弾く気満々でワクワクの私を、彼がおやおやと笑う。
「もちろん。ぜんぜん大丈夫だよ。弾き放題」
「やった!」
「じゃあ、僕もお風呂を上がったらそっちに行くね」
「うん」
(時間を気にせず一緒に弾けるなんて!)
嬉しさいっぱい見上げる私を、愛おしそうに彼が見下ろしている。
「僕的にはやっぱり、眼鏡の瑞樹ってかなり好きなんだけどな」
彼の手が私の髪に触れ、その長い指が優しく柔らかに髪を梳く。
穏やかだけれど、どこか熱っぽい眼差しが、胸を甘くしめつける。
「眼科医としても、特段の理由がないなら眼鏡を推奨したいところではあるし。でも――」
彼は梳いた髪を耳にかけると、その手のひらでそっと私の頬に触れた。
「瑞樹はコンタクトがいいんだもんね?」
拗ねたような、甘えるような、ちょっと意地悪な彼の声色。
私は答えに困って、苦しまぎれに目を伏せた。
「それは……」
「まあ僕は僕で、メガネっ娘の瑞樹を独り占めできるのは魅力的かも、なんて。眼科医にあるまじき不埒なことを考えたり」
そう言いつつ、彼が悪びれもせず余裕で笑う。
「柊は物好きだよ」
「そう?」
「そうだよ。こんなの気に入るの、柊だけだもん」
頬に触れた彼の手を、私は愛おしむように柔らかに包んだ。
「だからね、心配しなくても、自動的に柊の独占状態だよ」
「世の男達の目が、ずっと節穴でありますように」
そうして、彼はおでこにひとつキスをくれた。
(またそうやって……もう)
「それこそ眼科医としてどうかと思うけど?」
「ここだけの話だよ」
(世の中の女性たちこそ、彼のこの愛くるしさに気づきませんように)
いたずらっ子みたい笑う彼が、あまりに可愛かったから、私は少し背伸びをして、彼の唇にキスをした。
おでこにしてくれた、おまじないのキスのお返しに、なんて……。
「お、お風呂上がったらレッスン室に集合なんだからね!」
そして、恥ずかしさに脱兎のごとく逃亡す……。
心の中で“フッ、あばよ!”などと、捨て台詞を言ったつもりで。
そんな私の背中に彼が一言。
「みずきー、楽譜も見放題だからねー」
(なんという気遣い!)
「あ、ありがとよ!」
(もう、何これっ……)
恥ずかしくて、おかしくて。
楽しくて、嬉しくて。
(もうもうもう!大好きなんだからね!)
彼の家で? こんな時間に? パジャマで? ピアノ弾き放題!もれなく楽譜も見放題!
私は夢中になって、レッスン室の楽譜を弾き漁り、家から持参した楽譜をご機嫌で弾きまくった。
ちょうど『赤いスイトピー』を引き始めた頃、コンコンコンと控えめなノックの音がして、遠慮がちにドアが開いた。
(こういう丁寧な所作のひとつひとつも、彼を好きな理由だったりして)
私は演奏をとめると、そろりと入ってくる彼のほうへ向き直った。
「真緑のジャージじゃないんだね」
「マミドリって」
彼が「あれは部屋着であって寝間着じゃないので」と苦笑する。
パジャマ姿の彼を見るのはもちろん初めて。
しかも、お風呂上がりの彼の眼鏡は、私のと五分張るダサさの黒縁眼鏡で。
その姿がもうたまらなく可愛く思えて、心の中で悶えていたのは絶対に内緒だ……。
「さっきの曲、よかったら頭から聴かせてもらえない?」
「好きなの?“赤いスイトピー”」
「うん。聖子ちゃんは基本なんでも好きだけど“赤いスイトピー”はとくに好きなほう」
(“聖子ちゃん”……確かに柊は好きそうかも)
「祖母と母が大ファンでね。子どもの頃から、それはよく聞かされていたから」
「へえー、そうなんだ?」
「うん。僕の構成要素の20%は聖子ちゃんといっても過言ではない」
「それはまた、けっこうな割合だね」
「でしょ?」
なんだかちょっと得意げな彼が、おかしくて、可愛くて、思わずふふふと笑顔になる。
「じゃあ頑張って弾かせてもらおうかな」
「嬉しいな」
彼は壁際から椅子をひょいと持ってくると、私の左隣に落ち着いた。
なんだか、レッスン中の先生と生徒の位置関係?
