さっきから、廊下が妙に騒がしい。誰かがバタバタと駆け抜ける足音がする。どことなく不穏な雰囲気に、ベッドに寝転んだまま、レオは聞き耳を立てる。
(何かあったのか?)
それより、早く仕事に就きたいのに、こうして地下にこもる日々が、ただ漫然と過ぎていくことにレオは焦りを感じる。由衣と共にこの時代で生きていくと決めたのに、無職のままだと由衣の両親に挨拶できない。とはいえ、地上に出て働くとなると、上官達に捕らえられるリスクがある。にっちもさっちもいかない状況だ。
だからといって、いつまでもマサトの厚意に甘えたままでいるのも心苦しい。
レオは溜め息をつく。
ノックの音がした。レオは半身を起こし、
「開いてるよ」
ドアが開き、マサトが顔を出す。
マサトの青ざめた面持ちをみて、ただごとではない何かが起こったと、レオは感じた。
マサトはレオのもとに来ると、
「大変なことになった。マコトが上官達に捕まった」
「えっ、ホントかよ! 何で、マコトが……」
「仕事から帰ってきて、ここの近くで捕まったそうだ。たまたまその場面を、仲間が見てたって」
レオはドキリとする。
「まさか、奴らはここの場所、分かったのか?」
「イヤ、近くとはいっても、橋の向こう側だから、かなり距離は離れてるから、ここの場所は分からないと思う」
レオは途端に不安になる。
ひとごとではない。自分もまた、上官達に追い詰められる可能性は大いにある。
「マコトって、ここに逃げてきてからどれくらい経ってるの?」
レオが聞く。
「確か、まだ半年くらいだね」
「そっか、半年経っても、まだ奴らは諦めてはいないんだな」
「それがさ、もしかしたら誰かが陰で何かしてるんじゃないか、って思うんだ」
マサトは腕を組み、神妙な顔をする。
「えっ、そんなこと、あるのか?」
「さっき食堂で、皆でマコトが捕まった話しをしてたら、アキラが1人ほくそ笑むのを見てしまったんだ。仲間が捕まったのに笑うなんて、どう考えてもおかしいだろ」
「それは、確かにおかしいな。何かたくらんでいるのかな」
「う~ん、きっと何かあるんだろうな。ちょっとアキラを問い詰めてみるか」
マサトの提案にレオは同意し、2人はアキラの部屋に向かった。
「アキラ、いるのか?」
ドアをノックしながら、マサトが声をかける。
「今、開けるよ」
やや、ぶっきらぼうな声音でアキラがドアを開ける。
「何? 疲れてるから、もう寝ようと思ってたんだよ」
「そっか、悪いな。ちょっと聞きたいことがあるんだ。すぐ終わるよ」
マサトは強引に部屋に入る。レオも後に続く。マサトは早速、本題に入る。
「さっき、マコトが上官達に連れ去られて行った話しを皆でしてた時、アキラ、お前笑ってなかったか? どう考えたって、笑う場面じゃないだろう」
「あぁ、何だ、そんな話しか。気のせいじゃないのか? 俺は笑った記憶なんかないよ」
無表情でアキラは言った。
即座にマサトが言い返す。
「イヤ、気のせいなんかじゃない。僕は、しっかりと見たよ。アキラ、お前、何かたくらんでいるんじゃないのか?」
アキラは、あからさまに嫌な顔をし、
「変な言いがかりはやめてくれ! 俺に何か恨みでもあるのか?」
マサトは、アキラの目を見据える。
レオはマサトの隣で、アキラに疑惑の目を向けていた。アキラが笑っていた現場を見ていないが、どことなく胡散臭い。
妙にムキになるのも変だ。でも、笑っていたという証拠がないから、突っ込みを入れる上手い言葉が見つからない。
「マコトは気の毒だが、俺達は何もできない。手の施しようがないよ。じゃあ、ホント疲れてるから、もう寝るから、1人にしてくれないか?」
「分かったよ。とりあえず、今日はもういい」
そうマサトが言うと、レオと共に部屋を出る。アキラは不機嫌な顔でドアを閉めた。
マサトはレオに問う。
「どう思う?」
「う~ん、ちょっと怪しいといえば怪しい。だけど、追求するには材料が足りない」
「そうなんだよな。少し泳がせるしかないな。あっ、レオ。ちょっと僕の部屋に来てくれる?」
2人はマサトの部屋に向かう。
部屋に入ると、マサトは鍵をかけ、
「アキラが何か企んでるのか?って、思いたくはないんだけど、あいつが犯してきた罪を考えると、どうしても白い目で見てしまう」
「罪? アキラ、過去に何か、やらかしたのか? 僕とは違う部隊だったから、アキラのことは何も知らないんだ」
レオは驚きをあらわにする。
「あぁ。兵役に就く前の話しだけどな」
2人は各々、床に座る。
マサトが小声で話し始める。
「仲間から聞いたんだが、アキラ、殺人未遂の罪に問われたことがあったそうだ」
「えっ?! ホントか? アキラ、見た目はおとなしそうに見えるから、意外だな!」
マサトが即座に、唇の前で人差し指を立てる。
「あっ、ごめん。声が大きかった」
レオは首をすくめる。
「万が一、誰かに聞かれると良くないからね。アキラ、兵役に就く前は高校を中退して、空を飛ぶ車の整備士をしてたらしい。普段から同僚達との仲が悪かったみたいだ。何があったのか詳しいことは分からないが、恨みを募らせて、犯行に及んだそうだ。まずは、一番恨んでた同僚を真っ先にナイフで差して、それから次々と同僚を刺したんだ。騒ぎに気づいた社長が制止させようとして、そうしてるうちに警察が駆けつけてアキラを逮捕した、と聞いた」
レオは同情と敵意がない交ぜになり、
「なるほど、そうだったんだ。人は見た目では、分からないんだな」
「そうだな。その後、服役を終えて兵役に就いたそうだ」
全科があるだけで、どうしても色眼鏡でアキラを見てしまう。だからといって、今回マコトが上官達に連れ去られた件に、アキラが関与してるとは言いきれないが。
「どうしてもアキラを勘ぐってしまうから、できればアキラにここから出て行ってほしいが、無理やり追い出すわけにもいかないし」
マサトが苦々しい顔で言う。
「そうだな。もう少し様子を見るしかないだろうな。何かいい策なんて、今すぐ思いつかないし」
頷きながら、レオは言う。
2人は腕を組み、しばし複雑な面持ちでいた。
※ ※ ※
マコトが上官達に連れ去られ、その数日後、またもや仲間に上官達の魔の手が迫った。
レオとマサトは車で食料品の買い物に出かけ、その帰り道のことだった。
助手席で車窓を何気なく眺めていたレオは、ハッとした。前方に迫ってきた歩道橋の上に、例の迷彩色の軍服が見えたのだ。
(奴ら、また来やがった!)
「マサト、あいつら、また現れたよ!」
レオは歩道橋を指差す。
「えっ、また来たのか?」
マサトはレオが指差す方向に目を向ける。
「そうだな。あの軍服の2人は、上官に違いない」
「どうする?」
レオが聞く。
「どこに行くのか、様子を見ながら後をつけてみるか」
マサトは一旦、車を路肩に停めると、
「あれ? 奴らの前方にいるの、コウジじゃないか?」
マサトの言葉に、レオは前方を凝視する。
「あっ、そうかもな。奴ら、コウジを狙ってるのか!」
「ヤバいな。コウジを助けるとしても、車を停めている間に、奴らに追い付かれるよな。どうしようか」
マサトは一時、考え込む。レオも、どうするべきかと考える。自分達も奴らに捕まったら、どうしようもない。が、いい案が思い浮かばない。
そうだ、とマサトが声を上げる。
「思い切って、奴らを車で跳ねてやろうか?」
「えっ、マサト、本気か?」
「うん。だってコウジを助けるには、それしか方法がないよ」
「う~ん。危険だけど、僕達まで捕まりたくないしな。でも、奴ら死んでしまう可能性もあるんじゃないのか?」
「それならそれで、仕方ないんじゃないのか? 奴らは未来の人間だから、仮に死んでしまっても身元不明になるだろうし、僕らに警察の捜査の手は及ばないと思うよ」
マサトの言う通りかもしれない、とレオは納得する。
「よし! じゃあ、決行しよう。うかうかしてると、コウジが捕まってしまう」
マサトは車を発進する。徐々にスピードを上げる。
上官達は歩道橋を下りて、歩道を歩いている。その前方を歩くコウジは、上官達の存在に気づいたらしく、慌てて走り出したところだった。
(マサトは、上手く上官2人を跳ね飛ばせるだろうか?)
