5月下旬、今日は最後の練習日。
クロカワとは毎週日曜日に「ふたり練習」という
濃密な時間を重ねてきたけれど、関係は進展も後退もしないまま。
後退しないだけマシ、といえばそうかもだけど、やっぱり切ない……。
“いい友達”発言も、少なからずショックだったし?
それでも練習を続けてこられたのには理由があった。
もちろん、責任感とか期待に応えたいとか、そういう純粋な気持ちがあるのも本当。
けれども、頑張れたのにはもう一つ甚だ不純な動機があって――。
初回練習日の帰り、私は西岡先生の車で送っていただいた。
クロカワも送ると言ってくれたのに、あえて西岡先生のお言葉に甘えた。
そのときはクロカワと二人きりになるのが、やっぱり苦しくて……。
しょんぼりするクロカワに心が痛んだけれど、どうしようもなかった。
「俺、白石さんと二人きりで話したかったんです」
「えっ」
(に、西岡先生???)
車の中という雰囲気もあいまって、あからさまにドキリとする。
けれども、先生は気にするでもなく、ハンドルを握って前を見たまま鷹揚に笑った。
「ああ、勘違いしないで。俺、好きな人いるので」
「ええっ」
「そこは驚くところではないかと」
「でも、独身貴族だって」
(あ、やばい……)
気づいたときには遅かった。
「松尾妻ですね」
「はい……」
「いいですけど。でも、俺に好きな人がいることは内緒ですよ。白石さんしか知らないんだから」
「えっ、あっ、わかりました!」
図らずして大きな秘密を抱えてしまったような?
「松尾妻からいろいろ聞いているなら、保坂のことも聞いたことありますよね?チェロの奴」
「あ、はい」
確か同じ職場のかたとご婚約された、とか?
「あいつもオケ仲間で、これは学生時代の話なんですけどね――」
彼らの学生時代、オケの練習中のエピソード。
保坂先生は、チェロパートの中ではおそらくトップの巧さだったという。
歴も長く基礎が盤石の上、誰よりも練習熱心だったのだから、当然といえば当然のこと。
ある日、チェロパートが外部から講師を招いて練習を見てもらっていたとき――。
「保坂の音を聞いた先生が、なんだか首を傾げて、楽器をちょっとかしてごらん、と言ったんです。で、先生が奴の楽器を弾いたら――」
「まったく違う音色だった、ですか?」
「ご明察」
同じ楽器なのに奏者によって音が変わるというのはピアノでもある。
こんなに響きが違うのかと驚くほどに。
「単純に“あの楽器あんな鳴り方もするんだ”と衝撃的だったわけですよ。“こんなに歌う楽器だったんだね”と」
「なるほど」
「で、そのとき、先生なんて言ったと思います?」
「さあ……」
(ぜんぜん想像つかないけど、なんだろう?)
「“ボクは奥さんのことを想いながら弾いたからね”と」
「はあ」
「ちなみに保坂には当時彼女がいたんだけど、音が変わることはなかったという」
(何それ、胸がきゅうってなるじゃないっ)
「でも、この話には続きがあるんです。ずいぶん時を経ての続編なんですがね」
「と、いいますと?」
「『花のワルツ』のために久々に集まったとき、あいつ、音がぜんぜん違っていたんですよ」
「えーっ」
「本当、皆でびっくりして。もっとも、本人はあまり自覚がなくて。ちなみに、その日は婚約者さんも来られていて、俺らは妙に納得したんですけどね」
「そんなことが……」
恋は人を変え、その人が奏でる音をも変える。
それは、良くも悪くも。
「保坂先生、お幸せですね」
もちろん、婚約者さんも。
「今日の黒川の音も違いましたよ」
「え……?」
「決して悪い意味ではなくて。ひどく切なくて温かい音、だと思いました」
「あの、それって……」
「白石さんは練習熱心なようだし、ご自身の音はしっかり聞かれる方でしょう。その音をあいつに聞かせてやってください。それで、あいつの音も根気強く聞いてやってください」
(私、まだ望みをもっていてもいいのかな???)
とにかく心をこめて演奏しよう。
そして、彼の音に耳を澄ませて、心で聞いて感じてみよう。
西岡先生の励ましに、私はそう誓ったのだった。
最後の練習は全員集まっての通し練習で、場所は濱島楽器のサロンルーム、とのこと。
演奏者は、あのクインテットの5人と私だけ。
私が到着すると既に皆さんお揃いで、絶賛練習中という状況だった。
(うそ、早めに来たはずなのに!?)
