「ただいま~」
そうはいっても、
亮太の家には誰もいない。
両親は自営業で、
夜の7時以降でなければ帰らない。
亮太、12歳小学6年生。今は一人っ子だ。
もう、
こうやって誰もいない部屋に
言葉を投げるのは3年を超えた。
ランドセルを放り投げて、
母親が用意したドーナツと牛乳。
それをお腹に放り込むと、
すぐに友達との約束の場所へと走ってゆく。
帰るのはいつも6時半くらい。
一人で家にいる時間を出来るだけ減らしたい
そんな自衛心から
意図せずそうなっているのかもしれない。
他の子たちはみな
一様に5時を回ると帰ってゆく。
その後は一人で公園をブラブラし
何も買わないけれど駄菓子屋に立ち寄り
そして
あちこちから夕餉の臭いが漂う中を
一人で帰宅する。
そんな日常が亮太の「当たり前」だった。
ある日学校から帰ると、
いつもは人気の少ない亮太のアパートに
大きなトラックと
4~5人の作業員のような人たち。
なにかあわただしく動いて
亮太の家の隣の部屋に荷物を運び入れている。
「引っ越しかな?」「どんな人だろう?」
亮太の隣の部屋は長く空き部屋になっていて、
それはある意味ありがたい事でもあった。
以前、亮太の家の隣に住んでいた住人は
50代の夫婦で大きな声で喧嘩をする人だった。
壁一枚が薄い。
それはもう視覚を遮る効果しかない
もはやついたてに近い。
そんな亮太の住む築60年のアパートには
少々迷惑な隣人であった。
彼は咄嗟にその記憶を思い出し
気持ちがネガティブに動いたのかもしれない。
その日はすぐに遊びには行かず
その光景を珍し気に眺めていた。
トラックのナンバープレート。
その「名古屋」という地名も
亮太にはどこか異国の地から来たように思われ
それがさらに彼の好奇心を刺激した。
作業が終わると
トラックを見送る一人のお姉さんが目に入った。
その人は亮太には気付かず
そのまま部屋へと入って行った。
「あの人なら、大声は出さないな?」
と、妙な事を亮太は思った。
その日も亮太は6時半に帰宅し
カギを自分で開けて家に入る。
電気を灯け
古い学習机で黙々と宿題に取り掛かった。
ほどなくして両親は帰宅し
母親はすぐに夕食の準備に、父は風呂に。
夕食の膳が整う頃、家のベルが鳴った。
母は
「誰やろ?」
と玄関を少し開ける。
そこに立っていたのは
引っ越しで見たあのお姉さんだった。
「初めまして。
隣に引っ越してきました、東と申します。
大学卒業までの2年ですが、
どうぞよろしくお願いします。」
と挨拶にやって来たのだった。
なんと、お姉さんは名古屋から
大学があるここ京都までこの2年間
新幹線で通学していたんだそう。
ご両親が海外赴任になり
それが出来なくなったとの事。
とにかく
なにかわからないけど凄い人だなと
僕にはそんな印象だった。
名古屋の人ということで
「ういろう」という羊羹のような和菓子を
手土産にくれた。
名古屋では有名なお菓子らしい。
母が大好きだそうで(全然知らなかった)
とても喜んで
「東さん、晩御飯は?」
と聞くと
「今から食べに行きます、」と。
母は
「じゃあ、一緒に食べない?」
とお姉さんを誘った。
お姉さんは
「え?いいんですか?」
とちょっとびっくりした様子で
でも嬉しそうに
「では、遠慮なく!」
と一緒に食べることになった。
両親はとにかく
あまり何も知らない人たち
(ずっと地元で自営業)なので
お姉さんの話がとても面白いらしく
次から次へと質問を投げかける。
父などは
鯱がどうだとか、栄は賑やかか?とか
トヨタの車は多いか?とか。
僕から見てもどうでもいいような事を
とりとめもなく聞いていた。
お姉さんは京都大学の学生さんだそうで
やはりとても頭が良く、話も上手で
小学生の僕でもついつい
聞き入ってしまうほどだった。
お開きになったのはもう22時を回っていて
お姉さんは
「亮ちゃん明日学校だもんね、もう寝ないと」
「遅くまでお邪魔しました。ごちそうさま!」
と明るい笑顔で帰って行った。
それからは何度となく
うちで晩御飯を一緒に食べるようになり
