日曜日、時刻は午前10時になろうとしていた。
(ほんとうに来ちゃったよ……)
普段ならパジャマでうだうだしているこの時間、見知らぬ小さな駅にいる。
少し余裕をもって出たら、けっこう早く着いてしまったみたい、だけど――。
(うそ!もう来てる!?)
改札の向こうに、私を待ち構える黒縁眼鏡の長身の男が見えて、思わず嬉しさに頬が緩む。
(早いお迎えとか反則だよ……嬉しすぎる)
「おはよう。ちゃんと一人で来られたね」
「子どもじゃないんだから」
「えらいえらい」
(クロカワのやつ、すぐそうやって……もう)
ここはクロカワの自宅の最寄り駅。
今日は事情があって、朝から電車でやって来たのだけど。
「ごめんなさい、待っててくれたの?」
「気にしないで。買い物もあったから家を早く出ていただけだよ」
長ネギがチョロっと顔を出した買い物袋を見せながら、クロカワがにっこり笑う。
「日曜はスーパーの朝市があって、9時から店が開いているんだよ」
「へえー、そうなんだね」
ついででも、たまたまでも、それでもなんでも、やっぱり嬉しい。
きっと、朝市があってもなくても、うんと早く来て私を待っていてくれた気もするけれど。
「シライシこそ、遅れないように気を遣ってくれたんでしょ?」
「そんなこと……」
「すまないね、休みの日にわざわざ」
「ぜんぜん。借りは作らない主義だし?」
「さようでこざいますか」
クロカワが愉快そうに笑い、私を促し歩き出す。
「家、ここからそんなに遠くないから」
「うん」
さてさて、大忙しな日曜日の始まりはじまり(?)
ところで、話は私の誕生日に遡る。
あの夜、思いがけずクロカワに誕生祝いをしてもらって――。
お店を出て駅へ向かう道すがら、彼と並んで歩く私は、ほろ酔い気分の上機嫌で。
一方、クロカワはぼちぼち飲んでいたはずだけど、酔った感じはまったくなくて。
「僕、シライシにお願いがあるのだけど」
「へ?」
気づけばもう、あっという間に駅だった。
歩みをとめて、静かに私を見下ろすクロカワと、ぽかんと彼を見上げる私。
「ほら、まえに言っていた“貸し1つ”の願いごと。何か考えておいてと言ってくれたでしょ」
「あ? あー、はいはい。うん、言ったね」
「あの権利をぜひ行使させて欲しいんだ」
(クロカワ……???)
かしこまった調子のクロカワに、こちらもにわかに緊張する。
「僕は、やっぱりシライシがいいと思って」
「えっ」
(それって、どういう???)
「他の誰かなんて考えられないんだ」
「あ、あのっ……」
彼のまっすぐな瞳が、私をとらえて離さない。
(どうしよう、私……だって、そんな……)
甘やかな期待と、ときめきと。
騒めきと、戸惑いと、ゆらめきと。
(ああ、もうっ……)
私はただもう、いっぱいいっぱいの気持ちで彼を見上げた。
「シライシ」
「は、はいっ」
「僕の――」
そうして、クロカワはとどめのひと言を刺した。
「ピアニスト、やってくれない?」
「……え゛?」
(僕の、ピアニスト???)
「僕がビオラを弾くから、ピアニストはぜひシライシにお願いしたいんだ」
「えーと……」
あんぐりぽかーんの私に、クロカワはさらに続ける。
「松尾から――正確には、松尾妻から聞いてるよ? シライシはかなり弾ける人だって」
瞬間、にんまりほくそ笑む真秀の顔が目に浮かぶ。
(真秀め!ペラペラと!)
というか、完全に私の早とちり!? 空回り!?
(恥ずかしすぎるよっ)
そんな心模様を知ってか知らずか、クロカワは“用件”を詳しく話し始めた。
「僕の勤務先の病院で、定期的に院内コンサートを開いているのだけど。今度、僕らもその演奏を任されることになって」
なんでも、コンサートの運営に携わっているのが、職場の先輩兼オケの先輩なのだそうで。
後輩であるクロカワおよび、彼の仲間の面々にお鉢が回ってきました、と。
「でね、ピアノができるシライシに、僕とデュオをお願いできたらと」
(クロカワと私が、ビオラとピアノでデュオ!?)
「どうかな? 僕を助けると思って」
(嬉しい!弾きたい!クロカワと一緒に弾きたい!でも……う、うーん)
「シライシ???」
「いやその、自分なんかに務まるのかなと……」
ピアノは好きでずっと弾いてきたけれど、正直、伴奏なんて学校行事の合唱ですら経験ないし。
「私ね、誰かと一緒に音楽をつくるということを、したことないんだよ」
我ながら、なんだか悲しくなる。
淋しさと情けなさで表情が歪んでいるのが、鏡なしでもわかるくらい。
「だったら」
「え?」
「シライシに、誰かと一緒に音楽を作ってみたい気持ちがあるなら――」
私に注がれるクロカワのまっすぐな眼差し。
「僕と、作らない?」
穏やかな優しさに、ほんの少しだけ、甘やかな熱っぽさを感じるのは……私の気のせい? そう思いたいから、そう見えるだけ?
「もちらん、シライシさえよければだけど……」
(もう、クロカワ!)
控えめな彼が見せる弱気が、なんとも可愛くて愛おしい。
「あ、僕とのデュオがあれなら、違うほうの曲でも? そっちは2nd.バイオリンをやってる西岡がピアノを弾くことになったんだけど、他に誰か弾い――」
「クロカワがいい」
「え?」
私は彼の言葉を遮って、断固主張した。
「クロカワがいいの!クロカワがビオラを弾くなら、私がピアノを弾く!弾きたいの!」
「シライシ???」
「あ゛……」
(私ってばまた、やっちゃったよ……)
どうしてこう私は向こう見ずの無鉄砲なのだろう。
一つオトナになったはずが、ちっとも変わりやしないじゃない。
(クロカワ、きょとんとしちゃってるじゃん!)
「私、あの、えーと……」
「嬉しい」
「えっ」
「僕、シライシと弾けるのすごい嬉しい。すっごく楽しみ」
(クロカワ……)
満面の笑みに、胸がいっぱいで言葉がでない。
私のほうこそ、嬉しくてうれしくて仕方がないのに。
「ま、まあね。借りはきっちり返さないとね。返す機会をいただけで有難いわ、ほんとう」
ようやく出てきたら台詞がこれって!?もう!
「あなたねえ」
(ああもう、またその言い方!)
「律儀だなあ、シライシは」
「と、当然だわ」
(死ぬほど可愛くないな、私……)
「ま、頑固なシライシも――」
「え?」
「やっぱり“かわいい”よ」
「なっ……!」
クロカワの“かわいい”という名の正義の鉄槌に、またもやあっさり、私は打ちのめされてしまった。