レオは緊張する。失敗すると、上官達に捕まってしまう恐れがある。
「マサト、大丈夫か?」
「うん、思い切って行くぞ!」
マサトは前を見据え、自分自身に発破をかけるかのように言うと、グッとアクセルを踏んだ。
唸るエンジン音に気づいたのか、歩道を早足で歩く上官達が振り返った。
マサトは上官達を目がけて、車を暴走させた。
肉体に鉄の固まりが勢いよくぶつかる、ドン! という鈍い音がした。
レオは一瞬、目を瞑った。再び目を開けると、上官達は数メートル飛ばされ、地面に叩きつけられた。
凄まじい物音に振り返ったコウジが、地面に叩きつけられた上官達を見て、目を丸くする。
マサトは窓を開けると叫んだ。
「コウジ! 早く車に乗れ!」
コウジは頷き、急いで車に駆け寄ると、後部座席に乗り込む。
マサトはすぐさま、車を発進させた。
上官達は、地面に叩きつけられたままだった。
たまたま、交通量が少ない間の出来事だったため、誰にも見られてはいないと思うが、それでもやはりレオは不安だった。今にもパトカーがサイレンを鳴らしながら現れるのではないかと。
「マサト、ありがとう。助かったよ」
コウジが礼を言う。
「いや、礼には及ばないよ。ちょうど僕らが通りかかって良かったよ」
「奴ら、死んでしまったのかな?」
レオが呟く。
「さあ、どうかな。あの勢いでぶつかったから、ダメかもしれないな。戻って確かめてみるか?」
マサトの言葉に、レオは言う。
「死んでしまっても構わないが、もし生きてると、報復とかされたらイヤだな」
「うん、確かに気にはなるな。戻って確かめてみるか」
そうマサトは言うと、車をUターンさせる。上官達を跳ね飛ばした辺りに近づくと、地面に座り込んでる上官達が見えた。
「何だ? 奴ら死んでないのか?」
マサトが大声を出す。
レオは上官達をじっと見る。遠くからだと、どれだけ怪我してるのかは分からない。
上官達の横を通り過ぎる瞬間、レオは注意深く目を向ける。1人は額から出血し、もう1人は腰に手を当てて、顔を歪めている。瀕死の状態ではなさそうだ。
「奴ら、化け物か? あんな勢いでぶつかったのに、何で死なないんだ? ロボットなのか?」
マサトが呆れた顔で言う。
「信じられない……」
コウジは唖然としている。
「不思議だ、何であんなに強靭なんだ」
レオも同調する。
「もう1度、跳ね飛ばしたいところだけど、さっきより交通量が多くなってるし、誰かに目撃されると大変だからやめておくよ」
そうマサトは言うと、コンビニの駐車場に入り、車をUターンさせる。
「それにしても、この前マコトが連れ去られたばかりだし、最近頻繁に奴らが現れるな。いったい、どうなってるんだ。油断できない状況になってる」
レオは忌々しい口調で言う。
「そうだよな。今の時代に住み始めた年数に関係なく、奴らは皆を未来に連れ戻そうとしてるんだろうか? でも、絶対捕まらないようにしないとな!」
自分に言い聞かせるように、マサトは強い口調で言った。
「うん、絶対未来には戻らないぞ! なあ、コウジ!」
レオは振り返り、コウジに力強い視線を向ける。
「あぁ、絶対戻りたくない!」
コウジも、決意を秘めた顔をした。
※ ※ ※
由衣はウキウキしながら、ドアをノックする。レオに会うのは久しぶりだった。
年末年始は帰省せずに、ずっとレオと一緒にいたが、それから半月余り、由衣の仕事が多忙で時間が取れなかった。
連絡もせずに来てしまったが、レオはいるだろうか?
返事がない。もう1度、ノックしてみた。待ってみても、音沙汰がない。
ドアノブを回すと、開いた。
「レオ、寝てるの?」
ベッドにレオの姿はなかった。
とりあえず食堂に向かうと、どこからかレオの声が聞こえた。声がした方向に向かうと、そこは洗面所だった。
洗濯機の前でレオは棒立ちのまま、ぶつぶつと何事か呟いている。
「レオ、何してるの?」
由衣が声をかけると、レオはあからさまに驚く。
「びっくりした、由衣か」
「あら、驚かせてごめんね」
由衣は、ふわっと微笑む。
「それより、どうかしたの?」
レオは小難しい面持ちで、何かをつまんでいる。
「洗濯しようと思ってここに来たら、洗濯機の横に、こんなのがあったんだけど、これは何? 昨日まではなかったんだよね」
レオがつまんでいるのを、由衣は見てみる。それは、半透明のブルーの球体だった。
「それは、ジェルボールよ」
「ジェルボール? いったい、これは何なの? 何か、美味しそうに見えるね!」
レオの言葉に、由衣はプッと吹き出す。レオはジェルボールのぷにぷにとした感触を楽しむかのように、指先でもてあそんでいる。
「もしかして、高カロリーの栄養剤かな?」
レオはジェルボールを、今にも口に入れてしまいそうな雰囲気だ。
「レオ、それは食べちゃダメよ」
笑いながら、由衣は言った。
「えっ、栄養剤か何かだと思ってたけど。じゃあ、何かな?」
「それは洗剤なの。洗濯機に入れるのよ」
「えっ?!」
レオはジェルボールを照明にかざして透かして見ている。
「なんと……。う~ん、そうだったのか。僕がいた時代は、衣類の洗浄は専用のナノマシンを使ってたんだ。だから、ジェルボールなんて見たことない。こんな可愛らしい物体が洗剤の役目をしてるなんて、驚きだよ」
「そうだね。見た目は可愛らしいし、ぷにぷにしてるから、食べたくなるよね?」
レオはちょっと照れたような顔で、ジェルボールを洗濯機にポンっと落下させた。スイッチを入れると水が注入され、回り始める。
レオは、じっとしたままだ。なぜ、その場から動けずにいるのか、由衣は不思議に思った。
「レオ、どうしたの?」
「ん? うん。何か、心地いいなぁ。水の流れる音って。平和な気分だ。どんな音楽よりも、落ち着くよ。僕がいた時代では、こういうふうに水が流れる音って、聞くことなかったからね」
直立不動のまま、レオは洗濯機を眺めている。
「レオ、いつまでそうしてるの?」
「あっ、そうだね。由衣に会うの、久しぶりなのに、ごめんごめん」
由衣は一瞬、ドキリとした。ちょっとはにかんだような、レオの笑みに。
笑うと目尻に優しく皺が寄るその様は、生前の弘樹を彷彿とさせた。
「由衣、どうしたの? 僕のこと、じっと見て……」
「えっ、ううん、何でもない」
「僕がいい男だなぁ~って、見惚れてた?」
「うん、そうなの」
2人は目を見合わせ、声を上げて笑った。由衣は、同じ時を共有できる幸せに浸る。
レオに無邪気な面があるのを初めて知り、それは由衣に喜びをもたらす。
時折、レオと弘樹が重なる瞬間があり、切なさが通り過ぎていくまで、心がチクりと痛むのはどうしようもない。慣れるしかない。
「レオ! どこにいるの?!」
突如、大声が聞こえた。
それまで笑っていた由衣とレオは、ビクッとする。2人同時に、笑顔が凍りついた。
