その痛みはずっとずっと前
──1億年以上前
あなたと魂が別れた時に始まった痛み
他人から傷つけられて感じる痛みは
本当は
根底に抱えてたそれが触発されて
ぶり返しただけで
あなた以外
私を苦しめることなんて
誰もできやしない
痛みを止めるために人は
生まれて出会って癒しあって
また束の間の別れを
約束するために死ぬんだ
新しい巨大ホテルの喫茶コーナーは、朝の光がガラス越しに柔らかく落ちて、コーヒーの湯気を銀色に見せていた。
テーブルの向こうには、マネージャーとスタッフ。
台本の改稿点、次のバラエティ出演、雑誌の撮影スケジュール。
紙の上では全部真っ当な話なのに、スタッフの視線は紙から逸れて、遠くの誰かに釘付けだった。
「なあ、打ち合わせ中に、どこ見てる……?」
マネージャーの視線の先を追う。
白いレザーの小さなバッグ。紺のワンピース。完璧すぎる横顔。
俺とあまり年は変わらないだろう、25くらいか──肌の張りなのか、仕草の軽さなのか、目の焦点がいつもより遠いところを見ているせいか。
理由を考える前に、目が離れなかった。
「女優じゃないか?」
スタッフの言葉に、マネージャーが頷く。
「挨拶したほうがいいな」
「……あんな女優、見たことないけど」
俺は首を捻った。
「だからこそ、挨拶しておくんだよ。もし後で『来なかった』って言われたら困るだろ」
「男連れだよ、お忍びかもよ?」
「だったら、顔隠すはずさ」
ルールの会話。芸能の頭。
俺は立ち上がって、結局そのルールに従うことにした。
フロントの空気は温く、床の光沢が鏡みたいに足元を映す。
男がサインを終えるのに合わせて、俺たちは間合いを詰める。
マネージャーの笑顔は、商売の角度できっちり整っていた。
「おはようございます。
こちらは、天川 星夜(アマカワセイヤ)と申します。最近は『ターザン』という映画に出たところです。
挨拶に伺いました。失礼ですが、どちらの事務所の女優さんですか?」
永遠は一瞬だけ目を細め、礼儀の角度で首を傾けた。
「いえ、私は芸能人ではありません」
その言い方に、嘘が混じっていないことがわかる。
「そうでしたか。あまりにお奇麗なもので。もし芸能界に興味がおありなら……」
マネージャーが名刺を差し出す。
紙が空気を切る音が小さくするどい。
彼女は礼儀正しく受け取り、隣の男と短い視線を交わす。
それから、2人は軽く会釈して去っていく。
ワンピースの裾が、ロビーの風に少しだけ浮いた。
「やっぱり一般人だったじゃないか」
俺は場を埋めるように言った。
マネージャーは肩を落として、でも口元は楽しそうに緩む。
「いやあ、キレイな人だったなぁ」
「自分が喋りたかっただけかよ」
軽口の音が床に落ちる。
喫茶コーナーへ戻る途中、ガラスに映る自分の顔が少し赤い。
朝の光のせいにする。そうでもしないと、ここから先が落ち着かない。
2日後。
ホテルの廊下を歩いていたとき、ふと前方から来る2人連れに目が留まった。
女のほうが、あのときの“彼女”だった。
名前も知らない、でもなぜか記憶に残っていた。
すれ違いざま、彼女がふっと会釈をした。控えめで、でも確かにこちらを見ていた。
「今の天川 星夜だろ、銀幕スターの。知り合い?」
彼女の隣の男が言った。
最初に見た時とは違う男だ。
「知り合ってほどじゃない。前に私を、女優と間違って挨拶に来たの」
「はあ、君は美しいからな。間違うはずさ」
その言葉に、俺は振り返ることもせず、ただ歩き続けた。
けれど、背中に残る視線の温度が、妙に気になった。
夜のレストラン。
窓際の席は、銀座の街を一望でいる。
テーブル越しに北 ママ子と向かい合いながら、俺はグラスの水を口に運んだ。
30歳上の彼女の話は、いつも説教臭い。
ふと何かを感じて振り向くと、また彼女がいた。
またも別の男と、静かに食事をしている。
──笑っていた。
あの笑顔は、どこか懐かしい。
胸がモヤモヤする。
「どうしたの、星夜?」
「いえ、なんでも」
俺は笑って誤魔化した。
ライトアップした東京タワーのふもと。
ファンに囲まれ、スタッフが必死に人波を押し返している。
俺はカメラに向かって笑顔を作りながら、ふと視界の端に彼女を見つけた。
見たことない男と並んで歩いている。
何人目だ?
こちらには気づいていない。
俺は一瞬、声をかけようとしたが、言葉が喉で止まった。
彼女は、ただ通り過ぎていった。
サングラスの奥で、光がぐるぐる回ってる。
鼓膜が震えるほどの音量。
俺は仲間のタケとジュン、それにチャラい後輩のマコトと一緒に、ゴーゴークラブの奥へと足を踏み入れた。
煙と酒の匂いが混ざって、空気が重い。
「あそこに可愛い子がいるよ」
タケが指差す先に、視線を向ける。
ステージの上、赤いミニスカートにブーツ、髪を揺らして踊ってる女がいた。
あの顔──間違いない。
ホテル、レストラン、東京タワー……何度もすれ違ってるのに、名前も知らない。
「どれどれ、あ~」
ジュンが同じ方を見る。
「俺、あの子目当てに、ここへ通う」
マコトの声が跳ねた。
「バカ、あれ見ろよ」
冷静なジュンが、眉間に皺を寄せる。
指差された先には、彼女をウットリ眺める男たちの群れ。
スーツ姿もいれば、学生風もいる。みんな、目が完全に持ってかれてる。
「競争率高いな、ありゃ」
タケが笑った。
俺は黙って、グラスを傾けた。
ステージの彼女は、誰にも気づいてない──俺にも。
照明の落ちた店から、あの女が出てくる。
俺は階段の上で、腕を組んで待っていた。
サングラスを外す。夜風が顔を撫でる。
「一晩いくら?」
「はあ?」
「だって毎回、違う男と歩いてるじゃないか」
「私が娼婦だって言いたいの?」
「違うの?」
「バカらしい」
踵を返して行ってしまう。
俺は思わず追いかけた。
「待って。悪かったよ、謝るから。怒らないで」
「ついて来ないで」
「謝ってるだろ」
しつこい、と言われても足が止まらない。
彼女がふと路地の先を見た──若い男たちのたまり場。
「助けて、しつこいナンパに困ってるの」
全員が振り向く。
眉が上がり、空気が変わる。
「おい、嫌がって……あれ、天川 星夜だ」
「あ、本当だ。天川 星夜だ!」
人が一気に集まってきた。
名前が連呼され、手が伸びる。
俺は舌打ちして、暗がりへと退いた。
いつものホテルの地下には、ショッピング街がある。
