都心のオフィスビル。
御堂はひとり、画面の前にいた。
机の上には、車両整備会社の資料、事故当時の通信履歴、監視カメラのタイムライン。
そして、専門の調査会社から届いたデータの束。
御堂は、淡々と、しかし容赦なく掘り起こしていく。
感情を挟めば判断が鈍る。これは仕事だ。
だが、その仕事の先にいるのが怜央である限り、手加減など最初から存在しない。
「……出たな」
画面に、ひとつのメールが表示された。
表向きは整備依頼。文面は簡潔。だが添付ファイルに、支払い条件と作業の内容がある。
御堂はファイルを開く。
書かれている単語が、冷たく目に刺さった。
ブレーキ細工。
指示は具体的で、報酬も破格。
そして、送信元のアカウントは偽装されている。
「偽装……当然か」
御堂は、別のファイルを呼び出した。
高嶺家関連の過去のメールログ。
「……ほぼ黒」
唇の内側を噛む。
怜央が昨夜、倒れた。
その前に沙羅が現れた。
偶然?
重なっただけ?
そんな優しい世界なら、御堂はここまで生き残っていない。
確証にするには、もう一段階必要だ。
送信元の端末、経由サーバ、支払いルート、整備担当者の供述。
ひとつでも欠ければ、相手は逃げる。
だが逆に言えば――揃えば終わる。
御堂は静かに電話を取った。
「調査のフェーズを上げます。対象は高嶺側。資金の流れと、当該メールの送信経路の完全特定」
『了解しました』
「証拠保全を最優先。相手に気取られたら意味がない」
『承知しました』
「整備担当者への接触は、こちらの指示待ち。独断で動くな」
『了解です』
電話を切り、御堂はもう一度画面を見る。
そこには、件名のない短い返信が表示されていた。
承知しました。沙羅様のご希望どおりに。
御堂の指が止まった。
「……怜央様」
御堂は画面を閉じた。
仕事用の顔のまま、次の段取りを組み立て始める。
真実を、暴くために。
そして――怜央の世界を、これ以上壊させないために。
久遠家の屋敷は、夜になるほど音が減っていく。
絨毯が足音を吸い、廊下の灯りだけが静かに残る。
「梨音さん」
背後から低い声が落ちる。
振り返ると、御堂慎也が廊下の影に立っていた。スーツの襟元は崩れていない。疲労だけが、目の下に薄い影として出ている。
「怜央様は、眠りました。念のため、今夜はこのまま安静です」
「……ありがとうございます」
礼を言いながら、私は自分の声が少し震えているのに気づいた。
御堂は一拍おいてから、抑えた声で言った。
「少し、こちらへ。お話があります」
案内されたのは、屋敷の奥にある小さな書斎だった。
扉が閉まり、空気が変わる。
「……事故の件、再調査を進めています」
その一言で、梨音の心臓が跳ねた。
「再調査……」
「公式には大雨によるスリップ事故です。ただ、不可解な点がいくつかある。怜央様の車両は、当日の整備履歴が妙に綺麗すぎる。整備工場の担当者も、言葉の端が揃いすぎている」
御堂はノートPCの画面を私に向けた。
メールの画面。件名が短く、淡々としている。
「ブレーキの細工を依頼したメールが見つかりました」
「……っ」
息が止まる。
「送信元は偽装されていますが、繋がりを辿ると、最終的に高嶺沙羅さん側のルートに行き着きます」
私は指先を握りしめた。爪が掌に食い込む痛みで、やっと現実に踏みとどまる。
「沙羅さん……?」
御堂は、冷静に頷いた。
「確定にはもう一段階、証拠を積みます。ただ、状況証拠としては十分です」
「……じゃあ、警察に……」
御堂は、視線を落としたまま言った。
「公表しません」
梨音は目を見開いた。
「え……?」
「久遠家が高嶺家と全面衝突すれば、市場への波及は不可避です。また、警察への正式な告発も、高嶺側の影響下で握り潰されるリスクが高い。――感情で動く局面ではありません」
御堂は静かに続けた。
「ただし、代わりに――婚約は解消します。円満に」
「円満に……?」
私の口から出た言葉は、乾いていた。
御堂は淡々と、しかし一切の迷いなく言う。
「高嶺家には、こちらから選択肢を提示します」
選択肢という言葉が、やけに丁寧で、やけに冷たい。
私は喉の奥が乾くのを感じながら、薬指の指輪を無意識に撫でてしまう。
「事実を公表しない代わりに、沙羅さんと怜央様の婚約を解消する。沙羅さんには社交界からも引退していただき、これ以上の接触は不可。互いの立場を傷つけない形で終わらせます」
淡々と、決裁事項みたいに。
私は思わず口を挟んだ。
「……そんな、勝手に婚約解消してしまって良いのでしょうか?」
声が少し上ずって、自分で自分に驚く。
でも、止められなかった。
「互いの利益のための婚約だったのでしょう?久遠家と高嶺家の……」
御堂は眉ひとつ動かさない。ただ、視線だけでこちらを捉える。
「ええ。政略的な要素は大きい。ですが――」
そこで、ほんの一拍。
御堂は画面を操作し、別の資料を開いた。事故の調査記録とは別のフォルダ。そこに並ぶのは、予定表のキャプチャ、通話履歴、ドラフトの文面。
「事故を調べていく過程で分かったことがあります。怜央様は、沙羅さんに婚約解消の打診をしていました」
「……え」
あまりにも唐突で、脳が追いつかない。
私の口から出たのは、それだけだった。
怜央が、婚約を解消したいって……?
