運命の人 ~何度、生まれ変わっても~ 【全年齢版】



 私は自分の意思で生まれ続ける

 この地上がどんなに過酷でも

 私の生死の決定権は

 いつも私の手の中にある


 もし魂に終わりがなく

 生と死が絶え間なく繰り返されるなら

 メビウスのように続く輪廻の中で

 あなたと逢瀬を重ねたい


 あなたは私を照らす最初で最後の光

 温かで切ない唯一のギフト


 あなたと巡り合う限り

 私は何度も生まれくる


 だから

 人魚の泡でできた楠の下で

 何度も抱き合おう





 場違いだってわかってた。
 スーツの肩が馴染まない。靴音がやけに響く。
 でも、来てしまった。
 姉さんが働いてる空港のラウンジ。
 ファーストクラスの客しか入れない、静かで上品な空間。
 ここに来るのに今の俺は、まだ若すぎる。

 ガラス越しに見つけた。
 永遠(トワ)が、カウンターの奥で笑ってた。
 ファンらしき男たちに囲まれて、まるで女優みたいに光ってた。

 俺の存在に気づいた瞬間、彼女の顔がぱっと変わった。

「どうしたの?! 職場に来るなんて!」

 俺はポケットに手を突っ込んだまま、目を逸らして答える。

「ちょっと……どんなかなって様子見に来ただけ」

「様子見で、わざわざファーストクラスに乗るの? どこ行くつもり?」

「大丈夫だよ。日帰りで、すぐ戻るから。そのために出張のない会社に入ったんだ」

 永遠がふっと笑う。
 その笑い方が、昔と変わらないのが、逆に苦しかった。

「そう。ならいいけど。夜ごはん、コロッケでいい? お肉食べたい? すき焼きにする?」

「なんだっていいよ」

「だったら、間とって肉じゃがにしよっか」

 そのとき、後ろから声が飛んできた。

「おい、彼氏か」

 振り返ると、スーツ姿の男が立っていた。
 ファンの中でも、やけに目立つ。俺ほどではないが、背の高い男だ。
 俺のことを値踏みするような目で見ていた。

「まさか。弟の陽(ヨウ)」

 永遠がさらっと言う。
 俺は軽く頭を下げた。
 男が驚いた顔をして、手を差し出してくる。

「高校時代の同級生の赤城さん」

「一度会ってみたかったんだ。よろしく」

 握手。
 その手が、妙に馴れ馴れしくて、熱かった。

「いや、そうじゃないかと思った。ハンサムな好青年だね」

 上機嫌な赤城の声が、耳に残る。
 俺は笑えなかった。
 “弟”として紹介されたことが、こんなに苦いなんて思わなかった。

 永遠は、俺を守ってくれる。
 でも、俺のことは男として見ていない。



 夜の空気は冷たくて、俺のスーツの襟をすり抜けてくる。
 従業員用の出入り口。
 制服姿の人たちが次々に出てくるたび、目を凝らす。
 やがて、見慣れた後ろ姿が現れた。

