貴方と奏でる夜想曲 貴女に奏でる小夜曲


西岡先生は防音室を「レッスン室」と呼んだ。

先生はあのお部屋が単なる練習室ではなく、レッスン室として機能していた頃を知っているから。

「シライシ?」

「えっ。あ、はい」

グランドピアノを前に緊張する私に、クロカワはゆったり微笑んだ。

「大丈夫だよ。午前中に丁寧にさらったでしょ?」

「う、うん」

「西岡もさ、こんな短い期間で完璧にさらえているなんて、まさか思ってないよね」

クロカワの念押しに、西岡先生が鷹揚に笑う。

「モチのロン」

(ほ、ほんとかなあ……)

正直、とても怖い。

でも、ちゃんとうまくなって、クロカワといい演奏をしたいから。

私は呼吸を整えて、今自分にできる精一杯の演奏をした、のだけど――。

腕組みをしたまま、何やら難しいお顔の西岡先生。

(無言とか怖すぎるんですけど……)

「西岡」

クロカワに催促され、西岡先生は「ふむ」と一拍おいて、口を開いた。

「いろいろ言いたいことはあるんだけど」

(ひいぃぃっ)

「まずは、シュークリーム食おうぜ?」

「……へ?」


西岡先生が差し入れに買ってきてくれたシュークリームは、全部で5つ。

「バニラ、チョコ、モカ、イチゴ、抹茶。とりあえず全種類網羅してきたわ。白石さんも甘いの大丈夫でよかった」

「はい!」

さっきまでの緊張はどこへやら。

シュークリームに、私のテンションは爆上がり。

「白石さんはコーヒーと紅茶どちらにしますか? あ、冷たい麦茶もありますが、一年中」

「西岡、おまえねぇ」

勝手知ったる我が家の調子で茶器を出す西岡先生と、苦笑いしつつお湯を沸かすクロカワ。

思いがけない3人でのティータイム。

4人がけのダイニングテーブルに、クロカワと西岡先生が向かいあって座り、私はクロカワの隣へ落ち着いた。

「白石さんからお好きなものをどうぞ」

西岡先生に促され、遠慮がちに箱の中を覗き込む。

箱の中にお行儀よく並んで、選ばれるのを今か今かと待っているシュークリームたち。

(どれもこれも魅力的すぎるっ)

「シライシ、すごい難しい顔になってるよ」

あまりに真剣な悩みっぷりに、クロカワがくすくす笑う。

「で、どれで迷ってるの?」

「モカとイチゴ」

「どっちも食べちゃえば?」

「でも、2個は食べすぎだし……」

(でもでも、どっちのお味も気になるし)

「じゃあさ、僕とシライシでモカとイチゴにして、半分こする?」

「えっ、いいの?」

「いいよ」

「やった!」

(グッジョブ!クロカワ!)

「シュークリームって半割(はんかつ)するの難しそうだから、キッチン鋏使うね」

「ハンカツ?」

もちろん“ハムかつ”ではなくて。

ハンは半分の半だと思うけど聞き慣れない言葉。

はてなと首を傾げる私と、そんな私にきょとんとするクロカワ。

そして、西岡先生は苦笑い。

「おまえさ、半割なんて言葉使うのドクターかナースか薬剤師か、その辺くらいだろうが」

「そうなの?」

「そうだろ」

半割というのは、錠剤などのお薬を用量の調整等のために割ることらしい。

いわゆる業界用語、みたいなもの???

「まああれだよ。モカもイチゴも楽しめて、なのに罪悪感は少なめの神展開、っと――」

クロカワは鋏をキレイに使ってシュークリームを上手に“半割”してくれた。

「はい、どうぞ」

「やった!ありがと!」

「1人1個食べると2個余るから、シライシが連れて帰る? 保冷剤あるし」

「えっ、でも……」

「なんなら、そちらも僕が半割しましょうか?」

「ハンカツ!ハムかつ、ではなくて」

「そう。ハンカク(半角)、でもなくて」

「ハンカチとか」

「ハンパツ(反発)とか」

「思春期か!」

「じゃあ、ハンコツ(反骨)とか?」

「やっぱり思春期か!」

「えー、何だよそれー」

(なんだろうなあ、もう……)

一緒にいるとやっぱり楽しくて、気づけばはしゃいでいる。

そして、クロカワもおんなじならいいのに、なんて望んでしまう。

「あのさ」

すると、ぺろりとシュークリーム(抹茶)を食べ終えた西岡先生がおもむろに言った。

「ふたりは付き合ってるの?」

(えっ……)

一瞬、完全にフリーズする。

けれどもすぐに「はっ」として、私はどきまぎ視線をそらした。

ふたりの顔が見られない。

西岡先生には、私とクロカワがそんなふうに見えた、ということ?

だとしたら、クロカワはそれをどう思った?どう感じてる?