じゃあ、沙羅さんは……
私は息を呑んだ。
怜央が、あんなに完璧に妻として私を見てくれる、その裏で。
本当は、別の人生の扉を閉めようとしていた。
「……でも。昨夜、沙羅さんは会食の場に……」
私が言いかけると、御堂が頷いた。
「昨夜の会食の場に突然現れ、怜央様を混乱させた件。会長夫妻も、あの行動に強い不信感を抱いています」
強い不信感――その言い方が、久遠家の怒りの深さを逆に伝えてくる。
御堂は、いつも通りの低い声で断言した。
「これ以上、彼女を怜央様の近くにいさせるのは危険だと、久遠家は判断しました」
危険。
その二文字が、書斎の灯りを一段暗くした気がした。
私は指輪を握りしめ、唇を噛む。
選択肢、なんて言葉を使っているけれど――これ、実質「婚約解消」の一択じゃない?
私は、PC画面から目が離せなかった。
「……私、どうすれば」
思わず漏れた。
契約妻のはずなのに、当事者のように胸が痛い。
「梨音さん。あなたは、怜央様の『いま』を支えてください」
「……いま」
「怜央様は、あなたを妻だと信じています。信じているというより――縋っている。あの方は強いですが、同時に、壊れやすい」
御堂は、私を見た。
その視線は鋭いのに、不思議と信頼する色があった。
その夜、私は怜央のいるゲストルームへ入った。
間接照明が落とされ、眠りの呼吸だけが静かに続いている。
「梨音……?」
眠っていたはずの怜央が、薄く目を開けた。
焦点が合っていないのに、私の存在だけは迷わない。
「ごめん、起こしちゃった?」
「……いや。いるのが、わかった」
怜央の声はまだ弱い。それでも、安心したように息を吐く。
「……君の顔が曇っている」
梨音は笑おうとして、笑えなかった。
「大丈夫。ちょっと……考え事」
「俺のことか」
この人は、時々怖いくらい鋭い。
「……うん。あなたのこと」
怜央は、枕に沈むように目を細めた。
「なら、考えるのは明日にしろ。今夜は――ここにいて」
命令でもお願いでもない。
ただの、素直な言葉。
私は喉の奥が熱くなるのを必死で堪えて、頷いた。
「うん。いるよ」
その瞬間、偽りの妻でも何でもなく、ただ誰かのそばにいる人間になった気がした。
翌日。
久遠家の応接室には、柔らかな紅茶の香りが漂っていた。
けれど空気は柔らかくない。むしろ、刃物のように静かだった。
高嶺沙羅が入ってくる。
完璧な姿勢。真珠の光。唇に乗せた微笑みは、一昨日と同じ――のはずなのに、目だけが一瞬だけ揺れた。
「久遠家の方はいないの?会長夫妻も怜央様も……。突然呼び出したのに失礼ではなくて?」
笑みは崩さないまま、沙羅が言った。
その声の甘さが、逆に冷たい。
「ええ、もうあなたとは一切お会いしたくないとのことです。そのため、この場のことは私に一任していただきました」
御堂は淡々と答える。
私は壁際に控えていた。ここは自分が口を挟む場所じゃない。
それでも、沙羅の視線が一瞬私に刺さる。
御堂が遮るように一歩前へ出る。