(さて、ちょっと難しいから頑張らないと)
私は軽く深呼吸して、演奏を始めた。
(この曲、私も大好き……)
心をこめて、想いをのせて。
望まれて奏でる、大好きな人へ届ける私の音。
途中、そろそろページを繰る小節が近づいて、気持ち構えると――。
(あっ……)
彼の手がそっとページの端に添えられて、完璧なタイミングで次のページが開かれた。
嬉しさいっぱい笑顔で感謝を伝えれば、彼もまた優しく微笑み返してくれるから――。
私は泣きたくなるほど幸せで、ありったけの想いをこめて、大好きなこの曲を弾ききった。
(ちゃんと想いのこもった音になっていたらいいな……)
「ど、どうかな? この楽譜、けっこう豪華な編曲なんだけど。ちゃんとキラキラしてたかな???」
弾き終えたあとは、なんだかいつも照れくさくて。
無駄に饒舌になったり、落ち着かない……。
「やっぱりいいね、瑞樹のピアノ。すごくキラキラしていたし、素敵だった」
「ありがと。柊は優しいなあ」
「お世辞じゃなくて。本当に大好きなんだよ、瑞樹の真っすぐな音が」
(そんな……それこそ、そんなに真っすぐな瞳で見つめられたら、もう……)
「柊に褒められるのが一番嬉しい」
誰よりも大好きな彼がくれた、何よりの宝もの。
(私もちゃんと伝えなきゃ。ううん、伝えたい)
「あのね、柊」
「うん?」
目を伏せて、なんとなく彼のパジャマをきゅっとつかむ。
「柊はメガネっ娘の私を独り占めしたいって言ったけど」
「うん」
「私はね――」
(伝えよう、私の想いを、切なる願いを)
「眼鏡なしの柊を独り占めしたいって思ってるよ」
これが、彼に委ねられた私の答え。
(ちゃんと、きっと、伝わったよね……?)
おずおずと顔を上げると、見守るように彼が優しく見つめていた。
「ピアノは、今日はもうおしまいで大丈夫?」
「……大丈夫」
「本当? まだ弾き足りないとかない?」
私はふるふると首を横に振った。
「明日も、また弾くし……」
「そっか。それじゃあ――」
彼はゆっくり立ち上がると、その手を私に差し伸べた。
「寝る準備をして、上に行こっか」
「……うん」
こくんと大きく頷いて、伸べられた手を取り立ち上がる。
大人が寝るには少し早いけど、私たちには頃合いだ。
(スイトピーの花言葉、柊は知ってる……?)
心密かに問いかけつつ、彼に手をひかれて、私はレッスン室をあとにした。
「お二階へ上がるの初めてだ」
「そうだっけ?」
「うん。意外と?」
何度もお邪魔しているとはいえ、お二階は用事がなけれはわ行かないわけで……。
お二階にある3つのお部屋は、ドアがすべて開け放たれていて、廊下の突き当たりにはお掃除ロボットがお行儀よくスタンバイしていた。
ついに立ち入ることになったプライベート空間に、ドキドキ、ワクワク、キョロキョロ。
「どうぞ。寝るだけの殺風景な部屋ですが」
通された彼の寝室には、正直かなり驚いた。
(超絶シンプル……!)
ダブルサイズのベッドがひとつに、小さめのチェストがひとつ、それだけ。
(てっきり“可愛い”で溢れているのかと、勝手に想像していたから、なんだか意外……)
「まあ楽にしてよ」
彼がドアを閉めて、立ちつくす私に歩み寄る。
「なんて――きっと、無理な話だよね」
(えっ……)
「あのっ」
「いや、家に来てからずっと、なんとなく緊張しているなあと思って。指摘したら余計に気にしそうだし、様子を見ていたのだけど」
「それは、うん……なんか、ごめんなさい」
すっかりバレバレで、余計な気を遣わせていたなんて申し訳ない……。
「謝ってもらうようなことじゃないし。まあとりあえず座ろうよ」
「うん……」
「もちろん。ぜんぜん大丈夫だよ。弾き放題」
「やった!」
「じゃあ、僕もお風呂を上がったらそっちに行くね」
「うん」
(時間を気にせず一緒に弾けるなんて!)
