ると、目を伏せたまま言った。
「梨音さん。怜央様は――今朝、外出されました」
「……そう、ですか」
心臓が、無意味に跳ねた。
会わずに出ていくつもりだった。挨拶をしたら、終われなくなる。
でも、彼が屋敷にいないと聞いた瞬間、胸の奥が薄く冷えて、代わりに別の痛みが浮き上がる。
私、最低だ。会えないと分かったら、安心してるのに、寂しいって思ってる。
「……御堂さん」
「はい」
「怜央に、伝えてください。……ありがとうございましたって」
言葉にした瞬間、涙が出そうになって、私は慌てて目を伏せた。
ありがとうなんて、軽すぎる。
3か月分の気持ちを、そんな一言で片付けられるわけがないのに。
「承知しました。……それと」
「え?」
「車は、玄関に用意しております。目的地は――契約書に記載の住所でよろしいですね」
「……はい」
御堂は一拍置いてから、静かに頷いた。
そして、静かに書斎に入っていった。
書斎のドアが閉まる音を背に、私は玄関へ向かった。
指輪がない左手が、妙に軽くて、頼りない。
薬指が、寒い。
振り返らない。
振り返ったら、きっともう一歩が踏み出せない。
今、ここで止まったら――私は契約満了の正しさを裏切ってしまう気がする。
久遠家の玄関は、いつも通り美しい。
ドアノブに手をかけたようとした、その時。
外から、車のブレーキ音が短く響いた。
続けて、駆ける足音。冬の空気を裂くような、焦った気配。
玄関の扉を開けると、私の呼吸が止まった。
「梨音!」
低くて、確かな声。
その声だけで、身体が勝手に動いてしまう。
怜央が立っていた。
外出先から戻ったばかりで、コートの肩に冷たい空気がまとわりついている。髪が少し乱れて、頬がわずかに赤い。
完璧に整った怜央ではなく、急いで戻ってきた男の怜央。
……息、上がってる。
怜央が、走るなんて。
「……どうして……」
私の声が、情けないほど震える。
会いたかったが混ざってしまいそうで、怖い。
怜央は一歩、また一歩と近づいてきた。
それだけで、玄関の空気が変わる。
静寂が、彼の気配に塗り替えられていく。
「出るところだったな」
「……」
「挨拶もなしに、消える気だった?」
責める声じゃない。
ただ、確かめる声だった。
「……怜央は、いないって聞いて……」
怜央は短く息を吐く。
そして、視線を逸らさずに続けた。
「今日は、契約満了の日だろ」
私は頷くしかなかった。
頷いたら、怜央の目がほんの少しだけ細くなる。
「だから、終わらせに来た」
その言い方が、怖かった。
終わらせる――その言葉は、別れの宣告みたいで。
「……っ」
次の瞬間、怜央は玄関の真ん中で、膝をついた。
「……っ、怜央!?な、何して――」
「静かに。聞いてくれ」
低い声に、私の喉が詰まる。
怜央の手の中に、小さな箱がある。
指輪の箱だと分かった瞬間、私の胸がぎゅっと縮んだ。
「……御堂さんに返したはず……」
怜央は箱を開けた。
指輪は御堂に返したものとは別のデザインだった。
光が、朝の玄関の空気に反射して、きらりと跳ねる。
「契約は終わった」
怜央の声が、落ち着いているのに、どこか震えている。
「だから――本当の妻になってほしい」
世界が止まったみたいに感じた。
嬉しいとか、怖いとか、そんな単純な言葉が追いつかない。
ただ、現実が重すぎて、身体が固まる。
「……む、無理です」
やっと出た声は、息を混ぜたみたいに弱かった。
「私は、あなたの身分とは釣り合わない。普通の人間よ……」
「梨音」
「それに、借金返済のため、あなたをだましていた」
言ってしまった瞬間、心臓が痛んだ。
でも、怜央は目を逸らさなかった。
膝をついたまま、静かに言った。
「君が妻役をやってくれていたのは、俺のためでもあった」
「……でも、私は……」
「自分だけを責めないでほしい」
その言葉が、私の胸の奥に落ちる。
熱いのに、苦しい。
「でも、だからって……」
「君と過ごしていたこの3か月」
怜央の声が、少しだけ柔らかくなる。
「俺が君へ向けた気持ちは、本物だった」
私は唇を噛んだ。
涙が出そうになるのを、必死でこらえる。
「……でも、それは」
声が震える。
「あなたが、私を妻だと信じ込んでいたから……」
怜央は、一瞬だけ目を伏せた。
その仕草は、まるで自分の中の何かを、丁寧に拾い上げているみたいだった。
「それだけじゃない」
顔を上げる。
今度の瞳は、揺らいでいる。
強いのに、弱さを隠していない目。
