地方の田舎町の高校……転校初日で自己紹介をする為に、
 朝のホームルーム中の教室の扉の前に立った私は、小さく息を吸った。
 音は聞こえない。
 それでも、扉を開けるときの空気の変化くらいは分かる。
 中に入った瞬間、
 大勢の視線が私に突き刺さった。
 ざわつき。
 ただし、私にはそれが音としては届かない。
 その代わり……。
 空気の密度の揺れや、椅子が引かれた時の床の震え、
 肩越しに向けられる目線の熱だけが生々しく伝わってくる。
 担任の先生が私の横で口を動かす。
 私はその形を読み取る。
 
 “耳が聞こえません”
 “ゆっくり話しかけてあげてください”
 
 たぶんそんなところだ。
 案の定、生徒たちの表情が変わる。
 好き勝手にざわついていた気配が、一気に気まずい沈黙へ切り替わった。
(まただ……)
 どの学校でも、最初はこうだった。
 興味の視線、戸惑いの視線、そして距離。
 
 人は「分からないもの」に近寄らない。

 私は、生まれたときから耳が聞こえない。
 初めてそれを認識したのは、周りが“私を心配そうに見ている理由”が分からなかった頃だ。
 みんなが音について話すのに、私だけがその“存在”を理解できなかった。
 でも一つだけ、誰にも言えないことがあった。
 
 死んだ人の声だけが、聞こえる。
 
 生きている人の声は何一つ届かないのに、
 どうしてか“もうこの世にいない人たちの言葉”だけが、
 耳の奥……というより頭の底に直接響いてくる。

=寒い……ああ、誰か……=
=まだ……息子が……=

 そんな声を真似て、私は話すことを覚えた。
 誰かの声を聞いて学んだわけでもない。
 ただ、聞こえてくる“終わりの声”だけを手本にしてきた。
 だから私は、耳が聞こえないのに発音が綺麗だと言われる。
 私はずっと、声なき声を真似して話してきただけなのだから。


 教壇に立つよう指示されると、私は静かに前に出た。
 声の大きさなんて、自分では調整できない。
 それでも、丁寧に言葉を選んで口を開いた。

「……秋月真理子と申します。よろしくお願いします」

 私が発した声がどんなふうに響いたかは分からない。
 だけど、生徒たちの胸が小さく上下するのが見えたから、
 何か反応はあったのだろう。
 音が聞こえないのはむしろ幸いだった。

(できるだけ、静かに過ごせればいいんだけど)

 そんな願いが胸をよぎる。
 だけど……。
 席に座った瞬間、
 背筋がひやりと冷える。
 湿った、重たい何かが近づいてくる気配。
 次の瞬間、
 “声”が私の意識へ直接落ちてきた。
(……また来た)
 無視したい。
 関わりたくない。
 どうせ、ろくなことにはならない。
 でも、前にもこうやって無視した結果、
 死者の声が一晩中止まらず、
 眠れなくて保健室に運ばれたことがある。
 声は、生者の世界のルールなんてお構いなしに私を縛る。
=……聞こえてる?=
=ねぇ……あなたには、届くでしょう?=
 耳からじゃない。
 頭の奥、深いところに刺さる声。
 転校初日から……。
 どうして。
=お願い……助けて……
 私、殺されたの……=
「…………」
 私は拳を握りしめ、目を伏せた。
 やっぱり私は、静かには生きられない。
 この学校でもまた、誰かの“終わり”に巻き込まれる。
(……聞くだけ。聞くだけでいいから、黙ってくれれば)
 私は手元のノートを見つめたまま、
 心の中でそっと返事をした。
『……聞こえてる。だから、少し静かにして』
=よかった……=
=お願い……助けて……私、殺されたの……=
 真理子の名を呼ぶのではなく、
 “聞いてほしい”という焦りだけが声ににじんでくる。
『殺された……って、どういうこと?」
 私は表情を変えずに問いかけた。
 前の席の生徒がふと振り向いたので、
 ただの考え事をしているふりで視線を落とす。
=あの子たちが……私を屋上から押したの……=
「あの子たち……?」
=女の子と……その隣にいた男の子……見てた……=
=私……何もしてないのに……=
 声は震えているように聞こえる。
 でも、死者の感情がどこまで本物なのか、私には判断がつかない。
「あなた……教えて。
 押されたって、その……どんなふうに?」
=気づいたら……後ろにいて……手をかけられて……
 次の瞬間、落ちて……息ができなくて……=
 “気づいたら”“次の瞬間”
 具体的な説明がどれも曖昧でつながらない。
(……まただ。最初の訴えはいつもこう。
 はっきりしない言葉ばかり)
「どうして私に頼むの?」
=だって……あなたには聞こえるから……
 誰も信じてくれなかった……=
「私は警察でも先生でもない。
 あなたが言っても……私は何も……」
=でも……あなたは静かに暮らしたいのでしょう?=
 その瞬間、私は胸の奥が冷たくなった。
 私の心の内を“読んだ”わけではない。
 ただ、何度も死者に付きまとわれた経験から、
 “死者は拒絶されるほど強く縋ってくる”ことを知っている。
=私の話を聞いてくれれば……あなたの邪魔をしない……
 お願い……ほんの少しだけでいいから……=
(……穏やかに過ごすには、聞くしかない、ってこと)
 私はゆっくり息を吐いた。
 こうなると分かっていたのに、逃げられない。
『……分かった。聞くだけなら。ただし、騒がないで。授業中だから』
=ありがとう……ありがとう……!=
 死者の喜びの波が頭に霧のように広がる。
 私はノートのページを静かにめくりながら、
(どうせまた事件の渦中にいるんだろうな……)
 と、どこか遠い感覚で思った。