「誰? ここに女の人、住んでたっけ?」
由衣は疑問に満ちた顔をする。
「イヤ、住んでないよ」
レオは腕を組み、眉を寄せる。もしかして、とレオが言いかけた矢先、
「レオ! 私よ!」
再度、声が上がる。
「キミ、誰?」
と、マサトの問いかける声が聞こえた。
由衣とレオは洗面所から廊下に出る。
何人かが部屋のドアを開けて、何事かと様子を伺っている。
廊下の中央に、パステルカラーの花柄のワンピースを着た、黒髪のセミロングヘアの女性が少し不安そうな顔で立っていた。
「ミオ……」
レオはそう呟くと、驚きと困惑の入り混じった顔をする。
ミオと呼ばれた女性が、レオに気づいてこちらに向かってくる。
「レオ! 会いたかったわ!」
(何、この人? ずいぶん馴れ馴れしいわね)
由衣は非常に不快に思った。
「キミ、何でここにいるの?」
そう問いかけたレオは、驚きを露にしている。
「なんだ、レオの知人か」
マサトが頷く。
すかさず、ミオは言った。
「知人じゃないわ。私はレオのフィアンセよ!」
「は?!」
思わず由衣は声を上げる。
「レオのフィアンセ? あぁ、キミだったのか。レオがこの時代に逃げてきたこと、よく分かったね」
マサトが感心したように言う。
「マコトっていう人から聞いたの。レオを探すために、とりあえず駐屯地に行ってみたの。何か手がかりをつかめるかもしれないと思って。私、知り合いが何人かいるのよ。そしたら、最近過去から連れ戻された人がいるって聞いて、マコトっていう人と面会して、それでレオの居場所が分かったから、タイムマシンでこの時代に来たのよ」
「マコト? マコトは無事なのか? 重い刑罰を受けてるんじゃないかと、心配してたんだ」
レオが聞く。
「無事よ。でも独房に入れられて、訓練以外に強制労働もさせられてるみたいよ」
「そうか。不憫だな……」
「それより、レオ、早く私達の時代に戻ってよ。レオがいなくなって寂しいわ」
そう言うなり、ミオはレオに抱きつく。
由衣は、あからさまに顔をしかめる。
ドアを開けて様子を伺っていた他の人達が、ごちそうさま、みたいな顔をして部屋の中に引っ込む。
マサトの顔に、由衣の心情を察したかのように、困惑の色が広がる。
レオはミオを押し返して離れると、
「あの時代には戻らない。絶対、戻りたくない」
ミオの目を見つめ、レオは断固とした口調で言った。
「どうして? 逃亡したとしても自分から戻れば、刑罰は軽くなるわ。大丈夫よ。レオのお父様が、何とかしてくれるわ」
ミオは熱く訴えるが、レオの瞳は冷えていた。
すると、ミオは由衣に視線を移した。
「あなた、誰? 何で、ここにいるの? レオの友達?」
明らかに敵意を含んだ目で、ミオは由衣を見据える。
「私は、レオの恋人よ」
ミオの態度にひるまず、由衣は断固とした口調で言った。
「は? あなた、何言ってるの? 私はレオとの結婚が決まってるのよ。あなたは、ただの遊びに決まってるじゃない」
由衣を見下したように、ミオはせせら笑う。
すかさず、レオは言った。
「由衣は、僕の恋人だ。彼女とは深い絆で結ばれてる」
一触即発の雰囲気に見かねたのか、マサトが口を添える。
「由衣さんは、本当にレオの恋人だよ。僕は、ずっと傍で見てたから分かる」
「部外者は、黙ってよ」
ミオの居丈高な物言いに、由衣は我慢しきれなくなる。いったい、どうしたものか。
「ここで言い合ってると皆の迷惑になるから、とりあえず僕の部屋で話そう」
そうレオが提案し、部屋へと移動する。由衣とミオも後に続く。
3人の様子をマサトは心配そうに見ていたが、ひとまず自室へと引き返した。
ミオはレオの部屋に入るなり、言い放つ。
「ずいぶん、殺風景な部屋ね」
「まだ仕事に就いてないから、家具を買う余裕がないんだ。仕方ないよ」
溜め息混じりにレオが言う。
それより、とミオは再び口を開く。
「レオ、皆心配してるのよ。いきなり行方不明になるんだもの。200年前の時代にいるなんて、想像すらできなかったわ。何で、この時代に逃げてきたの?」
「特に、意味はないよ。未来より過去のほうが生きやすいと思ったからね」
レオは真実を隠す。
それは、由衣だけが知ってる。レオと由衣、2人だけの秘められた話しを、ミオに言う必要はないと思ったのだろう。
「もしかして、ずっとここにいるつもりなの?」
ミオの問いにレオは頷き、
「キミがどんなに言葉を尽くしても、僕の気持ちは変わらない」
レオは凛とした態度で接する。
あ~あ、と言いながらミオは、ベッドにどさりと腰を下ろす。そして由衣に目を向けると、
「レオ、この女に洗脳されちゃったの?」
ミオの発言に、由衣はキッとミオを睨む。
「あなたに睨まれる筋合いはないわ!」
と、投げつけられたミオの言葉に、由衣は怒りが沸き上がる。
「ミオ、いい加減にしろよ!」
レオはミオの前に立ちはだかる。
「ミオ、帰ってくれないか? 僕はキミと結婚する気持ちは、微塵もない。親が勝手に決めてるだけだ。僕が結婚したいのは、由衣だけなんだ」
「そんなの、あなたの両親が許すわけないわ」
呆れ顔でミオは言う。
「親は関係ない。もう未来には戻らないから、僕と由衣、2人の意志さえあればいい」
レオの揺るぎない思いに、由衣は安堵する。
「じゃあ、私はどうなるの? ずっとレオを愛してたのに。レオと結婚して幸せになる未来を想像してたのに」
今にも泣きそうな面持ちで、ミオは訴える。
この人は、それほどレオを愛していたのだろうか? レオと結婚するのを夢見ていたのだろうか? どう見ても、ミオの片思いにしか見えない。
「結婚は僕の親が勝手に決めたんだから、もう諦めてくれ……」
レオは辛抱強く説得する。
「イヤ、イヤよ! はい、分かりましたって、簡単に諦めるなんて、できないわ」
ミオは食い下がる。
往生際が悪い。でも、真剣に恋をしていたら、それが普通だろう。誰だってそうかもしれない。由衣もミオと同じ立場なら、相手に食い下がるだろう。
「じゃあ、どうするんだ?」
やや、呆れ顔でレオが聞く。
「私、ここにいるわ!」
ミオは毅然とした口ぶりだ。
「は? ミオ、何言ってるんだ!」
「だって私、レオの傍にいたいの! 今まで、すごく寂しかったのよ」
「それは、困る。未来へ帰ってくれないか? ここにいたって、どうしようもないだろう」
レオは困り果てたのか、諭すように言う。
由衣はたまりかねて、横から口を出す。
「レオの言う通りにしたら? 意地を張っても仕方ないでしょう」
ミオは、キッと由衣を見据え、居丈高に言い放つ。
「あなたは黙ってて!」
由衣は、ムッとする。はらわたが煮えくり返りそうだ。
(なんて生意気な女なんだろう!)
例え、レオがどんなに言葉を尽くしても、てこでも動かないのではないか?
