お昼ご飯のあと、私は憧れのピアノの前に座り、その傍らにはクロカワがいた。
「このピアノは、講師だった母が生前とても大事にしていたんだ」
「お母様、ピアノの先生だったんだね」
「僕の家のこと、松尾妻から何か聞いてる?」
私がクロカワのお家について知っているのは、二つだけ。
「お母様が亡くなられている、ということは。あとは、ご両親の離婚のことかな。お母様がピアノ講師をされていたのは知らなかったよ」
ご両親が離婚されたのは、彼が中学にあがる頃。
以来、彼はお母様のご実家であるこの家で暮らしてきた。
そして、そのお母様が亡くなられたのは昨年のこと。
もちろん、これらはみんな真秀から聞いた(真秀が一誠さんから聞いた)話。
「母もラヴェルやドビュッシーが好きでね。だから、このピアノをとても気に入っていて、大事に弾いていたんだ」
「そうだったんだ」
「グランドピアノのほうも大事にしていたけれど、おそらく意味合いは少し違っていたと思う」
「意味合い?」
「あちらは主にレッスン用のだったから。このピアノが“友達”なら、あちらは仕事の“相棒”みたいな感じかな」
「なるほど」
「どちらも信頼して愛着を感じていたことに違いはないのだろうけど」
「素敵だね」
(クロカワのお母様が、お友達として大事にされていたピアノ……)
私は軽く深呼吸してから、ドビュッシーの『アラベスク第一番』のさわりを弾いた。
(魂がふるえるほど、美しい音)
清らかな透明感と、奥ゆかしい輝き。
(なんて尊い音色だろう)
「音の一粒ひとつぶが、すっごく綺麗……」
アルペジオがあまりに美しくて、思わずうっとりため息がでた。
「久しぶりに聞いた」
「え?」
「このピアノ、僕はあまり弾かないから」
「もったいない!」
(あっ……)
口をついて出た本音に後悔する。
(弾かないのは、弾けない理由があるからかもしれないのに)
けれども、彼は気分を害した様子もなく微笑んだ。
「本当にね。だから、今日はこうしてシライシが弾いてくれて、すごい嬉しい」
「そう、言ってもらえると……」
「リクエスト、いい?」
「えっ」
“なりなりと”と言えたらカッコいいけど、残念ながら。
「私に弾けるものなら、なんでも……?」
「じゃあ、ラヴェルはどう?」
「ラヴェル!」
「できれば『亡き王女のためのパヴァーヌ』をお願いしたいのだけど」
(やった! 大好きで飽きるほど弾いてるし! あ、でも……)
「母は“王女”なんかじゃないから」
言わんとすることを察した彼がくすりと笑う。
「そもそも、あの曲って亡くなった王女へ捧ぐために書かれたわけでもないのでしょ」
「よく知っているね」
それでも聞き手は「亡き王女への誰かの想い」を想起してしまうのだから、ラヴェルは策士だと思う。
「母の受け売りだけどね。母はラヴェルもサティも好きだったけど、傾倒していたのはドビュッシーだったんだ」
「そうなの?」
「そう。だから『亡き王女――』が一番のお気に入りだったわけでもないと思う」
「なるほど」
「だからね、母のために弾いて欲しいとか、決してそういうわけではないということ」
「うん」
「ただ――」
ピアノ椅子に腰かけたまま見上げる私を優しげに見下ろすクロカワ。
そんなふうに見つめられたら、勘違いしそうになっちゃうのに。
なのに、クロカワは鈍感で、純粋で、残酷だ。
「僕が好きなだけ」
「わかる。素敵な曲だもんね」
(ラヴェルが好きなだけ、ね)
“好き”を都合よくバグらせたりは、もうしない。
「では、リクエストにお応えして」
私は心をこめて演奏した。
なんだか切なげな音になってしまったけれど。
その理由に、クロカワが気づくことはないのだろうな、きっと……。
単純に照れくさいのと、複雑な乙女……もとい、女心と。
どんな顔をしたらよいかわからなくって、私は曖昧に笑った。
「ちゃんと弾けたほうかな、うん」
「凄いね」
「え?」
「あまりにも綺麗で……目が、離せなくなってしまった」
(クロカワ……?)