「本日は、両家の今後について整理をさせてください。結論から申し上げます。婚約は解消いたします」
沙羅の睫毛が一度だけ伏せられる。
それから、何事もなかったように顔を上げた。
「……怜央様が、そう望んだの?」
「怜央様の体調を鑑み、久遠家として判断しました」
久遠家として――その一言で、これは個人の恋愛話ではなく、家と家の決裁だと突きつけられる。
沙羅はふっと笑った。
「円満に、ということかしら」
「ええ。円満に」
御堂は淡々と、資料を差し出す。
合意書。今後の接触制限。互いの名誉を守るための条文が、整然と並んでいる。
沙羅は目を落とし、紙に視線を走らせた。
その指先が一瞬だけ震えたのを、梨音は見逃さなかった。
「……ずいぶん準備がいいのね」
「必要な準備です」
御堂は声を落とした。
その低さが、逆に威圧になる。
「こちらも守るべきものがあります」
沙羅の笑みが薄くなる。
「脅し?」
「確認です」
御堂がノートPCの画面を一瞬だけ見せた。
メールのスクリーンショット。件名。短い文面。――十分だった。
沙羅の頬が、ほんのわずか引きつる。
「……そんなもの、偽造でしょう」
「偽造の可能性も含め、調査を継続します。ただし――当家としては、事実を公表する意思はありません。ここで終わらせるなら、ですが」
沈黙が落ちる。
紅茶の香りだけが、場違いに穏やかだ。
沙羅は数秒、動かなかった。
それから、ゆっくりと息を吐いて、紙にペンを置いた。
「……いいわ。円満に解消しましょう」
その言葉は、優雅だった。
でも、瞳の奥は、優雅じゃない。
サインを終えた沙羅は立ち上がり、私の方を見る。
「あなた、覚えておいて」
私は背筋を伸ばした。怖いのに、目は逸らせない。
沙羅は微笑んだまま言う。
「久遠家は由緒正しいお家ですの。怜央様は、あなたのような一般の方が交わるはずのないお方。たまたま妻役を任された程度で、思い上がらないことですわ。身分差という現実は、そんなに甘くありませんの」
去り際に香水の匂いが残った。
甘くて、どこか苦い匂いだった。
御堂はひとり、画面の前にいた。
机の上には、車両整備会社の資料、事故当時の通信履歴、監視カメラのタイムライン。
そして、専門の調査会社から届いたデータの束。
御堂は、淡々と、しかし容赦なく掘り起こしていく。
感情を挟めば判断が鈍る。これは仕事だ。
だが、その仕事の先にいるのが怜央である限り、手加減など最初から存在しない。
「……出たな」
画面に、ひとつのメールが表示された。
表向きは整備依頼。文面は簡潔。だが添付ファイルに、支払い条件と作業の内容がある。
御堂はファイルを開く。
書かれている単語が、冷たく目に刺さった。
ブレーキ細工。
指示は具体的で、報酬も破格。
そして、送信元のアカウントは偽装されている。
「偽装……当然か」
御堂は、別のファイルを呼び出した。
高嶺家関連の過去のメールログ。
「……ほぼ黒」
唇の内側を噛む。
怜央が昨夜、倒れた。
その前に沙羅が現れた。
偶然?
重なっただけ?
