会社終わりの夜の街を、クロカワとふたりで並んで歩く。
(ほんとう、いいのかな???)
思いがけない幸運が夢みたいで、少し戸惑う。
「シライシ、疲れてる? 大丈夫?」
「あ、うん。ぜんぜん大丈夫!」
「まずは目薬かな。途中にわりと品揃えのいいドラッグストアがあるから、そこへ寄ろう?」
そうして、クロカワは目薬を選んで買ってくれた。
もちろん、私は自分で買うと言ったのだけど。
「痒いのを我慢したご褒美だよ」
「お子様か!」
そんなことをされて、本当はくすぐったい気持ちで、内心すっごく浮かれていた。
(ちょろすぎでしょ、私……)
“いいとこ”は、路地裏にある小さなフレンチレストランだった。
いかにも隠れた銘店という店構えにワクワク感が募る。
「いらっしゃいませ――て、黒川君じゃないか」
「こんばんは。ちょっとお久しぶり、ですね」
お店の人と親し気に挨拶を交わすクロカワ。
「今夜は何? 圭介君や瑠璃(るり)ちゃんと?」
「いえ、今日は別口で」
クロカワがちらりと私を見て、お店の人が察したように、私を見遣ってにっこり笑う。
「当店へようこそ。お好きなお席へどうぞ」
見渡せば、今のところカウンター席以外は空いていて、静かに佇むグランドピアノに目が留まった。
「シライシは、ピアノの近くのあの席でもいい?」
「えっ。あ、うん。もちろん!」
(私ってば、そんなにわかりやすいのかな?)
「シライシは食べ物のアレルギーとかない?」
「あ、うん。大丈夫、何もないよ」
「ならよかった、安心だ」
クロカワにすすめられるままメニューはすぐに決まり、注文を済ませて「ほっ」と一息。
「ごめん。ちょっと外すね」
「あ、はい」
彼はは席を立つと、カウンターにいる先ほど挨拶をした男性のところへ行ってしまった。
どうやらクロカワはこちらの常連みたいだし、いろいろと積もる話もあるのかも?
そうして程なく席へ戻ると、彼は私の心を察したように話してくれた。
「ここは学生時代からオケ仲間でお世話になっているお店でね」
「そうなんだ?」
「うん。ほら、来るときに大きな楽器店の前を通ったの覚えてる?」
「ああうん。“濱島楽器”だよね」
濱島楽器は老舗の大きな楽器店で、私も楽譜の購入で何度か足を運んだことがあった。
「さっき僕が話していたのは、この店のオーナーで、濱島楽器の社長の弟さん」
「えっ、そうなの?」
「それでもって、濱島楽器の社長令嬢は学生時代からの僕らの音楽仲間で」
「えっ」
「その夫は、『花のワルツ』で1st.バイオリンをやっていた濱島圭介。僕らのオケ仲間で医学部の同期」
「ええっ」
クロカワの話と、真秀から聞いていた“いっくんフレンズ”の話がつながった。
「圭介の旧姓は野島だったんだけど、お婿さんに入って濱島になったわけ」
「なるほど」
濱島先生の奥様で音大卒の音楽仲間という人が、まさか濱島楽器のご令嬢だったとは……。
絶妙なタイミングで運ばれてくる美味しいお料理をいただきながら、私はやっぱりクロカワを質問攻めにした。
「クロカワはいつからビオラを?」
「うん? ビオラは中学から。その前はバイオリンをやっていて」
「バイオリンはいつから?」
「えーと、四歳から?」
(あ、私がピアノを始めたのと同じ。なんか嬉しい)
「じゃあ、ずっとお教室に?」
「教室は中一までかな。他に、十歳からジュニアオケに入っていて」
「すごい!」
子どもの頃からオケで弾いていたなんて、ピアノの私には羨ましかった。
なにしろピアノは一人で完結する楽器なぶん、孤独といえば孤独なのだ。
「オケにはバイオリンで入団したんだけど、中学になる頃にビオラに転向したんだ」
「どうして?」
これ、とても純粋に興味がある。
「うーん、まあ理由はいろいろあって。一つは、ビオラの人手不足かな。なにせ人気がなくてさ、ビオラって」
クロカワはちょっと困ったように微笑んだ。
「そもそも弦って、吹奏楽部でできる管打と違って経験者が少ないのだけど。中でも、ビオラはぜんぜんで。まあ、バイオリンやチェロと違って、分数楽器を使って幼少期から始めるというのも一般的ではないし」