眼鏡の向こうの静かな瞳が、まっすぐに私を見つめる。
(どうして、そんなふうに見つめるの?)
もう、自分に都合のよい解釈はしないときめたのに、なのに――。
その瞳が淡い熱を帯びて見えるのは、私の気のせい?
「なんだか切ないラヴェルな気がしたけれど」
「えっ」
「シライシは何を思って弾いていたの?」
「それは……」
「忘れられない誰かを想って、とか――?」
「え?」
(クロカワ、どうしてそんなこと???)
すっかり脳内に住みついていて、片時も忘れられない、という意味では……そうかも?
いやでも、絶対そういう話ではないわけで。
「あのっ……」
「シライシ。僕は――」
クロカワが何か言いかけたそのときだった。
玄関のドアチャイムが美しく鳴り響いた。
「誰だろう???」
「う、美しすぎるドアチャイム!なんて……」
動揺のあまり、トンチンカンな感想を言う。
(ああもう、でも、だって……)
クロカワは首を傾げつつインターホンに出た。
「えっ、西岡!? なんで???」
(西岡って……西岡先生???)
話はシンプルだった。
西岡先生は、たまたま今日はこの近くでお仕事で。
それが、オペの一つがキャンセルになって、急に時間ができたので、こちらへ寄ることにした、と。
「メッセージを見落としていた僕が悪いと言われたら否定はできないけど。でもさ、返事も待たずに押しかけたりする? いや、あいつはするか。するよな、うん……」
「あの、西岡先生、玄関で待っているのでは?」
すると、絶妙なタイミングで、早く開けろと催促するチャイムが鳴ったものだから……。
「ああもう、やかましいな」
(おおぅ、イラつくクロカワとか、超レアなんですけど!)
「ごめん、シライシ。ちょっと待ってて」
「あ、はい」
クロカワが面倒くさそうに玄関へ向かい、ピアノの前に一人きり。
静かなお部屋に、私と、ピアノと――そっと目を閉じれば、さっきの余韻がよみがえる。
まるで悩ましくも愛おしむような彼の眼差し。
あのとき、彼は私に何を言おうとしたのだろう?
(もう、心臓が騒がしすぎて困るよ……)
けれども、甘やかな余韻はあっさり吹きとばされた。
「シュークリーム、冷蔵庫に入れとくわー。あー、なんか冷たいもん飲んでいい?」
「どうぞ、って……もう飲んでるだろうが!」
キッチンから聞こえる男性二人の会話。
「おまえんちってさ、一年中麦茶あるよな、昔っから」
「なんか文句あるの?」
「別に。麦茶うまー。俺はルイボスティーとかあってもいいけどね」
「おまえねぇ」
(“あなたねぇ”じゃなくて“おまえねぇ”だ!)
イラつくクロカワもレアだったけど、男同士で話すときのクロカワも新鮮でよき。
「あ、白石さん」
「ど、どうも……」
いかなりロックオンされて、ちょっとたじろぐ。
「編曲を担当した西岡です」
身長はクロカワと同じくらい? 四角い銀縁眼鏡のせいか、見た目は神経質でスクエアな印象だけど。
さっきの会話の印象と、なんか違う???
「ピアノ、引き受けてくださってありがとうございます」
「こちらこそ、貴重な機会をいただきまして。あの、あと、いつぞやはその、お恥ずかしいところお見せしてしまいまして……」
「いやいや、そんなそんな。松尾から聞きましたよ、白石さんの武勇伝」
「ええっ」
(もう!松尾夫(?)は何話してるわけ!)