ライトに照らされた宝石が、静かに光を吸っている。
私はショーケース越しに目を走らせ、指先で示した。
「これとこれ、出していただける?」
店員が鍵を回そうとした瞬間、ショーケースに両手がどん、と置かれた。
振り返ると、天川 星夜がいた。手の主は彼だ。
「また、あなたの? 私のこと尾行してる?」
「君が俺の行く先々に現れるんだ。本当は、俺の追っかけなんじゃない?」
私は鼻で笑う。
「世の中の人が全て、あなたに興味あるわけじゃないのよ、己惚れ屋さん」
「それ、ください」
彼は店員にクレジットカードを差し出した。
小切手ではなく、クレジットカードだなんて……少し感心してしまう。
「私が先に買おうと思ったのに、何するの!」
「だから、君にプレゼントするんだ。この間のお詫び」
「要らない」
私は踵を返す。
星夜の声が背に追いすがる。
「待って。どうしたら許してもらえるの」
「許すも何も、関わりたくない。あなた大スターなんでしょ? 共演女優でも口説いてればいいじゃない」
私は足早に、その場を立ち去った。
小さい紙袋を指先で揺らしながら、ロビーをぐるっと見渡す。
照明が白くて、床がやたら光る。
彼女が男と並んで歩いてる。
俺の視界には入ってるはずなのに、こっちをちらりとも見ない。
俺の存在は、ただの照明のノイズみたいに通り過ぎていく。
プールの水は思ったより冷たくて、体温がすっと落ち着く。
端まで泳ぎ着くと、上から手が差し出された。
顔を上げると、天川 星夜がいる。
私は何も言わずに、また反対側へ泳いだ。
次の端でも同じ。
さらに、もう1度。
3度目で、仕方なくその手を取る。
陸に引き上げられると、夜気が肺に刺さる。
「せめて、上のラウンジで1杯飲もうよ。そうしたら、もっとお互い分かり合える」
「1人で勝手に分かり合ってたらいいじゃない。私は付き合わない」
「頼むよ、お願い、この通り」
彼は頭を下げた。
プールサイドの照明が、彼の髪に落ちる。
「あなた、ここに泊ってるの? 1人?」
「そう」
「わかった。なら、あなたの部屋へ行きましょう」
「はあ? いや、ちょっと、いきなりそれは……」
「どうして? 私のこと買おうとしたじゃない。抱きたいんでしょ?」
「……あ、あの、そりゃだって、いつも違う男と、だから……。
君が金で買えるなら、買いたいと思うさ。男は誰だって」
「だから、抱かせてあげるって言ってるじゃない。その代わり、もうこの先どこで会っても話しかけて来ないで」
部屋に入ると、空気が広い。
天井は高く、窓の向こうに東京の夜景が滲んでいる。
絨毯が柔らかくて、靴音が吸い込まれていく。まるで足元から静けさに包まれるみたいだ。
しかし俺は、スイートルームに酔ってる場合ではなかった。
「ルームサービス取ろう。お腹空いてる? 空いてないなら果物だけでも……。
あ、じゃあ、音楽聴く? レコードあるんだ」
「早く済ませましょう」
彼女の顔には何の表情もない。
「もしかして、彼が部屋で待ってる?」
「もう帰ったわ。あの人は、会社の寮に住んでて門限があるの」
「だったら急ぐことないよ」
「私は、あなたがしつこいから来てあげたの。これ以上、待たせるなら帰る」
「わ、わかった」
腕を回して抱きしめる。
自分の心臓の音がうるさい。
「怖くない?」
「どうして?」
「よく知らない相手だよ? もし俺が悪い奴だったら、どうする? 酷いことされるかも」
「あなたこそ。私が美人局だったら、どうする?」
「怖くないよ」
「どうして?」
「俳優もヤクザみたいなものだから」
「そう。なら、私も怖くない」
「どうして?」
「処女じゃないから。女が人生で失うものなんて、そのくらいしかないもの」
瞬きが増えた。
喉が乾いて、言葉が出ない。
──どう返すのが正解か、わからない。
気まずい沈黙に堪えかねて、ゆっくり顔を近づける。
彼女の睫毛がわずかに震えて、目を閉じた。
唇が触れた瞬間──世界の音が半分になる。
♪Because of You by浜崎あゆみ
鏡の前で、彼女が髪を整えてる。
肩越しに見えるうなじが、まだ少し濡れていて、月明かりみたいに白い。
俺は後ろからそっと腕を回した。肌が触れるたび、現実感が遠のく。
「電話番号を教えて」
「もう会わない約束でしょ」
「まさか、本気で言ってる? 冗談だろ? あんなに悦がっておいて。演技なんて言うつもりないだろ。
──なんだか、初めて抱き合った気がしないよ」
「毎回、同じこと言ってるの?」
「お生憎様。自分から口説かなくても、向こうから群がってくるの。俺が口説かれる側」
彼女がふっと笑った。
「……笑うと、すっごく可愛いな」
言った瞬間、彼女の表情が真顔に戻る。
俺は慌てて言葉を変えた。
「電話番号が嫌なら、次いつ会えるか教えて」
「明後日」
「嘘だ」
「本当よ。夜7時にここへ来るわ」
──嘘つきには体に教えよう。
俺は彼女を抱き上げて、ベッドへ運んだ。
目を開けると、隣に誰もいなかった。
シーツの温もりはまだ残ってるのに、彼の気配はもうどこにもない。
天井の模様がやけに遠く見える。
私はゆっくり起き上がり、肩にかかった髪を払いながら、リビングへ向かった。
テーブルの上に、小さな紙袋と一枚のメッセージカードが置かれていた。
私はそれを手に取って、読み上げる。
「仕事に行く。食事はフロントに頼んで。プレゼントも受け取って。
明日の19時、楽しみにしてる。
天川 星夜こと、青葉 陽より」
カードの文字は、意外と丁寧だった。
紙袋の中には、地下で見た例の宝石が入っていた。
私はそれを見つめながら、しばらく黙っていた。
そして、何も言わずに、そっと紙袋の口を閉じた。
スイートルームの空気が張り詰めてる。
目の前にいる彼女の瞳が、まっすぐ俺を射抜いてくる。
手にしたバッグをぎゅっと握りしめて、声が震えていた。
「勝手にバッグの中、見たの? どうして私の名前と住所、知ってるの?」
電話で呼び出した彼女は、すっ飛んできた。
「君が寝てる間に……手帳に緊急連絡先って書いてあって」
言い終わる前に、彼女の顔が怒りで染まった。
「最低!!」
立ち上がって、帰ろうとする。
俺は慌てて回り込んで、床に膝をついた。
「ごめんなさい。永遠(トワ)が望むなら、1晩でも2晩でも土下座し続けるから」
額を床に近づけながら、心臓がバクバク鳴ってる。