 ──永遠だ。

 俺に気づいて、すぐに笑った。
 でもその笑顔が消えるのは、ほんの数秒後だった。

「お疲れ様です」

 姉さんが立ち止まって、同僚たちに頭を下げる。
 2人の女が、歩きながら会釈を返す。
 通り過ぎた女達の声が聞こえる。

「はあ……私たちは、これから夜中まで働くのにね」

「本当。遅番出てるの見たことない。それで給料2倍以上貰ってるんでしょ? 嫌になっちゃう」

「空雪さん目当てで通ってくる客ばかりだもん。仕方ないよ。25過ぎても移動しないこと自体、特例だから」

「まるで酒場のホステスだよね。空港じゃなくて銀座に行けばいいのに」

 笑いながら、でも確実に刺してくる声。
 永遠は何も言わず、ただ俺の腕を取って歩き出した。

「帰ろう」

 その手が、少しだけ冷たかった。



 車の中は、いつもより静かだった。
 永遠がハンドルを握り、俺は助手席で拳を握っていた。

「仕事、辞めろよ」

 言った瞬間、彼女の指がわずかにハンドルを強く握ったのがわかった。

「どうしたの、急に。別に私は……」

「あんな商売の仕方してるなんて思わなかった。見たかよ、オッサンどもの姉さんを見る目。最悪だよ!」

「体に触られたりするわけじゃないから、平気よ」

「俺が平気じゃないんだよ! 養うから辞めてくれよ。何かあってからじゃ遅いんだからな」

 言いながら、自分の声が震えてるのがわかった。
 怒りと、悔しさと、どうしようもない焦りが混ざってた。

「社会人1年目なのに、養うだなんて……。ちゃんと貯金して、将来に備えなきゃ。可愛いお嫁さんもらうなら、経済力ないとね」

「結婚なんかしないよ。姉さんと一緒に遼(リョウ)を育てる。父親代わりに」

 永遠が少しだけ黙った。
 でもすぐに、いつもの調子で返してくる。

「陽は陽の人生を生きて。私は私でやっていくから。あそこで働けたから、あなたにひもじい思いさせずに済んだの。
 遼の進学費積み立てたり、自分がいつか老人ホームに入所するための貯金もしていけてる。他の仕事じゃ無理だった」

「そんなのは俺に頼ってよ。そのために早く大人になったんだ。今だって成績トップで同期の誰より稼いでる」

「だったら、その分たくさん遊ばなくちゃ。毎日まっすぐ家に帰って来なくていいの。友達と映画に行ったり──」

「俺、クリスマスが好きなんだ」

 言った瞬間、彼女の手がハンドルの上で止まった。
 俺は、まっすぐ前を見たまま続けた。

「姉さんに見つけてもらえたから。人生で一番最悪だった日を、人生で一番最高な日に変えてくれた。
 姉さんのためなら何でもする。好きなんだ、姉さんが。少しでも傍に居たいよ」

 沈黙。
 でも、拒絶はなかった。
 代わりに、いつもの調子で、彼女が言った。

「……やっぱり、すき焼きにしよっか。まだ育ち盛りだもんね」

「もう大きくならないよ、これ以上」

「えー?!」

 おどけた声に、思わず笑ってしまった。
 でも、心の奥ではわかってた。
 このままじゃいけない──俺は、永遠を守りたい。



 風呂上がりの熱がまだ肌に残ってる。
 タオルを首にかけたまま、キッチンに入ると、姉さんが食器を片づけていた。
 湯気と洗剤の匂い。
 俺は冷蔵庫を開けて、カルピスを取り出す。冷たい甘さが喉を通っていく。

「姉さん、俺もう子供じゃないんだから、スーパーラヴァーズの服ばかり買ってこないで」

 姉さんが振り向く。
 笑いながら言う。

「あら、生意気言っちゃって。まだ子供じゃないの。可愛いでしょ?」

 しかし、その瞬間──俺のまっさらな上半身を見て、姉さんの顔がピクリと強張った。
 すぐに目を逸らす。

「裸で歩かないでよ!」

 俺はニヤッとして、背後からそっと抱きしめた。
 姉さんの背中が、びくっと震える。

「まだ俺は子供なんだろ? なに恥ずかしがってんだよ?」

「からかわないの。私は親みたいなものなんだからね」

「はいはい」

 そう言って、腕をほどいた。
 姉さんは「もう」と呟いて、ふっと笑った。

 そのとき、まだ2歳になったばかりの遼が泣き出した。
 姉さんが慌てて駆けていく。
 俺はその背中を見送った。
 胸の奥が、じんわりと痛んだ。



 CDを手に、リビングのドアを開けた。

「ねえ、このCDさ、カセットにダビングしたいんだけど、予備のカセット……」

 言いかけて、息が止まった。

「おい! 何してるんだよ!?」

 目の前の光景が、現実だと理解するまでに数秒かかった。
 姉さんが、遼の首を──

 俺は駆け寄って、彼女を引きはがした。
 遼が泣き出す。
 その泣き声に、心底ホッとした自分がいた。

「何してるんだよ」

 肩を揺さぶると、姉さんの目が濁っていた。
 どこか遠くを見ている。

「毎日毎日、おぞましいものを見てるようで耐えられない。
 もうどうしていいか、わからない」

 その言葉が、胸に突き刺さる。
 ──おぞましい?
 それは、遼のことか? それとも、自分自身か?

