君の背中は白いキャンバス

 あれは夏休みに入る少し前の夜のこと。

 高校受験を控えていた私は、大好きな部活に行くのも我慢して、第一志望の高校に合格するため、毎日塾に通って勉強一色の生活を送っていた。

 塾で遅くまで勉強をした後、家に帰ってご飯を食べてからお風呂に入り、友だちとメッセージのやり取りをして、動画のチェックをしたら一日が終わる。

 どこにでもいる、普通の女の子の普通の生活だった。

 それがあの夜の出来事で、全てが変わってしまった。

 頭に残るのは、飛び交う罵声と、パトカーのサイレンの音。

『早く逃げろ!』

 そして私を助けてくれた男の子の必死な声と、力強く手を引いてくれた背中。

 あれ以降もう塾には行っていないし、動画も見る気になれない。

 私は今も暗闇の中に取り残されたまま、部屋に閉じこもっている。

* * * * 

 カーテン越しに柔らかな日差しが差し込み、朝が来たことを教えてくれる。

 一日中ついているクーラーのおかげで、部屋の中はちょうど良い温度が保たれていた。

 部屋に響くのは時計の秒針の音だけで、静かな時間が流れている。

 布団をかぶったま手を伸ばし、枕元のあたりをゴソゴソと探すと、目指していたスマートフォンが指先にぶつかったので、すぐさま布団の中に引き入れた。

 画面をタップして時間を確認すると、朝の八時半であることがわかる。

(そろそろお母さんが仕事に行く時間だ……)

 そう思ったところで、自分の部屋のドアがノックされた。

 開いたドアの向こう側から、お母さんがひょっこりと顔を覗かせる。

「和歌、起きてる? お母さん、そろそろ仕事に行くから。朝ごはんはテーブルの上、昼食は冷凍庫のパスタを温めて食べてね」

 私は布団の隙間から頭だけ出すと、頷いてから手を振った。

「はい、じゃあ行ってくるね」

 ドアが閉まった数秒後、玄関のドアの開閉の音がし、鍵のかかる音が響いた。

 本当は布団から出なきゃいけないのに、出る気になれない。

 勉強しなきゃいけないのに、する気になれない。

 いつになったら元の自分に戻れるのか、それとももう二度と戻ることは出来ないのか、今は想像することすら無理だった。

 その時急にお腹の虫が鳴り、ため息をつきながら布団を持ち上げた。

 昨日の夕飯は食欲がなくて食べなかった。だからこそ、朝はお腹が空いてしまったのだ。

 仕方なくベッドから這い出ると、自分の部屋を出てリビングに向かう。

 お父さんもお母さんも仕事、年の離れたお兄ちゃんは家を出て地方の大学に通っているから、この家にいるのは私一人だけ。

 リビングはレースカーテンが引かれているだけで、私の部屋より明らかに明るく感じた。

 少し眩しくて、目を細めながらダイニングテーブルのそばまで歩いて行くと、トーストとベーコンエッグが一枚のお皿に載っている。

 よだれが出そうになるのをグッと堪えて、ラップをはずそうとした時だった。

 テーブルの上にお母さんのお財布が置いたままになっていることに気付く。

 心拍数が上がって行くのを感じながら、ゴクリと唾を飲み込む。

(お母さん、きっと困ってるはず……)

 でも私は、あの日から一度も家を出ていない。

 それにあの公園の前を通らなければ駅には行けない──そう考えると、体がこわばり、指先が震え始める。

 どうしたらいいのかわからず、お財布を握りしめて、瞳をギュッと伏せた。

(でも……あれからもうすぐ一ヶ月。しかも今は朝だし、駅に行って、お財布を渡したらすぐに帰るくらいなら出来るかもしれない)

