待ちに待った土曜日。
彼はクリニックでの勤務があって、職場を出られるのは15時頃。
帰宅する頃に直接お家へ伺うプランもあったけれど、私は仕事おわりの彼を近くで待ち伏せ?するほうを選んだ。
午前中には濱島楽器へ出かける用事もあって、ちょうどよくもあったし。
待ち合わせ場所は、クラブハウスサンドが名物という、クリニックそばのコーヒー屋さん。
買ったばかりの楽譜を夢中で見ていたら、彼からのメッセージを受信した。
“今から出るね”
(まあ、目と鼻の先なんだけどね)
けど、彼のこういう律儀なところもやっぱり好き。
ほどなくして現れたのは、お仕事モードの黒川先生。
「待たせて申し訳ない」
ネクタイこそしていないけど、キレイ系の上品なシャツに、知的でおしゃれなスマート眼鏡。
でも、お仕事モードはあくまで外見の話。
「待ち疲れしちゃったんじゃない?ごめんね」
「大丈夫だよ。ずっと譜読みしてて時間溶けた」
「そっか、ならよかった」
今ここにいるのは、紛れもなくプライベートの黒川柊。
彼のほっとした笑顔が愛おしい。
「僕、お腹ペコペコで。軽く何か食べてもいい?」
「もちろん」
「瑞樹は?何か食べる?」
「ううん。私は瑠璃さんとランチしてきたから」
「ああ、そうだったね」
彼が注文したのはクラブハウスサンドではなく、フルーツサンドとアイスティー。
私たちは、食べながら飲みながら、寛いだ気分で話しをした。
「ハマちゃん、何か言ってた?」
「何かって?」
「いや、何ということもないけど……」
濱島楽器へお邪魔したのは、瑠璃さんにお借りしていたワンピースをお返しするため。
本当はずっと前にクリーニングから返ってきていたのだけど、瑠璃さんの「せっかくなら予定を合わせてランチでも」という提案でこの日に至った。
「柊の学生時代の話、いろいろ聞いたよ」
彼の気持ちを察したうえで、ニヤリと笑う。
「そうだろうと思った」
「聞きたい?」
「聞かせてもらおうかな、一応」
涼しい顔をしつつ、やっぱり動揺しているような、そうでもないような?
「柊の話、というか……瑠璃さんが話してくれたのは、クインテットのお話かな」
「そうなの?」
「うん。過去の演奏曲のこととか。コンサートのこぼれ話とか。あとね、瑠璃さんと濱島先生の馴れ初めも聞かせていただいたよ」
「なるほどね」
(本当は他にも“いろいろ”聞いたけど……)
彼が追求してこないのをいいことに、黙っていた。
まあ、言葉足らずは偽りにあらず、ということで。
「このあと、瑞樹はどこか寄りたいところとかある?」
「ううん。大丈夫だよ」
彼と弾いてみたい曲は、しっかり楽譜を購入済みだし。
「じゃあ、買い物につきあってもらってもいい?」
「もちろん」
「僕、今日は車で来ているから」
「そうなんだ?」
「だってほら、たくさん買い物しなきゃでしょ?」
「たくさん買い物???」
週末なので食材のまとめ買い、なんて本気で思えば大ハズレ。
「瑞樹用にいろいろ揃えないと」
「私用???」
「うちに来たときに使うもの。食器もそうだし、パジャマも、あと……そうだ、エプロンも!」
車で連れてこられたのは、モールの中にある生活雑貨全般とちょっとした衣類を扱うお店だった。
「ここ、保坂夫妻のおすすめなんだ。元々は保坂のお姉さんのお気に入り、だったらしいけど」
保坂先生のお姉様は、コンサートの日に美味しいサンドイッチの差し入れをしてくださったかたで。