「おぞましい……? 遼は……誰の子?」

 問いかけると、姉さんは何も言わず、首を振った。
 そして、俺の胸に顔を埋めた。
 その重さが、やけに細くて、壊れそうだった。

 俺は腕を回して、そっと抱きしめた。
 ──この人は、もう限界なんだ。
 俺が守らなきゃ。
 たとえ、どんな過去があっても。



 ネオンの明滅が、部屋の壁に色を落としていた。
 唐揚げの匂いと、炭酸の弾ける音。
 赤城が歌い終えて、マイクを置くと、俺の隣にどっかり腰を下ろした。

「いや~嬉しいな。陽くんから誘ってくれるなんて、仲良くなりたかったんだ」

 俺は口元に、愛想を浮かべた。

「赤城さんは、姉さんのこと好きなんですか?」

 赤城が少し驚いた顔をして、すぐに笑った。

「昔、付き合ってたからね」

 その言葉に、喉の奥がきゅっと締まる。
 でも、顔には出さない。

「じゃあ、遼の父親って赤城さん?」

「まさか! 違うよ! 彼女とは、そんなことしたことないよ。付き合ってたのは、高校生の頃だから」

「ふうん。そうなんだ。誰か心当たりあります?」

 赤城がグラスを回しながら、少しだけ眉をひそめた。

「父親? 彼女は言わないんだろ?」

 俺は黙って頷いた。

「だったら詮索しない方がいいよ。きっと結婚諦めて、不倫でもしてたんだろ」

 その言葉に、心の奥がざらりと逆撫でされた。

「姉さんに限って、不倫なんて」

「大学進学だって諦めたんだよ。君を育てるためにさ。
 本当は僕たち同じ大学に進んで、卒業したら結婚する約束してたんだ。
 ──まあ、君も、もう大人だから言うけどね」

 俺は何も言わなかった。
 言葉が喉に引っかかって、出てこなかった。
 赤城の声が、遠くで響いていた。

「それを聞きたくて誘ったわけか。なるほど。
 ま、くよくよ考えても仕方ないよ。パアッと行こう。景気のいい曲歌うよ」

 そう言って、赤城はリモコンを手に取り、カラオケ機材に向けた。
 その瞬間、俺はテーブルの端にあった赤城の使ったつまようじを、そっと袋に入れてポケットに滑り込ませた。



 はたきを持って、エプロン姿の自分が少し滑稽に思えた。
 永遠の実家。俺の“養父母”が座っている居間。
 畳の匂いと、古い柱時計の音が、妙に落ち着く。

「珍しいね、陽が来てくれるなんて」

 義母が笑う。俺ははたきを止めて、少しだけ肩をすくめた。

「たまには親孝行しないと、罰が当たりますよ。せっかく拾ってもらったんだし」

 義母が湯飲みに手を伸ばす。俺はすぐに動いた。

「あ、俺がやりますよ。座っててください」

 湯飲みを受け取って、台所へ向かう。
 背後で、母さんがぽつりと言う。

「そうは言っても、育てたのは永遠だからね。ねえ、お父さん」

「ああ……」

 義父の声は、いつも通り低くて短い。
 でも、その一言が妙に重く響いた。

 俺は2人から見えない位置で、湯飲みの飲み口をハンカチで丁寧に拭いた。



 外回りを終え会社に戻ると、デスクの上にあった封筒を開ける。
 中には、白い紙。
 DNA鑑定の結果と書いてある。
 俺は一読すると紙を畳んで、机の引き出しにしまった。



 玄関のドアを開けた瞬間、空気が違った。
 灯りはついているのに、家の中がやけに静かで、冷たい。
 リビングに入ると、陽がソファに座っていた。背筋を伸ばして、じっと前を見ている。

