崖っぷち女子は屋上で拾ってくれた年下上司とスイーツ革命中


◆ ◆ ◆

夕暮れの海は、昼間とは別の表情を見せていた。

茜色が徐々に群青に溶け込み、波打ち際で遊ぶ子どもたちの声も遠ざかる。
海岸を照らす光は柔らかく陰り、砂粒の一つひとつまでが静かに沈んでいくようだった。

「……今日、日が沈むまで、見て帰りません?」

思わず、帰ろうとした大山の袖をそっとつまんで引き留める。
大山さんは一瞬、目を瞬かせて驚いた様子を見せるが、すぐに優しい笑みを浮かべた。

「もちろん」

その声に、胸の奥がじんわり温まる。

海の家が閉店準備を始める音、遠くで鳴くトンビの声、潮の香りが混ざる風
――
二人だけの空間に、穏やかな時が流れる。

ふと目を合わせると、無言のうちに互いの存在を確かめ合った気がした。

「まさに残って正解です! 今こそ撮影どきじゃないですか」

「ほんとですね」
夕焼けのグラデーションを背に、ヴィンテージカーと共にシャッターを切る二人。
暗さに手こずって笑い合いながらも、撮影の小さな達成感に胸が膨らむ。


砂浜の堤防に腰を下ろすと、太陽は水平線に沈み、波音だけが静かに響く。
沈黙の中、胸の奥で何かが静かに整っていく。
「……今まで、本当にありがとうございました」
大山さんは眉を上げる。

「私、ヤマさんが連れ出してくれるようになってから、本当にたくさんの素敵なものを知ることができました。
 景色とか、お店とか……
元気になれましたし、人生を見直すきっかけにもなりました」

「改まって、どうしたの?」
「だから……もう、私のことは心配しなくて大丈夫です」

その瞬間、大山さんの表情がふっと陰った。
「……もしかして、もう俺の役目が終わったってことですか?」
「え?」
夕暮れの薄明りの中、彼は小さく笑みを作るが、どこか寂しげだった。
「もう、俺がいなくてもいい、って感じ?」
「い、いえ! そういうわけでは……なくて……」
波の音が少し強くなる。

胸の奥に封じていた思いが、ざわざわと波立つ。

「……あの時期、本当に仕事のことでつらくて、どうしようもなかったのを、
 ヤマさんに助けていただいたので、ちゃんと話したいことがあるんです」
「うん……」
(今、しっかり向き合って、告白したい)

言おうとした瞬間、胸がきゅっと締め付けられ、目の奥が熱くなる。

涙が一粒、頬を伝って落ちた。

「……あの日、屋上で。ヤマさんを見たとき、本当に怖かったんです」

声が震える。
「全部……風に飛ばされてしまいそうで……。
 一瞬でしたけど、本当に心臓が止まるかと思いました」
その言葉に、大山さんはゆっくり身体をこちらに向ける。
表情は柔らかく、けれどどこか苦しげだった。
「……俺のことも、心配してくれてたんだね」

唇を噛む。
あの日胸に刺さった痛みも、今の感謝も、すべて伝えたい。
「はい。あの時期、ヤマさんもとても大変だったと思うのに、
 あれからとても優しくしてくれて、本当に心の底から感謝してるんです」

大山さんが静かに息を吸い込み、言葉を選ぶように語り出す。
「……あの日の屋上で」
私は息をのむ。

「俺、本当にハンカチを拾うだけのつもりだったんだ。

 だけど……下を見た瞬間、

 ふと、楽になれるのかなって……思ってしまって」
その告白に、視界が一瞬にして滲む。
「……そんな……」

熱い涙がつっとあふれ、止めようとしても止まらない。
「そんなの、絶対ダメです!!
 あなたには素晴らしいものがたくさんあるのに!!
 ……いえ、理由なんかなくても……絶対ダメです!」
声が震え、呼吸も乱れる。
涙は止まらず、頬を伝う。
大山さんは、そっと私の頬に手を添えた。

大きな手のひらが、震える頬を包み込み、拭き、撫で、またそっと拭う。

その触れ方ひとつひとつが、優しく、身体中が自然に震える。
「シマさんが……俺を大声で呼んでくれたから、
 ふと引き戻されたというか……」
「……っ!」

嗚咽が漏れる。


やはり、あの日、目にした危うい光景は、思った以上に深かった。

彼は極限の精神状態にありながら、私を気遣ってくれていたのだ。
大山さんは、泣きじゃくる私を見つめ、苦笑しながら言う。
「泣かないで……。

 あの時のシマさん、すんごい悲鳴あげるわ、腰抜かすわで……

 なんか、本当にこの人の方がよっぽど苦しそうだったから〜……

 どうにかしなきゃって思ったら……逆に元気もらってましたよ!」

「ヤマさん……やっぱりヤマさんも本当に大変だったのに、

 ……それでも私のことを助けてくださってたんですね」

「ははは。お互い様ですかね」
涙に震える声で、なんとか言葉を絞り出す。
「……ヤマさん、私……本当に……好きです……」
告げた瞬間、胸の奥で何かがはじけた。
「ずっと言いたかったんです。
 そんなに大変だったのに、大事にしてくれて、
 たくさん可愛い表情見せてくれてたヤマさんの全部が大好きです」


震える声だったけれど、今の自分のすべてを出し切った。

大山さんは、私の涙を親指でそっと拭い、
ほんの一拍置いてから、
ゆっくりとキスをくれた。
目元、頬、そして唇へ。
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。

「……俺も。いや、俺の方が……絶対シマさんのこと、ずーっと好きだったよ」

その声は低く、震えていて、真っ直ぐだった。

「本当は、生きる力や楽しいことをもらってたのは、俺の方だから」
大山さんの腕が、泣いて項垂れた私の頭を包み込む。

胸の中は温かく、安心できて、どうしようもなく好きだという気持ちで満ちた。

「……俺、シマさんが区切りつくまで見守ろうと思ってたのに。
 全然我慢できなかった。会ってる時の我慢もしんどかったけど、
 会えない時間しんどずぎて、、思わずキスしちゃった」

「我慢してくれてたんですね」
「弱ってる時につけ込みたくなかったから。
 まだこんな立ち上がってる最中なのに、付き合い始めて大丈夫ですか?」
「こんな時期だからこそ……支えてくださいよ」
鼻をすすりながら告げると、大山さんは目を細め、そっと抱きしめ直す。
「俺の方も支えてもらってますけどね」

二人はくすっと笑い合い、再びしっかりと抱き合った。

潮風が髪を揺らし、海の音が二人を包む。

温もりに震える胸を抱きしめながら、やっと、すべてが“ここにある”と実感できた。
沈黙の中にある幸せ。

視線を合わせ、呼吸を感じ、手を重ねる。
そのすべてが、二人の距離を一歩ずつ、確かに縮めていく。

――これからも、一緒に歩いていける。