 これが、すべての始まりだった。

 放課後の校舎は、人の気配がゆっくり薄くなっていく時間帯だった。
 死者の声が落ちてきたのは、階段を降りようとしていたときだ。
=屋上……来て……お願い……=
 耳ではなく意識の奥で響く声に、私は肩をすくめたくなった。
 今日はもう関わりたくなかったのに。
『……今じゃなきゃ駄目なの?』
=今じゃなきゃ……思い出せないことがある……来て……=
 聞かなければ声は強くなる。
『わかったから、騒がないで……行くから』
 ため息をのみ込み、私は階段を上った。
 屋上の扉を押し開けると、夕方の風が頬に触れた。
 空は明るいのに、屋上はどこか寒々しかった。
 フェンスの向こうは、街の景色が夕日に照らされている。
=私は……ヨシカワ、マナ= 
 そう名乗って現れた彼女は、長い髪を内側にカールさせた、今どきの高校生という感じだった。

 だけど今にも消え入りそうで、一目で普通ではないと分かる。
「…………」
 私は目を細める。
=ここ……私が……落とされた場所……=
『⁈……落とされたって……あなたが……ここから?』
 私はフェンスに手を触れた。
 指先に冷たい金属の感覚が伝わってくる。反射的に握った手に力が入った。
=うん……あの子たちが……私をここに呼んで、押したの……=
『……誰?』
=西峰郁美……と……その隣にいた……栗田翔……=
 私は目を細めた。
 西峰郁美と栗田翔。
 名前だけは、転校前に名簿で見た記憶がある。
 西峰郁美という女性徒は分からないが、確か栗田翔……男子生徒の方はクラス委員だったはず。
 選ばれたからには成績優秀なのだろう。
 その二人が彼女……ヨシカワ、マナをここから突き落とした?
『なぜ、彼らはあなたを落としたの?』
=私が、彼……栗田君が好きな事を、郁美は嫌ってたから=
 それで呼び出されて突き落とされた?
 そんなことで?
=それなのに、私は自殺されたことにされた……当の郁美は何もなかったように普通に暮らしてる=
「…………」
 説明は短い。
 けれど感情は濃い。
 怒り、悔しさ、嫉妬、寂しさ……
 死者の声からは、さまざまな感情が入り混じっているのが伝わる。
『警察は何も言ってこなかったの?』
=……栗田君の父親はここの理事長で、地域の名士で……=
「…………」
 揉み消されたとでもいうのだろうか。
 だとしたら、マナの悔しさは良く理解できる。
=お願い、私を殺した郁美の罪を……皆に知らせて……=
「…………」
 私は頷かない。
 例え真相を知っていたとしても、それを証明する手立てがない。
 だけど、解決しない限り、ここでの安息の日はない。
『……わかった』
=ありがとう……本当に……=
 声は遠のき、のしかかっていたような風はフっと消え去った。
「…………」 
 私はフェンス越しの夕日を見つめる。紅い光の眩しさに、マナを見ているときと同じように目を狭めた。