何が何でもここから動かない、という決意がミオから滲み出ている。
「仮に、私が未来に帰ったとしたら、レオの両親に言いつけるわよ。レオの居どころを教えたら、きっと連れ戻しにくるわよ。そうなってもいいの?」
挑むようなセリフを言うミオが許せなくて、
「それって、あんまりだわ!」
と、由衣は語気を荒げる。
「汚ないマネ、するなよ。キミって、そんな低レベルの女なのか?」
嫌みを込めて言うと、レオはミオを凝視する。
「それは、最終手段よ。そう、やられたくないなら、私をここに置いてよ」
ミオのふてぶてしい態度に、由衣は抑えようのない嫌悪感が沸いてくる。
レオは腕を組み、何やら思案するかのようにうつむく。やがて顔を上げると、
「ミオ、ちょっと由衣と話してくるから」
レオは由衣に目配せし、一旦部屋から出るように促す。2人はとりあえず洗面所に移動し、誰もいないのを確認すると中に入る。
「由衣、ごめんよ。突然ミオが現れるなんて、考えてもいなかった。あんな脅すようなこと言ってるから、無理やり追い出すこともできない。少しの間、我慢してくれないかな?」
レオは手を合わせ、申し訳なさそうな顔をする。
「うん。あの発言は、はったりなのかどうかも分かんないし、いい策なんて思いつかないしね。だけど、レオと同じ部屋で寝泊まりするなんて、はっきり言って嫌だわ」
由衣は不快そうに眉を寄せる。
「そうだよね。とりあえず、僕はマサトの部屋で寝させてもらおうかな。マサトに頼んでみるよ。だから安心して」
レオは頷きながら、由衣の肩に手を置く。
「うん。でもあの人、納得してくれるかしら?」
「説得するよ。それと、今日はもう帰ったほうがいいかもな。せっかく会えたのに、ごめんよ」
由衣は寂しそうに頷く。
「何とかして、ミオが出て行ってくれる方法を考えるよ」
「分かった。でもちょっと不安だわ。あの人にレオを取られたくないわ」
不安そうな目で、由衣はレオを見上げる。
大丈夫だよ、と言いながらレオは由衣を抱き寄せる。
「由衣以外の女性に、心奪われることなんかないよ。安心して」
それでも、由衣の不安は拭い切れなかった。想像すらできない突然の事態に、どう対処したらいいのか。
由衣の頭は混乱するばかりだった。
※ ※ ※
「何で、一緒に寝てくれないの?」
ベッドの上でミオは身じろぎもせず、鋭い目つきでレオを見る。
「それは、考えなくても分かるだろう? 僕とキミは恋人でも何でもないんだから」
向かい側のベッドに腰かけながら、レオは冷めた視線を送る。
「だったら、これから恋人になればいいんじゃない? 私はレオが大好きなんだから、レオも私を好きになればいいのよ」
「キミ、そんな単純な話しじゃないだろう。好きになってと言われて、はい、分かりました、ってなるか?」
レオは呆れ顔で溜め息をつく。
「ねぇ、どうして? 何で私じゃダメなの? 何で、あの女がいいの?」
これじゃまるで子供だな、とレオは内心ひとりごちた。
「由衣は、亡くなった恋人のマリにそっくりなんだ。イヤ、そっくりというより、2人は同一人物と思えるほど、似すぎている。でも、理由はそれだけではなくて、由衣とは宿命の出逢いだと思ってる。僕と由衣は生まれる前から一緒になることが約束されていたんだ、って」
まあ! とミオは大げさに驚いてみせると、
「レオって、ずいぶんロマンチストなのね! でも、都合のいい理由を無理やり作ってるだけじゃないの?」
レオはムッとしたような顔をすると、
「直感で、そう思うんだよ。僕の直感は生まれつき、良く当たってるんだ」
ふ~ん、そうなの? と、ミオは疑わしい目つきをする。
「亡くなった恋人のマリって、そんなに由衣って人に似てるの?」
「あぁ、そうだよ。キミは顔は知らないだろうけど」
はあ~っ、とミオはあからさまに溜め息をつく。
「レオの心の中に、私が付け入る隙はないってことなの?」
「そういうことだ」
レオは、うんうんと頷きながら言う。
「由衣って人がマリに似てるからなんて、大した理由にはならないと思うけど。じゃあ私、どうしたらいいの?」
「大人しく未来に戻って、他に結婚相手を探したらいいよ」
レオは内心うんざりしながらも、辛抱強く言い含める。
「そんなこと言われたって、無理よ。レオのこと、諦めるなんて無理……」
ミオは目を見開き、訴えかけるようにレオを見つめる。
「そう言われても、困るよ。まあとにかく、キミと同じベッドでは寝れないから。マサトの部屋で寝させてもらうよ」
「えっ、そんな……」
レオは立ち上がり、背中にミオの恨みがましい視線を感じながら、ドアへと歩き出す。すると、背後からミオが抱きついてきた。
「レオ、私ずっと、あなたとの結婚を夢見てた。親が決めた結婚とはいえ、レオのこと本当に愛してたの。同じベッドで寝なくてもいいから、ここにいて……」
「それは、無理だよ。ごめん……」
レオは正面に向き直ると、ミオの手を外す。
「とりあえず一晩、少し冷静になって考えてみなよ」
そう言い置いて、レオは部屋から出る。廊下に出ると、深々と溜め息をついた。
※ ※ ※
朝、目覚めた瞬間から、由衣はどんよりとした気分になった。胸の奥が重苦しい。
いきなりミオという女が現れ、正直うろたえている。レオを信じてはいるが、あの女に上手く言い含められてしまったらどうしよう、という不安が拭えない。
由衣はノロノロとベッドから起き上がり、洗面所に行こうとした矢先、着信音が鳴った。枕元からスマホを取りあげる。レオからだ。
「由衣、おはよう。あの女のせいで不安にさせて、ごめんよ。大丈夫か?」
レオの気づかう声に、由衣はホッとした。胸の重苦しさが、少し和らいだ。
「電話ありがとう。レオのこと信じてたけど、気になってなかなか寝つけなかったわ」
「そうだよな。本当にごめん。昨夜は、マサトの部屋で寝させてもらったよ」
「そうなの? 良かった。ミオって人と同じ部屋で寝なくて安心したわ」
「それでさ、ミオと一緒にいたくないから、しばらく他の場所で寝泊まりしようかなと考えてるんだ。ずっと前に、由衣が言ってた地下にあるネットなんとかに泊まれないかな」
「あっ、ネットカフェね。ちょっと狭いけど、それでもいいなら案内するわ」
由衣の仕事が終わり次第、レオのもとに駆けつける約束をして、電話を終えた。
仕事を終えた由衣は、急いでマサト達の住居に向かった。7時には着くだろうと連絡してある。
レオはミオに気づかれないようにして、地上に出る予定だが、上手くミオの目をくらますことができるだろうか?
マサト達の住居に着くと、地下への入り口の傍で待ち構える。ほどなく、レオが現れた。
「ちょっと待たせたね、ごめん」
「ううん、それより、あの人に気づかれてないよね?」
「うん。事前にマサトと相談して、由衣が来る時間に合わせて、ミオに適当に話しかけるよう、マサトに頼んできたよ」
いたずらっぽい笑みを浮かべるレオに、由衣も、フッと微笑む。
「大きい通りに出たら、タクシー拾うね。そのほうが安全よね」
そうだね、とレオが同意し、2人は歩き出す。
「でも、レオが突然いなくなったら、あの人騒ぐんじゃない?」
「そうかもしれないけど、ミオが近くにいると疲れるんだよね。何で同じベッドで寝てくれないの? とか、いろいろ言ってくるから」
レオはうんざりした表情になる。
あの女のことだから、昨夜はどんなに大変だったのか、容易に想像できる。
「レオがずっと帰らないと、あの人どうするんだろう?」
「途中でマサトに電話して、ミオの状態を聞いてみるよ。ミオは、そうすぐには未来には戻らないとは思うけど」
国道に出たが、そう都合良くタクシーは通らない。行き交う車に注意を向けながら、2人は歩いた。
「ヤバい……」
レオの顔に緊張感が走る。
「えっ、もしかしてまた?」
レオはさりげなく斜め後ろに視線を向ける。
「うん、迷彩色の軍服が見える」
レオの上官達が、いつかまた現れるかもしれないと思っていたが、いざ現れるとものすごい恐怖を感じる。
レオは早足になる。由衣も歩調を合わせる。
ちょうど反対側の車線に、空車のタクシーが向かってくるのが見えた。由衣は両手を上げ、大きく振った。
「あれに乗りましょう!」
2人は注意しながら道路を横断する。タクシーが止まるや否や、素早く乗り込む。
由衣は行き先を告げる。
「駅前の商店街までお願いします」
タクシーが発進すると、ホッとした。
「奴ら、ずいぶんしつこいな。ついこの前、仲間が連れ去られたばかりなのに」
うんざりしたように、レオは顔を歪める。
「そうね、絶対諦めないというか、すごい執着だよね。怖いわ」
「例え何度追いかけられても、絶対逃げきってやる」
レオは決意を新たにしたように、断言する。
「由衣、付き合わせてごめんね。一緒にネットカフェに泊まれるの?」
「うん、当然泊まるわ。安心して」
その時、後方からバイクの音がした。エンジンの音が異様に大きくなり、徐々に接近してくる。
ずいぶんうるさいと思い、由衣は外に目を向ける。途端に、ドキッとした。タクシーのすぐ横に、バイクが接近している。軍服姿だから、例の上官に違いない。レオもバイクの音に反応して、外に目を向けた。
「うわっ! 奴ら、バイクで来やがった! いったいどこで調達したんだ?」
バイクはタクシーの車体にぶつかってしまいそうなほど、接近している。
由衣は怯えながら見ていた。すると、バイクに2人乗りした上官達と目が合った。上官達が、ニヤリと笑った。
「イヤ! 今、あの人達笑ったわ」
「ヤバいな。どうしたらいいんだ!」
レオも動揺してるらしく、せっぱ詰まった表情だ。
「運転手さん、もっとスピード出して下さい!」
レオが声をかける。
「えっ、無理ですよ。スピード違反で捕まってしまいますよ! それよりあのバイクの連中、知り合いなの? 今にもぶつかってきそうだよ、危ないな!」
高齢の男性運転手が、迷惑そうに言い返す。
すると、上官達のバイクがスピードを上げ、タクシーの前に急停車した。
タクシーの運転手は慌てて急ブレーキを踏んだ。タイヤが擦れる、キーッという音が響く。
運転手は窓を開け、怒鳴った。
「危ないじゃないか! いったいなんのつもりだ!」
由衣は激しく動揺した。
レオが上官達に、連れ去られてしまうのではないかと。
「絶体絶命だわ、どうしよう」
レオはポケットから端末のような物を取り出し、素早く操作する。
「由衣、僕の腕に強く捕まって!」
レオに言われるままに、由衣はレオにしがみつく。
上官達がバイクから降りて、こちらに向かってくる。
(どうしよう! とうとう、捕まってしまうの?)