 そう言い聞かせ、急いで自分の部屋に戻ると、壁に掛けてあったオーバーオールに着替える。それからスマートフォンをポケットにしまい、帽子を目深にかぶった。

 だが部屋を出て玄関に立つものの、そこで動きが止まってしまう。

 あの日は腕に痣と擦り傷が出来ただけで、大した怪我はなかった。

 問題は見た目ではなく、見えない心に大きな傷を負っていることに気付いたのは、次の日に学校に行こうとした時だった。

 玄関に立った私は、理由もなく溢れる涙と過呼吸に襲われ、その場から動けなくなってしまったのだ。

 ただ学校に行くだけ──のはずが、通学路にあるあの公園での出来事を思い出して、呼吸がままならなくなってその場に座り込んで立ち上がれなくなった。

 それ以来、外に出ることが怖くなり、家に閉じこもって過ごすようになった。

 私は足元の靴を見つめながら、ゆっくりと呼吸を整える。

(大丈夫。きっと大丈夫)

 そう自分に言い聞かせる、勢いよく靴に足を差し入れると、玄関のドアを開けた。

* * * *

 マンションから出てすぐに、お母さんからメッセージが届いた。

『テーブルの上にお財布あった? 忘れちゃったみたい』
『あったから、今駅に向かって走ってる』

 それだけ返信すると、全速力で駅まで走った。大通りに面した歩道は、朝の通勤や通学の人が多く歩いていたが、その隙間を縫うように走り続ける。

 ずっと家にこもっていたからか、すぐに息が上がってしまう。明らかに体力がなくなっていることを実感する。

 息が苦しい、胸が苦しい、お腹がギュッと締め付けられ、めまいがする。

 それでも、あの公園の前で立ち止まるわけにはいかなかった。だって止まってしまったら、たぶん動けなくなってしまうから──。

 公園の前を通り過ぎる時も、決して視線を動かさないようにしながら、ただ前だけを見て必死に走り続ける。

 駅までもう少しという横断歩道の前で、お母さんが心配そうな表情で立っているのが見えた。

 手を上げて『お母さん!』と呼ぼうとしたが、やはり声は出なかった。

「和歌!」

 私がいることに気付いたお母さんが、猛スピードでこちらに駆け寄ってくるのが見え、安心感から立ち止まってしまう。

 お母さんは私の肩をグッと掴むと、顔を覗き込んだ。

「大丈夫なの⁉︎」

 私は笑顔を浮かべて頷いた。そして持っていたお財布を手渡す。

「届けてくれなくても、お母さん、これから取りに戻ろうとしてたのよ! なのに来てくれるなんて……」

 今にも泣きそうな顔をしているお母さんに、これ以上心配をかけないように、スマートフォンをポケットから取り出した。

『意外と大丈夫だったよ。仕事、遅れちゃうよ』

 そう打ち込んだ画面を見せる。

「でも……帰れるの? お母さん、一緒に帰ろうか?」

 私は首を横に振って、再び文章を打ち始める。

『ここまで来られたんだから、ちゃんと帰れるよ。心配しないで』
「でも……」

 このままでは埒があかない。お母さんの肩に手をかけると、体を回転させて駅の方に向かせる。そして背中を押した。

 振り返ったお母さんに、指で丸を作って『オッケー』と伝えてから、手を振った。

「本当に大丈夫?」

 自分のために迷惑をかけるわけにはいかない。とりあえず何度も頷いて、大丈夫だということをアピールする。

「……わかった。でも何かあったら連絡してね」

 私は笑顔で手を振ったけど、お母さんは心配そうに何度も振り返る。

 だから少しでも早く姿が見えなくなるように、一歩ずつ後ろに下がった──だがそれとともに、心拍数が上がっていくのを感じる。

(あぁ、どうしよう……。早く帰らないと……)