「ただいまー。健は?」

 コートを脱ぎながら訊ねると、陽がゆっくりとこちらを見た。

「実家に預けてきた」

「え? どうして? 風邪でもひいたの?」

 笑って誤魔化そうとしたけれど、陽の目が笑っていなかった。

「これから、ずっと向こうで暮らすんだよ。ここに居たら、姉さんが殺すかもしれないから」

 心臓が止まったような気がした。
 言葉が出ない。
 喉の奥が、何かで塞がれているみたいだった。

「……それは……」

 それしか言えなかった。
 否定も肯定もできなかった。
 あの夜のことが、脳裏に焼きついて離れない。

「また2人で暮らそう。その方がいいって」

 陽の声は、優しかった。
 でも、その優しさが、どこか遠く感じた。



 更衣室のロッカーを開けて、ポケベルを取り出す。
 液晶に表示された番号を見て、胸がざわついた。
 赤城の番号。
 こんな時間に、何の用だろう。


 人気のない通路。
 飛行機が滑走路を滑る音もしない。
 赤城が待っていた。
 彼の顔を見た瞬間、ただ事じゃないとわかった。

「どうしたの、こんなところへ呼び出したりして。何か進展あった?」

 赤城は周囲を見回してから、低い声で言った。

「今から言うこと、絶対誰にも言うなよ?」

 私は黙って頷いた。
 心臓の鼓動が、耳の奥でうるさい。

「いなくなったご両親と遼くん、失踪したとされる日に、陽くんがボートを借りた記録が残ってた」

「何の関係が……まさか」

 言葉が震えた。
 赤城が頷く。

「警察は、陽くんを殺人容疑として、捜査をはじめた。海から死体が上がれば実刑は免れない」

「そんな……どうして……」

 頭が真っ白になる。
 陽が? あの子が?
 そんなはずない。
 でも、あの夜の言葉が、耳に蘇る。

『ここに居たら、姉さんが殺すかもしれないから』

 赤城が続けた。

「前に遼くんの父親が僕かどうか、聞きに来たよ。何か関係があるかも」

 私は青ざめた。
 陽が、何を知っているのか。
 何を疑っているのか。
 何を、もう──してしまったのか。

「なあ、今すぐ彼との養子縁組を解消して、僕と結婚しよう。
 君のことは、僕が全力で支えるから。もし違ったとしても、彼は社会人なんだ。もう養育する必要はないよ」

 赤城の言葉が、遠くで響いていた。
 私は何も答えられなかった。
 ただ、胸の奥で、陽の声が何度も繰り返されていた。

『また2人で暮らそう。その方がいいって』

 それは、願いだったのか。
 それとも、宣告だったのか。

 私は、まだ答えを出せずにいた。



「ただいま。何してるの?」

 玄関を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、姉さんがすごい勢いで荷造りしている姿だった。
 床に広げられたスーツケース、乱雑に詰め込まれる衣類、そして焦った表情。

「早く、荷物まとめて。急いで!」

 その声に、俺は何も訊かず、ただ頷いた。
 理由なんて、あとでいい。永遠がそう言うなら、俺は従う。



 夜の道路を、車が滑るように走る。
 姉さんがハンドルを握り、俺は助手席で窓の外を見ていた。
 街の灯りが遠ざかっていく。

「どこに向かってる?」

 俺が訊ねると、永遠は焦ったように返してきた。

「田舎。都心は、あちこちにカメラがあるから」

「田舎のどこ?」

「わからない。とにかく警察が追って来れないところ」

 沈黙が落ちる。
 俺はふと思い出して、口を開いた。

「天川 星夜(アマカワセイヤ)って知ってる?」

 姉さんが眉をひそめる。

「こんな時に何なの? その俳優なら、私が小さい頃に自殺したのよ。
 ……確か奥さんのお墓の前で。自分のファンに刺されて亡くなったの、奥さん。それがどうしたの?」


 山奥の泉に着いたのは、深夜だった。
 古く黒ずんだログハウス。

 泉の向こうに石碑が建っていた。
 苔むしたその表面には、こう刻まれていた。

 『偉大なるライアン』

 意味はわからない。けれど、胸がざわついた。
 泉の水面に映る月を見つめていると、隣に立つ姉さんの手が、いつの間にか俺の手に触れていた。

 気づいた瞬間、俺たちはハッとした。
 手を離すのが惜しいような、でも触れてはいけないような、そんな感覚。

 何も思い出せない。
 でも、心のどこかが、確かに知っている気がした。
 この場所を。
 この人を。
 この夜を。


 古いログハウスの扉を開けた瞬間、空気が変わった。
 誰もいないはずなのに、誰かがまだここにいるような気配。
 埃が積もっているものの、家具は整っていて、窓には薄いカーテンが揺れていた。
 その中で、俺たちは1枚の写真を見つけた。