情けないくらい必死だった。
「一体なんで、こんなことするの?」
彼女の手から、地下で買った宝石箱が飛んできた。
俺の肩に当たって、床に転がる。
「わからない」
「はあ?」
「わからない」
彼女は呆れたようにため息をついて、ソファに崩れ落ちた。
俺はその姿を見つめながら、言葉を探す。
「自分でもわからない。ただ、少しでも話したい、近づきたい、知りたい、触れたい。君を見ると心臓がドキドキする」
「病院に行ってよ、変質者じゃないの」
「恋煩いじゃないかな」
「勘弁して」
彼女の目が鋭くなる。
俺はそれでも笑ってみせた。
「俺のこともっと知ってくれれば、きっと俺を好きになるよ」
「なったとして、恋愛したくないの」
「どうして?」
「どうして、あなたに理由説明しなきゃいけないの」
「なんか、やさぐれてる」
「もうっ!」
クッションが飛んできた。今度は顔面直撃。
俺は笑いながら受け止めた。
彼女は背もたれに寄りかかって、疲れたように両手で顔を覆った。
その姿が、なんだかたまらなくて。
俺はそっと近づいて、彼女の両手首を取った。
驚いたように目を見開いた彼女と、視線が合う。
恐る恐る、でも逃げずに、俺は彼女の唇にキスを落とした。
静かな夜の中で、心臓の音だけがやけに大きく響いていた。
朝の光がカーテン越しに差し込んで、部屋の空気がやわらかく染まる。
俺は目を覚ましていた。
隣で眠る永遠の髪を、そっと指先で梳く。
細くて、冷たくて、でもどこか懐かしい感触だった。
彼女が瞬きをして、ゆっくり目を開ける。
「仕事は?」
「……休み」
「そう」
「一緒に映画観て、食事して、ゴーゴー喫茶で踊って、ドライブしたい」
彼女は首を横に振った。
まるで、最初から決めていたみたいに。
「何か用事?」
「体だけの関係なの、私たちは。だからデートはしない」
その言葉が、胸に刺さる。俺は思わず声を荒げた。
「東京タワーに男といたじゃないか。どうして俺はダメなの」
「あなたは私と恋愛したがってる」
「それの何がいけないのさ」
「何度も言わせないで」
彼女が起き上がろうとした瞬間、俺は反射的に引き止めた。
「ちょっと……」
「Hしてる時は素直なのに、それ以外の時は冷たい。泣きながら、しがみついてきたくせに」
「そういうこと言わないでよ!」
彼女の頬が染まる。
「体だけの関係だって言うなら、たくさん抱いて、俺中毒にしてやる。俺なしじゃ生きていけない体にしてやる」
「本当に己惚れ屋さんね」
彼女は困ったような、呆れたような顔をした。
「帰らなきゃ」
「帰さない」
見つめ合う。
彼女は顔をそむけた。
俺は、そっとキスを落とす。
そのとき、電話が鳴った。
現実が、部屋の中に戻ってきた。
♪appears by浜崎あゆみ
テレビの中で、陽が笑っていた。
完璧な角度でカメラを見つめ、軽やかに冗談を飛ばす。
観客の笑い声が、部屋の静けさに不自然に響く。
私はソファに座ったまま、ただその姿を見つめていた。
電話が鳴った。
ため息が漏れる。
──どうせ、また……。
私は立ち上がり、無視して風呂場へ行った。
パジャマの袖を直しながら寝室に入る。
ベッドに手をかけた瞬間、空気が変わった。
そこに、陽がいた。
──目が合った……私は凍りつく。
「ど、どうやって入ったの?」
「窓割って」
冗談にしては、目が本気だった。
腕を掴まれ、ベッドに引き込まれる。
マットに体が沈む。心臓が跳ねる。
「電話くれるって言ったのに。こっちからも何度もかけたのに。今日だって」
「そ、それは……」
言い訳が喉でつかえる。
彼の目が、まっすぐすぎて怖い。
「結婚してよ」
「はい?」
「俺と結婚して。デートしてくれないなら、先に結婚しよう」
「な、何言ってるの、怖いんだけど……」
「怖くても何でもいいから、結婚しろよ」
「嫌だって言ったら?」
「君を殺して俺も死ぬ」
空気が凍った。
私は敢えて笑った。
「できるもんなら、やってみなさいよ」
彼の手が、私の首に触れた。
──ほんの一瞬。
すぐに力が抜けて、彼は手を引いた。
私は咳き込みながら、体を起こす。
「あなたは、今まで自分になびかない女性がいなかったから、躍起になってるだけ。
いざ私が手に入ったら、興味なくなるわ。どうせ」
「そんなんじゃないんだって。なんかこう……説明できない、もっと大きな引力みたいな。
永遠は感じないの? 俺に何も感じない? 運命だって少しも思わない?」
私は首を傾げた。
──運命?
そんなもの、信じたら壊れる。だから、信じない。
「もういい、わかった。子供つくろう」
「はあ?」
「子供できたら結婚せざるを得ないでしょ」
「もう35になるのに、産めるわけないでしょ」
彼の顔が固まった。
「え? な、なんて言ったの?」
「産めるわけ」
「いや、その前」
「もう35」
「35?!」
「そうだけど」
彼の表情が、まるで世界が崩れたみたいに変わっていった。
私は、静かに微笑んだ。
「遊びに行くときは、若作りするの。その方が楽しいから」
彼は言葉を失い、私のベッドから離れて窓の方へ向かった。
夜はまだ長い。今は、静かに自分の時間を取り戻したいだけだった。
外の風が窓の隙間から入ってきて、カーテンがふっと揺れる。
私はその揺れを見つめながら、使用人に窓の修理を頼むタイミングを考えた。
黒谷の名が刻まれた石の前で、私は静かに手を合わせた。
風が弱く吹いて、線香の煙が斜めに流れる。
目を閉じたまま祈りを終えようとしたとき、横に人の気配が立った。
振り向くと、陽がいた。胸が一瞬だけ跳ねる。
けれど、私は呼吸を整えて平静を装う。
「私がオバサンだってわかって、諦めたんじゃなかったの?」
「結構ショックだったけど、一回り上くらいなら乗り越えられそう」
「乗り越えなくていいんだってば」
私は歩き出した。砂利が小さく鳴る。
彼の足音がすぐ背後に重なる。
「亡くなった旦那さんのこと想って、恋愛を避けてるんだね」
「そんなわけないでしょ」
「だったら、どうして? 永遠は、純粋に男好きでひっかえとっかえしてる女の人とは、タイプが違うよ。
なぜ、そんなに男と遊んで歩くの?」
私は足を止めずに言う。
「人の心に土足で入って来ないで。私の人生にあなたも、あなた以外も必要ないの」
彼の声が少し低くなった。