 階段を下りながら、私はずっとマナの言葉を反芻していた。
 死んだ理由を誤魔化され、加害者は何事もなかったように日常を続けている。
 そんな不条理は、確かに受け入れがたい。
(……どうやって、真相をみんなに伝えればいいの)
 マナが殺されたことを証明する手段なんて、本当は何もない。
 私には死者の声が聞こえるというだけで、それを証拠にはできない。
(まずは……話を聞くしかない)
 どうして郁美はマナを呼び出したのか。
 それを知るには、直接聞くしかない。
 いきなり問い詰めるつもりはないけれど、
 話してみれば何か分かるかもしれない。
 私にできるのは、そこからだ。
 階段を降り切ったところで、窓の外の夕焼けが真っ赤に染まり、
 ふと、さっきのマナの気配がまだ背中の影にまとわりついているような気がした。
 

 休み時間になると、教室の空気がゆるみ、生徒たちが思い思いに立ち上がっていく。
 私は周囲の動きだけを視覚で眺め、栗田翔が席に座ったまま教科書を閉じるのを見てから立ち上がった。
 彼の席に歩み寄ると、栗田が驚いたように顔を上げた。
「……栗田君。少し、いいかな。廊下で話したいことがあるの」
 彼は戸惑いながらも、口の形で「どうしたの?」と言った。
 私は彼の口元を読み取り、頷いてみせた。
「廊下で。……ちょっとだけ」
 そう言って軽く手招きすると、栗田はおとなしく席を立ち、私についてきた。
 人気の少ない掲示板前で立ち止まったところで、
 私は彼に向き直って口をはっきり動かした。
「話しにくいことかもしれないけど……聞かせてほしいの。屋上で亡くなったマナさんのこと」
 栗田翔の表情が、そこでぴたりと固まった。
 その瞬間の“止まる動き”だけで、胸の奥に何か違和感を感じた。
 彼は何か言おうと口を動かした。
 だけど私はそれを見て、首を横に振った。
「……ごめんなさい。あなたの声は、私には聞こえないの」
 そう言って、私はスマホを取り出した。
 メモ帳を開いて、
【これに入力して見せてもらえると助かる】
 と打ち、画面を差し出した。
 栗田の目が驚きで見開かれ、
 すぐに申し訳なさそうな表情に変わる。
 彼もスマホを取り出し、素早く文字を打つ。
【わかった。気づかなくて本当にごめん】
 私は軽く首を振った。
「大丈夫。それよりも……教えてほしいの。屋上のこと」
 “屋上”の言葉に、栗田は息をのみ込むように肩を揺らし、再び文字を打った。
【……どうしてそのことを?】
「昨日、私も屋上に行ったの。フェンスのところまで」
 栗田の瞳がわずかに揺れた。
「マナさんは自殺したと言ってたけど……本当?」
「…………」
 栗田翔の顔から血の気が引いた。
 スマホを持つ手がわずかに震え、一度、彼は視線を落とした。
 そして、動揺を隠せないまま文字を打つ。
【本当だよ。茉奈は自分で屋上から飛び降りた】
「そう」
 父親に言って事件をもみ消してもらった人物にしては、根が素直な気がする。
 私は声を出して、ゆっくりと語りかける。
「責めるために聞いてるんじゃないの。ただ、知りたいだけなの。あなたは、あの日、屋上に……いたの?」
 栗田は顔を歪め、唇を固く閉じた。
 何かに怯えるように周囲を見て、そして画面を差し出した。
【いたのは本当だ。それに、彼女は自分で飛び降りた】
「…………」 
 私は息を吸い、静かに頷いた。
「……わかった。ありがとう。それだけで十分」
 栗田はうつむき、指先で画面に短く文字を打った。
【ごめん】
 その一言だけ、彼の迷いと恐怖が滲んでいた。
 私は背を向けながら、胸の奥に疑問が浮かんでくるのを感じた。
(……次は、西峰郁美さんに話を聞く)
 立ち尽くす栗田を背に私は教室に戻った。