 久しぶりに外に出たことに怖さを覚えて、足が動かなくなりそうだった。

 今ならまだ大丈夫な気がする──恐怖のあまり叫ぶことが出来なかったあの日を境に、私は声の出し方を忘れてしまった。

 何度も出そうと試みたけど、喉の奥でストッパーがかかっているかのように、全く声が出る気配はない。

 あの日運ばれた病院の医師からは、『ショックによる一時的なものだろう』と診断したが、一ヶ月が過ぎた今も未だに声が出る気配はなかった。

 だからこそ今何が起きても、助けを求めることは出来ない。

 とにかく早く帰ろうと、家の方向に向かって真っ直ぐに早足で歩き始めた時だった。

「きゃーっ!」

 背後から女性の叫び声がし、驚いて振り返った私の目に、帽子を目深に被り、全身黒い服に身を包んだ男が、六十代くらいの女性からカバンを奪い取る瞬間が目に入る。

 女性はカバンを奪われた反動で地面に叩きつけられたが、視線は男の背中を追いながら、「ひったくりよー! 誰か捕まえてー!」と叫ぶ。

(私が犯人を捕まえる? そんなの無理だよ……!)

 険しい表情の犯人がこちらに向かって走ってくる。その様子を目の当たりにして、足が震え始めた。

 ギラリとした目つきの男が、まるで獲物を見つけたかのような目で私を見つける。恐怖のあまり逃げ出した私の腕を掴み、力尽くで引きずられたあの時の光景が頭をよぎり、呼吸が乱れ始めた。

「邪魔だ! どけっ!」

(逃げられない……捕まる……怖い……!)

 男が勢いよく走ってきたため、私は逃げ道を失い、どうしていいのかわからず目をギュッと閉じて、その場に座り込んでしまう。

 だが何故か痛みや衝撃を感じることはなく、「うっ!」という男の呻き声が耳に届いた。

 恐る恐る目を開けてみると、二メートルほど先のところで、黒ずくめの男の上に乗っかるように、白いTシャツにデニムを履いた少年が倒れている。

 年は私と同じくらいだろうか。黒い短髪が、太陽の光を浴びて輝いて見えた。

 私は何が起きたのかわからずに困惑したが、彼らのさらに1メートルほど先に、先程女性が奪われたカバンが転がっているのが見えた。

 あのカバンを守らなければいけないと思うのに、体が震えて動くことは出来ない。

 だが体よりも気持ちだけは先走り、私は衝動のまま口を開いた。

「か……カバンを守って!」

 私の声が届いたのか、彼は犯人を踏み台にして、高く遠くまでジャンプをした。

「お前はそこでじっとしてろ!」

 私に向かってそう叫ぶと、ものすごい瞬発力でカバンめがけて走り出す。

「待てっ! それは俺のだ!」

 しかし犯人も立ち上がり、叫びながら少年の後を追う。二人の距離が縮まり、犯人の手が少年を捕えそうになると、無我夢中で声を振り絞った。

「後ろー!」

 この時の気持ちや状況、あの時どうやって声を出したのか、後になって考えてみても、答えは出なかった。

 ただ私が叫んだこの一言で、犯人に一瞬の隙ができ、それを待っていたかのように少年の後ろ回し蹴りが、犯人の腹部に命中したのだ。

 カバンがあった場所より、さらに一メートルほど先へ吹っ飛ばされた犯人は、地面に叩きつけられ、お腹を抱えながら動けなくなる。

 そこへカバンを手にした少年が、自身が持っていた手ぬぐいで犯人の手足を縛ると、そこへ警察官が走って駆けつけた。

「ちょっとすみません! どいてください!」

 すると少年は何事もなかったかのようにその場を離れようとしたので、呼び止めようと口を開くが、また声が出なくなっていることに気づく。

(どうしよう……助けてくれたのに、お礼を伝えられないなんて……)

 思わず唇を噛みしめたが、警察官が少年を呼び止め、親しげに話をしているのを見て、不思議な気分になった。

(もしかして知り合いなのかな……?)