そのときに、ご夫妻から少し話は聞いていた。
「保坂先生のお姉様って、ビオラを弾かれるかたで、今は皮膚科医をされている?」
「あ、保坂から聞いてた?僕、同じ楽器のよしみもあって、学生時代はよくお世話になったりしていたんだよ」
(学生時代の柊、か……)
一瞬、瑠璃さんから聞いたエピソードが頭をよぎり、私はあわてて掻き消した。
食器にしても他の雑貨にしても、私は今あるものでぜんぜんいいと思ったけれど、彼は断固として譲らなかった。
「まあ、僕のわがままにつきあってよ」
「そこまで言うなら、お言葉に甘えて……」
「うん。そうして」
彼がそれは嬉しそうに破顔するから。
私は誘導されながら品物をあれこれ選び、買い物カゴはあっという間にいっぱいになった。
こういうのって、一般的には女性のほうが、お揃いの物を欲しがったり、記念日やその品物にこだわったりしそうなものだけど。
彼が私のためにと考えてくれる気遣いも、ふたりのこれからを心から楽しみにしてくれていることも、
とてもとても嬉しくて。
私はひっそり、心をじーんと震わせた。
「とりあえず、買ってきたパジャマとエプロンを洗濯しちゃうね。乾燥機かけるから、今夜から着られるよ」
「う、うん」
お家へ着いて、まずは手洗いうがいを済ませると、彼はモリモリ働き始めた。
「あと、前もって伝えていたとおり夕飯はカレーね。もうできていて冷蔵庫に入ってるから」
「わざわざ2日目カレー!?」
「楽しみでしょ?」
(すごいシゴデキ、すごいカンペキ……)
「あの、私も何かできることないかな???」
彼の圧倒的な家事力の凄さに気後れしつつ申し出る。
「そしたら、買ってきた食器類を洗っておいてもらえる? そのあと、一緒にサラダの準備しよ?」
「うん!」
一緒に支度をして、食べて、後片付けをして。
食後のお茶をいただきながら、寛いで。
今までだって二人でキッチンに立つことはあったけれど、今日は何かが違った。
ただ、並んでレタスをちぎっている。
ただ、私が洗ったお皿を、彼が拭いてくれている。
それだけなのに、二人を包む空気の糖度がぐんぐん上がっていくようで。
(私、完全に舞い上がってる……)
「瑞樹?」
「えっ」
「大丈夫? 疲れてる?」
「ううん、平気だよ」
(いや、平気というのはちょっとウソかも……)
「お湯がたまったら、お風呂お先にどうぞ。僕はちょっとやっつけなきゃいけない書類仕事があるので。あ、タオルもパジャマも脱衣室にあるからね」
「うん。ありがとう」
せっかくお風呂に入っても、リラックスできたような、そうでもないような……?
(大丈夫、大丈夫……)
落ち着かないのは、怖いからじゃない、憂鬱だからじゃない。
そりゃあ、漠然とした不安はうっすらなくはないけれど……。
それは彼に対してというより、私自身の問題だし。
それでもやっばり、今このときを幸せに思ってる。
(今夜は帰らなくていいんだもん。朝まで、一緒にいられるんだもん……)
真秀と色違いの勝負下着を装備して、彼が買ってくれた素敵なパジャマを着れば、準備は完璧。
私は潔く、ほっかほかのすっぴん、ガッチガチの黒縁眼鏡で、彼の前に現れた。
「お風呂、お先にいただきました」
「はーい。って……」
リビングで書類仕事をしていた彼が、顔を上げてフリーズする。
(やばい、すっぴんの衝撃が大きすぎたかも?)