 机の上に、フレームに入った白黒の結婚写真。

「天川 星夜……そう言えば、こんな顔だった気がする。うる覚えだけど。陽にそっくりね」

 姉さんが呟く。
 俺は写真の隣に立つ女性を見て、静かに言った。

「姉さんこそ、隣にいる奥さんに、そっくり」

 沈黙が落ちる。
 写真の中の2人は、何も語らない。
 でも、俺たちの中で何かがざわめいていた。

「まさか……」

 姉さんが言う。
 俺は頷いた。

「生まれ変わりだと思う。
 中学生の頃、俺、スノボしてて迷い込んだ。ここへ。
 今思えば何かの導きだった」

 鍵は開いていたのに、荒らされた形跡はなかった。
 まるで結界に守られてるみたいに。

「前世では夫婦だったの?」

「そうだね」



 夕食の時間。
 姉さんが食事を運んできて、2人でテーブルを囲んだ。
 俺の好きなカレーライスだ。

「水は泉から引いてきてあるし、自家発電機もあるし、至れり尽くせり。意外とこの逃亡生活は、快適かも♪」

 その笑顔に、俺は思わず苦笑した。

「意外にポジティブで助かる」



 姉さんはベッドに、俺は床に寝袋を敷いていた。
 静かな夜。
 虫の声すら遠く、泉の水音だけが聞こえる。

「どうして一緒に寝ないの? 風邪ひいたら困るじゃない」

 俺は黙って、ポケットから小さなものを取り出した。
 中学の制服の、第二ボタン。

「これ……中学の制服の……どうしたの?」

「ずっと持ってた。渡せなくて」

 永遠が驚いた顔をする。
 その表情が、少しずつ揺れていく。

「……したことある? 女の人と、そういうこと」

「アメリカで」

「日本では?」

「ないよ。どんな顔して家に帰っていいか、わからない」

 姉さんが近づいてくる。
 唇が触れそうになる。
 でも、俺は手で制した。

「そんなことしてもらうために、殺したんじゃない」

 姉さんは、そっと頷いて、ベッドに戻った。

「留学しなければ良かった、こんなことになるなら。ずっと傍に居れば良かった」

「ごめん……」

「どうして、姉さんが謝るんだよ。何も悪くないよ」

「手を繋いで」

 ベッドから伸びた手を、俺はそっと握った。
 その手は、少し冷たくて、でも確かに生きていた。

「陽は他の子達より、ずっと小さくて。大きくならなかったら、どうしようって心配だった。でも、ちゃんと大きくなって良かった。
 もし捕まったら、私が計画して陽が実行したことにしよう」

「余計なことするなよ」

「泣いている陽を初めて空港で見つけた時、抱きしめなければと思った。
 あなたを守ることが、私の幸せ。
 遼が産まれてから遠慮してたでしょ?  これからは思う存分、甘えていいよ。ずっと一緒だからね」