 教室に戻ると、ちょうどチャイムが鳴った。
 授業が始まる気配が周囲の動きで分かる。
 私は席に座りながら、さっきの栗田の表情を思い返していた。
(いたのは本当だって言った。でも、マナを押したことは否定した)
 言葉の真偽は、彼の顔の揺れだけでは判断できない。
 ただ、あれほど怯えた表情をしていたのは事実だ。
(もしかしたら、話せない理由があるのかもしれない)
 事件が隠されたというマナの言葉を思い出す。
 もし本当に“隠すべき何か”があるのなら、栗田が怯えるのも自然だった。
(……西峰郁美さん。
 彼女にも、聞かないと……)
 授業の間、私はずっと郁美の姿を探した。
 彼女の席は教室の後ろ寄り。
 背筋の伸びた座り方で、前をじっと見ている。

(……こんな静かな子が、マナさんを押した?)
 そう思うたびに、首の後ろの方で小さな違和感が揺れる。
 でも、マナが嘘をつく理由はない。
 死んだ後まで、そんなことをする必要はない。
(放課後……郁美さんに話しかけよう)
 そう決めたときだった。
=……真理子……=
 息をのむような冷気が、背中のすぐ後ろに落ちてきた。
 誰にも見えず、誰にも聞こえない声。
『……マナ?』
=どうだった……? 翔くん……何か話してくれた……?=
『少しだけ。でも……まだはっきりしたことは分からない』
=郁美……あの子……気をつけて……=
『気をつけるって……何を?』
=何でも……隠そうとするから……=
 マナの声には焦りが混ざっていた。
 いつもより早口で、せかすような響きがある。
『……大丈夫。話を聞くだけだから』
=……真理子……お願い……私を助けて……=
 その声が消えた瞬間、周囲の空気がすっと軽くなった。
 私は胸の奥で小さく息を吐く。
(……放課後。郁美さんに……)
 決めた以上、進むしかない。
 それがマナのためになると、私は信じていた。
 そして放課後。
 私は西峰郁美の背中を追って教室を出た。