そんな優しい世界なら、御堂はここまで生き残っていない。
確証にするには、もう一段階必要だ。
送信元の端末、経由サーバ、支払いルート、整備担当者の供述。
ひとつでも欠ければ、相手は逃げる。
だが逆に言えば――揃えば終わる。
御堂は静かに電話を取った。
「調査のフェーズを上げます。対象は高嶺側。資金の流れと、当該メールの送信経路の完全特定」
『了解しました』
「証拠保全を最優先。相手に気取られたら意味がない」
『承知しました』
「整備担当者への接触は、こちらの指示待ち。独断で動くな」
『了解です』
電話を切り、御堂はもう一度画面を見る。
そこには、件名のない短い返信が表示されていた。
承知しました。沙羅様のご希望どおりに。
御堂の指が止まった。
「……怜央様」
御堂は画面を閉じた。
仕事用の顔のまま、次の段取りを組み立て始める。
真実を、暴くために。
そして――怜央の世界を、これ以上壊させないために。
久遠家の屋敷は、夜になるほど音が減っていく。
絨毯が足音を吸い、廊下の灯りだけが静かに残る。
「梨音さん」
背後から低い声が落ちる。
振り返ると、御堂慎也が廊下の影に立っていた。スーツの襟元は崩れていない。疲労だけが、目の下に薄い影として出ている。
「怜央様は、眠りました。念のため、今夜はこのまま安静です」
「……ありがとうございます」
礼を言いながら、私は自分の声が少し震えているのに気づいた。
御堂は一拍おいてから、抑えた声で言った。
「少し、こちらへ。お話があります」
案内されたのは、屋敷の奥にある小さな書斎だった。
扉が閉まり、空気が変わる。
「……事故の件、再調査を進めています」
その一言で、梨音の心臓が跳ねた。
「再調査……」
「公式には大雨によるスリップ事故です。ただ、不可解な点がいくつかある。怜央様の車両は、当日の整備履歴が妙に綺麗すぎる。整備工場の担当者も、言葉の端が揃いすぎている」
御堂はノートPCの画面を私に向けた。
メールの画面。件名が短く、淡々としている。
「ブレーキの細工を依頼したメールが見つかりました」
「……っ」
息が止まる。
「送信元は偽装されていますが、繋がりを辿ると、最終的に高嶺沙羅さん側のルートに行き着きます」
私は指先を握りしめた。爪が掌に食い込む痛みで、やっと現実に踏みとどまる。
「沙羅さん……?」
御堂は、冷静に頷いた。
「確定にはもう一段階、証拠を積みます。ただ、状況証拠としては十分です」
「……じゃあ、警察に……」
御堂は、視線を落としたまま言った。
「公表しません」
梨音は目を見開いた。
「え……?」
「久遠家が高嶺家と全面衝突すれば、市場への波及は不可避です。また、警察への正式な告発も、高嶺側の影響下で握り潰されるリスクが高い。――感情で動く局面ではありません」
御堂は静かに続けた。
「ただし、代わりに――婚約は解消します。円満に」
「円満に……?」
私の口から出た言葉は、乾いていた。
御堂は淡々と、しかし一切の迷いなく言う。
「高嶺家には、こちらから選択肢を提示します」
選択肢という言葉が、やけに丁寧で、やけに冷たい。
私は喉の奥が乾くのを感じながら、薬指の指輪を無意識に撫でてしまう。
「事実を公表しない代わりに、沙羅さんと怜央様の婚約を解消する。沙羅さんには社交界からも引退していただき、これ以上の接触は不可。互いの立場を傷つけない形で終わらせます」
淡々と、決裁事項みたいに。
私は思わず口を挟んだ。
「……そんな、勝手に婚約解消してしまって良いのでしょうか?」
声が少し上ずって、自分で自分に驚く。
でも、止められなかった。
「互いの利益のための婚約だったのでしょう?久遠家と高嶺家の……」
御堂は眉ひとつ動かさない。ただ、視線だけでこちらを捉える。
「ええ。政略的な要素は大きい。ですが――」
そこで、ほんの一拍。
御堂は画面を操作し、別の資料を開いた。事故の調査記録とは別のフォルダ。そこに並ぶのは、予定表のキャプチャ、通話履歴、ドラフトの文面。
「事故を調べていく過程で分かったことがあります。怜央様は、沙羅さんに婚約解消の打診をしていました」
「……え」
あまりにも唐突で、脳が追いつかない。
私の口から出たのは、それだけだった。
怜央が、婚約を解消したいって……?
じゃあ、沙羅さんは……
私は息を呑んだ。
怜央が、あんなに完璧に妻として私を見てくれる、その裏で。
本当は、別の人生の扉を閉めようとしていた。
「……でも。昨夜、沙羅さんは会食の場に……」
私が言いかけると、御堂が頷いた。
「昨夜の会食の場に突然現れ、怜央様を混乱させた件。会長夫妻も、あの行動に強い不信感を抱いています」
強い不信感――その言い方が、久遠家の怒りの深さを逆に伝えてくる。
御堂は、いつも通りの低い声で断言した。
「これ以上、彼女を怜央様の近くにいさせるのは危険だと、久遠家は判断しました」
危険。
その二文字が、書斎の灯りを一段暗くした気がした。
私は指輪を握りしめ、唇を噛む。
選択肢、なんて言葉を使っているけれど――これ、実質「婚約解消」の一択じゃない?