「オケのほうから頼まれたとか?」
「やんわりと誘われたり? あとは、先生がすすめてくれたのもあって。僕には向いているかもって」
「そうなんだ?」
「うん。その頃はまだ身長もさほど大きいわけでもなかったんだけど。僕はわりと手が大きいほうで」
クロカワは左のてのひらを私に向かって「パッ」と見せると、グーパーグーパー動かした。
「ビオラってバイオリンより楽器が大きいから」
(ほんとう、大きな手)
ただ大きいだけじゃない。
すらりと長い精悍な指が印象的な、楽器を弾く人の美しい手。
楽器を弾く人といえば、何を隠そう私もけっこう手が大きい。
「私もけっこう手が大きいほうなんだよ。女性にしては、だけど」
持っていたフォークを置いて、私は右手を大きくパーにして、その手のひらをクロカワに見せた。
「ほら」
「本当だ。どれどれ」
(えっ……)
気づけば自然に、ふたりの手のひらがぴたりと合わさって――。
「さすがに僕のが大きいけど。でも、シライシは親指がすごく長いんだ?」
「そ、そうかな」
「うん。全体的に指が長くて、すごいきれいな手だね」
クロカワはさらっと言って、にこっと笑った。
でも、私は嬉しくて恥ずかしくて。
それでもって、一人で恥ずかしがっている自分が、ほんとうどうしようもなくて。
「あ、ありがと……」
ぎこちなく笑みを返しつつ、おずおずと手を引っ込める。
「シライシって」
「え?」
「けっこうビオラが好きだったりする?」
「えっ」
(お、落ち着こう。落ち着こうか、私……)
今、聞かれているのはビオラについてであって、決してクロカワのことではない、うん。
「あー、うん。けっこう、すごく好きだよ、ビオラ」
「僕も」
「えっ」
「僕もなんだかんだで好きなんだよね、ビオラ」
(やばい、いけないいけない、脳内で“好き”という言葉がバグるバグる……)
「バイオリンって“俺の音を聴け”みたいな感じがあるじゃない? でも、ビオラはそうじゃなくて。“僕はみんなの音を聴いてるよ”みたいなポジションでしょ。なんかそういうところ、すごい好きなんだよね、僕」
(ああ、もう……)
クロカワの穏やかな笑顔に、心の中ででっかい溜息をつく。
(私はクロカワのそういうところが“すごい好き”なんだよ……)
(ほんとう、いいのかな???)
思いがけない幸運が夢みたいで、少し戸惑う。
「シライシ、疲れてる? 大丈夫?」
「あ、うん。ぜんぜん大丈夫!」
「まずは目薬かな。途中にわりと品揃えのいいドラッグストアがあるから、そこへ寄ろう?」
そうして、クロカワは目薬を選んで買ってくれた。
もちろん、私は自分で買うと言ったのだけど。
「痒いのを我慢したご褒美だよ」
「お子様か!」
そんなことをされて、本当はくすぐったい気持ちで、内心すっごく浮かれていた。
(ちょろすぎでしょ、私……)
“いいとこ”は、路地裏にある小さなフレンチレストランだった。
いかにも隠れた銘店という店構えにワクワク感が募る。
「いらっしゃいませ――て、黒川君じゃないか」
「こんばんは。ちょっとお久しぶり、ですね」
お店の人と親し気に挨拶を交わすクロカワ。
「今夜は何? 圭介君や瑠璃(るり)ちゃんと?」
「いえ、今日は別口で」
クロカワがちらりと私を見て、お店の人が察したように、私を見遣ってにっこり笑う。
「当店へようこそ。お好きなお席へどうぞ」
見渡せば、今のところカウンター席以外は空いていて、静かに佇むグランドピアノに目が留まった。
「シライシは、ピアノの近くのあの席でもいい?」
「えっ。あ、うん。もちろん!」
(私ってば、そんなにわかりやすいのかな?)
「シライシは食べ物のアレルギーとかない?」
「あ、うん。大丈夫、何もないよ」
「ならよかった、安心だ」
クロカワにすすめられるままメニューはすぐに決まり、注文を済ませて「ほっ」と一息。
「ごめん。ちょっと外すね」
「あ、はい」
彼はは席を立つと、カウンターにいる先ほど挨拶をした男性のところへ行ってしまった。
どうやらクロカワはこちらの常連みたいだし、いろいろと積もる話もあるのかも?