「西岡!シライシが困ってるだろ、まったく」
「そう? ところで――」
西岡先生は悪びれもせず、さらっと言った。
「さっそくだけど、二人の演奏を聞かせてもらっていい?」
(えっ……)
なんだろう? 先ほどまでとは明らかに表情が違う気がした。
「このピアノは、講師だった母が生前とても大事にしていたんだ」
「お母様、ピアノの先生だったんだね」
「僕の家のこと、松尾妻から何か聞いてる?」
私がクロカワのお家について知っているのは、二つだけ。
「お母様が亡くなられている、ということは。あとは、ご両親の離婚のことかな。お母様がピアノ講師をされていたのは知らなかったよ」
ご両親が離婚されたのは、彼が中学にあがる頃。
以来、彼はお母様のご実家であるこの家で暮らしてきた。
そして、そのお母様が亡くなられたのは昨年のこと。
もちろん、これらはみんな真秀から聞いた(真秀が一誠さんから聞いた)話。
「母もラヴェルやドビュッシーが好きでね。だから、このピアノをとても気に入っていて、大事に弾いていたんだ」
「そうだったんだ」
「グランドピアノのほうも大事にしていたけれど、おそらく意味合いは少し違っていたと思う」
「意味合い?」
「あちらは主にレッスン用のだったから。このピアノが“友達”なら、あちらは仕事の“相棒”みたいな感じかな」
「なるほど」
「どちらも信頼して愛着を感じていたことに違いはないのだろうけど」
「素敵だね」
(クロカワのお母様が、お友達として大事にされていたピアノ……)
私は軽く深呼吸してから、ドビュッシーの『アラベスク第一番』のさわりを弾いた。
(魂がふるえるほど、美しい音)
清らかな透明感と、奥ゆかしい輝き。
(なんて尊い音色だろう)
「音の一粒ひとつぶが、すっごく綺麗……」
アルペジオがあまりに美しくて、思わずうっとりため息がでた。
「久しぶりに聞いた」
「え?」
「このピアノ、僕はあまり弾かないから」
「もったいない!」
(あっ……)
口をついて出た本音に後悔する。
(弾かないのは、弾けない理由があるからかもしれないのに)
けれども、彼は気分を害した様子もなく微笑んだ。
「本当にね。だから、今日はこうしてシライシが弾いてくれて、すごい嬉しい」
「そう、言ってもらえると……」
「リクエスト、いい?」
「えっ」
“なりなりと”と言えたらカッコいいけど、残念ながら。
「私に弾けるものなら、なんでも……?」
「じゃあ、ラヴェルはどう?」
「ラヴェル!」
「できれば『亡き王女のためのパヴァーヌ』をお願いしたいのだけど」
(やった! 大好きで飽きるほど弾いてるし! あ、でも……)
「母は“王女”なんかじゃないから」
言わんとすることを察した彼がくすりと笑う。
「そもそも、あの曲って亡くなった王女へ捧ぐために書かれたわけでもないのでしょ」
「よく知っているね」
それでも聞き手は「亡き王女への誰かの想い」を想起してしまうのだから、ラヴェルは策士だと思う。
「母の受け売りだけどね。母はラヴェルもサティも好きだったけど、傾倒していたのはドビュッシーだったんだ」
「そうなの?」
「そう。だから『亡き王女――』が一番のお気に入りだったわけでもないと思う」
「なるほど」
「だからね、母のために弾いて欲しいとか、決してそういうわけではないということ」
「うん」
「ただ――」
ピアノ椅子に腰かけたまま見上げる私を優しげに見下ろすクロカワ。
そんなふうに見つめられたら、勘違いしそうになっちゃうのに。
なのに、クロカワは鈍感で、純粋で、残酷だ。
「僕が好きなだけ」
「わかる。素敵な曲だもんね」
(ラヴェルが好きなだけ、ね)
“好き”を都合よくバグらせたりは、もうしない。
「では、リクエストにお応えして」
私は心をこめて演奏した。
なんだか切なげな音になってしまったけれど。
その理由に、クロカワが気づくことはないのだろうな、きっと……。
単純に照れくさいのと、複雑な乙女……もとい、女心と。
どんな顔をしたらよいかわからなくって、私は曖昧に笑った。
「ちゃんと弾けたほうかな、うん」
「凄いね」
「え?」
「あまりにも綺麗で……目が、離せなくなってしまった」
(クロカワ……?)