「ねえ、俺は君が思ってるほど不甲斐ない男じゃないよ。何でも受け止めるよ、受け入れるよ。ちゃんと話して、抱えてること」
私はたまらなくなって、走った。砂利が跳ね、視界が揺れる。
背後から彼の呼ぶ声が追ってくる。
「俺とセックスしたくないの?! すっごく気持ちいいよ! 知ってるでしょ?!」
思わず足がもつれ、前に倒れた。
手をついた掌に、冷たい砂が刺さる。
彼の足音が近づいても、心の中の距離は動かさない……だろう。
バスローブの上から伝わる体温。
陽の頭が私の腹の上に乗っていて、まるで子どものように甘えている。
窓の外は夕暮れ、オレンジ色の光がカーテン越しに差し込んで、部屋の輪郭をやわらかく染めていた。
「ねえ、一緒に映画が観たいよ」
「だめって言ってるでしょ」
彼は拗ねたように唇を尖らせる。
「何ならいいの? 俺が料理、振舞うならいいの?」
「男の人が手料理なんて、聞いたことない」
「みんな言わないだけで、こっそりやってるよ」
私は笑ってしまいそうになるのをこらえた。
彼のこういうところが、ずるい。
映写機の音が静かに響く。
壁に映るのは、古いフィリックスのスライドショー。
テーブルには食べかけの料理と、フルーツ、ワインのグラス。
私はソファに座り、陽は私の太ももに頭を預けている。
「退屈?」
私は首を横に振る。
「興味なさそう」
「そんなことない」
彼は少し黙ってから、いたずらっぽく言った。
「映画より食事より、俺とHするのが好きなの?」
テーブルの上に揺れるキャンドルの火が、グラスの縁を照らしている。
最近よく来る銀座のレストラン。
向かいに座る陽は、ワインを片手に、まるで子どものような目でこちらを見ていた。
「この後、映画でいいよね? 夜景がいい?」
「水族館にしましょう」
彼の眉が少し上がる。けれど、すぐに笑ってうなずいた。
「まあ、いいか。それでも」
私はナプキンをたたみながら、静かに言った。
「水族館に行ったら、目を閉じて30秒数えて。私はその間にどこかに隠れるから、30秒数え終わったら探して。1分以内に見つけられたら、あなたの勝ち。
私があなたの言うこと1つ聞く。もし見つけられなかったら、もう私のこと忘れて」
彼の笑みが少しだけ固まる。
「本気で言ってる? 君がどんなに心を閉ざしても、君の体がもう俺を忘れられないよ」
「肉欲で身を滅ぼすのは、古今東西いつだって男の人。女性は自制心の方が強いの」
「そんなのただの強がり。すぐに我慢できなくなるって」
「自信がないの? 本当に、そう思ってるなら引き受けるはず」
「……わかった」
彼の声が少し低くなった。
私はグラスの中の赤を見つめながら、静かに息を吐いた。
♪GAME by浜崎あゆみ
館内はすでに照明が落ちていて、水槽の青い光だけが静かに揺れていた。
誰もいない。
水の中を漂う魚たちだけが、時間を忘れて泳いでいる。
「いーち、にーい、さーん……」
陽の声が背後で響く。
私はその場を離れた。けれど、隠れなかった。
静かに出口へと向かう。足音を殺して、ただ、ここから出ようとした。
「やっぱり」
その声に、心臓が跳ねた。
振り向くと、陽が腕を組んで立っていた。
水槽の青が彼の顔を照らしていて、怒りがその輪郭を鋭くしていた。
「30秒、数えなかったの」
「そっちこそ、隠れるんじゃなかったの」
「もう私のこと……きゃっ」
言い終わる前に、体がふわりと浮いた。
彼が私を担ぎ上げ、そのまま迷いなく歩き出す。
水の中の魚たちが、私たちを見ているようだった。
静かな水の世界の中で、私たちだけが騒がしく、熱を持っていた。
ベッドに投げ出した永遠の体が、シーツの上で小さく揺れた。
薄い下着越しに見える肌が、月明かりに照らされて白く浮かび上がる。
俺は彼女に覆いかぶさりながら、ベルトのバックルに手をかけた。
「やっぱり孕ませる。35なら、まだ産める」
その言葉に、彼女の目が見開かれた。
怯えたように首を振る。
「いや……やめて。本当にそれだけは……」
「だったら入籍する? どっちがいい?」
「できない」
「おめでた婚プラン」
「妊娠しても産めない」
「産むまで、ここで監禁する。もう1歩も外には出さない」
そのとき、彼女が叫んだ。
「ダメなの! 黒谷家からは出られない!」
俺の手が止まった。
「どういうこと? 旦那さん、亡くなってるんだろ?」
彼女は顔をそむけ、唇を噛みしめていた。
その横顔に、言葉を投げる。
「教えてよ」
「もう、やめて……苦しい。心を求めないで。私には、何もできない」
その声は、かすれていた。
次の瞬間、彼女はぽろぽろと涙をこぼし始めた。
俺は、凍りついた。
「ご、ごめん。永遠に泣かれると……堪えるんだ。泣かないで。乱暴にして、悪かったよ」
どうして、こんなことに。
どうして、俺は彼女を追い詰めてしまうんだ。
「ド、ドライブ行かない? 気晴らしに。今、服買ってくる。サイズ教えて。9号? 7号?」
彼女は答えなかった。
それでも俺は、すぐさま部屋を飛び出した。
紙袋を両手に抱えて、部屋に戻る。
「ただいまー……」
明るく声をかけたその瞬間、胸の奥が冷たくなった。
ベッドの上にいたのは、永遠じゃなかった。
ママ子が、無言でこちらを見ていた。
永遠の姿は、どこにもなかった。
黒谷家の屋敷の前を、何度も行き来する。
門の前に立つたびに、胸がざわつく。
塀の上には、以前はなかった有刺鉄線が張り巡らされていた。
まるで、誰かを拒むための結界のように。
「……永遠……」
声に出しても、返事はない。
ただ、冷たい風が頬をなでるだけだった。
パトカーのサイレンが近づいてくる。
制服の警官が俺の肩を掴み、腕を引いた。
「ちょっと署まで来てもらえますか」
俺は抵抗しなかった。
ただ、塀の向こうにいるかもしれない彼女の気配を、最後まで探していた。
黒谷の名が刻まれた石に向かって、私は静かに水を注いでいた。
線香の煙が春風に流され、指先に伝わる冷たさだけが確かだった。
隣で黙々と働く使用人の背中を見て、私は言葉を選ばずに手を動かす。
足音が近づいた。振り向くと、陽が立っていた。
驚きは一瞬で、すぐに平静を装う。
だが、使用人が彼を見て口を開いた瞬間、空気が裂けた。
「また、お前か! いつも家の周りウロウロして。前に窓ガラス割ったのも、お前だろ」
その言葉に、陽の顔が変わる。
次の瞬間、使用人が地面に倒れた。