次の瞬間、視界が真っ暗になった。
いったい、何が起きたのか分からなかった。
やがて、徐々に視界が明るくなる。乳白色の霧のようなものが見え始める。そして体は、その霧の中を漂っているような感覚だ。
(あのタクシーの中から、逃げ切ったってこと? タイムトラベル?)
しがみついているレオの腕に、由衣はさらに強くしがみつく。
「ねぇ、レオ、これってもしかして、タイムマシンで移動してるの?」
「うん、そうだよ。あの場面から逃げきるには、時間を移動するしかないと判断したんだ」
「過去、未来、どっちに向かってるの?」
「過去だよ。と言っても、数年前くらいだね」
(数年前ということは、弘樹が生きていた頃だろうか? もし、そうだとしたら……)
由衣は内心うろたえたが、顔には出さず、
「そういえば、あのタクシーの運転手さん、私達が消えてびっくりしたでしょうね。料金払ってないから申し訳ないな」
「そうだね、軍服着た変な奴らが進路を塞いで、おまけに僕達が消えて、あの後どうなったのか、気になるね」
おどけた表情でレオが笑う。
どれくらい時間が経ったのか、乳白色の霧のようなものが薄くなっていった。
次第に、視界に色が戻り始める。ぼんやりと木々の形が見え始め、花壇、噴水、ベンチの輪郭が現れる。やがてそれらの輪郭が、明瞭になっていく。
気づくと、由衣とレオは公園に立っていた。
「公園みたいだけど、どこの公園なんだろう?」
レオがキョロキョロする。
由衣も周囲に視線を巡らす。
遊具で遊ぶ子供達、犬の散歩やジョギングする人々がいる、ごく普通の公園だ。
一時、周りの景色と人々を眺めていた由衣は、ハッとした。
なぜなら、弘樹のアパートの近くの公園に似ているからだ。
「この公園、見覚えあるわ」
「えっ、そっか。由衣の知ってる公園なんだ」
次第に由衣の鼓動が激しくなる。
今日この日がいつなのか、弘樹が亡くなる前なのか後なのか、気になって仕方なかった。
(今日がいつなのか、確認しないと)
どうしようか、と由衣は考える。
(確か、近くにコンビニがあったはず。そこで新聞の日付けを確認しよう)
公園の向こう側に視線を向けると、コンビニが見えた。
「レオ、ちょっとコンビニに行っていい?」
頷いたレオは、珍しそうに辺りを見回しながらついてくる。
コンビニに入ると、由衣は新聞のコーナーに向かう。地元の新聞を手に取り、日付けを確かめる。
(2022年11月10日。まだ弘樹が生きてる時だわ……)
愕然としながらも、喜びがない混ぜになる。
新聞を持ったまま、無言で立ち尽くす由衣を不審に思ったのか、レオが声をかける。
「由衣、どうしたの?」
「ここは、ちょうど3年前なんだね」
「そっか。たぶんそれくらいかな、と思ってた」
その時、何気なく外に視線を移した由衣は、ドキッとした。
「弘樹……?」
スーツを着た弘樹が、コンビニの前を通り過ぎていった。恐らく仕事を終え、アパートに帰る途中なのだろう。
懐かしくて嬉しくて、目の奥が熱くなった。
由衣は新聞を棚に戻すと、急いで外に出た。そして弘樹の後ろ姿を、じっと見つめる。愛しくて、今すぐ弘樹のもとに駆け出してしまいたかった。由衣の目に、涙が滲み出る。
後を追いかけてきたレオも、弘樹の後ろ姿を見つめる。
「由衣、もしかしてあの人、弘樹さん?」
由衣は頷く。
「ホントは追いかけたいんだけど、できない……」
レオは複雑な面持ちで立ち尽くしていたが、労りのこもった声をかけてくる。
「由衣、何か買ってくるから、公園のベンチで座って待ってて」
由衣はしばらくその場に立っていたが、やがてゆっくりとした足取りで公園に歩き出す。
ベンチに座り、神妙な顔をしていた由衣のもとに、レオが近づいてくる。
「これでも飲んで、少し落ち着いて」
と、レオがホットコーヒーを差し出し、由衣の隣に腰を下ろす。
ありがとう、と受け取りながら由衣が微笑む。
だいぶ日が傾き、先刻より気温が下がり寒さが増している。由衣はホットコーヒーの紙カップを両手で包みこみ、ひと口飲むと、ホッと一息ついた。
「動揺しちゃって、ごめんね」
由衣は、ばつが悪そうな顔をする。
「謝らなくてもいいよ。誰だって同じ場面に遭遇したら、動揺するよ。でも、弘樹さんが住んでる辺りだったとは、僕も驚いたよ」
「まさか、生きてた頃の弘樹を見るなんて……。普通なら、こんなことあり得ないもんね」
「過去に来る設定を、1年前くらいにしたら良かったな。そうすれば、由衣も動揺せずにすんだよね。ごめんよ」
レオは由衣の肩に手を置き、眉を曇らせる。
「この後、どうしようか?」 と、レオが声をかけた矢先、
「あっ、あれ、由衣じゃない?」
レオの声にハッとして、由衣は顔を上げた。
公園の外側の歩道を、由衣が歩いている。
(あれ、3年前の私?)
恐らく、弘樹のアパートに向かっているのだろう。ウキウキしているような、心が弾んでるような、そんな幸せに満ちた顔だった。
すると、由衣の中で抑え切れない感情が溢れ出す。
(やっぱり、弘樹が見たい!)
由衣は、パッと立ち上がった。間髪入れず、公園の外へと歩き出す。レオもすぐさま、由衣の後をついてくる。
「由衣、どうしたの? まさか……」
レオが後ろから、慌てた様子で声をかけてきたが、由衣には聞こえなかった。
ただ、弘樹が見たい、それだけだった。
自分の後姿を見ながら歩くのは、実に奇妙に思えた。
前方を歩く由衣は、もうすぐ弘樹に会えるという嬉しさが、全身に滲み出ている。
(羨ましいわ、これから弘樹の部屋に行こうとしてるなんて……)
過去の自分とはいえ、自分に違いないのだが、それでも前方を歩く自分が羨ましかった。
由衣は脇目も振らず、もくもくと歩く。
レオも無言でついてくる。
やがて、弘樹が住んでる二階建てのアパートが見えてきた。途端に、懐かしい想い出がドッと溢れ出す。切なくて、胸が締めつけられた。
由衣はアパートの手前で、一旦立ち止まる。
前方を歩く由衣は、軽やかな足取りで外階段を登って行った。そして、右から二番目のドアの前で立ち止まった。ドアをノックする。
アパートの手前で立ち尽くしていた由衣は、次に起こる展開を予期し、固唾を呑んで見ていた。
ドアが開いた。玄関に、笑顔の弘樹が立っていた。由衣と何やら楽しそうに言葉を交わしている。やがて由衣は玄関に入り、ドアを閉めた。
「弘樹、弘樹……」
一部始終を見ていた由衣は、泣き崩れた。零れる涙を拭う余裕もなく、涙で顔をぐしゃぐしゃにして、その場にしゃがみこんだ。
「由衣、大丈夫か? 由衣……」
レオもしゃがみこむと、後ろから由衣を抱き締めた。
「僕のせいで、由衣を悲しませることになってごめんよ。由衣、泣かないで……」
しゃくり上げながら、由衣は応えようとしたが、言葉にならない。
ただ弘樹に会いたくて、触れたくてどうしようもなかった。
「弘樹に、会いたい、会いたいわ」
「由衣……」
レオは痛みに耐えるかのように眉を寄せ、由衣を抱く手に力を込める。
「あの部屋で、2人が仲睦まじく過ごしてると思うと、羨ましくて、切なくて」
「気持ちは分かるけど、会うのは諦めるしかないよ」
辛そうな声音でレオが言う。
「そうなの? 会うのはダメなの?」
涙声で由衣が聞く。
「由衣、少し落ち着こうよ。一旦、公園に戻ろう」
レオは由衣を抱き抱えたまま、何とか立ち上がらせる。2人は公園へと歩き出すが、由衣はおぼつかない足取りだ。
公園に着くと、2人はベンチに腰を下ろす。
すっかり日が暮れて、辺りは人気がなく、濃い闇に包まれている。
由衣は俯いたまま、涙をこらえていた。
「由衣、本当にごめんよ。過去に来てしまったせいで、由衣を傷つけることになってしまって」
「レオ、謝らなくてもいいよ。あなたのせいじゃないわ」
そう言いながら、由衣はハンカチで目もとを押さえる。
2人はしばらくの間、声にならないそれぞれの思いの中に浸っていた。
やがて、由衣が口を開く。
「12月になると、弘樹はスキーの事故で死んでしまうの。できることなら、弘樹に伝えたい。スキーに行くのはやめて、って。そしたら、弘樹は死ななくてすんだのに」
「由衣、それはダメだよ。そんなことしたら、歴史が変わってしまう」
レオは強い口調で言い聞かせる。
「えっ? 歴史っていったって、私と弘樹のことだけなんだから、大したことないでしょう?」
由衣は顔を上げ、不思議そうな顔をする。
「2人だけのことではなくて、僕にも関係してくるから、ダメだ」
レオの言い分に、由衣は納得がいかなかった。
「いけないことかしら?」
「もし、弘樹さんが生きていたら、僕と恋人同士にはならなかっただろう」
そう言われてみると、そうかもしれないと由衣は思った。仮に弘樹が生きていたら、レオと巡り合ったとしても、レオと恋人同士にはならなかった可能性がある。ただ、弘樹とレオはそっくりだから驚いて、何らかの感情が沸き上がったかもしれないが……。
イヤ、もしかしたら、レオと巡り合っていたかどうかも分からない。
レオの言う通り、何もしないほうがいいのだろうか?