「あのっ、とってもいいお湯でっ」
気まずさに視線を泳がせ、しどろもどろ。
すると――。
「可愛い」
彼は立ち上がってゆっくりこちらへ歩みより、私をぎゅっと抱きしめた。
「衝撃的な可愛さ」
「素敵な、パジャマだから……」
「パジャマを着ている瑞樹が可愛いんだよ。瑞樹が着るからパジャマも可愛い」
(もう、この人は何を言っているんだか)
どうしようもなく照れくさくて、彼の胸に頬をうずめ、ぼそりと憎まれ口をたたく。
「……パジャマに失礼だよ」
「ごめんごめん。どっちも可愛いよ。すっごい似合ってる」
「ありがと……あの、すっごく着心地がよいです」
「よかった。僕は、すっごく抱き心地がよいです」
彼はくすりと笑うと、髪に優しいキスをくれた。
「僕もお風呂入ってきちゃうね」
「うん……。あっ、この時間でもレッスン室のピアノなら弾いても大丈夫?」
彼はクリニックでの勤務があって、職場を出られるのは15時頃。
帰宅する頃に直接お家へ伺うプランもあったけれど、私は仕事おわりの彼を近くで待ち伏せ?するほうを選んだ。
午前中には濱島楽器へ出かける用事もあって、ちょうどよくもあったし。
待ち合わせ場所は、クラブハウスサンドが名物という、クリニックそばのコーヒー屋さん。
買ったばかりの楽譜を夢中で見ていたら、彼からのメッセージを受信した。
“今から出るね”
(まあ、目と鼻の先なんだけどね)
けど、彼のこういう律儀なところもやっぱり好き。
ほどなくして現れたのは、お仕事モードの黒川先生。
「待たせて申し訳ない」
ネクタイこそしていないけど、キレイ系の上品なシャツに、知的でおしゃれなスマート眼鏡。
でも、お仕事モードはあくまで外見の話。
「待ち疲れしちゃったんじゃない?ごめんね」
「大丈夫だよ。ずっと譜読みしてて時間溶けた」
「そっか、ならよかった」
今ここにいるのは、紛れもなくプライベートの黒川柊。
彼のほっとした笑顔が愛おしい。
「僕、お腹ペコペコで。軽く何か食べてもいい?」
「もちろん」
「瑞樹は?何か食べる?」
「ううん。私は瑠璃さんとランチしてきたから」
「ああ、そうだったね」
彼が注文したのはクラブハウスサンドではなく、フルーツサンドとアイスティー。
私たちは、食べながら飲みながら、寛いだ気分で話しをした。
「ハマちゃん、何か言ってた?」
「何かって?」
「いや、何ということもないけど……」
濱島楽器へお邪魔したのは、瑠璃さんにお借りしていたワンピースをお返しするため。
本当はずっと前にクリーニングから返ってきていたのだけど、瑠璃さんの「せっかくなら予定を合わせてランチでも」という提案でこの日に至った。
「柊の学生時代の話、いろいろ聞いたよ」
彼の気持ちを察したうえで、ニヤリと笑う。
「そうだろうと思った」
「聞きたい?」
「聞かせてもらおうかな、一応」
涼しい顔をしつつ、やっぱり動揺しているような、そうでもないような?
「柊の話、というか……瑠璃さんが話してくれたのは、クインテットのお話かな」
「そうなの?」
「うん。過去の演奏曲のこととか。コンサートのこぼれ話とか。あとね、瑠璃さんと濱島先生の馴れ初めも聞かせていただいたよ」
「なるほどね」
(本当は他にも“いろいろ”聞いたけど……)
彼が追求してこないのをいいことに、黙っていた。
まあ、言葉足らずは偽りにあらず、ということで。
「このあと、瑞樹はどこか寄りたいところとかある?」
「ううん。大丈夫だよ」
彼と弾いてみたい曲は、しっかり楽譜を購入済みだし。
「じゃあ、買い物につきあってもらってもいい?」
「もちろん」
「僕、今日は車で来ているから」
「そうなんだ?」
「だってほら、たくさん買い物しなきゃでしょ?」
「たくさん買い物???」
週末なので食材のまとめ買い、なんて本気で思えば大ハズレ。
「瑞樹用にいろいろ揃えないと」
「私用???」
「うちに来たときに使うもの。食器もそうだし、パジャマも、あと……そうだ、エプロンも!」
車で連れてこられたのは、モールの中にある生活雑貨全般とちょっとした衣類を扱うお店だった。
「ここ、保坂夫妻のおすすめなんだ。元々は保坂のお姉さんのお気に入り、だったらしいけど」
保坂先生のお姉様は、コンサートの日に美味しいサンドイッチの差し入れをしてくださったかたで。