 放課後の廊下は、帰り支度の生徒たちの動きで満ちていた。
 私は教室の隅から西峰郁美を見つめていた。
 郁美は静かにカバンを閉じ、机に手を添えてから立ち上がる。
 その目には、どこか周囲を警戒するような色があった。
(……もう、栗田君から聞いてるのかな)
 私が屋上の話をしたこと。
 教室を出た郁美の後を追い、廊下の角で声をかけた。
「郁美さん、ちょっと……話せる?」
 その瞬間、郁美の肩がピクリと震えた。
 振り返った彼女の表情は、驚きと……それに混じって、明らかな警戒。
 まるで、私が近づくだけで危険信号が灯るかのように。
『やっぱり……栗田君から聞いてたんだ』
 私はゆっくり歩み寄り、口をはっきり動かした。
「昨日、栗田君にも聞いたの。……あなたの名前が出たから」
 郁美は一瞬目を伏せ、その後急いでスマホを取り出した。
 素早く文字を打ち込んで画面をずらす。
【何を聞いたの?】
「屋上のこと。
 マナさんが……亡くなった日の話を聞きたいの」
 “屋上”という口の形を示した瞬間、
 郁美の視線がびくりと揺れた。
 息を吸うように胸が上下し、その目は不安を隠そうと揺らめいている。
(……動揺してる。やっぱり関わってるんだ)
 私は続けて口を動かした。
「郁美さん、あの日……屋上に行ったよね?」
 郁美はほんの短く目を閉じ、スマホに文字を入力して見せた。
【行ったよ。それは本当】
 嘘はない表情だった。
 そこに曖昧さはない。
「どうして、屋上に?」
【呼ばれたの。マナに】
 その文字を見て、私は少し息を吸い込んだ。
 呼んだのは郁美だと言っていたマナの証言と、
 食い違いがある。
「マナさんに……?」
【放課後、ノートにメモが挟まってて、“屋上で話したいことがある”って】
 震えながら文字を打つ彼女は嘘をつく余裕のない表情だった。
「話したいことって……何だったの?」
【分からない。屋上に行ったら……怒ってた。理由も分からないのに、“近づかないで”って言われた】
(……マナさんは、“郁美さんに近づくなと言われた”と言ってたけど……)
「それで……何があったの?」
 郁美は一瞬だけ目を泳がせ、
 スマホに続きを入力した。
【少し言い合った後……急にフェンスの方へ行って……“もういい”って……よじ登って……私は危ないって言ったら……そのまま……落ちたの】
 その文字を見たとき、郁美の目に光るものを私は見逃さなかった。
 恐怖でも、演技でもない。
 本当に“見てしまった人間”の、消えない震えだ。
「押してないんだよね?」
【押してない! 本当に押してない!】
 その言葉だけ、文字が強く打ち込まれていた。
 彼女の必死さが伝わる。
 私は静かに頷いた。
「ありがとう。話してくれて」
 郁美はスマホを胸元で抱くようにして、
 かすかに頭を下げると、
 足早に廊下の奥へ消えていった。
(……二人とも、同じことを怖れてる?
 それとも……本当に何かから隠れてる?)
 答えは出ない。
 ただ、確かに言えるのは——
(マナさんが言っていた“真相”と違う部分が出てきた)
 もしかして……。
 私の中に一つの疑問が浮かんできた。
(……押されたにしては……)
 私は教室に戻りながら、さっき郁美から聞いた“落ちた経緯”を何度も反芻した。
 フェンスをよじ登り、
 「もういい」と言い残して、
 そのまま落ちた——。
(……押されたなら……フェンスは?)
 屋上に上がったときの、あの風景が脳裏に蘇る。
 夕日の色だけが妙に鮮明で、鉄の匂いまで思い出せる。
 フェンスは、
 どこにも“折れた跡”なんてなかった。
 その場に立って実際に触ったから分かる。
 あの強度を、外側へ押し曲げるなんて到底できない。
 押し出される形で転落するなら、
 必ずフェンスが外側へしなるはず。
 それが跡形もない。
(つまり……押されてない)
 その考えに至った瞬間、
 胸の奥に小さく沈む石のような重みが落ちた。
 そして最後にピースは思いがけない所から振ってきた。

 昼休み。
 私は買ってきた弁当をつつきながら、
 いつもより落ち着かない空気が漂っていることに気づいていた。
 教室の後方で女子二人が、
 人目を避けるようにして、小声で言葉を交わしている。
 声はまったく聞こえないけれど、
 妙に口の動きが速い。
 私はそっと視線を向け、唇の形を追った。
 でも——
 速すぎて、すべては読めない。
 “…秋月……屋上……聞いたって……”
 “…前にも……あったよね……あれ……”
 “…マナが……栗田に……つ……ま……てたって……”
(……つ……ま?)
 私は瞬きをして、もう一度見る。
 女子の口が、はっきりと形を作った。
 “……つ・き・ま・と・っ・て……たって”
(……“つきまとってた”?)
 その瞬間、全てが分かった。
 聞こえないはずの言葉が、なぜか鮮明に届いたような錯覚さえする。