血の匂いはしなかったが、倒れた体の硬さが現実を突きつける。
陽の手が私の腕を掴んだ。力が強くて、驚きで声も出ない。
「待てよ。その方を離せ」
使用人がふらりと起き上がり、私を引き離そうとした。
だが陽は止まらず、殴り続ける。
「この人は、俺と結婚するんだよ。お前には渡さない!」
私は必死で叫んだ。
「何言ってるの? その人は、うちの使用人よ!」
陽の目が私を見て、言葉が出るまでに一拍あった。
「……そうなの? 間男の1人じゃないの?」
私が頷くと、彼はようやく手を離した。
だが使用人は既に気を失っている。
砂利の上に横たわる影を見下ろしながら、胸の奥が冷たく沈んでいった。
助手席に座っていると、夏の夕暮れの風が窓の隙間から入ってきて、髪を揺らす。
陽がハンドルを握り、前だけを見ている。
私は問いかける。
「どこ行くつもり?」
「駆け落ち」
どこへ行くかも決めずに走るというのは、彼らしい衝動だ。
「北さんは?」
「別れないって包丁振り回されたよ。妬いた?」
答えは出ない。
私は視線を外して、窓の外の街灯を追う。
陽が急にブレーキを踏む。
体が前に投げ出され、心臓が跳ねる。
「少しは妬いたの?」
私はそっぽを向く。
言葉にする価値がないからだ。
彼はサイドブレーキを引き、シートベルトを外す。
クラクションがあちこちで鳴り、車の中だけが時間を止められたように静かになる。
構わず、彼は私にキスをした。
強引で、熱があって、逃げ場のない押しつけ。
唇の感触が、私の中の何かを揺らす。
彼の声が耳元で震えた。
「君以外すべて失ったけど、俺は幸せ」
その言葉は、私の胸に刺さる。
彼の世界は単純で、失うことと得ることを直線で結んでしまう。
私は息を整えて、冷静に言う。
「……早く逃げましょう。今頃、家の者が捜索願か被害届出してる」
細い山道を抜けると、視界がふっと開けた。
木々のざわめきが遠のき、目の前に静かな泉が広がっていた。
水面は鏡のように空を映し、風が吹くたびにその輪郭が揺れる。
私は思わず足を止め、深く息を吸い込んだ。
ここだけ、時間が止まっているみたいだった。
「あ、見て! 飛行機!」
陽の声に振り向くと、彼が泉の奥へ駆け出していた。
視線の先に、草に埋もれかけた銀色の機体があった。
古びてはいるけれど、どこか誇らしげにそこにある。
「なんで、こんなところに……ライアンだ……」
「え? 誰って?」
私は、思わず聞き返す。
「飛行機の名前。これ、ライアンだよ! なんで、こんなところにあるんだ?!」
彼の目が輝いている。
少年のような顔で、機体に手を触れながら語る。
「兄貴が飛行機オタクでさ、壮明期の模型は全部揃ってる。型を見ただけでわかった」
「お兄さんいるのね」
「3兄弟の末っ子」
「なるほど」
「なんで?」
「甘えん坊じゃない」
彼は照れたように顔をそむけた。
私はその横顔を見ながら、少しだけ笑った。
♪ourselves by浜崎あゆみ
テントのそばには、小さな椅子と作りかけの丸太小屋。
斧とチェーンソーが無造作に置かれ、木の枝には洗濯物が揺れている。
空き缶が積まれ、焚き木の跡がまだ温もりを残していた。
生活の匂いが、ここには確かにあった。
「永遠、俺、ログハウスの入口つくるの忘れちゃったよ」
「梯子かければいいじゃない。その方が動物も入って来なくていいわ」
「君って意外とポジティブだな。助かるよ」
「それより焚き木が消えやすいの、囲いつくって」
「わかった。なあ、辛くない? こんな原始人みたいな生活して」
「結構楽しいけど?」
私は本心だった。
むしろ、目の前の不便さが、心を軽くしてくれる気がした。
陽は私の顔を見て、ため息をついた。
「後悔してるの?」
「そりゃ、ついこの間まで優雅にホテル暮らししてたからね」
私は笑った。彼の言葉が、どこか懐かしくて。
「あなたが私を連れてきたのに」
「君といられるのは嬉しいよ。ほとぼり冷めたらアメリカに行こう。ここよりはマシな生活保証する」
「あなたについてく」
「俺のこと好きになってくれたの?」
「教えない」
「体に訊くからいいや。体は素直なんだから」
泉のほとり──静かなオレンジの水面のそばで、私たちは裸のままシーツにくるまっていた。
夕暮れの空気はまだ蒸していたけれど、彼の体温が背中に伝わってくると、不思議と心地よかった。
私はつま先を泉に差し入れ、そっと水を揺らす。
波紋が広がって、ゆらゆらと水面を歪めていく。
「不思議なの」
「ん?」
「この泉の水に触れると、心がどんどん浄化されてく気がする。くすぐったいような、安心するような、懐かしいような、恋しいような……まるで母の胎内みたい」
言葉が泉に溶けていく。
陽が私をそっと抱き寄せ、左手を取った。
薬指に、ひんやりとした感触。
見ると、大粒のダイヤがきらりと光っていた。
「ピッタリ……やっぱり運命だ……」
「え?」
「俺、前にもここに来てる気がする。きっと君と」
「そう?」
「白いワンピース、買ってあるんだ。今すぐ結婚式挙げようよ」
私は黙って、近くに置いてあった服を引き寄せて身にまとう。
冷えた空気が肌を撫でる。
「運命なんて、どうだっていい」
立ち上がり、その場を離れようとした瞬間、彼の手が私の手首を掴んだ。
「何が気に入らないの?」
「あなたが口にするのは、運命と結婚ばかり。あなたの感じる“運命”に酔ってるだけで、私を好きなわけではない。私のことは何も知らないもの。
それなのに、なぜ永遠を誓わないとならないの。1人遊びに巻き込まないで」
陽は少し黙ってから、静かに言った。
「確かに、何か大きな力に後押しされてここまで来て、君のことが好きだって言い切るには、自分の気持ちがついていってない。認める。
でも男って、一目惚れした相手をよく知らないまま娶っても、生涯守り抜ける生き物なんだよ」
彼の声は、どこか懐かしい物語を語るようだった。
「シンデレラも、白雪姫も、眠り姫も、みんなそうだろ。
女性は身を守らなきゃいけないから、相手を知りたがるんだ。危険な男かどうか判断するために。
でも男は違う。ビジュアルと雰囲気が好みならOK」
私は目を伏せた。
彼の言葉は、まるで子どもの理屈のようで、でもどこか切実だった。
「今までは心なんて要らない、求めるなって言ってたくせに、今度は心が欲しいの。我儘なお姫様だね」