嬉しさいっぱい見上げる私を、愛おしそうに彼が見下ろしている。
「僕的にはやっぱり、眼鏡の瑞樹ってかなり好きなんだけどな」
彼の手が私の髪に触れ、その長い指が優しく柔らかに髪を梳く。
穏やかだけれど、どこか熱っぽい眼差しが、胸を甘くしめつける。
「眼科医としても、特段の理由がないなら眼鏡を推奨したいところではあるし。でも――」
彼は梳いた髪を耳にかけると、その手のひらでそっと私の頬に触れた。
「瑞樹はコンタクトがいいんだもんね?」
拗ねたような、甘えるような、ちょっと意地悪な彼の声色。
私は答えに困って、苦しまぎれに目を伏せた。
「それは……」
「まあ僕は僕で、メガネっ娘の瑞樹を独り占めできるのは魅力的かも、なんて。眼科医にあるまじき不埒なことを考えたり」
そう言いつつ、彼が悪びれもせず余裕で笑う。
「柊は物好きだよ」
「そう?」
「そうだよ。こんなの気に入るの、柊だけだもん」
頬に触れた彼の手を、私は愛おしむように柔らかに包んだ。
「だからね、心配しなくても、自動的に柊の独占状態だよ」
「世の男達の目が、ずっと節穴でありますように」
そうして、彼はおでこにひとつキスをくれた。
(またそうやって……もう)
「それこそ眼科医としてどうかと思うけど?」
「ここだけの話だよ」
(世の中の女性たちこそ、彼のこの愛くるしさに気づきませんように)
いたずらっ子みたい笑う彼が、あまりに可愛かったから、私は少し背伸びをして、彼の唇にキスをした。
おでこにしてくれた、おまじないのキスのお返しに、なんて……。
「お、お風呂上がったらレッスン室に集合なんだからね!」
そして、恥ずかしさに脱兎のごとく逃亡す……。
心の中で“フッ、あばよ!”などと、捨て台詞を言ったつもりで。
そんな私の背中に彼が一言。
「みずきー、楽譜も見放題だからねー」
(なんという気遣い!)
「あ、ありがとよ!」
(もう、何これっ……)
恥ずかしくて、おかしくて。
楽しくて、嬉しくて。
(もうもうもう!大好きなんだからね!)
彼の家で? こんな時間に? パジャマで? ピアノ弾き放題!もれなく楽譜も見放題!
私は夢中になって、レッスン室の楽譜を弾き漁り、家から持参した楽譜をご機嫌で弾きまくった。
ちょうど『赤いスイトピー』を引き始めた頃、コンコンコンと控えめなノックの音がして、遠慮がちにドアが開いた。
(こういう丁寧な所作のひとつひとつも、彼を好きな理由だったりして)
私は演奏をとめると、そろりと入ってくる彼のほうへ向き直った。
「真緑のジャージじゃないんだね」
「マミドリって」
彼が「あれは部屋着であって寝間着じゃないので」と苦笑する。
パジャマ姿の彼を見るのはもちろん初めて。
しかも、お風呂上がりの彼の眼鏡は、私のと五分張るダサさの黒縁眼鏡で。
その姿がもうたまらなく可愛く思えて、心の中で悶えていたのは絶対に内緒だ……。
「さっきの曲、よかったら頭から聴かせてもらえない?」
「好きなの?“赤いスイトピー”」
「うん。聖子ちゃんは基本なんでも好きだけど“赤いスイトピー”はとくに好きなほう」
(“聖子ちゃん”……確かに柊は好きそうかも)
「祖母と母が大ファンでね。子どもの頃から、それはよく聞かされていたから」
「へえー、そうなんだ?」
「うん。僕の構成要素の20%は聖子ちゃんといっても過言ではない」
「それはまた、けっこうな割合だね」
「でしょ?」
なんだかちょっと得意げな彼が、おかしくて、可愛くて、思わずふふふと笑顔になる。
「じゃあ頑張って弾かせてもらおうかな」
「嬉しいな」
彼は壁際から椅子をひょいと持ってくると、私の左隣に落ち着いた。
なんだか、レッスン中の先生と生徒の位置関係?