「あ、あのっ」
時間を間違えたかとあわあわしていると、クロカワがすぐに楽器を置いてそばへ来てくれた。
「大丈夫。僕らは午前中からずっと練習していただけ。シライシはぜんぜん遅刻じゃないよ」
「ならよかった……です」
(クロカワめ、私には午後からって言ったのに。わざと黙っていたな、ぬうう)
それにしても――。
こうして5人揃うと、エリート感?がえげつない。
医師率・眼鏡率ともに100%とは。
皆さん素敵なお洋服をさらっと品よく着こなしていて、お育ちのよさがうかがえる。
(ちょっと、気後れしちゃうな……)
すると、そんな様子を察してか、松尾夫(最近は密かにこう呼んでいる)が小さくこちらに手を振ってくれた。
(和むよお!グッジョブ!松尾夫!)
さらに、西岡先生まで。
(西岡先生!秘密は絶対守るからね!)
そして、クロカワが寄り添うように隣にいて、控えめな声でそっと私に話しかける。
「一応みんなにシライシを軽く紹介して、みんなのこともさらっと紹介したいのだけど、いいかな?」
(ああ、もう……)
優しく見おろされるこの感じも、耳に心地よいこの声も、どうしようもなく好きなのだから。
「問題無い、です」
実際は、明らかにテンパりすぎていて、いろいろ問題しかないのだけど。
でも――。
(こんな緊張、小中高の鬼婆……ベテラン女教師の礼法の授業の緊迫感に比べれば!平気平気!)
私は自身に言い聞かせて、クロカワの隣で背筋を伸ばして深呼吸した。
「ピアニストとして参加して下さる白石瑞樹さん。今さらだけど、松尾妻のご友人でもあります」
「白石瑞樹と申します。この度は貴重な機会をいただきまして、ありがとう存じます。精一杯頑張りますので、よろしくお願いいたします」
完璧な角度でお辞儀をして、元の姿勢に戻る。
すると――。
「「「「よろしくお願いしまーす」」」」
歓迎の言葉とともに、先生方はそれぞれに弓を振って応えてくださった。
(わあ!音楽の世界って感じで素敵!)
オーケストラで見る、楽器で両手がふさがっている奏者が、拍手のかわりにするアクション。
実は憧れていたので、すごく感激!
(やっぱり、絶対いい演奏がしたい!)
通し練習の一番手はクロカワと私。
楽器を構えるクロカワを見つめながら、私は始まりの音に耳を澄ませた。
(ちゃんと聞いてるよ、ちゃんとついていくよ)
心のなかで語りかけた言葉は、きっとちゃんと届いている。
朗らかに歌う彼のビオラを、私のピアノで引き立てて。
ピアノの見せ場では、彼の音がしっかり私を支えてくれる。
(僕が聞いてるから、支えるから、安心して自分の音に集中して)
まるで、心の声が寄り添ってくれているみたい。
すごく楽しくて、嬉しくて、幸せなハーモニー。
(クロカワも同じ気持ちでいてくれる?)
そうして、一緒に音楽を作る幸福感に包まれながら、私はピアノを弾ききった。
でも、初めて私たちの演奏を聞かれた先生方の反応はというと――。
(無言、というか……あんぐりぽかーん???)
ただし、西岡先生だけは何故かくつくつ笑っているという。
「二人ともー、すっごいよかったよー」
そう言って西岡先生方が足を踏み鳴らすと、他の先生方も笑顔になってそれにつづいた。
これもまた、弓を振るのと同じで拍手のかわりのアクションで、嬉しさで胸がいっぱいになる。
(頑張って練習してきてよかった!)
「いやはやこれはまた、保坂の覚醒を目の当たりにしたときと同じくらいの衝撃だな」
「うるさいよ、圭介は」
保坂先生がきまり悪そうな顔をして、濱島先生をたしなめる。
そんな二人に苦笑いしながら、松尾夫は言った。
「真秀ちゃんから聞いてはいたけど、白石さんのピアノ、本当に素敵でした。それに、二人の演奏はちゃんと物語がある感じですごくよかった」
(どうしよう、嬉しすぎるよ。クロカワは?クロカワは今どんな気持ち?)