そう言って、彼は私を抱き寄せた。
「俺があげられるものは、なんだってあげるよ。捻くれないで」
私は息を吐いて、そっと彼の胸に体を預けた。
泉の水音が、遠くで優しく響いていた。
まるで、何度も繰り返された約束の続きを、静かに見守っているように。
♪HEAVEN by浜崎あゆみ
目を開けると、テントの中はすっかり暗くなっていた。
外の気配が静かすぎて、逆に不安になる。
私はすぐに体を起こし、隣で寝息を立てる陽の肩を揺らした。
「大変、もう真っ暗。急いで車に戻らないと」
彼は目をこすりながら、眠そうに言った。
「今日は、このままここで寝ようよ。毎日20分もかけて車に戻って、狭い中で寝るの嫌だよ」
「でも寝てる間に野生の動物にでも囲まれたら、どうする気?」
「俺が追い払うって。大丈夫」
そう言って、彼は私を抱き寄せた。体温が伝わる。
けれど、外の風が不気味な音を立てている。焚き木の火が消え、夜の気配が濃くなる。
唸り声。私は息を止めた。
月明かりがテントの布壁に、犬の影を映し出す。4匹。いや、もっといる。
陽も目を覚まし、すぐに松明に火をつける。テントの隅には布と油があった。
「追い払ってくるから、合図するまで中にいて」
「危ないって」
犬たちがテントを食い千切ろうとしている。
布が裂ける音が、心臓を締めつける。
「じっとしてる方が、危ないよ」
陽は松明を手に、外へ飛び出した。
私はすぐに車の鍵をポケットに入れ、指輪をはめる。
火の準備をしながら、骨組みに布を巻きつける。
彼が1人で戦っている音が、外から響いてくる。
顔を出すと、野犬が8匹。
私は火のついた石や棒を片っ端から犬に向かって投げた。
火が瞬く間に辺り一面に燃え広がる。
犬たちは逃げ、一部は動かなくなった。
陽が倒れていた。血が滲んでいる。
私は駆け寄る。
「俺のことはいいから、車まで走れ」
「イチかバチか飛行機で逃げましょう」
「まさか……40年も前の飛行機だ。無理だ。今すぐ走れ」
「車まで辿り着く前に火に飲まれる。
どうせ死ぬなら、一緒に死にましょう。
私1人生き残っても、誰も私を満たせない。あなた以外には、無理なの」
彼の目が揺れる。
私は彼の手を握った。
火の音が近づいてくる。
炎の壁をかすめながら、私は陽の肩を支えて走った。
彼の足取りは重く、息も荒い。
それでも、あの機体が見えた瞬間、胸の奥に火とは別の熱が灯った。
「操縦できそう?」
「なんとか……モルヒネ打ってくれ」
操縦席に沈み込むように座った彼が、後ろを振り返って薬の入った小さなケースを差し出す。
私はそれを受け取りながら、眉をひそめた。
「どこにあったの、こんなの?」
「早く」
「甘ったれないで、気合で操縦しなさい! あなたが死んだら、私も死ぬのよ!!」
私は彼の頭を思いきり叩いた。
彼は目を見開いて、そして笑った。
次の瞬間、エンジンの音が夜を裂いた。
何度か咳き込むように唸ったあと、機体が震えながら動き出す。
火の海の中、私たちは空へ向かって走り出した。
♪too late by浜崎あゆみ
──半年後。
陽は被告席に座っていた。
傍聴席は満席。
フラッシュの音が遠くから聞こえる。
私は意見台に立ち、深く一礼した。
「私は拉致されていません。自分の意志で逃げました。青葉さんに駆け落ちを持ちかけたのも私です」
会場がざわつく。私は続けた。
「関係者の方々には、ご迷惑をおかけして誠に申し訳ありません。
彼が使用人を殴ったのも、私の浮気相手と誤解してのことで、悪質な犯行とは言えません。
寛大な処置を求めます」
陽はじっと私を見ていた。
私は視線を合わせず、ただ前を向いた。
新聞の一面。
《世紀の大スキャンダル 一途狂愛》
白昼堂々拉致、痴情のもつれか? 無理心中の可能性も。
スター俳優・天川 星夜(23)が、12歳年上の未亡人・黒谷 永遠(35)を巡って起こした前代未聞の逃避行が、ついに幕を下ろした。
関係者によると、黒谷氏は同時に30人以上の男性と関係を持っていたとされ、夜遊び常習、奔放な生活ぶりが明らかに。
事件は、使用人への暴行、森林火災、無許可飛行機の使用など多くの違法行為を含み、世間を騒がせた。
裁判では黒谷氏が青葉被告を擁護する発言を繰り返し、法廷内外で波紋を呼んでいる。
重厚なソファに並んで座るのは、黒谷家の親族たちだった。
もちろん私とは血の繋がりはない。
左端には、いつも眉間に皺を寄せている澄子。中央には、元議員で今は顧問の肩書だけが残った義道。そして、壁際に立つのは、口数の少ない美砂。
私は使用人2人に挟まれ、立たされていた。
空気は冷たく、絨毯の模様さえ睨みつけてくるようだった。
澄子が立ち上がり、私の頬を平手で打った。
乾いた音が部屋に響く。
「この恥さらし! なんてことしてくれたの! ようやく“成金”って言われなくなったのに、全部水の泡よ!」
私は顔を戻し、唇を拭った。
「不妊は、黒谷が役立たずだっただけ。前妻との間にも子どもはいなかったじゃない。
それに、あの人は物凄いケチだった。食事会のたびにドレスをリメイクして、新品のふりをしなきゃならなかった。
私の持ち物の大半は、他の男たちからの貢物よ」
義道が鼻を鳴らす。
「こんな騒動を起こしておいて、よくもまあ、いけしゃあしゃあと」
美砂が冷たく言い放つ。
「その貢物、全部処分したわよ。慰謝料の足しにしないとね」
私は息を呑んだ。
「処分……? 勝手に人のものを……指輪、婚約指輪は? あれは特別なものなの。返して!」
「さあ。もう、どこかの質屋に流れてる頃じゃない?」
胸の奥がざわめいた。あの指輪だけは、違った。
あの夜、あの泉で、彼が震える手ではめてくれたもの。
「廃れたとは言え、旧家を敵に回してタダで済むと思わないで」
私の言葉に、澄子が鼻で笑った。
「あなたたちには、もうそんな力はないのよ」
その笑いは、私の実家──空雪家の威光がすでに過去のものだと告げていた。
玄関の扉が開いた瞬間、私は外へと投げ出された。
膝を打ち、手をついて倒れ込む。
次の瞬間、冷たい水が頭から降ってきた。
使用人が無言でバケツを傾けていた。
水滴が髪から、指先から、アスファルトへと落ちていく。
濡れた服が肌に張りつき、夜風が骨に染みた。
私は唇を噛みしめながら、心の中で呟いた。
──あの指輪だけは、なんとしても取り返さないと。