やっぱり迷惑で困っちゃう?

あり得なさすぎて笑っちゃう?

(でも、私は嬉しかったりして……)

だからこそ、クロカワの反応が怖い。

私たちは「そんなんじゃない」ってことはわかっている。

だからって、あからさまに言われるのはキツい。

それならいっそ自分から「もー、何言ってるんですかー」と一笑に付せばいいのかも。

でも、否定するのも辛いのだもの。

勝手だけど、自分の中の「好き」の気持ちが可哀想で。

(もう、どうしていいかわかんないよ)

卑怯な私が黙っていると、クロカワが西岡先生をたしなめるように言った。

「おまえねぇ、シライシに失礼だろ。まったく、僕らは“いい友達”なんだから」

(失礼だなんて、そんなことないのだけどな……)

私たちは“いい友達”。

麗しく清らかな男女の友情。

やっぱり卑怯な私はただ曖昧に笑って、肯定も否定もしなかった。

「ふーん」

西岡先生は無表情のまま、さらなる追求もなくその話はおしまい。

「で、さっきの演奏についてなんだけど。まずは、白石さんから」

「は、はいっ」

食べかけのシュークリームを置いて気持ち居住まいを正す。

「まあまあ、気楽に聞いてください。シュークリーム、食べて食べて」

「はい……」

「白石さん、耳がいいですよね?」

「えっ、あ、たぶんどちらかと言うと」

「いや、楽譜を見る時間が限られていたぶん耳で聞いて覚えてきたんだろうな、と」

(図星です……)

なにせ楽譜を見る時間がなかったので、通達時間や昼休みにヘビロテで音源を聞いてカバーした。

なので、全体像はざっくり把握できたものの、細かな指示やニュアンスはまだぜんぜんで……。

「音源はもう聞かないで、楽譜を丁寧に読んでいってもらえたら」

「わかりました」

「次は白石さんと黒川、両方に共通する話なんだけど」

西岡先生は二人を交互に見遣ってから、淡々と話し始めた。

「二人とも、お互いの音をもっとよく聞いたほうがいいと思う。白石さんはまだ演奏に余裕がないから、こらからという話ですが」

すると、西岡先生はクロカワに向かって言った。

「黒川はさ、もっとちゃんと白石さんの音を聞いたほうがいいよ。その上で、自分の音ときちんと向き合ったほうがいいね」

なんだろう? 少し口調が厳しめに聞こえるのは気のせいだろうか?

「おまえ、基本的には周りの音をかなりよく聞けるほうだと思うけど。でも、いつも俺らと弾いてるときとは違うんだから。もっとちゃんと聞いたほうがいいよ。彼女の音も、おまえ自身の音も」

「……わかった」

クロカワは何やら考え込むような表情で静かに頷いた。

(な、なんか気まずい……)

決して険悪とかではないのだけど、なんとなく。

クロカワだって西岡先生の指摘に、しょげているとかではないと思うし。

そんな空気を察してか、或いはそうでもないのか、西岡先生が呑気な口調で言った。

「しかしあれだな、本当に驚くほど“野獣味”ゼロだな、黒川は」

(野獣味って……)

「余計なお世話だよ。というか、今回の演奏にそれ要るの? そもそも野獣味ってなんだよ」

「なんつうか、野獣味は野獣味?」

「おまえねぇ」

クロカワに求められるのが野獣味なら、私に求められているのは必然的に?

「あの、よくわからないのですが、私こそ美女味がなくて大変申し訳ありません……」

(ほんとう、残念なアラサーでごめんなさい)

「いや、白石さんは大丈夫てす。じゅうぶん、ベルベルしているので。問題ないです」

(ベルベルって……ああ、ヒロインのね)

「白石さんが引き受けてくれなかったら、俺と黒川の男臭いデュオになっちゃっていたので。いやー、ほんっと助かりましたよ」

「そう、言っていただけると」

「コンサートの運営をしているのが俺らの先輩なんですけどね。受け持ちの患者に、この曲を楽しみにしているお姫様たちがいるそうで」

「お姫様たち???」

きょとんとすると、クロカワが教えてくれた。

「先輩の専門は小児科でね。なんか『受け持ちの女児たちにねだられたー』とか言ってたよ」

(そんな事情があったとは)

「まあそういうわけでして、白石さんには姫たちを思い切り喜ばせて欲しいな、と」

「が、頑張ります!」

「おーい、黒川も頑張るんだぞー」

「わかってるよ……」

(クロカワ???)

表情を曇らせているように見えたのは、私の考えすぎだろうか?

(とにかく、いい演奏をしないと)

野獣味も美女味も限りなく控えめな、クロカワと私のデュオ。

お姫様たちを決してがっかりさせたくはないもの。

たとえ、ビオラの音色が恋色をしていなくても。

ピアノの音色に、ちょっぴり切なさが滲んでいたとしても――。