夜と最後の夏休み

 私、矢先詩音は黙々と勉強をしていた。暑い。

 ばあちゃんが詩音に用意してくれた部屋にはエアコンがない。というか家の中でエアコンがあるのはリビングとばあちゃんの寝室だけだ。

 だから私は窓を開けて、扇風機を回して、首元にぬらしたタオルを巻いて、できるだけ暑くなりすぎないようにしながら勉強をしている。

 どうにもダメなときは図書館にいくこともある。


「次、あと三ページ」


 外からは蝉の声。ミンミンと熱心に騒いでいる。時折風が吹いて、部屋の中の生ぬるい空気をかき回す。


(本当はこっちの中学に行きたいんだけど)


 手を動かしながら友達二人の顔を思い浮かべた。

 夜と美海は隣町の中学に行くと言っていた。

 普通の公立中学校。

 私の親は許さないであろう、田舎ののどかな中学校。

 親の前にばあちゃんが嫌がるだろう。今だって家に置いてはくれるけど、顔はほとんど合わせない。

 詩音の顔がパパに似てるから。見ると嫌な気持ちになるんだって。


 私のママ、矢先遙は小崎町出身で大学のときに都会に出てパパと出会ったそうだ。

 そしてそのまま結婚したけど結婚に大反対だったばあちゃんとじいちゃんとはそれっきり。

 一応子供が生まれてからは最低限の付き合いだけが回復したらしい。

 ばあちゃんが孫としてかわいがるのはママによく似た一也兄さんだけだ。

 パパによく似た明遙姉さんと私のことはほとんど無視。それでも夏の間だけ家に置いてくれるのは、ママが熱心に頼み込んだから。それが一也兄さんのためになるのだと言って。


 すごいな。誰も彼も、詩音のことなんてどうでもいいんだって。あんまりすぎて笑っちゃう。だから私は寮のある中学校を目指していた。

 家の中で一人でいるより、たぶん他人の中で一人の方がさみしくない。たぶん。

 夜にも美海にも言っていないけど、私の第一志望の中学は小崎町から割と近い。電車とバスで余裕で日帰りできる距離だ。そこに入れれば土日とかちょっとした連休に夜や美海と遊んだりできるかもしれない。それだけをモチベーションに、私は勉強をしている。




「あっつう」


 開けた窓からは、引き続きミンミンじりじりと蝉の声が響いている。この声が聞こえるだけで余計に暑い気がしてしまう。八つ当たりとか、言いがかりなんだけど。

 勉強を終えたノートを閉じる。表紙に『矢崎詩音』とあまりきれいじゃない字で書かれている。

 この名前が私はあんまり好きじゃない。だって仲間はずれなんだ。

 パパの名前は矢先太一。ママは遙。兄さんが一也で姉さんは明遙。兄さんと姉さんはパパとママから一文字ずつもらってるけど、詩音だけなんにもない。仲間はずれ。名前をつける段階から仲間はずれってどういうことなの。生まなきゃ良かったのにって、名前を見ると思ってしまう。だから好きじゃない。


「やんなっちゃう」


 参考書や課題、ノートなんかを全部片付けた。

 立つのが面倒で、のそのそと四つん這いのまま縁側に出た。ぬるい風は潮の匂い。

 塀に立てかけられたばあちゃんの自転車は錆びだらけだ。

 窓とかドアとかはそうでもないのに、どの家でも自転車が錆びているのはどうしてだろう。

 そして錆びを見ていると悲しくなるのは、なんで。


「しおーん」


 潮の匂いの風に混じって、詩音の名前を呼ぶ声が聞こえた。


「はーい」


 返事をすると、開けっぱなしの門から夜と美海がやってきた。


「勉強、終わった?」

「海行こうよ。クラゲいるかもだけど」


 二人はニコニコと詩音を誘ってくれた。


「行く!」


 急いで立ち上がって玄関に向かう。

 さっきと違って、立ち上がるのがだるくなかった。