ハンカチを懐から出し、顔を拭って黒谷の豪邸を睨み付けた。
♪Real me by浜崎あゆみ
刑務所の扉が開いた瞬間、夏の光が目に刺さった。
フラッシュの嵐。シャッター音が耳を打つ。
俺は外に出て、深く頭を下げた。
何も言わない。言えることなんて、もう残ってない。
マネージャーが俺の肩を押して、報道陣の間を縫うように車へと導いた。
後部座席に座ると、窓の外の景色が流れていった。
俺の中だけ、時間が止まってるみたいだった。
いや、実際に1年近く停まっていた。
「違約金のことなら、弁護士に請求書送ってくれ」
そう言うと、マネージャーが笑った。
「お前がやらかした分は、会社が負担した。これからバリバリ働いて借りを返してくれ」
「え? 解雇じゃないの?」
「まさか! すごい勢いで、仕事の依頼が来てる。一躍時の人だからな」
俺は苦笑いした。
皮肉なもんだ。
燃え尽きて、灰になったつもりだったのに、世間はまだ俺を燃やす気らしい。
「そう言われても……。まあ仕方ない、働くよ。迷惑かけたし」
「詳しい打ち合わせは、事務所でしよう」
「今日は帰る。永遠が心配して待ってるから」
そのとき、マネージャーの声が少しだけ低くなった。
「ああ……それだがな……永遠さんは、別の場所にいる」
心臓が一瞬、止まった気がした。
「……どういう意味だ?」
壇上から見下ろす会場は、まるで別の世界だった。
「愛の逃避行 出版記念」──あの横断幕の文字が、私の名前よりも大きく見える。
文豪の堤がスピーチを始める。
更年期のせいか、額の汗をハンカチで拭った。
その布の感触を、私は知っている。
あの日、玄関前で私の頬を拭ったのと同じ、柔らかくて、少しだけ古びたハンカチ。
「紹介しよう。この物語の主人公にして、私の妻となる女性──空雪 永遠だ」
空雪 永遠。
久しぶりに聞いた自分の旧姓が、マイクを通して響いた。
黒谷の名は、もう私にはない。
私は1歩前に出て、堤の隣に立ち会釈をした。
会場がざわつく。
そのざわめきの中に、ひときわ大きな音が混じった。
ドアが、バンと開く。
見るまでもなく、誰が来たのか分かった。
彼の足音が、まっすぐ壇上へ向かってくる。
堤が冗談めかして言う。
「おや、もう1人の主役だ。彼のおかげで私は印税御殿が建てられそうだ、ありがたい」
陽の声が、怒りと困惑で震えていた。
「どういうことだ?! 永遠、説明しろよ! 俺についてくるって言っただろ! なんだよ、これ!」
彼がポケットから取り出したハンカチを、床に叩きつける。
フィリックスの刺繍が、白い布の上で揺れた。
私が彼に差し入れたもの。
私の中の何かが、音を立てて崩れた。
でも、私はもう戻らない。
壇上の光の中で、私は静かに言葉を選ぶ。
「私は、堤さんと結婚します。
天川さんのことは、これから1人のファンとして応援します。
短い間だったけど、楽しかった。ありがとう」
陽が叫ぶ。
「そんなんで納得いくかよ! 一緒に帰るぞ!」
彼の手が伸びてくる。けれど、すぐに周囲の人たちが動いた。
彼は取り押さえられ、視界の端で暴れる影になる。
私は目を逸らさなかった。
彼の目が、私を見ていた。
堤の家の前で、俺は正座していた。
膝が痛い。けれど、それすらも当然の罰だと思えた。
懐から小刀を取り出し、静かに前へ置く。
玄関が開く音。下駄の足音。堤が現れた。
「困るよ、こういうことされちゃ。目立つでしょ、君は。今マスコミの一番の玩具なんだから。
せっかく僕が業界に口利きしたり、御涙頂戴文を書いて新聞に連載した意味がなくなるよ。永遠だって、こんなこと望んでない」
俺は頭を下げたまま、声を絞り出した。
「芸能界に未練はありません。違約金も自分で払います。永遠を返してください。
何でもします。腹を切れと言うなら、そうします。彼女を失ったら、生きていけません」
言葉が終わると同時に、心の中で何かが崩れた。
堤はしばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「……君の誠意は受け取ったよ。でも、永遠が何を望んでいるかは、君が決めることじゃない」
その通りだ。
だから、俺は立ち上がれなかった。
ただ、拳を握りしめて、夜の地面に額をつけた。
バルコニーの向こう、ライトに照らされたプールが静かに揺れていた。
ガラス越しに眺めながら、俺はただ立ち尽くしていた。
あの水面の奥に、あの夜の泉が重なる。
あの時も、今も、俺は彼女を見失っていた。
背後でドアが開く音がした。
振り返らないまま、声が届く。
「堤に、ここへ行けと言われたの」
「シャワー浴びてきて」
自分でも驚くほど冷たい声だった。けれど、目はプールから離さなかった。
彼女の気配が一瞬止まり、そして静かに消えた。
数分後、バスローブ姿で戻ってきた気配がした。
俺はもう、プールサイドにいた。
水面の縁に立ち、夜の空に向かって息を吐く。
彼女の足音が近づくのを感じた瞬間、俺はそのまま飛び込んだ。
「ちょ、ちょっと、何してるの!」
水の中から顔を出すと、永遠が手を差し伸べていた。
その手を掴んで、俺は薬指に指輪をはめ込んだ。
泉で渡したものとは違う。もっと大きなダイヤ。もっと重い意味。
「痛い、なにこれ……抜けない。……あのね、前のはダイヤの大きさが気に入らなかったわけじゃないの。しかも右手!」
「俺は怒ってるんだぞ?」
彼女の顔が青ざめた。次の瞬間、走り出していた。
出入口のドアに手をかけ、ガチャガチャとノブを回す。
しかし──開かない。
俺は濡れたまま、ゆっくりと近づいた。
彼女の足元を指差す。
床に転がる接着剤の容器。
ドアの隙間にも、白く乾きかけた跡。
「な、う、嘘でしょ……ど、どうやって帰るの……」
壁に手をついて、彼女を閉じ込めるように立つ。
「もう1回、言う。俺は怒ってる」
「12歳も離れてるんだから、結婚なんてできないでしょ!」
「そんなこと気にするなら、最初から駆け落ちなんてしない!」
「私が35だって知った瞬間、怯んで帰ったくせに!!」
「トップスターの俺様の相手が、12歳も年上の未亡人なんて罰ゲームだろ!
しかも超絶尻軽! 史上最悪レベルの!」
「だったら、年の近い身持ちの堅い娘と結婚しなさいよ!」
「うるさい! それでも好きなんだ! 離れると心が引き裂かれるみたいに痛い!