いつしか僕とお姉さんも仲良くなって
兄弟みたいに親しくなった。
兄が就職して家を出てから
ずっと一人っ子だったので
なんか急にお姉さんが出来たようで
それはとても嬉しかった。
それからお姉さんは時々
僕がカギをガチャガチャ回す音を聞くと
ドアを開いて
「お帰り!」「遊びに行くの?」
と声をかけてくれるようになった。
「行かない」
と言った日は
「じゃあ、お母さん帰るまでうちにおいでよ」
と、両親が帰宅するまで
色々とよく僕の面倒をみてくれた。
初めてお姉さんの部屋に入った時
とってもいい匂いがしたことと
思ったほど女の人っぽくない部屋だ
というのが正直な印象だった。
部屋にはカッコイイギターが一本と
壁にBeatlesというグループのポスターが
二枚貼ってあった。
お姉さんはいつも
長めの髪を後ろで括って
そこに必ず青いリボンを付けていた。
服装もとてもシンプルで
夏はT-シャツ、冬はボトルネックのセーター
下は常に細めのジーンズという恰好だった。
まあ、当たり前だけど
同じような格好をしても
母とはずいぶん違うんだなと
子供心に妙に納得したのを覚えている。
お姉さんはいつもギターを弾きながら
そのBeatlesの歌を歌ってくれた。
最初は僕も良く解らず
ただ聴いていただけだったけれど
だんだんとその音楽に興味を持って
お姉さんにお願いして
何曲もレコードをかけてもらったりもした。
特に「ヘイ・ジュード」という曲と
「Yesterday」というこの2曲を
いつもお姉さんが歌ってくれ
僕も自然とその2曲が好きになった。
お姉さんは昼から在宅している事が多く
自然と僕も
帰宅するとお姉さんの所に行くようになり
お姉さんが淹れてくれるカフェオレと
バウムクーヘンを食べながら
二人でBeatlesを歌う。
いつしか
それが僕の一番の楽しみになっていった。
そして2年と言う月日すぐに過ぎた。
僕も中学生になった。
いつの時も、楽しい時間はあっという間だ。
お姉さんの引っ越しの日に
うちでお別れ会をすることになった。
その日は両親も自営業を休み
色々と引っ越しの手伝いなどやっていた。
僕は学校があったので
帰って来たらもうすでに
お姉さんの部屋の表札は外され
お姉さんはガス会社の人と話していた。
お別れ会もいつものごとく
父の下らない質問がメインで、
それでもお姉さんは嫌な顔もせず
ニコニコと
知識のある内容をあれこれ話してくれた。
お姉さんは「工学部」という
先端技術などを専攻するところだったのを
この日初めて知った。
どうりで、そういった話に詳しいはずだ。
今晩はここでもう一晩寝て
あすの午後三時に退去ということだそうだ。
大家さんの都合で
今日の内部点検が出来なかったそうで
明日になったとのこと。
たった半日ほどだけれど
僕はそれが嬉しかった。
今日お別れだと思っていたから。
翌日は両親も仕事でいないので
最後の挨拶が出来ない事などを
お互いが何度も頭を下げて
申し訳なさそうに話していた。
少し前に
僕は、お姉さんにお世話になったお返しに
なにかプレゼントをしたいと母に相談した。
母は「じゃあ、レコードでもあげたら?」と。
そうだ。お姉さんが音楽好きなのは
もう母も良く知っている。
(Beatlesに全然興味は出なかったようだ・)
たしか、お姉さんは以前
「ほとんどのアルバムは持ってるんだけど、
リボルバーだけはまだないんだ。」
「いい曲がいっぱい入ってるんだよ。」
「亮ちゃんにも聞かせてあげたかったな。」
と言っていたのを思い出した。
母に預けていたお年玉をもらって
商店街のレコード屋さんへ行った。
おじさんに
「リボルバーというレコードありますか?」
と聞くと
「へぇ~!お兄ちゃんBeatles好きなんか!」
と嬉しそうにおじさんは笑った。
「好きだよ!ヘイ・ジュードとYesterday!」
おじさんも
「ああ、あれは名曲だ!」
と二人で盛り上がった。
奥にあったリボルバーを丁寧に拭いてくれ
ラッピングも素敵に仕上げてくれた。
そうやって用意しておいたプレゼント。
でも、僕はなぜか
お別れ会の場で渡すのが恥ずかしく