立ち上がると、ちょっとはにかんだように微笑むクロカワと目が合った。
「全部、シライシのおかげだよ」
「そんなことっ」
私はふるふるとかぶりをふった。
(だって、これはクロカワと私だからできた演奏なんだもの)
「白石さん、ピアノ交代ね」
「えっ」
驚いて振り返ると、いつの間にか楽譜を持った西岡先生が立っていた。
(そうだった、2曲目は西岡先生がピアノを弾かれるって言ってたっけ)
「ご、こめんなさい」
「いえいえ。ところで――」
「はい?」
先生は私にだけ聞こえるくらいの声で言った。
「“全部”の意味、ちゃんと理解できました?」
「え?」
「決してピアノの腕前だけじゃない、ということですよ」
(それって……)
「あのっ」
「えーと。それじゃあ、白石さんは2曲目からは聞く係でお願いしますね」
(西岡先生???)
声のトーンが急に変わったと思ったら、クロカワが次の曲の準備をしながら、こちらを気にしているようだった。
「そうそう、アンコールピースも用意しているので、お含みおきのうえよろしくどうぞ」
「わ、わかりました」
それからはもう役得というか、まるで私のためのサロンコンサート、みたいな?
2曲目は誰もが知っている、お顔にあんこがぎっしりつまったパン型ヒーロー(?)が主役のアニメソング。
見どころは、やっぱりクロカワ!
何を隠そうこの曲は、西岡先生がピアノで、2nd.バイオリンにクロカワが入るというレア編成なのだ!
そして、3曲目はピアソラの『リベルタンゴ』。
この曲も西岡先生の編曲なのだけど、クロカワ曰く西岡先生のすごいところは、各パートにいい塩梅に花をもたせてくれるところ、だそうで。
もちろん、いつもは縁の下の力持ちのビオラにもカッコいい見せ場があって、私としては胸キュン必至。
ほんとう、こんな贅沢をさせていただいて、嬉しすぎて申し訳ないくらいだった。
さらに――。
(そうだ、アンコール!)
リベルタンゴのあと、私はいっそう力いっぱい拍手を送った。
そういえば、アンコールピースについて、クロカワは何も言っていなかったっけ。
まあ、私も聞かなかったし?
そうして、ワクワクしていると――。
(えっ……!?)
その曲は私が大好きな、アザラシヴィリの『ノクターン』だった。
(何これ、泣いちゃうじゃない……)
だって、美しすぎて、嬉しすぎて、素敵すぎて。
それに、私にとってはクロカワとの思い出の曲。
初めておねだりして弾いてもらった曲だもの。
曲が終わり、立ち上がって拍手をおくる私に、先生方は深々と丁寧なお辞儀で応えてくださった。
「じゃあ、ちょっと休憩なー」
西岡先生の声がけに、先生方が楽器を置いて次々と部屋を出て行かれる。
ただし、ひとりをのぞいて……。
「休憩、いいの?」
「うん」
クロカワが小さく微笑んで、私の隣に掛ける。
「はい、どうぞ」
(ハンカチ……)
「前にお借りしたのもまだお返ししてないのに」
決して忘れていたわけじゃない。
クロカワに会うための口実を温存して……って、いずれこずるい奴でしかないのだけど。
「気にしないで」
「ありがと……」
「返さなくていい、とは言わないよ」
「え?」
「いつでもいいけど、忘れないで」
本当はあげるつもりで貸してくれているくせに。
「絶対、返すから」
「うん。気長に待ってるね」
彼のこういう優しさがたまらなく好きだ。
「ノクターン、すごく素敵だった」
私は涙と鼻水でぐすぐすになりながら、精一杯の感想を伝えた。
「ビオラの見せ場もカッコよかったし、なんか……嬉しかった」
「ごめんね」
「え?」
「アザラシヴィリのノクターン、残念ながらシライシのために選曲したわけじゃないんだよ」
クロカワはひどく申し訳なさそうに言った。
「院内コンサートのアンコールピースは、いつもあの曲と決まっていて」
「そうだったんだ」
「なんか、ごめんね」