近くにいると、それだけで幸せなんだ。なんで俺ばっかり、こんなに好きなんだよ、畜生!!」
気づけば、彼女を抱きかかえていた。
そのままプールサイドへ戻る。
「いいか、見てろ! 今から俺の愛を証明してやる」
手すりを越えて、飛び降りた。
風を切る音。地面が近づく。
着地の衝撃が足に響いたが、立ち上がる。
「来いよ、受け止めるから」
「な、何言ってるの? 頭おかしいって……」
「絶対受け止めるから、飛び降りろ。
ついでに抱えてる色んな面倒くさいものも全部俺に渡せ。
俺が全部どうにかする。幸せにする。もう迷うな、俺以外の選択肢なんてない。
2度と離れるな、俺を信じろ。
永遠が思うほど、俺は情けない男じゃない。
永遠に守ってもらわなきゃいけないほど、弱い男でもない」
沈黙。
彼女は何も言わない。
俺は見上げたまま、声を張る。
「……なんか言え」
「月がキレイですね!」
「はあ? なんだ、いきなり」
「本読まないから、おバカさんなのよ! どうせ、顔だけで生きてきたんでしょう!」
「夫に向かってバカとはなんだ?!」
「結婚してあげる、なんて言ってないじゃない!」
「何度プロポーズさせたら気が済むんだよ! この悪魔! いい加減、観念しろ……おい、返事しろよ」
……返事がない。
見上げると、バルコニーに彼女の姿が消えていた。
心臓が跳ねる。
次の瞬間、彼女が戻ってきた。
「びっくりした! プロポーズの途中でいなくなるな! 恥ずかしいだろ! 1人でバカみたいじゃないか!」
「あなたと結婚したら、私にどんなメリットあるの?」
「毎日、抱いてやる!」
その言葉を聞いた瞬間、彼女がバッグを抱えて飛び降りた。
俺は慌てて身を乗り出し、なんとか受け止める。
勢いで地面に倒れ込む。
「あっぶね! 言えよ! 飛び降りるなら降りるって!」
「私を『愛してる』と言いなさい」
「はあ?」
「言わないのなら、堤のところへ戻る!」
彼女が立ち上がろうとする。
俺はとっさに、その足にしがみついた。
「ごめんなさい。好きです、愛してます。一生守ります。あなたしかいません」
彼女がにやりと笑う。
「おねだりの仕方、わかってるよね?」
……え? 何の話? と、ポカンとしていると、彼女が舌打ちした。
「どうしてプロポーズに成功したのに、キスしないの?」
「あ、はい。します。永遠のこと好き……」
唇が触れた。
彼女が笑った。俺も、つられて笑った。
──俺は姉さん女房が、合ってるかもしれない。
♪LOVE ~Destiny~ by浜崎あゆみ
白無垢の永遠と、紋付き袴の俺。
伊勢神宮内に神職の声が静かに響く中、玉砂利の上を並んで歩く。
見物客のざわめきが、祝福の風のように背中を押してくる。
まさか、こんな日が来るなんて。
あの泉での逃避行から、ここまで辿り着けたことが、まだ信じられない。
「最初はどうなるかと思ったけど、式まで漕ぎ着けられてよかった。
……Hするたびに俺のこと『好き』って言わせて、洗脳した甲斐があった」
永遠が横目で睨んでくる。
「あら、己惚れないで。私は、あなたの体目当てで結婚するの。勃たなくなったら、すぐ離婚してやるんだから」
「もしそうなったら、手と口で満足させるよ」
「それじゃ物足りないでしょ」
「道具も使う」
「だったら……添い遂げてあげてもいいけどね」
俺たちらしい、神前式。
神様もきっと、苦笑いしてる。
初夜。
ベッドに横たわっていると、パジャマ姿の永遠が入ってきた。
俺は手を伸ばして、彼女を引き寄せる。
「おいで」
彼女の手が、俺の手に重なる。
けれど、キスしかけたところで、彼女がそっと顔を背けた。
「今日は、疲れてるの。寝かせて」
「はあ? セックス・モンスターの君がセックスしないって?
まさか……今日俺たち、ずっと一緒にいたよね? 一体いつ……あ、着替えの時こっそり間男、呼んだのか?!」
「何言ってるの、そんなわけないでしょ。テキーラ持ってきてあげるから、煽って寝なさい」
「いいや、騙されない。俺が寝た後、間男引き込むつもりだな? そうはいかない」
「私だって人間なのよ? 体力だって、あなたの半分もないんだから、疲れるに決まってるでしょ」
「疲れててもセックスのためなら動けるのが君なんだよ。
……あの爺さんのところへ行ったのも、俺が刑務所にいる間、体が疼いて仕方なかったからだろう」
永遠が黙る。
その沈黙に、俺の不安が膨らんでいく。
「ああ、やっぱり! くそっ! こうなったら鎖で繋いで、24時間監視してやる!」
「正気に戻って」
「君に出会ってから、1度も正気だったことなんかないよ!」
言った瞬間、自分でもわかった。
これは告白じゃない。宣言だ。
冷静さも、計算も、俺の中から全部消えた。
ただ、君が笑えば嬉しくて、君が黙れば不安で、君が誰かを見れば嫉妬して、君が泣けば、世界が終わる気がした。
それが正気じゃないって言うなら、俺はもう、ずっと狂ったままでいい。
永遠がため息をついて、ベッドに腰を下ろす。
「わかったわかった、今日は私が抱いてあげる。横になって」
「大丈夫?」
起き抜けに俺がそう訊くと、永遠は枕に顔を埋めたまま、うめいた。
カーテンの向こうは、とっくに太陽が昇ってる。
「『大丈夫?』って、あなたが一晩中離さないんじゃない。はあ、死ぬかと思った」
俺は彼女の背中に腕を回して、ぎゅっと抱きしめた。
「不安なんだよ」
彼女がくすっと笑う。
「困った、大きな赤ちゃんね」
でも、その声は優しかった。
クリスマス・イルミネーションが灯る東京タワーの下、俺たちは並んで立っていた。
空気は冷たくて、でも彼女の手がそばにあるだけで、心は不思議と温かかった。
あの頃の俺たちじゃ、こんな場所に並んで立つことすら想像できなかった。
でも今、彼女は隣にいる。俺の隣に。
窓の外で雪が、ちらついていた。
搭乗手続きを終えたロビーの端、俺は永遠のコートの袖を握っていた。
離さないように。もう2度と、見失わないように。
「もう逃げないって」
彼女がそう言った。
でも俺は、すぐには信じられなかった。
「油断ならない。目を離すと浮気するかもしれないし」
声が少し震えていたのは、自分でもわかってた。
「あなたが籠を壊してくれなかったら、私はずっと鳥のままだった。没落貴族っていう名の籠」
彼女の声は静かだった。
けれど、その言葉は重くて、胸に沈んだ。
「小さい頃から『家を潰してはならない、お家断絶など以ての外。お家第一』って言われてきたせいで、そうしなければならないと思い込んでた。
黒谷家に嫁いだのは、実家に支援してもらう条件だった。
夫が亡くなった後も、墓守を続けろと言われて……。
でも、これからはどこへ行っても、必ずあなたのところへ帰る。心配しないで」
俺は肩をすくめた。
「それって、浮気するって宣言してる?」
彼女は息を吐いて、話題を変えた。
「さあ。ねえ、それよりエンドレス・ストーリーって何? 最初にくれた指輪の内側に彫ってあった」
左手の薬指には、泉のほとりで渡した婚約指輪と結婚指輪。
右手の薬指には、プールサイドで無理やりはめた婚約指輪。
どれも、俺の執着の証だった。
「ああ、それは俺が用意したんじゃなくて、ライアンの座席の下に隠してあ──」
その瞬間だった。
永遠の身体が、ふっと前に傾いた。
誰かに押された──俺はとっさに彼女を支えた。
「お前と出会わなければ、星夜はずっとスターだったのに! お前に星夜を奪われた!」
若い女の叫びが、ロビーに響いた。
永遠の背中に、何かが突き刺さっていた。
血が、俺の手に広がっていく。
「誰か! 救急車呼んでくれ! 早く!」
俺は膝を折って、永遠を抱きかかえた。
彼女の顔が、どんどん青ざめていく。
「ねえ……聞いて」
「喋るな、消耗するから」
「聞いて……私もうどこにも行かない。心が満たされないから、替わりに体を満たそうとして……益々虚しくなって悪循環してた。
でも……あなたと結ばれて心の渇きが癒えて、体をいじめる必要もなくなった。
だからこれからは、あなたから離れたりしない。2度と……信じて」
「信じるよ。しっかりするんだ、すぐ助かるから」
俺の声が震えていた。
彼女の手が、俺の胸に触れる。
「言い訳せず……1回くらい、ご飯作ってあげれば良かった。今は、体より心が欲しい……私もあげたい」
その言葉を最後に、彼女のまぶたが静かに閉じた。
「永遠……? おい、永遠!」
彼女の体温が、少しずつ、俺の腕の中で遠ざかっていく。
──嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。
♪Over by浜崎あゆみ



