崖っぷち女子は屋上で拾ってくれた年下上司とスイーツ革命中

◆ ◆ ◆
 
 冷たい風が頬を切った。手すりに触れた指が震える。

「……っ、オエッ……オエッ……」
押し寄せる吐き気にしゃがみ込んだそのとき──
視界の端で“ありえないもの”が揺れた。

(……え……?)

ビルの下を覗き込む人影。
白いシャツが風を掴む。
その横顔を見た瞬間、全身の血が逆流した。

(ヤマさん!? 本気で……!?)

「きゃああああ!!! やめてーーーーーっ!!!」

反射的に叫んでいた。驚くほど大きな声で。

「クールビューティーで社内一仕事できる人が死んだらダメですーーーー!!
 そんな死ぬほどイケメンならこれから絶対いいことあるってば!!」

悲鳴が屋上に響き渡る。
肩がビクッと跳ね、ゆっくりと彼が振り返った。

「……あー……シマさんか……」
風で前髪を揺らしながら、切れ長の瞳がこちらを捉える。
儚げな顔。なのに、眉がゆるりと下がった。

「やだなぁ……会社のことで俺が死ぬわけないじゃないですか」
「え!!?」
「むしろびっくりして落っこちそうになりましたけど。声デカすぎて」
「ご、ごめんなさい……!」

「いや、いいですけど……しかも俺のこと、“死ぬほどイケメンでクールビューティーで仕事できる”って
 思っててくれたなんて。ワラワラワラカッコ閉じ」
「わらわらわらじゃないですけど!?
ていうか早く戻ってきてくださいよ!!何してたんですか!!」
「お気に入りのハンカチ落としたんで拾ってただけですよ」

軽く手すりを飛び越え、彼はあっさり戻ってくる。
手で前髪を整えながら、ふっと目を細めた。
(……生きてる……よかった……)
たった数分の出来事なのに、戻ってくるまでの時間が永遠みたいに長かった。
心臓がまだ、うまく息をしてくれない。

「……っていうか、シマさんのほうが大丈夫ですか?」
大山さんがポケットに手を突っ込んだまま、少し前屈みになって覗き込む。
「え? 全然余裕ですけど!!」
「顔、真っ青ですよ。立てます?」
(あ……しゃがんだままだ……)

立ち上がろうとした瞬間、足に力が入らない。
指先が震え、呼吸が細くなる。
「……無理そうですね」
彼は自然な動作で膝をついた。
片手で私の腰を支え、もう片方の手を差し出す。

「俺の方にもたれてください」

その声音は淡々としているのに、不思議なほど柔らかい。
差し出された手を取ると、身体がふっと軽くなった。
細身なのに、思ったよりずっとしっかりした腕。

支えられながらベンチまで歩き、腰を下ろすと──
「動かないでくださいね」
そう言い残して、大山さんは自販機へ走っていった。
背中が必死に見えて、いつものクールな印象はどこかへ消えていた。

◆ ◆ ◆

「はい、これ飲んで。落ち着いてください。
 いつものコーヒーじゃきつい気がしたんで。シマさん、これも好きでしょ?」
差し出されたのは、温かいルイボスティー。
缶を持つ指先まで、どこかそわそわしている。
「ありがとうございます! よくご存知ですね。お代はあとで──」
「いらないですよ」
きっぱりとした声に、胸の奥がくすぐったくなる。
一口飲むと、さっきまで震えていた手先が、ゆっくりほどけた。

「ヤマさん先戻っててください。大丈夫なので」
でも、逆に大山さんはしゃがみこんできた。
膝に肘をのせ、まっすぐこちらを見上げる。
「俺としては、勘違いして腰抜かしたシマさんの方が心配なんですけど」
「え?」
「誰よりも仕事してましたもんね。相当つらいですよね」

(そ……そりゃそうだけど……そんな顔で言われたら……)
心の奥の一番触れられたくないところを、そっと撫でられたみたいだった。
「しっかり休んでから、一緒に降りましょう」
その声が優しすぎて、胸がちくりと痛む。
視線をそらした瞬間、彼の長い指がそっと私の髪を払った。
――心臓が、大きく跳ねた。

昼休みいっぱい、彼はそばにいてくれた。
午後に戻ると、オフィスは再び戦場のようで、私はいつも以上に仕事に没頭した。

◆ ◆ ◆

 退勤後。
 
満員電車、帰宅、お風呂、ビール、歯磨き。
全部ルーティンなのに、身体だけが勝手に動いて心が置いていかれる。
 
 そしてベッドに倒れ込んだ瞬間──涙がぽろぽろこぼれた。
「仕事さえあれば大丈夫」
今日までは本気でそう思っていた。
その“支え”が一気に崩れた。
自分が空っぽになってしまうようで……どうしようもなかった。

(大山さん……)

手すりの外にいた横顔。
風に揺れた前髪。
振り返ったときの、消えてしまいそうな表情。
手を引かれたときの強さ。
『シマさんの方が心配なんですけど』と笑った声。
全部が胸の奥で暴れて、息が詰まりそうになる。

(……なんで……こんなに苦しいの……)

恐怖と安堵。
そしてもうひとつ、名前のつかない感情。
混じり合って、ほどけなくて、涙だけが止まらなかった。

濡れた枕に顔を埋めたまま、私は彼のことを思い浮かべながら眠りに落ちた。

◆ ◆ ◆

朝、鏡に映る自分の目の腫れ具合に、思わずため息が出る。
「……ちゃんと仕事しなきゃ」

 出社すると、デスクの上に小さな付箋が置かれていた。
『昨日、ゆっくり休めましたか?
 無理しないでください。──大山』

(……これ……反則でしょ……)
 胸がじわっと熱で満たされる。
ふと遠くの席を見ると、大山さんは冷ややかな声音で部下に指示を出していた。
 クールで、仕事に厳しくて、近寄りがたいのに──
 昨日の彼は、驚くほど優しかった。
(……ああ見えて、本当はすごく優しい人なんだ……)
 知らなかった一面を知っただけなのに、胸の奥がまたちくりと疼いた。