◆ ◆ ◆
就業時間を過ぎ、予定まで少し残って作業していたとき、背後で足音が止まった。
振り返ると、大山さんがミクちゃんの席に腰かけ、こちらに体を向けた。
「シマさん、そんなに仕事ありましたっけ?」
「今日は、もう終わりますよ」
「じゃあ今日、なんで行けないの?」
一瞬、息が止まった。
いつもより低い、落ち着きのない声。 しかも敬語じゃない。
(そんな聞き方、するんだ……)
「……もしかして彼氏?」
「全然いませんけど」
淡々とした声なのに、胸の奥にひやりと落ちる。
不機嫌でも責めるでもない、その温度がいちばん怖い。
「取引先さんと、最後のご挨拶で……」
「……ふーん、そっか」
くるくると椅子を回す。
無邪気な動作のはずなのに、どこか落ち着かない。
「でも、こんな日くらい――」
そのときだった。
オフィスの入り口に、花束が現れた。
「大島さーん! まだお仕事でしたか?」
三品さんだ。 鮮やかな花束を抱えて、弾む笑顔。
ヤマさんが言いかけた言葉が、喉の奥で静かにとまった。
花束を差し出しながら、私たちのあいだに自然と割って入る。
「大島さん、お誕生日、おめでとうございます」
「どうして……ご存知だったんですか?」
「以前、チームの方がお話しされていたので」
「わざわざ、すみません。ありがとうございます」
仲間からの温かい気持ちに胸が詰まる。
同時に、中断されたヤマさんの視線が痛い。
けれど、そちらを見る勇気はなかった。
受け取る手が、わずかに震える。
「では、行きましょうか」
三品さんの軽やかな声が響く。
「じゃあ、そういうわけで。また」
会釈して歩き出した背中に、低い声が落ちてきた。
「……待ってください」
振り返れない。
その温度に触れたら、何かが決壊しそうで。
「まだ終わってない仕事、あるんですけど」
短い沈黙。
(その言い方……引き止めたいのかな……)
「月曜日じゃダメですか?」
困って答えると、三品さんが助け舟のように言う。
「あ!大山さん、いらしたんですね」
今気づいたかのように笑って振り返る。
「残念ながら、今日は一週間前からの僕との約束なので。
邪魔しないでくださいよ」
「こんばんは、三品さん。
最終納期確認のメールまだ来てないですよ」
珍しく、露骨に不機嫌な声だった。
二人の空気が張りつめていく。
「僕のほうも月曜日にしますので〜。それでは〜」
三品さんに背中を押されるようにしてオフィスを出る。
その瞬間、大山さんの表情がほんの一瞬だけ揺れた。 視線が痛い。
(ごめんなさい……見なかったふり、しちゃった)
背中に、熱のような視線がずっと刺さっている気がした。
その温度から逃げるように、エレベーターへ足を踏み入れた。
このすれ違いが、小さな溝になるなんて―― そのときの私は、まだ気づいていなかった。