「ぜんぜん。私にとってはやっぱりラッキーだもん。びっくりしたし、嬉しかったよ」
「でも、びっくりさせすぎて、泣かせてしまった」
クロカワはちょっとばつが悪そうに微笑んだ。
「シライシは泣き虫だって知っていたのに。黙っておいておどろかそうなんて、意地悪だったね」
「そうだよ、もう……」
ようやく涙が乾いた目で、私はわざと恨めしそうにクロカワを見上げた。
「こんなこと言うの、本当に口幅ったいのだけど、僕――」
「うん?」
「さっきのノクターンは、シライシのために弾いたよ」
(えっ……)
思わず大きく目を見開いて、息を呑む。
「感謝の気持ち、なんてそれもおこがましい気もするけれど。今の僕のビオラって、シライシと一緒だから出せた音だと思うから」
(そんなこと言われたら、もう……)
「クロカワのせいだよ」
「え?」
「また、涙出てきた……」
困り果てて泣き笑いする私に、クロカワはやっぱり優しかった。
「本当に泣き虫だね、シライシは」
クロカワの大きな手が私の髪にそっと触れる。
「すみませんね……」
嬉しいのに、嬉しすぎてどうしていいかわからくて、憎まれ口をたたくとか……もう。
それでもなんでも、クロカワはどこまでも優しいのだから。
「泣き虫のシライシも、意地っ張りのシライシも、やっぱり可愛いよ」
よしよしと頭を撫でられて、すごく嬉しいのに、胸がきゅうっと切なくなる。
こんなに優しくされたら、期待しちゃうのに。
クロカワは、それでもいいの?
「本番は来てくれた人のために、いい演奏をしないとね。シライシの“美女味”に期待」
「もう、無茶言わないでよね」
神様、あの物語のようなハッピーエンドを期待してしまう私は、愚かで強欲な女でしょうか?
「ねえ、クロカワ」
「うん?」
「あのね、ちゃんといい演奏ができたらだけど、ご褒美ちょうだいって言ったら怒る?幻滅する?」
「怒るわけないじゃない。何かきちんとお礼をしたいと思っていたよ」
本当はお礼も何も、そもそも私がクロカワに迷惑をかけた恩返しのピアノなのだけど。
なにせ卑怯な私は、とぼけてクロカワの律儀さを利用した。
「やった!じゃあ、絶対に頑張るから。本番おわったら覚悟しておいてね」
「了解」
クロカワとは毎週日曜日に「ふたり練習」という
濃密な時間を重ねてきたけれど、関係は進展も後退もしないまま。
後退しないだけマシ、といえばそうかもだけど、やっぱり切ない……。
“いい友達”発言も、少なからずショックだったし?
それでも練習を続けてこられたのには理由があった。
もちろん、責任感とか期待に応えたいとか、そういう純粋な気持ちがあるのも本当。
けれども、頑張れたのにはもう一つ甚だ不純な動機があって――。
初回練習日の帰り、私は西岡先生の車で送っていただいた。
クロカワも送ると言ってくれたのに、あえて西岡先生のお言葉に甘えた。
そのときはクロカワと二人きりになるのが、やっぱり苦しくて……。
しょんぼりするクロカワに心が痛んだけれど、どうしようもなかった。
「俺、白石さんと二人きりで話したかったんです」
「えっ」
(に、西岡先生???)
車の中という雰囲気もあいまって、あからさまにドキリとする。
けれども、先生は気にするでもなく、ハンドルを握って前を見たまま鷹揚に笑った。
「ああ、勘違いしないで。俺、好きな人いるので」
「ええっ」
「そこは驚くところではないかと」
「でも、独身貴族だって」
(あ、やばい……)
気づいたときには遅かった。
「松尾妻ですね」
「はい……」
「いいですけど。でも、俺に好きな人がいることは内緒ですよ。白石さんしか知らないんだから」
「えっ、あっ、わかりました!」
図らずして大きな秘密を抱えてしまったような?
「松尾妻からいろいろ聞いているなら、保坂のことも聞いたことありますよね?チェロの奴」
「あ、はい」
確か同じ職場のかたとご婚約された、とか?