もし仮に、弘樹に会ってしまったら、レオは面白くないだろう。
でも、やはり弘樹に会いたい気持ちは、そう簡単には消えそうもなかった。
「ごめん、私まだ、混乱してるみたい。少し、考えさせて」
「由衣、考える必要はないよ」
悲痛な面持ちで、レオが訴える。
由衣の胸が、チクリと痛む。
木枯らしが吹き荒れ、公園の木々がザワザワと揺れ始めた。
初冬の冷たい北風が衿もとから忍びこみ、由衣はブルッと震えた。夜も深まり、更に気温が下がったようだ。
「だいぶ寒くなってきたから、どっか行こう」
労るようにレオが声をかけてくる。
どこか暖かい場所に行きたいとは思うが、弘樹のアパートの近くから離れたくなかった。
「ここから、離れたくない……」
木枯らしから身を守るように、由衣は両腕を交差して前かがみになる。
「ダメだよ、風邪引いてしまうよ」
レオは由衣の肩に手をかけ、覗きこむ。
「でも……。やっぱり、イヤ」
「とりあえず、ほら」
由衣を無理やり立たせると、レオは由衣の両手を自身の手で包みこむ。
「こんなに冷たくなってる」
ここから離れたくはなかったが、寒さに耐えきれず、由衣は仕方なくレオに従うことにした。
レオが言うには、例の上官達がまた現れるかもしれないからということで、2人は地下にあるネットカフェへと向かった。
2人が入った部屋は、横になるとぎりぎりのスペースしかないところだった。
「ずいぶん、狭いんだね」
レオが目を丸くする。
「うん。ネットカフェって、だいたいこんな感じよ」
「そうなんだ。未来にはこういう場所はなかったから、珍しく感じるよ。でも、狭いと由衣とくっ付いていられるから、いいかもね」
無邪気にレオが笑う。
その笑顔は、由衣の心を解きほぐしていった。
「少しは落ち着いた?」
レオがすくい上げるような眼差しを向けてくる。
うん、と由衣は言いながらマットの上にペタリと座る。
レオも隣に座り、
「弘樹さん、まるで僕の分身みたいだった。由衣に向けた笑顔が、素敵だった」
「そうでしょう? 見た人は、誰でもびっくりすると思う。だから、レオはなおさらびっくりするよね」
再び弘樹の笑顔を思い出した由衣は、徐々に思い詰めた表情になっていく。
そうして、由衣は感傷に浸り始める。
「由衣、僕のことだけ見てくれ。由衣の切ない顔を見ると、辛くなるよ。もうあまり、弘樹さんのことは考えないでくれ」
レオは由衣を抱き寄せ、両腕にギュツと力を込める。
「ごめん、ごめんね。レオに辛い思いさせて」
「由衣が、どこかに行ってしまいそうで、不安だよ」
「大丈夫よ、レオ……」
由衣はレオの背を、あやすように優しく撫でる。
2人はそうして、しばらく抱き合っていた。
やがて、レオはそっと離れると、
「由衣、お腹すかない?」
「そう言われてみると、ちょっとすいたかも」
由衣は傍らにあるメニュー表を取ると、
レオに差し出しながら、
「何にしようか?」
レオはメニュー表に目を通す。
「いろいろあるんだね。迷うなぁ」
「もう時間も遅いし、胃にもたれないよう、軽いのにしようか?」
レオも同意し、サンドイッチと紅茶を注文することにした。
食事を終えると、レオは由衣に向き直る。
「今日は大変な目に合わせてしまって、ごめんよ」
「謝らなくてもいいわよ。あの上官達には、絶対捕まりたくないもんね。レオが未来に連れ去られるのは、耐えられないわ」
ふと、2人は同時にあくびをし、お互い顔を見合わせて笑った。
そろそろ寝ようか、ということで、2人はマットに横になった。
「ホント、狭いね」
レオが半ば、楽しそうに言う。
由衣はレオにぴたりと寄り添いながら、
「こういうのも、たまにはいいわね。ネットカフェに泊まったのは初めてだから、ちょっと楽しいわ」
「なんか、遠足に来てるみたいだ」
呟きながら、レオがさりげなく由衣の頭に腕を回す。
レオの腕枕に頭を預け、由衣は目を閉じた。
すると、自然と先刻の出来事が目蓋に浮かんだ。楽しそうに語り合う弘樹と、もう1人の自分。
(やっぱり、弘樹に会いたい……)
弘樹には会わないでほしいというレオの気持ちを裏切るのは、心苦しい。
でも、弘樹に会わずに本来の時代に戻ると、きっと後悔しそうだ。
どうしよう……。
レオの寝息が聞こえてくる。いつの間にか、寝入ってしまったようだ。
顔を傾け、レオの寝顔を見る。
(大切な人。レオとの巡り合いで、私がこの世に生まれてきた意味が分かった。レオを失いたくない)
だけど弘樹を見て、まだ弘樹への執着があるのに気づいてしまった。
(こっそり、会いに行こうかしら……)
会いに行くとしたら、翌朝のほうがいいだろう。もう1人の自分は、弘樹の部屋に泊まっているだろうから。過去の自分と鉢合わせなんて、したくない。
ただ、ここから出る時に、レオがまだ寝ていたらいいのだが。
眠気はあるが目が冴えている。
レオへの罪の意識を感じる。そのせいか、由衣はまだ眠りに落ちそうになかった。
弘樹に会いに行こうとしている自分を、レオは許してくれるだろうか?
目を閉じていたが、由衣はまんじりともせず、朝を迎えた。
レオが寝返りを打ったのか、由衣はハッとして目蓋を開けた。少しは眠っていたのかもしれない。
隣に目を向ける。レオは、まだ目覚めてはいないようだ。
腕時計で時刻を確かめると、6時半を回ったところだった。弘樹のアパートにいるもう1人の自分は、そろそろ出社する時間だ。弘樹のアパートからだと、これくらいの時間に出ないと、始業時刻に間に合わないからだ。
(弘樹に会いに行くなら、今がいいのではないだろうか?)