半日伸びた事もあって
翌日帰ってから渡そうと決めた。
その日は学校が午前中だけだったので
急いで帰宅し、お姉さんの呼び鈴を押した。
「はぁ~い」
いつも通りの明るい声が返ってきた。
「ああ!亮君!今日は早いね。」
お姉さんはいつも「亮ちゃん」だ。
なのにこの日は「亮君」と呼んだ。
僕は
後ろ手に隠し持っていたレコードを差し出して
「これ、今までのお礼です。聴いてください」
と渡した。
お姉さんは
「さあ、入って!」
と僕を部屋に入れてくれた。
もう部屋には本当に何もなく
壁のLet it beのポスターも
他の一枚ももうそこにはない。
その変わってしまった風景が
なぜか僕の心をぎゅっと締め付け
涙が出そうになった。
お姉さんはラッピングを開け
「うわぁ!リボルバー!」
「覚えててくれたんだ!」
と凄く喜んでくれた。
お姉さんは
アルバムの説明をしてくれたけど
僕は別の事が気になっていた。
お姉さんはこの日、スカート姿だった。
お姉さんのスカート姿を見るのは
初めてだった事にその時気づき
それもとても子供心に衝撃だった。
髪にもウェーブがかかって
いつもの括り髪じゃない。
今日はリボンではなく
青いヘアバンドと白いブラウス。
お姉さん、とても綺麗だ。
と、真剣に思った。
と同時に、お姉さんの脛の周りにある
大きな火傷の跡が
僕にとっては一番ショックだった。
だから・・。
お姉さんはいつもジーンズだったんだ・・。
そんな事を考えているとお姉さんは
「これ、酷いでしょう?」と小さく笑った。
気にしていないふり
をしていたつもりだったけれど
所詮はまだ子供。
お姉さんは僕がそれを気にしているのに
ちゃんと気付いている。
「私、12歳の時に家が火事になってね。」
「その時こうなったの。」
「私には8歳年下の弟がいた。」
「でも、弟はその火事で・・。」
「だからね、亮君と同い年。生きてたら。」
「なんか、だからかな。」
「亮君を特別に思っちゃったのはw」
と小さく首をかしげて笑った。
そうだったんだ。
お姉さんのあの優しさは
その弟へと注げなかった
愛情の一部だったんだと。
僕は何かわからない寂しさと
その弟君への申し訳の無さ
そんな複雑な気持ちで
しばらく黙り込んでしまった。
お姉さんは
「ごめんね。
隠すつもりじゃなかったんだけれど・・」
お姉さんも言葉を切って黙り込んだ。
少し時間が流れ
無造作に床に置かれたスマホの
3時のアラームが鳴った。
「あ、もうすぐタクシーが来る」
お姉さんはすっと立ち上がった。
お姉さんが動くたびに
とてもいい大人の女性の香りがする。
僕はなぜが、それにドキドキした。
「そうだ。亮君にプレゼントもらったのに
私、何も用意してないや。へへ」
お姉さんはいたずらっぽく笑う。
僕もつられて笑った。
「じゃあねえ
ちょっとだけ亮君
目を閉じててくれないかな?」
僕は言われるままに目を閉じた。
そしてそれはすぐに
あの香りが近づいて
僕の唇に温かく柔らかいものが重なった。
もう、何が起こったかわからず
動転する僕を見てお姉さんは
「へへ。一番乗りだったかな?」
とまた笑う。
「君ももうすぐ大人だよね。」
「いつまでもお母さんに甘えてちゃだめだよ。」
「自分でお母さんを支える存在にならないと。」
「これはね、お姉さんからの
大人の君へのプレゼント。」
「そういう事にしておこうね。
二人だけの秘密だよ。へへ」
お姉さんはまた可愛く笑う。
その眼には確かに、失った弟への愛情と
僕へのエールが美しく映し出されていた。
すぐにタクシーは来た。
お姉さんはスカートのすそを少し気にしながら
それに乗り込んだ。
「じゃあ、元気でね!」
タクシーは勢いよく走り出し
すぐにそれは見えなくなった。
もう10年の月日が過ぎようとしていた。
いつしか僕の記憶からも
「お姉さん」という憧れは
少しずつだけれど小さくなっていった。
商店街のレコード屋さんもいつものまま。
そして「ヘイ・ジュード」。
僕は通勤でいつもこの曲を聴いている。
大人の入り口に僕が立った証が
今も確かにその中にあるから。