「あいつもオケ仲間で、これは学生時代の話なんですけどね――」
彼らの学生時代、オケの練習中のエピソード。
保坂先生は、チェロパートの中ではおそらくトップの巧さだったという。
歴も長く基礎が盤石の上、誰よりも練習熱心だったのだから、当然といえば当然のこと。
ある日、チェロパートが外部から講師を招いて練習を見てもらっていたとき――。
「保坂の音を聞いた先生が、なんだか首を傾げて、楽器をちょっとかしてごらん、と言ったんです。で、先生が奴の楽器を弾いたら――」
「まったく違う音色だった、ですか?」
「ご明察」
同じ楽器なのに奏者によって音が変わるというのはピアノでもある。
こんなに響きが違うのかと驚くほどに。
「単純に“あの楽器あんな鳴り方もするんだ”と衝撃的だったわけですよ。“こんなに歌う楽器だったんだね”と」
「なるほど」
「で、そのとき、先生なんて言ったと思います?」
「さあ……」
(ぜんぜん想像つかないけど、なんだろう?)
「“ボクは奥さんのことを想いながら弾いたからね”と」
「はあ」
「ちなみに保坂には当時彼女がいたんだけど、音が変わることはなかったという」
(何それ、胸がきゅうってなるじゃないっ)
「でも、この話には続きがあるんです。ずいぶん時を経ての続編なんですがね」
「と、いいますと?」
「『花のワルツ』のために久々に集まったとき、あいつ、音がぜんぜん違っていたんですよ」
「えーっ」
「本当、皆でびっくりして。もっとも、本人はあまり自覚がなくて。ちなみに、その日は婚約者さんも来られていて、俺らは妙に納得したんですけどね」
「そんなことが……」
恋は人を変え、その人が奏でる音をも変える。
それは、良くも悪くも。
「保坂先生、お幸せですね」
もちろん、婚約者さんも。
「今日の黒川の音も違いましたよ」
「え……?」
「決して悪い意味ではなくて。ひどく切なくて温かい音、だと思いました」
「あの、それって……」
「白石さんは練習熱心なようだし、ご自身の音はしっかり聞かれる方でしょう。その音をあいつに聞かせてやってください。それで、あいつの音も根気強く聞いてやってください」
(私、まだ望みをもっていてもいいのかな???)
とにかく心をこめて演奏しよう。
そして、彼の音に耳を澄ませて、心で聞いて感じてみよう。
西岡先生の励ましに、私はそう誓ったのだった。
最後の練習は全員集まっての通し練習で、場所は濱島楽器のサロンルーム、とのこと。
演奏者は、あのクインテットの5人と私だけ。
私が到着すると既に皆さんお揃いで、絶賛練習中という状況だった。
(うそ、早めに来たはずなのに!?)
「あ、あのっ」
時間を間違えたかとあわあわしていると、クロカワがすぐに楽器を置いてそばへ来てくれた。
「大丈夫。僕らは午前中からずっと練習していただけ。シライシはぜんぜん遅刻じゃないよ」
「ならよかった……です」
(クロカワめ、私には午後からって言ったのに。わざと黙っていたな、ぬうう)
それにしても――。
こうして5人揃うと、エリート感?がえげつない。
医師率・眼鏡率ともに100%とは。
皆さん素敵なお洋服をさらっと品よく着こなしていて、お育ちのよさがうかがえる。
(ちょっと、気後れしちゃうな……)
すると、そんな様子を察してか、松尾夫(最近は密かにこう呼んでいる)が小さくこちらに手を振ってくれた。
(和むよお!グッジョブ!松尾夫!)
さらに、西岡先生まで。
(西岡先生!秘密は絶対守るからね!)
そして、クロカワが寄り添うように隣にいて、控えめな声でそっと私に話しかける。
「一応みんなにシライシを軽く紹介して、みんなのこともさらっと紹介したいのだけど、いいかな?」
(ああ、もう……)
優しく見おろされるこの感じも、耳に心地よいこの声も、どうしようもなく好きなのだから。
「問題無い、です」
実際は、明らかにテンパりすぎていて、いろいろ問題しかないのだけど。
でも――。
(こんな緊張、小中高の鬼婆……ベテラン女教師の礼法の授業の緊迫感に比べれば!平気平気!)
私は自身に言い聞かせて、クロカワの隣で背筋を伸ばして深呼吸した。
「ピアニストとして参加して下さる白石瑞樹さん。今さらだけど、松尾妻のご友人でもあります」
「白石瑞樹と申します。この度は貴重な機会をいただきまして、ありがとう存じます。精一杯頑張りますので、よろしくお願いいたします」
完璧な角度でお辞儀をして、元の姿勢に戻る。
すると――。
「「「「よろしくお願いしまーす」」」」
歓迎の言葉とともに、先生方はそれぞれに弓を振って応えてくださった。
(わあ!音楽の世界って感じで素敵!)