由衣はレオが目覚めないよう、そろそろと起き上がる。
レオは穏やかな顔で、まだ眠りの中にいる。その寝顔を見ていると、再び罪悪感が沸いてくる。
(レオ、ごめんね……)
物音を立てないよう、由衣はそっと部屋から出る。洗面所に向かい、洗顔と軽い化粧を済ませた。
受付カウンターにいる従業員に、少しの間外出すると伝え、外に出る。
近くのバス停で時刻表を確認すると、弘樹が住む街を通るバスは、もうまもなく到着するところだった。
バスを待つ間、レオのことが気になった。
(もしかしたら今頃、私がいないのに気づいて、慌てているかもしれない)
そして、こう推測するだろう。
きっと、弘樹に会いに行ったのだと……。
ほどなく、バスが近づいてくるのが見えた。
次第に、胸がドキドキしてくる。
バスに乗り、座席に腰を下ろすと、鼓動が聞こえてきそうなほど、由衣は興奮する。
バスに揺られながら、弘樹の笑顔を思い浮かべる。
(もうすぐ、弘樹に会える)
レオへの罪悪感と、弘樹のもとに行けるという喜びがない混ぜになる。
恐らく弘樹は、一旦アパートから出て行った由衣が、また戻ってきたと勘違いするだろう。だけど考えてみると服装が違うことに気づいて、変に思うかもしれないが、それはどうしようもない。適当に言いつくろうしかない。
弘樹のアパートの近くのバス停で降りた途端、ますます胸が高鳴った。
アパートへと続く通い慣れた道を歩いていると、体がふわふわしてくる。
(夢みたいだわ。弘樹に会えるなんて)
今まで弘樹に会いたいと、何度願ってきたことか。
ひょんなことで過去に来てしまったため、願望が叶うことになるとは、想像すらできなかった。
アパートに到着した。由衣は外階段をそろりそろりと登り始める。喜びと緊張で足が震えてぎこちない動きになり、階段を踏み外しそうになった。慎重に足を運び、やっと二階に着いた。それだけで、大仕事を終えた気分だった。
右から2番目の、弘樹の部屋の前に立つ。
胸の高鳴りは頂点に達し、息苦しい。今にも胸がはち切れそうなくらいだ。
由衣は目を閉じ、ゆっくりと深呼吸する。そして、インターホンのボタンを押した。
部屋の奥から、は~い、と声がした。
(弘樹の声だわ。まもなく、弘樹が現れる……)
「誰? 由衣?」
ドアの内側で、弘樹が言った。
うん、と返答した由衣の声は震えていた。
ドアが開いた。
(弘樹……)
3年ぶりに見る弘樹。
生きている弘樹。
めまいがしそうなほどの衝撃だった。
「やっぱり、由衣か。さっき出て行ったばかりなのに、どうしたの?」
満面の笑みで尋ねる弘樹。
「えっ、うん、ちょっと忘れ物しちゃって」
適当に言い訳したものの、由衣はどぎまぎする。
弘樹の笑顔が素敵すぎて、まともに見られない。
綺麗な二重瞼に、スッキリとした鼻梁。さりげなく左右に分けた、さらさらの髪型。懐かしくて、涙が滲んできそうだった。
「なんだ、忘れ物は今度来た時でいいのに」
「うん、そうなんだけど、必要なものだから」
弘樹に正面から見られるのが何だか恥ずかしくて、由衣は伏し目がちになる。
入っていい? と言いながら、玄関に入ると、
「本当は、弘樹に会いたかったの」
弘樹は笑いながら、
「変な由衣。一晩、ずっと一緒にいたのに」
「うん、でも、何だかまた無性に弘樹の顔が見たくなったの」
恥ずかしさをこらえて、由衣は真正面から弘樹を見つめる。
弘樹の瞳に、すっと吸いこまれてしまいそうだった。
すると、胸の奥に大事にしまいこんでいた、弘樹への揺るぎない想いが溢れ出した。
同時に、目の奥が熱くなる。一筋の涙が、頬を零れ落ちていった。
「由衣、泣いてるの?」
弘樹が驚く。
由衣は指先で涙を拭うと、
「泣いちゃうなんて、私、バカみたいだね」
フッと笑うつもりだったが、上手く笑えない。
「泣いてしまうほどの由衣の気持ち、嬉しいよ」
弘樹は由衣を引き寄せ、ギュッと抱きしめた。
ふわっと、弘樹の匂いがした。
記憶の中にある弘樹の匂いと重なる。
懐かしい匂い。胸が、キュンとする。
幸せだった。幸せを思いきり、噛みしめた。
今まで何度も弘樹が夢に現れ、目覚める度に寂しさに押しつぶされそうだった。亡き人に会える方法があればいいのに、と本気で考えた。
今、その願望が叶い、由衣は心身共に満たされていた。
弘樹に抱きしめられながら、思った。
(このまま、時が止まってしまえばいいのに……)
弘樹の温もりに、ずっと包まれていたい。
抱きしめられながら、由衣は尋ねる。
「ねぇ、そういえば来月、スキー旅行に行くんだよね?」
「うん、その予定だよ。どうかした?」
「考えてみたら、スキーって怪我する場合もあるし危険だから、できれば行ってほしくないな、って思ったの」
「由衣、なんで急にそんなこと言うの? 今までスキーは、もう何回も行ってるのに」
由衣から体を離すと、弘樹は不思議そうな顔をする。
その時、由衣はレオの言葉を思い出した。
(弘樹さんがスキーに行くのをやめさせるのはダメだよ、歴史が変わるから)
でも、やはり弘樹に言いたかった。弘樹を死なせたくなかった。生きていてほしかった。
とはいえ、本当の理由は言えない。言わないほうがいいだろう。言っても信じてもらえないだろう。
実は、自分は3年後の未来からやってきたなどと言ったら、頭は大丈夫か? と言われそうだ。
「この前、弘樹がスキーの事故で死んじゃう夢を見たの。もしかしたら、予知夢かもしれない。だから、すごく心配なの」
由衣は、とっさに思いついたことを言った。
「なんだ、そんな理由か。大丈夫だよ。由衣は、そんなに心配性だったかな? 今までそんなこと、言ったことないよね?」
弘樹は可笑しそうな顔をする。
「そうだけど、何か無性に気になって、すごく心配なの」
「由衣って、そういうところ、可愛いよなぁ」
再び弘樹は由衣を抱き寄せる。
「もし、弘樹に何かあったら、もう会えないから……」
弘樹の胸に顔を押しつけ、由衣は涙ぐむ。
「そんなふうに思ってくれて、嬉しいよ。それより由衣、こうしてると仕事に間に合わなくなるんじゃない?」
「うん、そうだね。そろそろ行かないと」
名残惜しい気持ちのまま、由衣は弘樹から離れる。
できることなら、ずっとここにいたかった。毎日、弘樹に会いたかった。
イヤ、それより、ここに住みたい。愛する人の傍にいたいと思うのは、自然なことであり、当然とも言える。
(でも、それはいけないことなんだわ)
もともと過去に住んでいる自分と共存するなんて、無理に決まっている。
それに、レオも待っている。
「長居して、ごめんね。弘樹も出かける準備しないといけないよね。あっ、忘れ物は今度でいいわ。じゃあ私、行くね」
「うん、また今晩来たらいいよ」
「えっ、あっ、もしかしたら今日は残業になるかもしれないから、来れるかどうか分かんないな」
「そっか……」
やや落胆した弘樹の様子に、チクリと胸が痛む。
じゃあ、またねと言いながら、由衣はドアを開ける。涙が零れそうになるのを、ぐっとこらえながら歩き出した。
振り返ると、弘樹が手を振っていた。
(その笑顔、もう見れないのね……)
由衣は一旦立ち止まる。
(これで、見納めだわ)
弘樹の姿を、瞳に焼きつける。
由衣も精一杯の笑顔を作り、手を振った。そして踵を返すと、階段を下り始める。
(もう、振り返らない!)