(さて、ちょっと難しいから頑張らないと)
私は軽く深呼吸して、演奏を始めた。
(この曲、私も大好き……)
心をこめて、想いをのせて。
望まれて奏でる、大好きな人へ届ける私の音。
途中、そろそろページを繰る小節が近づいて、気持ち構えると――。
(あっ……)
彼の手がそっとページの端に添えられて、完璧なタイミングで次のページが開かれた。
嬉しさいっぱい笑顔で感謝を伝えれば、彼もまた優しく微笑み返してくれるから――。
私は泣きたくなるほど幸せで、ありったけの想いをこめて、大好きなこの曲を弾ききった。
(ちゃんと想いのこもった音になっていたらいいな……)
「ど、どうかな? この楽譜、けっこう豪華な編曲なんだけど。ちゃんとキラキラしてたかな???」
弾き終えたあとは、なんだかいつも照れくさくて。
無駄に饒舌になったり、落ち着かない……。
「やっぱりいいね、瑞樹のピアノ。すごくキラキラしていたし、素敵だった」
「ありがと。柊は優しいなあ」
「お世辞じゃなくて。本当に大好きなんだよ、瑞樹の真っすぐな音が」
(そんな……それこそ、そんなに真っすぐな瞳で見つめられたら、もう……)
「柊に褒められるのが一番嬉しい」
誰よりも大好きな彼がくれた、何よりの宝もの。
(私もちゃんと伝えなきゃ。ううん、伝えたい)
「あのね、柊」
「うん?」
目を伏せて、なんとなく彼のパジャマをきゅっとつかむ。
「柊はメガネっ娘の私を独り占めしたいって言ったけど」
「うん」
「私はね――」
(伝えよう、私の想いを、切なる願いを)
「眼鏡なしの柊を独り占めしたいって思ってるよ」
これが、彼に委ねられた私の答え。
(ちゃんと、きっと、伝わったよね……?)
おずおずと顔を上げると、見守るように彼が優しく見つめていた。
「ピアノは、今日はもうおしまいで大丈夫?」
「……大丈夫」
「本当? まだ弾き足りないとかない?」
私はふるふると首を横に振った。
「明日も、また弾くし……」
「そっか。それじゃあ――」
彼はゆっくり立ち上がると、その手を私に差し伸べた。
「寝る準備をして、上に行こっか」
「……うん」
こくんと大きく頷いて、伸べられた手を取り立ち上がる。
大人が寝るには少し早いけど、私たちには頃合いだ。
(スイトピーの花言葉、柊は知ってる……?)
心密かに問いかけつつ、彼に手をひかれて、私はレッスン室をあとにした。
「お二階へ上がるの初めてだ」
「そうだっけ?」
「うん。意外と?」
何度もお邪魔しているとはいえ、お二階は用事がなけれはわ行かないわけで……。
お二階にある3つのお部屋は、ドアがすべて開け放たれていて、廊下の突き当たりにはお掃除ロボットがお行儀よくスタンバイしていた。
ついに立ち入ることになったプライベート空間に、ドキドキ、ワクワク、キョロキョロ。
「どうぞ。寝るだけの殺風景な部屋ですが」
通された彼の寝室には、正直かなり驚いた。
(超絶シンプル……!)
ダブルサイズのベッドがひとつに、小さめのチェストがひとつ、それだけ。
(てっきり“可愛い”で溢れているのかと、勝手に想像していたから、なんだか意外……)
「まあ楽にしてよ」
彼がドアを閉めて、立ちつくす私に歩み寄る。
「なんて――きっと、無理な話だよね」
(えっ……)
「あのっ」
「いや、家に来てからずっと、なんとなく緊張しているなあと思って。指摘したら余計に気にしそうだし、様子を見ていたのだけど」
「それは、うん……なんか、ごめんなさい」
すっかりバレバレで、余計な気を遣わせていたなんて申し訳ない……。
「謝ってもらうようなことじゃないし。まあとりあえず座ろうよ」
「うん……」