オーケストラで見る、楽器で両手がふさがっている奏者が、拍手のかわりにするアクション。
実は憧れていたので、すごく感激!
(やっぱり、絶対いい演奏がしたい!)
通し練習の一番手はクロカワと私。
楽器を構えるクロカワを見つめながら、私は始まりの音に耳を澄ませた。
(ちゃんと聞いてるよ、ちゃんとついていくよ)
心のなかで語りかけた言葉は、きっとちゃんと届いている。
朗らかに歌う彼のビオラを、私のピアノで引き立てて。
ピアノの見せ場では、彼の音がしっかり私を支えてくれる。
(僕が聞いてるから、支えるから、安心して自分の音に集中して)
まるで、心の声が寄り添ってくれているみたい。
すごく楽しくて、嬉しくて、幸せなハーモニー。
(クロカワも同じ気持ちでいてくれる?)
そうして、一緒に音楽を作る幸福感に包まれながら、私はピアノを弾ききった。
でも、初めて私たちの演奏を聞かれた先生方の反応はというと――。
(無言、というか……あんぐりぽかーん???)
ただし、西岡先生だけは何故かくつくつ笑っているという。
「二人ともー、すっごいよかったよー」
そう言って西岡先生方が足を踏み鳴らすと、他の先生方も笑顔になってそれにつづいた。
これもまた、弓を振るのと同じで拍手のかわりのアクションで、嬉しさで胸がいっぱいになる。
(頑張って練習してきてよかった!)
「いやはやこれはまた、保坂の覚醒を目の当たりにしたときと同じくらいの衝撃だな」
「うるさいよ、圭介は」
保坂先生がきまり悪そうな顔をして、濱島先生をたしなめる。
そんな二人に苦笑いしながら、松尾夫は言った。
「真秀ちゃんから聞いてはいたけど、白石さんのピアノ、本当に素敵でした。それに、二人の演奏はちゃんと物語がある感じですごくよかった」
(どうしよう、嬉しすぎるよ。クロカワは?クロカワは今どんな気持ち?)
立ち上がると、ちょっとはにかんだように微笑むクロカワと目が合った。
「全部、シライシのおかげだよ」
「そんなことっ」
私はふるふるとかぶりをふった。
(だって、これはクロカワと私だからできた演奏なんだもの)
「白石さん、ピアノ交代ね」
「えっ」
驚いて振り返ると、いつの間にか楽譜を持った西岡先生が立っていた。
(そうだった、2曲目は西岡先生がピアノを弾かれるって言ってたっけ)
「ご、こめんなさい」
「いえいえ。ところで――」
「はい?」
先生は私にだけ聞こえるくらいの声で言った。
「“全部”の意味、ちゃんと理解できました?」
「え?」
「決してピアノの腕前だけじゃない、ということですよ」
(それって……)
「あのっ」
「えーと。それじゃあ、白石さんは2曲目からは聞く係でお願いしますね」
(西岡先生???)
声のトーンが急に変わったと思ったら、クロカワが次の曲の準備をしながら、こちらを気にしているようだった。
「そうそう、アンコールピースも用意しているので、お含みおきのうえよろしくどうぞ」
「わ、わかりました」
それからはもう役得というか、まるで私のためのサロンコンサート、みたいな?
2曲目は誰もが知っている、お顔にあんこがぎっしりつまったパン型ヒーロー(?)が主役のアニメソング。
見どころは、やっぱりクロカワ!
何を隠そうこの曲は、西岡先生がピアノで、2nd.バイオリンにクロカワが入るというレア編成なのだ!
そして、3曲目はピアソラの『リベルタンゴ』。
この曲も西岡先生の編曲なのだけど、クロカワ曰く西岡先生のすごいところは、各パートにいい塩梅に花をもたせてくれるところ、だそうで。
もちろん、いつもは縁の下の力持ちのビオラにもカッコいい見せ場があって、私としては胸キュン必至。
ほんとう、こんな贅沢をさせていただいて、嬉しすぎて申し訳ないくらいだった。
さらに――。
(そうだ、アンコール!)
リベルタンゴのあと、私はいっそう力いっぱい拍手を送った。
そういえば、アンコールピースについて、クロカワは何も言っていなかったっけ。
まあ、私も聞かなかったし?