私は、PC画面から目が離せなかった。
「……私、どうすれば」
思わず漏れた。
契約妻のはずなのに、当事者のように胸が痛い。
「梨音さん。あなたは、怜央様の『いま』を支えてください」
「……いま」
「怜央様は、あなたを妻だと信じています。信じているというより――縋っている。あの方は強いですが、同時に、壊れやすい」
御堂は、私を見た。
その視線は鋭いのに、不思議と信頼する色があった。
その夜、私は怜央のいるゲストルームへ入った。
間接照明が落とされ、眠りの呼吸だけが静かに続いている。
「梨音……?」
眠っていたはずの怜央が、薄く目を開けた。
焦点が合っていないのに、私の存在だけは迷わない。
「ごめん、起こしちゃった?」
「……いや。いるのが、わかった」
怜央の声はまだ弱い。それでも、安心したように息を吐く。
「……君の顔が曇っている」
梨音は笑おうとして、笑えなかった。
「大丈夫。ちょっと……考え事」
「俺のことか」
この人は、時々怖いくらい鋭い。
「……うん。あなたのこと」
怜央は、枕に沈むように目を細めた。
「なら、考えるのは明日にしろ。今夜は――ここにいて」
命令でもお願いでもない。
ただの、素直な言葉。
私は喉の奥が熱くなるのを必死で堪えて、頷いた。
「うん。いるよ」
その瞬間、偽りの妻でも何でもなく、ただ誰かのそばにいる人間になった気がした。
翌日。
久遠家の応接室には、柔らかな紅茶の香りが漂っていた。
けれど空気は柔らかくない。むしろ、刃物のように静かだった。
高嶺沙羅が入ってくる。
完璧な姿勢。真珠の光。唇に乗せた微笑みは、一昨日と同じ――のはずなのに、目だけが一瞬だけ揺れた。
「久遠家の方はいないの?会長夫妻も怜央様も……。突然呼び出したのに失礼ではなくて?」
笑みは崩さないまま、沙羅が言った。
その声の甘さが、逆に冷たい。
「ええ、もうあなたとは一切お会いしたくないとのことです。そのため、この場のことは私に一任していただきました」
御堂は淡々と答える。
私は壁際に控えていた。ここは自分が口を挟む場所じゃない。
それでも、沙羅の視線が一瞬私に刺さる。
御堂が遮るように一歩前へ出る。
「本日は、両家の今後について整理をさせてください。結論から申し上げます。婚約は解消いたします」
沙羅の睫毛が一度だけ伏せられる。
それから、何事もなかったように顔を上げた。
「……怜央様が、そう望んだの?」
「怜央様の体調を鑑み、久遠家として判断しました」
久遠家として――その一言で、これは個人の恋愛話ではなく、家と家の決裁だと突きつけられる。
沙羅はふっと笑った。
「円満に、ということかしら」
「ええ。円満に」
御堂は淡々と、資料を差し出す。
合意書。今後の接触制限。互いの名誉を守るための条文が、整然と並んでいる。
沙羅は目を落とし、紙に視線を走らせた。
その指先が一瞬だけ震えたのを、梨音は見逃さなかった。
「……ずいぶん準備がいいのね」
「必要な準備です」
御堂は声を落とした。
その低さが、逆に威圧になる。
「こちらも守るべきものがあります」
沙羅の笑みが薄くなる。
「脅し?」
「確認です」
御堂がノートPCの画面を一瞬だけ見せた。
メールのスクリーンショット。件名。短い文面。――十分だった。
沙羅の頬が、ほんのわずか引きつる。
「……そんなもの、偽造でしょう」
「偽造の可能性も含め、調査を継続します。ただし――当家としては、事実を公表する意思はありません。ここで終わらせるなら、ですが」
沈黙が落ちる。
紅茶の香りだけが、場違いに穏やかだ。
沙羅は数秒、動かなかった。
それから、ゆっくりと息を吐いて、紙にペンを置いた。
「……いいわ。円満に解消しましょう」
その言葉は、優雅だった。
でも、瞳の奥は、優雅じゃない。
サインを終えた沙羅は立ち上がり、私の方を見る。
「あなた、覚えておいて」
私は背筋を伸ばした。怖いのに、目は逸らせない。
沙羅は微笑んだまま言う。
「久遠家は由緒正しいお家ですの。怜央様は、あなたのような一般の方が交わるはずのないお方。たまたま妻役を任された程度で、思い上がらないことですわ。身分差という現実は、そんなに甘くありませんの」
去り際に香水の匂いが残った。
甘くて、どこか苦い匂いだった。