そうはいっても、
亮太の家には誰もいない。
両親は自営業で、
夜の7時以降でなければ帰らない。
亮太、12歳小学6年生。今は一人っ子だ。
もう、
こうやって誰もいない部屋に
言葉を投げるのは3年を超えた。
ランドセルを放り投げて、
母親が用意したドーナツと牛乳。
それをお腹に放り込むと、
すぐに友達との約束の場所へと走ってゆく。
帰るのはいつも6時半くらい。
一人で家にいる時間を出来るだけ減らしたい
そんな自衛心から
意図せずそうなっているのかもしれない。
他の子たちはみな
一様に5時を回ると帰ってゆく。
その後は一人で公園をブラブラし
何も買わないけれど駄菓子屋に立ち寄り
そして
あちこちから夕餉の臭いが漂う中を
一人で帰宅する。
そんな日常が亮太の「当たり前」だった。
ある日学校から帰ると、
いつもは人気の少ない亮太のアパートに
大きなトラックと
4~5人の作業員のような人たち。
なにかあわただしく動いて
亮太の家の隣の部屋に荷物を運び入れている。
「引っ越しかな?」「どんな人だろう?」
亮太の隣の部屋は長く空き部屋になっていて、
それはある意味ありがたい事でもあった。
以前、亮太の家の隣に住んでいた住人は
50代の夫婦で大きな声で喧嘩をする人だった。
壁一枚が薄い。
それはもう視覚を遮る効果しかない
もはやついたてに近い。
そんな亮太の住む築60年のアパートには
少々迷惑な隣人であった。
彼は咄嗟にその記憶を思い出し
気持ちがネガティブに動いたのかもしれない。
その日はすぐに遊びには行かず
その光景を珍し気に眺めていた。
トラックのナンバープレート。
その「名古屋」という地名も
亮太にはどこか異国の地から来たように思われ
それがさらに彼の好奇心を刺激した。
作業が終わると
トラックを見送る一人のお姉さんが目に入った。
その人は亮太には気付かず
そのまま部屋へと入って行った。
「あの人なら、大声は出さないな?」
と、妙な事を亮太は思った。
その日も亮太は6時半に帰宅し
カギを自分で開けて家に入る。
電気を灯け
古い学習机で黙々と宿題に取り掛かった。
ほどなくして両親は帰宅し
母親はすぐに夕食の準備に、父は風呂に。
夕食の膳が整う頃、家のベルが鳴った。
母は
「誰やろ?」
と玄関を少し開ける。
そこに立っていたのは
引っ越しで見たあのお姉さんだった。
「初めまして。
隣に引っ越してきました、東と申します。
大学卒業までの2年ですが、
どうぞよろしくお願いします。」
と挨拶にやって来たのだった。
なんと、お姉さんは名古屋から
大学があるここ京都までこの2年間
新幹線で通学していたんだそう。
ご両親が海外赴任になり
それが出来なくなったとの事。
とにかく
なにかわからないけど凄い人だなと
僕にはそんな印象だった。
名古屋の人ということで
「ういろう」という羊羹のような和菓子を
手土産にくれた。
名古屋では有名なお菓子らしい。
母が大好きだそうで(全然知らなかった)
とても喜んで
「東さん、晩御飯は?」
と聞くと
「今から食べに行きます、」と。
母は
「じゃあ、一緒に食べない?」
とお姉さんを誘った。
お姉さんは
「え?いいんですか?」
とちょっとびっくりした様子で
でも嬉しそうに
「では、遠慮なく!」
と一緒に食べることになった。
両親はとにかく
あまり何も知らない人たち
(ずっと地元で自営業)なので
お姉さんの話がとても面白いらしく
次から次へと質問を投げかける。
父などは
鯱がどうだとか、栄は賑やかか?とか
トヨタの車は多いか?とか。
僕から見てもどうでもいいような事を
とりとめもなく聞いていた。
お姉さんは京都大学の学生さんだそうで
やはりとても頭が良く、話も上手で
小学生の僕でもついつい
聞き入ってしまうほどだった。
お開きになったのはもう22時を回っていて
お姉さんは
「亮ちゃん明日学校だもんね、もう寝ないと」
「遅くまでお邪魔しました。ごちそうさま!」
と明るい笑顔で帰って行った。
それからは何度となく
うちで晩御飯を一緒に食べるようになり
いつしか僕とお姉さんも仲良くなって