眼鏡の向こうの静かな瞳が、まっすぐに私を見つめる。
(どうして、そんなふうに見つめるの?)
もう、自分に都合のよい解釈はしないときめたのに、なのに――。
その瞳が淡い熱を帯びて見えるのは、私の気のせい?
「なんだか切ないラヴェルな気がしたけれど」
「えっ」
「シライシは何を思って弾いていたの?」
「それは……」
「忘れられない誰かを想って、とか――?」
「え?」
(クロカワ、どうしてそんなこと???)
すっかり脳内に住みついていて、片時も忘れられない、という意味では……そうかも?
いやでも、絶対そういう話ではないわけで。
「あのっ……」
「シライシ。僕は――」
クロカワが何か言いかけたそのときだった。
玄関のドアチャイムが美しく鳴り響いた。
「誰だろう???」
「う、美しすぎるドアチャイム!なんて……」
動揺のあまり、トンチンカンな感想を言う。
(ああもう、でも、だって……)
クロカワは首を傾げつつインターホンに出た。
「えっ、西岡!? なんで???」
(西岡って……西岡先生???)
話はシンプルだった。
西岡先生は、たまたま今日はこの近くでお仕事で。
それが、オペの一つがキャンセルになって、急に時間ができたので、こちらへ寄ることにした、と。
「メッセージを見落としていた僕が悪いと言われたら否定はできないけど。でもさ、返事も待たずに押しかけたりする? いや、あいつはするか。するよな、うん……」
「あの、西岡先生、玄関で待っているのでは?」
すると、絶妙なタイミングで、早く開けろと催促するチャイムが鳴ったものだから……。
「ああもう、やかましいな」
(おおぅ、イラつくクロカワとか、超レアなんですけど!)
「ごめん、シライシ。ちょっと待ってて」
「あ、はい」
クロカワが面倒くさそうに玄関へ向かい、ピアノの前に一人きり。
静かなお部屋に、私と、ピアノと――そっと目を閉じれば、さっきの余韻がよみがえる。
まるで悩ましくも愛おしむような彼の眼差し。
あのとき、彼は私に何を言おうとしたのだろう?
(もう、心臓が騒がしすぎて困るよ……)
けれども、甘やかな余韻はあっさり吹きとばされた。
「シュークリーム、冷蔵庫に入れとくわー。あー、なんか冷たいもん飲んでいい?」
「どうぞ、って……もう飲んでるだろうが!」
キッチンから聞こえる男性二人の会話。
「おまえんちってさ、一年中麦茶あるよな、昔っから」
「なんか文句あるの?」
「別に。麦茶うまー。俺はルイボスティーとかあってもいいけどね」
「おまえねぇ」
(“あなたねぇ”じゃなくて“おまえねぇ”だ!)
イラつくクロカワもレアだったけど、男同士で話すときのクロカワも新鮮でよき。
「あ、白石さん」
「ど、どうも……」
いかなりロックオンされて、ちょっとたじろぐ。
「編曲を担当した西岡です」
身長はクロカワと同じくらい? 四角い銀縁眼鏡のせいか、見た目は神経質でスクエアな印象だけど。
さっきの会話の印象と、なんか違う???
「ピアノ、引き受けてくださってありがとうございます」
「こちらこそ、貴重な機会をいただきまして。あの、あと、いつぞやはその、お恥ずかしいところお見せしてしまいまして……」
「いやいや、そんなそんな。松尾から聞きましたよ、白石さんの武勇伝」
「ええっ」
(もう!松尾夫(?)は何話してるわけ!)
「西岡!シライシが困ってるだろ、まったく」
「そう? ところで――」
西岡先生は悪びれもせず、さらっと言った。
「さっそくだけど、二人の演奏を聞かせてもらっていい?」
(えっ……)
なんだろう? 先ほどまでとは明らかに表情が違う気がした。