 そして犯人から取り返したカバンを警察官に渡そうとした時、衝撃の光景が飛び込んできたのだ。

 少年の左腕に、大きな傷を針で縫ったかのような、生々しい傷跡があることに気づき、ハッとして目を見開いた。

(ちょっと待って……。あの傷ってもしかして……!)

 心臓が大きく弾んだ。彼を引き止めることが出来ないことに悔しさを覚えたが、一つの希望も心に生まれる。

 あの日、私を助けてくれた人の左腕には、ナイフで切られた大きく深い傷があり、大量の血が流れていた。その傷と、彼の傷跡が重なって見えたのだ。

(もしかして、あの日私を助けてくれた人なの……? もし本人なら、私あの日のこともまだお礼が言えてないのに……!)

 しかし彼と話していた警察官が、私に気付いて急いでこちらに駆け寄ってくると、彼はそのまま人混みに向かって歩いていく。

 せっかくお礼を伝えるチャンスだったのに、機会を逃してしまい、落胆を隠すことができなかった。

「君、怪我はないかい? ……って、和歌ちゃんじゃないか!」

 それはあの事件の日にお世話になった、林田さんという警察官だった。三十代半ばの爽やかな笑顔の林田さんは、普段は駅前の交番に常駐している。そしてあの日一番初めに駆けつけ、傷だらけの私を救急車に運んでくれた人だった。

 だけど今はそれどころではなく、彼のことしか頭になかった。

 林田さんの肩越しに見えたのは、走り去る彼の背中で、声を出せない私には引き止める術はなかった。

「まさかまた和歌ちゃんが巻き込まれていたなんて……。それよりどうしてここに? 家から出られるようになったの? 話は出来る?」

 落胆している上、いろいろ質問をされて頭が混乱し、私は力なく首を横に振る。

 だが林田さんが親しげに話していたことを思い出し、私は彼が走り去った方向を指差しながら、必死に意思表示をする。

「ん? あっち?」

 振り返った林田さんには、私が言いたいことがわかったのか、困ったように笑いながらため息をついた。

「今の男の子のこと? あー、うーんと、特に名乗らずにカバンだけ渡して走って行っちゃったんだ」

 あんなに親しげに話していたのに、知らない子のはずがない。疑惑の目を向けるが、林田さんはそれに気付かないフリをした。

(こんなふうにとぼけるなんて、何か話せない理由があるの?)

「もし怪我がないなら、お家まで送るよ。ご両親に電話をした方がいいかな」

 林田さんに言われて、慌てて首を横に振った。今見送ったばかりのお母さんに戻ってきてもらうわけにはいかない。

 気持ちが少し落ち着くと、周りのことにも目がいくようになる。心臓の音のせいで聞こえなくなっていたが、辺りにはたくさんの野次馬がいて、スマートフォンで様子を撮影している人も目に入る。

 慌てて下を向いたけど、もう遅いかもしれない。

(もしSNSに投稿するような人がいたらどうしよう……。あの男が私を覚えていて、動画を見つけて報復に来たらどうしよう……)

 いろいろな考えが頭を回り、再び恐怖が身体中を駆け巡っていく。

「とりあえず今は家まで送るよ。あと念の為、和歌ちゃんのお母さんには連絡をしておくからね」

 それが警察官の仕事だと思えば拒否することは出来ず、私は渋々頷いた。

* * * *

 ひったくり犯から助けてもらった日から、頭にはあの人の背中ばかりが思い出された。

 声変わりをしていた少し低い声。清潔感のある黒い短髪。痛々しい傷の跡。そして何より圧倒的な美しさと強さを感じさせる回し蹴り。

 彼はどんな人なんだろう。背中しか見ていないから、顔まではわからなかった。振り向いて目が合う様子を想像しようとするが、顔は黒く塗りつぶされている。

(次に会えたら、ちゃんとお礼が言いたいな……)