そのときに、ご夫妻から少し話は聞いていた。
「保坂先生のお姉様って、ビオラを弾かれるかたで、今は皮膚科医をされている?」
「あ、保坂から聞いてた?僕、同じ楽器のよしみもあって、学生時代はよくお世話になったりしていたんだよ」
(学生時代の柊、か……)
一瞬、瑠璃さんから聞いたエピソードが頭をよぎり、私はあわてて掻き消した。
食器にしても他の雑貨にしても、私は今あるものでぜんぜんいいと思ったけれど、彼は断固として譲らなかった。
「まあ、僕のわがままにつきあってよ」
「そこまで言うなら、お言葉に甘えて……」
「うん。そうして」
彼がそれは嬉しそうに破顔するから。
私は誘導されながら品物をあれこれ選び、買い物カゴはあっという間にいっぱいになった。
こういうのって、一般的には女性のほうが、お揃いの物を欲しがったり、記念日やその品物にこだわったりしそうなものだけど。
彼が私のためにと考えてくれる気遣いも、ふたりのこれからを心から楽しみにしてくれていることも、
とてもとても嬉しくて。
私はひっそり、心をじーんと震わせた。
「とりあえず、買ってきたパジャマとエプロンを洗濯しちゃうね。乾燥機かけるから、今夜から着られるよ」
「う、うん」
お家へ着いて、まずは手洗いうがいを済ませると、彼はモリモリ働き始めた。
「あと、前もって伝えていたとおり夕飯はカレーね。もうできていて冷蔵庫に入ってるから」
「わざわざ2日目カレー!?」
「楽しみでしょ?」
(すごいシゴデキ、すごいカンペキ……)
「あの、私も何かできることないかな???」
彼の圧倒的な家事力の凄さに気後れしつつ申し出る。
「そしたら、買ってきた食器類を洗っておいてもらえる? そのあと、一緒にサラダの準備しよ?」
「うん!」
一緒に支度をして、食べて、後片付けをして。
食後のお茶をいただきながら、寛いで。
今までだって二人でキッチンに立つことはあったけれど、今日は何かが違った。
ただ、並んでレタスをちぎっている。
ただ、私が洗ったお皿を、彼が拭いてくれている。
それだけなのに、二人を包む空気の糖度がぐんぐん上がっていくようで。
(私、完全に舞い上がってる……)
「瑞樹?」
「えっ」
「大丈夫? 疲れてる?」
「ううん、平気だよ」
(いや、平気というのはちょっとウソかも……)
「お湯がたまったら、お風呂お先にどうぞ。僕はちょっとやっつけなきゃいけない書類仕事があるので。あ、タオルもパジャマも脱衣室にあるからね」
「うん。ありがとう」
せっかくお風呂に入っても、リラックスできたような、そうでもないような……?
(大丈夫、大丈夫……)
落ち着かないのは、怖いからじゃない、憂鬱だからじゃない。
そりゃあ、漠然とした不安はうっすらなくはないけれど……。
それは彼に対してというより、私自身の問題だし。
それでもやっばり、今このときを幸せに思ってる。
(今夜は帰らなくていいんだもん。朝まで、一緒にいられるんだもん……)
真秀と色違いの勝負下着を装備して、彼が買ってくれた素敵なパジャマを着れば、準備は完璧。
私は潔く、ほっかほかのすっぴん、ガッチガチの黒縁眼鏡で、彼の前に現れた。
「お風呂、お先にいただきました」
「はーい。って……」
リビングで書類仕事をしていた彼が、顔を上げてフリーズする。
(やばい、すっぴんの衝撃が大きすぎたかも?)
「あのっ、とってもいいお湯でっ」
気まずさに視線を泳がせ、しどろもどろ。
すると――。
「可愛い」
彼は立ち上がってゆっくりこちらへ歩みより、私をぎゅっと抱きしめた。
「衝撃的な可愛さ」
「素敵な、パジャマだから……」
「パジャマを着ている瑞樹が可愛いんだよ。瑞樹が着るからパジャマも可愛い」
(もう、この人は何を言っているんだか)
どうしようもなく照れくさくて、彼の胸に頬をうずめ、ぼそりと憎まれ口をたたく。
「……パジャマに失礼だよ」
「ごめんごめん。どっちも可愛いよ。すっごい似合ってる」
「ありがと……あの、すっごく着心地がよいです」
「よかった。僕は、すっごく抱き心地がよいです」
彼はくすりと笑うと、髪に優しいキスをくれた。
「僕もお風呂入ってきちゃうね」
「うん……。あっ、この時間でもレッスン室のピアノなら弾いても大丈夫?」