 俺は手を強く握り返した。

「今まで10年好きだった。この先の10年も好きだよ。その先も、もっと先まで。今度は、俺が姉さんを助けたい」

「体の痛みは治まっても、心の痛みはずっと続いてる。痛い。でも陽がいれば、生きていける。それで充分」

「俺が傷口を押さえてるよ。痛みがなくなるまで。いつか治るまで」

 泉の夜は、静かに深まっていく。
 前世の記憶はない。
 でも、今この手の温度だけは、確かに知っている。
 この人を、俺はずっと前から──


 ♪NEVER EVER by浜崎あゆみ



 ゴーグルの内側が、俺の息で曇った。
 泉の近くのスキー場は、夜の切れ端みたいに静かで、雪は細かく降り続いていた。
 姉さんが笑う。白い息が、ふわっとほどける。

「ゴーグルしてるんだから、バレっこないって。クリスマスなんだから、ケーキ食べたいでしょ?」

「いいよ、そんなの」

「あら? 聖闘士星矢のケーキ買ってあげたら、すっごい喜んでたじゃない」

「いくつの時の話してるの。あ、おい──」

 言い終える前に、姉さんは軽くポールを蹴って滑り出した。
 雪面にさらりと線を描いて、振り返らない。

 俺は追いかけようとして、やめた。
 追いかけるのはいつも俺だ。
 たまには、見送るほうがいい。

 その瞬間、雪がうなりを上げた。
 斜面の上が、不自然に波打つ。
 白い壁が、音を立てて崩れだす。

 姉さんが振り返る。
 俺の目の前で、彼女の体が雪に飲まれる。
 叫ぶ声は雪に吸われ、世界が真っ白になった。

 俺は滑った。足がもつれる。バランスを失う。
 視界の中で、姉さんの赤い手袋だけが、遠くでかすかに見えた。
 手を伸ばす。届かない。
 雪の重みが、俺の胸にのしかかる。

 何かが、静かに終わった。




 ──鉄の匂いは、慣れない。
 独房の夜は、時計の音がない。
 俺は格子の隙間から、月を見上げた。
 見えるのは、切り取られた空の欠片だけ。

 そこに姉さんの顔を重ねる。
 目を閉じると、雪の白が見える。
 目を開けると、鉄の黒が戻る。

 俺は、待った。
 罪が流れていくのを。
 時間が摩耗していくのを。
 俺自身が、何か別のものに変わるのを。 


 ♪TO BE by浜崎あゆみ


 出所の朝は、寒かった。
 看守に一礼して、手荷物を受け取り、歩き出す。
 世界は、思ったより静かだった。
 風の音と、靴の底が地面を叩く音だけが、確かだった。

 俺はまっすぐ病院へ向かった。
 そうすると決めていた。
 それ以外の道は、どれも嘘に見えた。



 消毒液の匂いがする廊下を渡って、個室のドアを開けると、白が広がった。
 姉さんが横たわっている。
 10年ぶりなのに、その顔はまだ美しかった。

 ベッドの脇に腰を下ろして、彼女の手を握る。
 骨の細さは、変わらない。

 その手が、微かに反応した。
 俺は驚いて腰を浮かせる。
 声が、どこからか降りてきた。

「おかえり、待ってた」

 心臓が、痛いくらいに動いた。
 言葉がうまく出なくて、喉の奥が焼ける。

「姉さん……ただいま」

 彼女は静かに続ける。
 眠っているはずなのに、よく通る声だった。

「私もうすぐ死ぬ。でも、悲しまないで。またすぐに会えるから。
 肉体がここにある間、魂がいろんなものを見て来た。だから何も怖くない。陽も怖がらないで。
 この先、何度離れても私にとっては、あなたが運命の人」

 俺は手を強く握り返した。
 指先の温度が、俺の中に流れ込む。
 恐怖は、まだある。
 でも、それよりも強く、約束したい気持ちが湧き上がってくる。

「わかった。怖がらないよ。
 ……本当は俺、消防士になりたかったんだ。自分の力を、人を傷つけるためじゃなくて守るために使いたい。
 次に生まれたら、きっとそうするよ。そして姉さんと一緒に生きていく」

 心電図の音が、細く伸びた。
 線は1度、震えた。
 そして──静かになった。

 俺は手を離さなかった。
 離せなかった。

 この静けさは、終わりじゃない。
 魂が戻ってくる場所を、俺たちはもう知っている。
 泉の水音、ログハウスの木の匂い、石碑に刻まれた名前。
 何も思い出せないのに、全部覚えている。

 姉さん。
 聞こえるか。
 俺も逝くよ。
 今度は、守るために。
 燃やすのは、罪じゃなくて、闇だ。

 また、会おう。
 そのとき俺は、きっと君の隣に立てる人間でいる。
 何度離れても、戻ってくる。
 それが、俺たちの約束だ。



 ♪Together When by浜崎あゆみ