 確証はないにも関わらず、自分を助けてくれた二人は同一人物であると確信していた。

 朝日が昇るよりも前に目が覚めてしまった私は、ベッドに寝転がりながら妄想を繰り返す。

 二度も私を助けてくれた人。どんな人なんだろう。

 ただ気がかりなのは、どうしてあの場所にいたかということ。当事者以外であの事件に巻き込まれたのは、私だけだったはず。

 ということは、彼もあの事件の関係者なのだろうか──だとしても私を助けてくれたという事実は変わらないし、ひったくり犯を捕まえたのも彼なのだ。

 日に日に会いたい気持ちが募っていくのに、彼について何も知らず、知るための手立ても思いつかないことがもどかしい。

 悶々とした気持ちのままベッドの上を転がっていると、ある考えが頭をよぎった。

(そうだ、あの時林田さんは彼と話をしていたし、私が聞いたら、わざととぼけていた。きっと彼のことを知ってるのは間違いないはず)

 もしかしたらまた上手くあしらわれてしまうかもしれない──それでも、今考えられる方法はそれ以外に思いつかなかった。

 突如としてやる気が湧き起こり、私は勢いよくベッドから起き上がると、朝日が差し込み始めたカーテンを開ける。

 眩しさに目を細めながら、気合を入れるように大きく頷いた。

(やらずに後悔するより、やって後悔した方がいいに決まってる!)

 そして机の引き出しから、一度開封しただけの便箋と封筒を取り出して椅子に座り、シャープペンシルを握りしめたら。

* * * *

 身支度を整えて玄関に立った時、いつもと同じように息が苦しくなり、心臓が早く打ち始めた。

(でもここから一歩踏み出さなきゃ、前に進むことは出来ないの!)

 そして靴を履き、ドアノブに手をかけると、力いっぱい押し開けた。

 暑くてもわっとする空気が頬を撫でたが、不快な感じはしなかった。直に感じる太陽の光はじりじりと肌を突き刺し、むしろ生きていることを実感する。

 でも前回と違ったのは、やむを得ない事情で家を出たのではなく、自分から出たいと思ったことだろう。

 だからこそ、緊張や不安を心から追い出して、扉を開けることが出来たのだと思う。

(この間は家を出るだけで必死だったから、こんなふうに感じることは出来なかったけど……やっぱり夏って暑いんだな)

 クーラーが効いた部屋から出なかった一ヶ月。汗をかくことすら気持ちが良い。

 とはいえ、やはり公園の前を通り過ぎる時だけは、どうやっても恐怖心を拭うことが出来ず、足早に進んでいく。

 あともう少し──そう思ったところで、胸が高鳴った。

(あっ、ここって……この間助けてもらった場所だ)

 今は昼間で誰もいない歩道に、颯爽と駆け抜ける彼の幻が見え、胸がぎゅっと締めつけられる。

 怖かった場所なのに、別の感情が湧き始めていた。

 この場所には新しい記憶が刻まれたんだ──心強さを覚え、踏み出した一歩は軽やかな感じがした。

 駅前の交番に着き、ガラスの扉越しに林田さんを見つけてホッと胸を撫で下ろす。

 いつもいるわけでないことはわかっていたが、まだ声が出ないので電話をして確認することが出来ず、一か八かの賭けのような気持ちでここまでやって来た。

 ガラスの向こうで私に気付いた林田さんは、心配そうな表情を浮かべて立ち上がると、慌てて扉を開ける。

「和歌ちゃん! えっ、お母さんは?」

 そう問いかけられ、私は首を横に振る。

「まさか一人で来たの? 大丈夫なのかい?」

 笑顔で頷くと、林田さんは感極まったのか、今にも泣きそうな顔になった。

「そっか……それを聞いて安心したよ」

 私はポケットから小さいサイズのスケッチブックを取り出すと、家で書いてきたメッセージを林田さんに見せる。

『今日は林田さんに聞きたいことがあって来ました』
「聞きたいこと?」

 林田さんはそう言って首を傾げたので、スケッチブックをめくった。

『あの事件の日と、この間のひったくり犯、私を助けてくれた人は同じ人ですよね?』

 文章を読んだ林田さんは困ったように笑い、腕を組んだ。

「どうしてそう思ったんだい?」

 問いかけられ、今度は自分の思いをスケッチブックに綴っていく。

『二人とも、左腕の同じ位置に大きな傷がありました』
「あぁ、なるほど」
『林田さん、仲良さそうに話していましたよね? 彼にお礼を伝えたいんです。あの人のことを教えていただけませんか?』