兄弟みたいに親しくなった。
兄が就職して家を出てから
ずっと一人っ子だったので
なんか急にお姉さんが出来たようで
それはとても嬉しかった。
それからお姉さんは時々
僕がカギをガチャガチャ回す音を聞くと
ドアを開いて
「お帰り!」「遊びに行くの?」
と声をかけてくれるようになった。
「行かない」
と言った日は
「じゃあ、お母さん帰るまでうちにおいでよ」
と、両親が帰宅するまで
色々とよく僕の面倒をみてくれた。
初めてお姉さんの部屋に入った時
とってもいい匂いがしたことと
思ったほど女の人っぽくない部屋だ
というのが正直な印象だった。
部屋にはカッコイイギターが一本と
壁にBeatlesというグループのポスターが
二枚貼ってあった。
お姉さんはいつも
長めの髪を後ろで括って
そこに必ず青いリボンを付けていた。
服装もとてもシンプルで
夏はT-シャツ、冬はボトルネックのセーター
下は常に細めのジーンズという恰好だった。
まあ、当たり前だけど
同じような格好をしても
母とはずいぶん違うんだなと
子供心に妙に納得したのを覚えている。
お姉さんはいつもギターを弾きながら
そのBeatlesの歌を歌ってくれた。
最初は僕も良く解らず
ただ聴いていただけだったけれど
だんだんとその音楽に興味を持って
お姉さんにお願いして
何曲もレコードをかけてもらったりもした。
特に「ヘイ・ジュード」という曲と
「Yesterday」というこの2曲を
いつもお姉さんが歌ってくれ
僕も自然とその2曲が好きになった。
お姉さんは昼から在宅している事が多く
自然と僕も
帰宅するとお姉さんの所に行くようになり
お姉さんが淹れてくれるカフェオレと
バウムクーヘンを食べながら
二人でBeatlesを歌う。
いつしか
それが僕の一番の楽しみになっていった。
そして2年と言う月日すぐに過ぎた。
僕も中学生になった。
いつの時も、楽しい時間はあっという間だ。
お姉さんの引っ越しの日に
うちでお別れ会をすることになった。
その日は両親も自営業を休み
色々と引っ越しの手伝いなどやっていた。
僕は学校があったので
帰って来たらもうすでに
お姉さんの部屋の表札は外され
お姉さんはガス会社の人と話していた。
お別れ会もいつものごとく
父の下らない質問がメインで、
それでもお姉さんは嫌な顔もせず
ニコニコと
知識のある内容をあれこれ話してくれた。
お姉さんは「工学部」という
先端技術などを専攻するところだったのを
この日初めて知った。
どうりで、そういった話に詳しいはずだ。
今晩はここでもう一晩寝て
あすの午後三時に退去ということだそうだ。
大家さんの都合で
今日の内部点検が出来なかったそうで
明日になったとのこと。
たった半日ほどだけれど
僕はそれが嬉しかった。
今日お別れだと思っていたから。
翌日は両親も仕事でいないので
最後の挨拶が出来ない事などを
お互いが何度も頭を下げて
申し訳なさそうに話していた。
少し前に
僕は、お姉さんにお世話になったお返しに
なにかプレゼントをしたいと母に相談した。
母は「じゃあ、レコードでもあげたら?」と。
そうだ。お姉さんが音楽好きなのは
もう母も良く知っている。
(Beatlesに全然興味は出なかったようだ・)
たしか、お姉さんは以前
「ほとんどのアルバムは持ってるんだけど、
リボルバーだけはまだないんだ。」
「いい曲がいっぱい入ってるんだよ。」
「亮ちゃんにも聞かせてあげたかったな。」
と言っていたのを思い出した。
母に預けていたお年玉をもらって
商店街のレコード屋さんへ行った。
おじさんに
「リボルバーというレコードありますか?」
と聞くと
「へぇ~!お兄ちゃんBeatles好きなんか!」
と嬉しそうにおじさんは笑った。
「好きだよ!ヘイ・ジュードとYesterday!」
おじさんも
「ああ、あれは名曲だ!」
と二人で盛り上がった。
奥にあったリボルバーを丁寧に拭いてくれ
ラッピングも素敵に仕上げてくれた。
そうやって用意しておいたプレゼント。
でも、僕はなぜか
お別れ会の場で渡すのが恥ずかしく