そうして、ワクワクしていると――。
(えっ……!?)
その曲は私が大好きな、アザラシヴィリの『ノクターン』だった。
(何これ、泣いちゃうじゃない……)
だって、美しすぎて、嬉しすぎて、素敵すぎて。
それに、私にとってはクロカワとの思い出の曲。
初めておねだりして弾いてもらった曲だもの。
曲が終わり、立ち上がって拍手をおくる私に、先生方は深々と丁寧なお辞儀で応えてくださった。
「じゃあ、ちょっと休憩なー」
西岡先生の声がけに、先生方が楽器を置いて次々と部屋を出て行かれる。
ただし、ひとりをのぞいて……。
「休憩、いいの?」
「うん」
クロカワが小さく微笑んで、私の隣に掛ける。
「はい、どうぞ」
(ハンカチ……)
「前にお借りしたのもまだお返ししてないのに」
決して忘れていたわけじゃない。
クロカワに会うための口実を温存して……って、いずれこずるい奴でしかないのだけど。
「気にしないで」
「ありがと……」
「返さなくていい、とは言わないよ」
「え?」
「いつでもいいけど、忘れないで」
本当はあげるつもりで貸してくれているくせに。
「絶対、返すから」
「うん。気長に待ってるね」
彼のこういう優しさがたまらなく好きだ。
「ノクターン、すごく素敵だった」
私は涙と鼻水でぐすぐすになりながら、精一杯の感想を伝えた。
「ビオラの見せ場もカッコよかったし、なんか……嬉しかった」
「ごめんね」
「え?」
「アザラシヴィリのノクターン、残念ながらシライシのために選曲したわけじゃないんだよ」
クロカワはひどく申し訳なさそうに言った。
「院内コンサートのアンコールピースは、いつもあの曲と決まっていて」
「そうだったんだ」
「なんか、ごめんね」
「ぜんぜん。私にとってはやっぱりラッキーだもん。びっくりしたし、嬉しかったよ」
「でも、びっくりさせすぎて、泣かせてしまった」
クロカワはちょっとばつが悪そうに微笑んだ。
「シライシは泣き虫だって知っていたのに。黙っておいておどろかそうなんて、意地悪だったね」
「そうだよ、もう……」
ようやく涙が乾いた目で、私はわざと恨めしそうにクロカワを見上げた。
「こんなこと言うの、本当に口幅ったいのだけど、僕――」
「うん?」
「さっきのノクターンは、シライシのために弾いたよ」
(えっ……)
思わず大きく目を見開いて、息を呑む。
「感謝の気持ち、なんてそれもおこがましい気もするけれど。今の僕のビオラって、シライシと一緒だから出せた音だと思うから」
(そんなこと言われたら、もう……)
「クロカワのせいだよ」
「え?」
「また、涙出てきた……」
困り果てて泣き笑いする私に、クロカワはやっぱり優しかった。
「本当に泣き虫だね、シライシは」
クロカワの大きな手が私の髪にそっと触れる。
「すみませんね……」
嬉しいのに、嬉しすぎてどうしていいかわからくて、憎まれ口をたたくとか……もう。
それでもなんでも、クロカワはどこまでも優しいのだから。
「泣き虫のシライシも、意地っ張りのシライシも、やっぱり可愛いよ」
よしよしと頭を撫でられて、すごく嬉しいのに、胸がきゅうっと切なくなる。
こんなに優しくされたら、期待しちゃうのに。
クロカワは、それでもいいの?
「本番は来てくれた人のために、いい演奏をしないとね。シライシの“美女味”に期待」
「もう、無茶言わないでよね」
神様、あの物語のようなハッピーエンドを期待してしまう私は、愚かで強欲な女でしょうか?
「ねえ、クロカワ」
「うん?」
「あのね、ちゃんといい演奏ができたらだけど、ご褒美ちょうだいって言ったら怒る?幻滅する?」
「怒るわけないじゃない。何かきちんとお礼をしたいと思っていたよ」
本当はお礼も何も、そもそも私がクロカワに迷惑をかけた恩返しのピアノなのだけど。
なにせ卑怯な私は、とぼけてクロカワの律儀さを利用した。
「やった!じゃあ、絶対に頑張るから。本番おわったら覚悟しておいてね」
「了解」