 スケッチブックを持つ手が震えた。こんなに熱弁したのは久しぶりだし、どこか不安もある。林田さんからの返事が怖かった。

「うーん、ごめんね、これについては口止めされているんだ」

 落胆のあまり、肩の力が抜ける。個人情報だし、そんな簡単にはいかないと思ったが、それでもやはり落ち込んだ。

 もし声が出たら、もう少し食い下がったかもしれない。でも林田さんに迷惑をかけるわけにはいかず、諦めてポケットにしまっておいた封筒を取り出して、林田さんに差し出した。

「手紙? 『私を助けてくれた人へ』……」

 林田さんは受け取りながら微笑む。

「これを渡してほしいってことかな?」

 頷いて、林田さんを真っ直ぐに見つめた。それからスケッチブックを開き、すでに書いてあったページを見せる。

『私の名前は書いていません。相手の名前を教えてくださいとも書いていません。ただ感謝の想いを書いただけです。』
「なるほど。まぁそれくらいなら大丈夫だと思う。じゃあこれは責任持って、僕が渡しておくよ」

 これも断られたらと不安に思っていたから、ホッと胸を撫で下ろす。

「ねぇ和歌ちゃん。和歌ちゃんの第一志望って、確か堂徳学院だったよね」

 突然振られた話題に、首を傾げながら頷いた。あの事件前までは合格判定がAだったが、今は勉強にも身が入らず、志望校を変えることも考え始めていたため、胸が痛かった。

 私の様子を見ていた林田さんは、机の引き出しを開け、中からビニール袋を取り出した。

「これ、あいつに返そうと思ったんだけど、和歌ちゃんに預けておくことにする」

 手渡されたビニール袋の中に入っていたのは、彼がひったくり犯を捕まえた時に、手足を縛るのに使った手ぬぐいだった。

「堂徳学院、絶対に合格しようね」

 念を押すような言葉に、私はハッとした。

(もしかして……あの人は堂徳学院の人なの?)

 顔を上げてみれば、林田さんの満面の笑みが目に飛び込んでくる。

(あぁそっか……そういうことなんだ)

 嬉しくて胸が熱くなる。高鳴る鼓動と共に、気力が湧いてくるのを感じた。

 私は再びメモ帳に文章を書き込み、林田さんに見せる。

『絶対に堂徳学院に受かって、直接お礼を伝えます!』
「うん、頑張って。嬉しい報告を待ってるよ」

 心からの感謝を込めて頭を深々とさげると、林田さんに手を振って交番を後にした。

 家までの足取りが軽く感じる。怖かった公園の前を通過する時、手ぬぐいを胸元で握りしめたら勇気が湧いて来た。

 まるで彼がそばで守ってくれているかのように心強く思えたのだ。

(頑張って勉強しよう。そうすれば、彼にもっと近付けるかもしれないから……)

 青い空を見上げ、拳を握りしめた。

* * * *

 桜が満開の四月。

 私は真新しい制服に身を包み、これから通う高校の門に足を一歩踏み入れた。

 堂徳学院高等学校、とうとうここまでやって来たのだ。

 彼はいるだろうか。何も手がかりがないのに、彼を見つけられるだろうか──そんな弱音を頭から追い出すように、頭を何度も左右に振る。

(大丈夫、私なら絶対に見つけられる。直接お礼を伝えるって誓ったじゃない)

 私は深呼吸をすると、後者に向かって歩き始めた。