「数ヶ月前、君は記者として俺を取材してくれたよね?」
私の背筋が、ぞくりと震えた。
「……覚えていたの?」
「事故の前までは覚えていたし、昨夜思い出した」
怜央は、箱を持つ手を強く握りしめた。
「君が書いてくれた記事、今までで一番嬉しかったんだ」
「……」
「俺を褒めるだけじゃない。ちゃんと丁寧に取材して、俺の想いを乗せている記事だった」
私の脳裏に、自分が必死で書いた文章が浮かぶ。
締切に追われながらも、彼の言葉を一語も落としたくなくて、何度も録音を聞き直した夜。
久遠怜央は天才外科医――そんな安い言葉で終わらせたくなかった。
彼の冷静さの奥にある、人の命を救うことへの執念と恐れを、ちゃんと書きたかった。
あの記事を、覚えてくれてた……
「これを書いてくれた記者のこと、思い返したんだ」
怜央の声が、少し掠れる。
「君の笑顔、真摯な仕事姿」
「……」
「思い出したら、気になってしまって……気づいたら、もっと君を知りたいと思ってしまっていた……」
怜央は、自嘲みたいに小さく息を吐いて。
「たぶん……惹かれていたんだと思う」
私の目から、堰が切れたように涙が落ちた。
止めようとしても無理だった。
ぽろぽろ落ちて、頬を伝って、指先まで震える。
「……ずるいよ……」
「何が」
「そんなこと、今言うの……」
怜央は、膝をついたまま、少し笑った。
あの完璧な微笑じゃない。
不器用で、必死で、優しい笑い方。
「今じゃないと、君は逃げるだろ」
「……逃げる……」
「君は、いつも自分を後回しにする。俺のため、久遠家のため、契約のため。……自分の気持ちだけ、置き去りにして」
私は首を振った。
違うと言いたいのに、否定の言葉が出ない。
置き去りにしてきたのは、事実だから。
私の気持ちなんて、最初から数に入れちゃいけないって。
そうやって、全部の気持ちを押し殺してきた。
怜央は、指輪を差し出した。
「梨音。俺は、君に救われた」
「……それは事故の時……」
「それも。……でも、それだけじゃない」
怜央の声が低くなる。
「記憶を失って、俺は怖かった」
「……」
「その中で、君だけが安心をくれた」
私は泣きながら笑ってしまった。
自分の方が、もらっていたのに。
彼の優しさに、何度も救われてきたのに。
「……身分差のことは?」
「久遠家のことは、俺がどうにかする」
私は、震える指で自分の頬の涙を拭った。
拭っても拭っても、落ちてくる。
「……私、怖い」
「何が」
「あなたの人生を、私が壊してしまうんじゃないかって」
「壊れない」
怜央が、はっきり言う。
「君は、俺の人生を壊しに来たんじゃない」
「……」
「君は、俺を生かした。俺はそれを、君に返したい」
返す、じゃない。
重ねる、だ。
その言葉の中に、怜央が選ぶ未来がある。
「梨音。……答えて」
「……」
梨音は、指輪を見つめた。
契約の指輪ではない。
これは妻役の証拠品じゃない。
怜央が、今、私のために差し出したもの。
私、ずっと欲しかったのは。
お金ではなくて、あなたが私を選ぶ言葉だったんだ。
「……私でいいの?」
「君がいい」
即答だった。
迷いのない声。
その迷いのなさが、私の中の逃げ道を全部塞いだ。
罪悪感も、身分差も、全部消えるわけじゃない。
でも――それを理由に逃げるのは、もうやめたい。
声が掠れる。
「私、あなたの妻になる」
怜央の喉が、小さく鳴った。
泣きそうな顔をしながら笑っている。
その表情が、私が好きになった怜央そのものだった。
怜央はゆっくり立ち上がり、私の左手を取る。
指先が温かい。確かに人の体温だ。
指輪が、すっと薬指に収まる。
ああ、冷たくない。
指輪って、こんなに温かいものだったっけ。
「契約じゃない」
怜央が囁く。
「これからは、本物だ」
私は、泣きながら頷いた。
そして、もう一度だけ言った。
「……騙して、ごめんなさい」
「騙されたと思ってない」
「……でも」
「君がくれた3か月が、本物だったから」
怜央は、私の額にそっと触れるように指先を置いて、冗談みたいに小さく言った。
「……うちの顧問弁護士は、契約書より婚姻届の方が書類が軽いって言ってた」
「今、それ言う……?」
「泣いてる君を笑わせたかった」
私は涙のまま、息を漏らして笑った。
泣き笑いで、胸が痛いのに、温かい。
玄関の外では、冬の空が澄んでいる。
契約満了の日。
終わりのはずだった日。
でも、私の左手の薬指が、静かに光っていた。
それは終わりじゃなくて、始まりの印だった。



