今日は文化祭の装飾作り。
 クラスのほとんどが体育館のほうで作業することになって
 教室には、わたしと陽斗のふたりだけが残った。

 ぎゅっと胸が鳴る。
 逃げ場がない、と思った。

「春野、こっち手伝ってくれない?」

「う、うん…」

 机の上には、昨日途中だったメニュー表の下書き。
 わたしが泣いていたせいで中断したままだった。

 陽斗は静かに椅子を寄せる。
 距離が近い。
 でも、昨日みたいに怖くはなかった。

「ここさ、もうちょい色あったほうがかわいいよな」

「たしかに…」

「一緒にやろ」

「……うん」

 その「一緒に」が
 どうしようもなく嬉しかった。

 ペンを取って線を描き始めると
 陽斗が横でじっと見ている。

「春野って、集中してる時ほんときれいな線描くよな」

「き、きれいとか…」

「褒めてる」

 優しい声
 あたたかい目
 もう、昨日のようなぎこちなさはなかった。

「……その、昨日は…」

 やっと言葉が出た。

「ごめん。わたしが勝手に落ち込んで、逃げて…」

「うん」

「陽斗くんのこと、迷惑なんて思ってないんだよ。本当は…」

 言った瞬間、陽斗がほんの少し笑った。

「やっと本音出た」

「っ…!」

「逃げるし、泣くし、目そらすし…俺けっこう傷ついたからな」

「ご、ごめん…」

「謝んなくていいよ。知れてよかったし」

 優しい言い方だけど
 ちゃんと気持ちが伝わる。

「俺さ、春野が嫌がるのが一番嫌なんだよ」

「……わたし、嫌じゃないよ」

「ほんと?」

「ほんと」

 陽斗の手が、机の下でそっと触れた。
 触れるだけの距離。
 でも、その一瞬だけで胸が熱くなる。

「じゃあさ」

「……なに?」

「もう逃げないで。俺から」

 声が低くて
 真剣で
 心の奥に触れてくる。

「逃げないよ。もう…逃げたくない」

 小さく言うと
 陽斗はほっとしたように笑った。

「よかった」

 その笑顔だけで
 昨日の不安が溶けていく。

「ねぇ春野。これさ」

 陽斗は作りかけのメニュー表を指さす。

「文化祭終わってもさ、残るじゃん。クラスの思い出として」

「うん」

「春野の名前入れようぜ。デザイン担当って」

「えっ、そんなの…!」

「いいじゃん。春野のだし」

「め、目立つよ…」

「俺が守るから」

 言われた瞬間、胸が跳ねた。
 ずるい。
 そんな言い方ずるい。

「……ありがとう」

「お礼は文化祭の日に」

「なんで?」

「秘密」

 笑いながら言う陽斗の横顔は
 夕方の光に照らされて、すこし大人びて見えた。

 あの日の痛みも涙も
 今はここに置いていける気がした。

 自然に、そばにいたいと思えた。

 それが、わたしの本当の気持ち。