振り返ると、また弘樹のもとに走りそうだった。
階段を下りると、足早に駅へと向かう。
(さよなら弘樹。これで本当に、さよならだ。会いたくても、もう永遠に会えない。さようなら、愛した人……)
涙が溢れて、どうしようもなかった。
(私は、今日この日を決して忘れない。生涯、忘れることはないだろう)
由衣はレオの顔を思い浮かべる。
早く、レオのもとに帰ろう。
恐らく今頃、由衣がいなくなって慌てているだろう。
それでも、意識はまだ弘樹に向いていた。
由衣は後ろ髪を引かれる思いで、零れる涙をそのままに歩を進めた。
※ ※ ※
ネットカフェへと続く地下への階段を下りながら、レオがどんな顔をして待っているのか気になった。
きっと心配、イヤ、憤慨しているかもしれない。恐らく、弘樹に会いに行ったと思っているはず。
変な言い訳はせず、本当のことを言うべきだろう。
由衣は個室のドアを、そっと開ける。
開けた途端、レオとばっちり目が合った。
「由衣、心配してたよ」
レオは目を見開く。
その瞳に見えるのは憂いのみで、憤慨の色は見あたらない。
「心配かけてごめんね。弘樹に会いたい気持ちを抑えきれなくて、会いに行ってたの」
レオを直視できなくて、由衣は俯いていた。
「たぶん、そうだろうと思ってた」
「きっと、気分悪いよね。本当に、ごめんなさい」
「そんな、謝らなくてもいいよ。僕も由衣と同じ立場なら、きっと会いに行ったよ」
由衣は顔を上げ、レオを見る。
同情を思わせる、悲哀が込められたレオの眼差しと出合った。
「だけど、嫉妬したのも確かだ。弘樹さんを、まだ愛しているんだなって……」
レオの嫉妬は、正直嬉しい。こういう状況なら、嫉妬するのは当然だ。
逆の立場なら、自分も絶対嫉妬するはず。
由衣はマットに腰を下ろし、
「うん、弘樹への愛情は残ってると思うけど、レオが心配していた、歴史が変わるようなことは言わなかった。スキーで怪我しないように気をつけてね、とは言ったけど」
「そうか、言わなくてホッとしたよ。でも由衣、辛かったんじゃないか?」
レオは気づかうような眼差しで由衣を見る。
「うん、すごく悲しくて、弘樹を死なせたくなくて、ずっと生きていてほしくて、帰りたくなかった」
弘樹の笑顔を思い出した由衣は、また泣きそうになる。
一時の弘樹との逢瀬は、鮮やかに脳裏に刻まれている。これからも、何度も思い出すだろう。生涯、忘れないだろう。
「でも、よく帰ってきたね。実は、とても不安だったんだ。もしかしたら由衣は、弘樹さんにスキーに行くなと言って、この時代から帰らないんじゃないかと思ってしまったんだ。だから、覚悟を決めてた」
苦悩の色を滲ませたレオの表情が、由衣を切なくさせる。
「そう、だったんだ。私もすごく悩んでしまったの。だけど、帰らないとレオが悲しむと思って、それで帰ってきたの。ホント、悲しい思いさせて、ごめんなさい」
「帰ってきてくれて、良かった。もう、由衣に会えないかもしれないと思ってたから……」
レオの目尻が、かすかに濡れていた。
涙が滲むその様子に、由衣は胸を打たれる。
(私の軽弾みな行動が、レオを悲しませてしまった……)
この罪を償うには、どうしたらいいのか。
「私って、罪作りだよね。犯した罪は一生消えない。レオのパートナー、失格だよね。 でも、罪を償えるものなら、償いたい」
レオは少し思案するような面持ちになると、
「由衣は、ただ僕の傍にいてくれるだけでいいよ。後は、何もしなくてもいいよ。由衣がいてくれるなら、もう何もいらない」
「ありがとう、許してくれて。そんなふうに思ってくれて、嬉しいわ」
由衣は、パッと顔をほころばせる。
「由衣、もっと傍に来て……」
差し伸べてくるレオの手に、由衣は自身の手を重ねる。
レオの胸元に顔を寄せると、
「もう、レオを裏切るようなこと、しないから。レオから離れないから……」
「僕も、由衣と幸せになりたい。未来には絶対に戻らない」
レオは由衣を抱き寄せ、自身に言いきかせるように、力強い口調で言った。
レオの温もりに包まれ、由衣は深い安堵と幸せを噛みしめる。
「ねぇ、そういえば、いつまでここにいる?」
ふと思い出したように、由衣が聞く。
「まだ、ミオはマサト達のところにいるかもしれない。もう少し、ここにいたほうがいいだろうな。由衣、仕事のほうは大丈夫か?」
「うん、大丈夫よ。有給休暇を長めにとったから」
「そうか、ありがとう。僕のために迷惑かけてしまったかな」
由衣は顔を上げ、ゆっくりと首を振る。
「ううん、迷惑なんて、これっぽっちも思ってないわ。ずっと、レオについていくから。とりあえず、今日もここに泊まろうか。そうだ、ちょっと近くのスーパーで買い物してくるね。ここで注文すると、高くつくからね」
「ありがとう。悪いね」
レオは申し訳なさそうな顔をする。
いいの、いいのと言いながら、由衣はバックを手に取ると、個室を出て行く。
スーパーは徒歩で5分くらいの距離にあった。適当に目についた物をカゴに入れ、会計を終えて外に出ると、1人の女性が目の前を通り過ぎて行った。見覚えのある顔だった。
由衣は、ハッとした。
(ミオ?!)
ミオにそっくりだった。イヤ、ミオに違いない。
あの花柄のワンピース、印象的なモチーフのパステルカラーだったので、よく覚えている。
ミオは辺りに目を配りながら、歩いている。
(でも、なぜ私達がここにいることが分かったんだろう? たまたま、なのか、確実にいるのが分かったからなのか?)
ミオが使っているタイムマシンは、性能がいいんだろうか?
とにかく、早くレオのもとに戻って知らせないといけない。
今のところ、ミオは由衣には気づいていないようだ。
由衣は振り返りながら慎重に歩を進めた。
ネットカフェの看板が見えてくると、更に足を早める。
その時、背後から声がした。
「ちょっと、そこのあなた、待ってよ!」
由衣はドキリとした。一旦立ち止まり、恐る恐る振り返る。
ミオだ。
ミオは睨み付けるような目で、由衣を見ている。
(いったい、いつの間に?)
「あなた、確か、由衣って人よね? レオと一緒なんでしょう? レオはどこなの?」
ミオの問いには応答せず、由衣は前に向き直ると、一目散に駆け出す。
「ちょっと! 待ちなさいよ!」
ミオが叫ぶ。
由衣はネットカフェへの階段を、素早く下りていく。
レオが待つ部屋に飛びこむや否や、
「大変だわ、すぐそこでミオさんと出会ってしまったの」
「えっ! ホントか? まずいな」
レオは青ざめる。
部屋の外から、ミオが叫ぶ声がした。
「レオ! どこなの? どこにいるの?」
「お客様、先に料金を払って下さい!」
慌てた様子の従業員の声が聞こえた。
「どうしよう……」
由衣はレオを見つめ、オロオロする。
「こうなったら、また時間を移動するしかないな」
レオはポケットから、端末を取り出して操作する。
「さあ、由衣、僕にしっかり掴まって!」
由衣は買い物袋を放り出すと、レオの腕にしがみついた。
「レオ、ここにいるのね?!」
部屋の外から、ミオの張りのある声が響いた瞬間、パッと目の前が暗くなった。
次第に、例の乳白色の霧のようなものに包まれる。
(あの場所から、逃げ切ったんだわ)
由衣とレオは同時に顔を見合わせ、ホッとしたような笑みを浮かべる。
「まさか、ミオがまた現れるなんて、考えてもいなかったよ」
やや飽きれたような顔で、レオが言う。
「私も、びっくりしたわ。もしかして、また現れたらどうしよう?」
「う~ん、毎回逃げ回ってばかりっていうのも、あれだな。何とかしないとね。一番いいのは、ミオが自分から未来に帰るのがいいんだけどね。それより、また時間を移動するはめになってしまって、ごめんよ」
「ううん、いいの。レオから離れたくないから。どこにでも、ついていくから」
由衣は、微笑みを返す。
「ありがとう。嬉しいよ。そういえばさっき、慌ててタイムマシンを操作したから、いつの時代に到着するのか、過去なのか未来なのかも分からないんだ。たぶん数年以内だと思うけど」
「そうなんだ。ちょっと不安だけど、レオが一緒なら怖くないわ」
レオにしがみついている腕に、更に強く力を込める。
乳白色の霧のようなものに包まれながら漂う感覚も、慣れてしまうと別段怖くはない。
時間を移動しているとはいえ、時間が経過しているような感覚は、特に感じない。
ゆっくりとスローなペースで、経過しているのか?
時間の感覚がないとはいえ、それでもなんとなく、だいぶ時が経過したような気がしてくる。
「ねぇ、結構時間が経ったような気がするけど、大丈夫かな?」
由衣は不安そうな面持ちで呟く。
「うん、前回より時間が経ってるような感じだね。そろそろ、どこかに着いてもよさそうなんだけどね」
レオも不安そうにしている。
このままずっと、永遠に時空の中に閉じ込められてしまいそうだ。
(もしそうなったとしたら、どうなるんだろう?)
その反面、もうどうにでもなれ! という思いもある。
由衣は目を閉じる。
(レオがいるから大丈夫。何があってもレオから離れない……)
レオにしがみつく腕が離れないよう、由衣は神経を集中させる。



