クロカワと一緒に早く会場入りしていたおかげで、思ったよりも十分ピアノで指慣らしができた。
それに、思いがけず楽しい昼休憩をすごして、リラックスもできたし。
歯磨きとメイク直しを済ませ、運営さんが更衣室として用意してくださった“面談室”と書かれたお部屋で着替えを済ます。
檸檬色の上品なワンピースに、淡い黄色のシフォンのスカーフ。
ドアの向こうで離れて響く弦の音。
同じフロアに用意された控え室では、先生方が弦の音出しをされている。
(もうすぐなんだ)
否応なしに高まる緊張感。
(落ち着いて?落ち着こう?大丈夫、落ち着くよ)
気持ち胸をはって、深呼吸をする。
そんなとき――。
「シライシいる?」
ノックのすぐ後、ドア越しにクロカワの声がした。
「あ、はい!」
「支度がおわったら少し話す時間をもらえない?」
一瞬みだしなみを点検して、私は急いでドアを開けた。
「支度なら、もう大丈夫だよ」
「そっか。じゃあ、いま少しいい?」
「うん」
私が彼を招き入れ、彼が静かにドアを閉める。
ローテーブルとソファーがあるだけの簡素なお部屋にふたりきり。
なんとなくソファーに座る感じでもなくて、立ったままで向かい合う。
「ワンピース、よく似合ってる」
「ありがと……」
(面と向かって言われると、やっぱり照れるよ!)
「ちょっと、シライシに渡したいものがあって」
「私に?」
「うん。終わってから渡そうかとも思ったんだけど。なんだか、早く渡したくなっちゃって」
クロカワは手に持っていた小さな箱を差し出した。
(お菓子、の箱?)
丈夫な紙でできていて、まるで精密な細工を施したかのような美しいデザイン。
確か、超有名な某高級洋菓子店のものだったかと。
(でも……)
「ごめん、ちゃうどよい入れ物が見つからなくて。開けてみて?」
「うん」
ドキドキしながら慎重にふたを開けて、中に入っていたのは――。
(これって……!)
「ハナミズキ!?」
「そう」
「しかも、手作りだったりする???」
「する」
それは、薄紅色と白色のハナミズキのブーケを模した美しいブローチだった。
「あの、これ、どうして???」
「花束のかわり、と言ってはなんだけど。ほら、ささやかだけど、演奏会は演奏会だし? やっぱり花を贈りたいと思って。シライシは今回一番の功労者だからね」
(けど、でも、だからってそんな、こんな……)
「あのっ、ありがとう。すっごく嬉しい!」
「よかった、喜んでもらえて」
「当たり前だよ」
(もう嬉しすぎて泣きそうなんだから)
はやる気持ちのままに、私は彼にたずねた。
「つけてもいい?」
「いいの?」
「いや、私が聞いているのだけど?」
なんだか「ん?」なやりとりに、思わずくすり。
瑠璃さんからは「気に入ったのがあればつけてね♪」とコサージュなどを渡されていたので、お洋服にピンを刺すのは問題ないと思うけど。
「僕は嬉しいよ。でも、衣装がすごい素敵だから、僕の手作りでは役者が不足している気もして」
「そんなことないよ!」
私は力いっぱい主張した。
「ぴったりだもん!清楚で可愛くて。こんなにベルベルしたブローチ、どこにもないもん。絶対に!」
だって実際、お金を出すから欲しい人がいそうなくらい、素晴らしいつくりだし。
(それに、何より……)
クロカワが私のために作ってくれたブローチ。
宇宙に一つしかない、私だけの特別だもの。
最高で、万能で、無敵に決まっているじゃない!
クロカワは私の勢いにちょっと驚いて、一拍おいて破顔した。
「ちょっ……ベルベルって」
「だって……」
「よかったら――」
「え?」
「僕につけさせてもらっても?」
私を見下ろす彼の眼差しが、優しいだけじゃない気がして。
それを独りよがりだなんて、気のせいだなんて思いたくなくて。
「お願いできて?」
「喜んで」
間近に感じる、優しくてほんのり甘い彼の気配。
細くて長い美しい指が布地に触れて繊細に動く。
「はい、できたよ」
彼が手ずからつけてくれた、私だけのアクセサリ。
嬉しさと、恋しさと。愛おしさと。
淡い期待をちょっぴりと、目一杯の甘酸っぱさを胸に、私は彼を見上げた。
「ありがとう。ほんとう、すごく嬉しい」
「僕も」
「え?」
「お守りがわりにって気持ちもあって。だから、すぐにつけたいって言ってくれて嬉しかった」
クロカワが心をこめて作ってくれたものだもの。
ご利益はもう確定済みでしかない。
「私にとっては間違いなく最強のお守りだよ」
「誕生花だもんね」
「え?」
「ハナミズキ」
(あっ……)
「誕生花でしょ、ハナミズキ。シライシの」
「えっ、と……」
(それは、そうなんだけど。それよりも……っ)
“ミズキ”の音だけが、どうにもこうにも強調されて聞こえてしまって。
(“ミズキ”……)
まるで、クロカワがその声で、名前を呼んでくれたみたいな。
そんな都合のよい錯覚をしたりして……。
(もう、ほんとにほんとに、自意識過剰にもほどがあるでしょ、私……!)
「シライシ???」
「よく、ご存知で……」
「まあね」
(ほんとう、誕生花だなんて)
そりゃあ、誕生日は知っていたわけだし?
なにしろ“可愛いは正義”のクロカワだもの。
お花に詳しくても納得といえば、そうなのかも?
けど、詳しいとしたら、ひよっとして――。
(このブローチには、他にも何か……)
心に浮かんだ、ひとつのとびきり甘やかな期待。
(でも、まさかね……)
私はすぐに頭の中で、自身でその夢を一笑に付した。
(今はこうして全力で支えてもらっているだけで、じゅうぶんだもの)
「シライシ、緊張感してる?」
「えっ。それは、もちろん……」
「お守りの効果があるとよいのだけど」
「絶対あるもん」
ふたりだけの小さな世界に、ふわりと優しい沈黙が降りる。
いつの間にか音出しの弦の響きはやんでいた。
「さて、そろそろ時間だ」
クロカワがにっこり笑うと、ちょうどノックの音がして、ドア越しに声をかけられた。
「ふたりともー、先行ってるぞー」
(声の感じと話し方から察するに、西岡先生?)
「りょうかーい。すぐ行くー」
大事な楽譜を携えて、いざゆかん。
「ご一緒させていただけて?」
「もちろん、よろこんで」