半日伸びた事もあって
翌日帰ってから渡そうと決めた。
その日は学校が午前中だけだったので
急いで帰宅し、お姉さんの呼び鈴を押した。
「はぁ~い」
いつも通りの明るい声が返ってきた。
「ああ!亮君!今日は早いね。」
お姉さんはいつも「亮ちゃん」だ。
なのにこの日は「亮君」と呼んだ。
僕は
後ろ手に隠し持っていたレコードを差し出して
「これ、今までのお礼です。聴いてください」
と渡した。
お姉さんは
「さあ、入って!」
と僕を部屋に入れてくれた。
もう部屋には本当に何もなく
壁のLet it beのポスターも
他の一枚ももうそこにはない。
その変わってしまった風景が
なぜか僕の心をぎゅっと締め付け
涙が出そうになった。
お姉さんはラッピングを開け
「うわぁ!リボルバー!」
「覚えててくれたんだ!」
と凄く喜んでくれた。
お姉さんは
アルバムの説明をしてくれたけど
僕は別の事が気になっていた。
お姉さんはこの日、スカート姿だった。
お姉さんのスカート姿を見るのは
初めてだった事にその時気づき
それもとても子供心に衝撃だった。
髪にもウェーブがかかって
いつもの括り髪じゃない。
今日はリボンではなく
青いヘアバンドと白いブラウス。
お姉さん、とても綺麗だ。
と、真剣に思った。
と同時に、お姉さんの脛の周りにある
大きな火傷の跡が
僕にとっては一番ショックだった。
だから・・。
お姉さんはいつもジーンズだったんだ・・。
そんな事を考えているとお姉さんは
「これ、酷いでしょう?」と小さく笑った。
気にしていないふり
をしていたつもりだったけれど
所詮はまだ子供。
お姉さんは僕がそれを気にしているのに
ちゃんと気付いている。
「私、12歳の時に家が火事になってね。」
「その時こうなったの。」
「私には8歳年下の弟がいた。」
「でも、弟はその火事で・・。」
「だからね、亮君と同い年。生きてたら。」
「なんか、だからかな。」
「亮君を特別に思っちゃったのはw」
と小さく首をかしげて笑った。
そうだったんだ。
お姉さんのあの優しさは
その弟へと注げなかった
愛情の一部だったんだと。
僕は何かわからない寂しさと
その弟君への申し訳の無さ
そんな複雑な気持ちで
しばらく黙り込んでしまった。
お姉さんは
「ごめんね。
隠すつもりじゃなかったんだけれど・・」
お姉さんも言葉を切って黙り込んだ。
少し時間が流れ
無造作に床に置かれたスマホの
3時のアラームが鳴った。
「あ、もうすぐタクシーが来る」
お姉さんはすっと立ち上がった。
お姉さんが動くたびに
とてもいい大人の女性の香りがする。
僕はなぜが、それにドキドキした。
「そうだ。亮君にプレゼントもらったのに
私、何も用意してないや。へへ」
お姉さんはいたずらっぽく笑う。
僕もつられて笑った。
「じゃあねえ
ちょっとだけ亮君
目を閉じててくれないかな?」
僕は言われるままに目を閉じた。
そしてそれはすぐに
あの香りが近づいて
僕の唇に温かく柔らかいものが重なった。
もう、何が起こったかわからず
動転する僕を見てお姉さんは
「へへ。一番乗りだったかな?」
とまた笑う。
「君ももうすぐ大人だよね。」
「いつまでもお母さんに甘えてちゃだめだよ。」
「自分でお母さんを支える存在にならないと。」
「これはね、お姉さんからの
大人の君へのプレゼント。」
「そういう事にしておこうね。
二人だけの秘密だよ。へへ」
お姉さんはまた可愛く笑う。
その眼には確かに、失った弟への愛情と
僕へのエールが美しく映し出されていた。
すぐにタクシーは来た。
お姉さんはスカートのすそを少し気にしながら
それに乗り込んだ。
「じゃあ、元気でね!」
タクシーは勢いよく走り出し
すぐにそれは見えなくなった。
もう10年の月日が過ぎようとしていた。
いつしか僕の記憶からも
「お姉さん」という憧れは
少しずつだけれど小さくなっていった。
商店街のレコード屋さんもいつものまま。
そして「ヘイ・ジュード」。
僕は通勤でいつもこの曲を聴いている。
大人の入り口に僕が立った証が
今も確かにその中にあるから。