 放課後。
 私は屋上への階段をひとりで上がった。
 薄い夕暮れの光が鉄扉を染めている。
 扉を押し開けた瞬間。
 背後に、ひやりとした空気が滑るようにまとわりついた。
=……来てくれたんだね……=
 振り返ると、そこにマナがいた。
 昨日と同じ、儚げな笑み。
 けれど、その瞳の奥には焦りの影が揺れている。
『話があるの。全部、聞いてほしい』
 私はまっすぐマナを見つめた。
=全部?=
『ええ。今日わかったこと、全部』
 風がわずかに吹き、私の髪を揺らした。
『まず……屋上に呼び出したのは、郁美さんじゃない。あなたの方だった』
 マナの瞳がわずかに揺れた。
=…………何を言ってるの……?=
『次に……あなたは栗田君に執着していた。何度も告白して……郁美さんに“近づくな”って言ったのは、あなた』
 さっきより大きく、マナの影が震えた。
=……やめて……真理子……そんな……違う……=
 私はさらに続ける。
『そして……あなたは自分でフェンスをよじ登った。乗り越えて……そのまま落ちたの。これは……証言が一致してた。フェンスも壊れていなかった』
 これで納得してくれれば、平穏な日々に変わるかもしれない。
 だけど、その言葉を言い終えた瞬間……マナの顔から“人間の表情”が抜け落ちた。
=……どうして?=
 声が、風ではなく空気そのものを震わせた。
=どうして……あなたまで!!=
 表情が激しく歪んでいく。
 喉の底から絞り出すような声が、私の鼓膜ではなく頭に響いた。
=……あの女が悪いのよ!
 郁美が……栗田君を奪おうとしたの!
 あの子さえいなければ……!!=
 怒りが渦を巻き、
 マナの周囲に黒い風のようなものが立ち上り始めた。
 屋上のフェンスがガタンと揺れる。
 足元のコンクリートが薄く震える。
(……まずい……)
=私は……栗田君を……“解放”してあげなきゃいけなかったの……!!=
 その瞬間、
 屋上全体が低く唸るように震えた。
 空気が押しつぶされるように重くなる。
 階下から、急いで駆け上がる足音が響いてきた。
 鉄扉が勢いよく開き、先生と何人かの生徒が飛び込んできた。
 声は聞こえない。
 ただ驚愕に口を開き、震える様子だけが分かる。
 ひとりの女子生徒が、恐怖に硬直した指で、私の後ろを指し示していた。
 私は振り返る。
 黒い風をまとったマナがいた。
 “見えてしまっている”。
 怒りが膨張し、輪郭が異様に濃くなり、
 普通の人間にさえ姿を捉えられるほどだった。
 そして、生徒たちの中に、栗田翔の姿を見つけた。
 栗田は血の気を失った顔で、ただマナを見ていた。
 声は届かない。
 でも唇が震えて形を作った。
 “マナ”
 ただ、その名前だけが読めた。
 その一瞬——
 マナの体から黒い風がふっと弱まった。
=……翔……くん……=
 怒りが落ち、代わりに悲しみが滲む。
 手を伸ばそうとして……届かない。
 その輪郭が崩れ始めた。
=……見て……くれた……だけで……よかった……=
 姿が薄れていく。
 風にちぎられた影のように、輪郭が壊れていった。
 後には何も無かったかのような、夕暮れ空が広がっていた。

 
 事件から数日後、私は両親と共に職員室に呼ばれた。
 そこには栗田翔の父親——この学校の理事長がいた。
 スーツ姿の大柄な男が、私を見るなり、眉をひそめる。
 声は聞こえない。
 けれど、彼の口の形と顔つきだけで、その言葉の方向は嫌でも理解できた。
“……転校してもらいます”
(……やっぱり)
 私がここにいれば、
 栗田翔にも、学校にも、
 “余計なトラブル”が降りかかるということ。
 理事長の表情には、怒りよりも“汚れたものを遠ざけたい”という色しかなかった。
 私は下を向いた。
(……私と関わると……いつもこうなる)
 静かに息を吸い込み、頷いた。
 声に出す必要はない。
 それは分かっていた事だ。


「……失礼します」
 手続きを済ませた私は、職員室で最後にお辞儀をする。
 誰も見向きもしない。
「…………」
 カバンを小脇に抱えたまま、昇降口から校門までの道を黙って歩いていく。
 途中で立ち止まり、校舎を振り返る。
 屋上が見えたが、もちろんそこには誰も見えない。


 結局、マナは本当の事は何も言わずに消えていった。
 私に嘘をついてまで、郁美を陥れたかったのかもしれないが、
 そんなことをしても栗田が振り向いてくれるわけでもないだろうに……。
「…………」
 私はため息をつく。
 マナは私にそんな嘘をつき、あの二人は事件には関係ないという嘘を、そして私は本当のことを胸にしまい込むという嘘を……。
 誰も本当の事を言っていない。
=……助けて……=
=聞こえて……=
「…………」
 端々から死者の声が聞こえてくる。
 そんなものに答えてはいられない。
 嘘だらけでも世界は進んでいる。
 多分、次の場所でも私はそんな世界で生きていく。
 そこに何があるのか……。
 
 もちろん、私にも分からない。