そうして程なく席へ戻ると、彼は私の心を察したように話してくれた。
「ここは学生時代からオケ仲間でお世話になっているお店でね」
「そうなんだ?」
「うん。ほら、来るときに大きな楽器店の前を通ったの覚えてる?」
「ああうん。“濱島楽器”だよね」
濱島楽器は老舗の大きな楽器店で、私も楽譜の購入で何度か足を運んだことがあった。
「さっき僕が話していたのは、この店のオーナーで、濱島楽器の社長の弟さん」
「えっ、そうなの?」
「それでもって、濱島楽器の社長令嬢は学生時代からの僕らの音楽仲間で」
「えっ」
「その夫は、『花のワルツ』で1st.バイオリンをやっていた濱島圭介。僕らのオケ仲間で医学部の同期」
「ええっ」
クロカワの話と、真秀から聞いていた“いっくんフレンズ”の話がつながった。
「圭介の旧姓は野島だったんだけど、お婿さんに入って濱島になったわけ」
「なるほど」
濱島先生の奥様で音大卒の音楽仲間という人が、まさか濱島楽器のご令嬢だったとは……。
絶妙なタイミングで運ばれてくる美味しいお料理をいただきながら、私はやっぱりクロカワを質問攻めにした。
「クロカワはいつからビオラを?」
「うん? ビオラは中学から。その前はバイオリンをやっていて」
「バイオリンはいつから?」
「えーと、四歳から?」
(あ、私がピアノを始めたのと同じ。なんか嬉しい)
「じゃあ、ずっとお教室に?」
「教室は中一までかな。他に、十歳からジュニアオケに入っていて」
「すごい!」
子どもの頃からオケで弾いていたなんて、ピアノの私には羨ましかった。
なにしろピアノは一人で完結する楽器なぶん、孤独といえば孤独なのだ。
「オケにはバイオリンで入団したんだけど、中学になる頃にビオラに転向したんだ」
「どうして?」
これ、とても純粋に興味がある。
「うーん、まあ理由はいろいろあって。一つは、ビオラの人手不足かな。なにせ人気がなくてさ、ビオラって」
クロカワはちょっと困ったように微笑んだ。
「そもそも弦って、吹奏楽部でできる管打と違って経験者が少ないのだけど。中でも、ビオラはぜんぜんで。まあ、バイオリンやチェロと違って、分数楽器を使って幼少期から始めるというのも一般的ではないし」
「オケのほうから頼まれたとか?」
「やんわりと誘われたり? あとは、先生がすすめてくれたのもあって。僕には向いているかもって」
「そうなんだ?」
「うん。その頃はまだ身長もさほど大きいわけでもなかったんだけど。僕はわりと手が大きいほうで」
クロカワは左のてのひらを私に向かって「パッ」と見せると、グーパーグーパー動かした。
「ビオラってバイオリンより楽器が大きいから」
(ほんとう、大きな手)
ただ大きいだけじゃない。
すらりと長い精悍な指が印象的な、楽器を弾く人の美しい手。
楽器を弾く人といえば、何を隠そう私もけっこう手が大きい。
「私もけっこう手が大きいほうなんだよ。女性にしては、だけど」
持っていたフォークを置いて、私は右手を大きくパーにして、その手のひらをクロカワに見せた。
「ほら」
「本当だ。どれどれ」
(えっ……)
気づけば自然に、ふたりの手のひらがぴたりと合わさって――。
「さすがに僕のが大きいけど。でも、シライシは親指がすごく長いんだ?」
「そ、そうかな」
「うん。全体的に指が長くて、すごいきれいな手だね」
クロカワはさらっと言って、にこっと笑った。
でも、私は嬉しくて恥ずかしくて。
それでもって、一人で恥ずかしがっている自分が、ほんとうどうしようもなくて。
「あ、ありがと……」
ぎこちなく笑みを返しつつ、おずおずと手を引っ込める。
「シライシって」
「え?」
「けっこうビオラが好きだったりする?」
「えっ」
(お、落ち着こう。落ち着こうか、私……)
今、聞かれているのはビオラについてであって、決してクロカワのことではない、うん。
「あー、うん。けっこう、すごく好きだよ、ビオラ」
「僕も」
「えっ」
「僕もなんだかんだで好きなんだよね、ビオラ」
(やばい、いけないいけない、脳内で“好き”という言葉がバグるバグる……)
「バイオリンって“俺の音を聴け”みたいな感じがあるじゃない? でも、ビオラはそうじゃなくて。“僕はみんなの音を聴いてるよ”みたいなポジションでしょ。なんかそういうところ、すごい好きなんだよね、僕」
(ああ、もう……)
クロカワの穏やかな笑顔に、心の中ででっかい溜息をつく。
(私はクロカワのそういうところが“すごい好き”なんだよ……)



