「成長するごとに
そのレベルに見合った相手を伴侶とせよ」
神が仰せなら
共に上がろう
次のステージに
来世も
そのまた来世も
ずっと先の先までも
教会の扉が開く音が、胸の奥の鼓動と重なっていた。
ステンドグラスの光が床に色の帯を落として、私はその上を踏みしめて進む。
白いドレスはまだ新しい布特有の香りがして、手袋の中の指先が落ち着かない。
私の足音だけが、やけに澄んで響く。
参列客が静かなのは、私が敗戦国民だからか。
祭壇の前には神父と、私を待つジョセフ──27の歳上の彼の顔には、深い皺が刻まれている。
神父の声は誓いの言葉なのに、ほんの少し遠く聞こえた。
「ジョセフ・マッケンシー。
汝は、トワ・ソラユキに、永遠の愛を誓いますか?」
ジョセフは迷いなく答える。
「誓います」
続いて私も宣誓するため、息を整えた。
「ち──」
と、口を開いた瞬間、世界が割れた。
正面のステンドグラスが爆ぜる。
色の破片が雨のように落ちて、尖った虹が空気に散らばる。
金属の匂いとオイルの渇いた匂い──武装した男たちが車で、そのまま教会に突っ込んでくる。
天井に向かって銃声がひとつ、乾いた音が木の梁を揺らし、それが全ての音の合図になった。
参列客の悲鳴が縦横に走り、風景はすぐに混線する。
侵入者のリーダー格の男が、私に真っ直ぐ向かって来る。
背が高い、逞しい体つき。顔は半分を布で覆っていて、わからない。
ジョセフが、男との立ちはだかる。
生粋の軍人である彼は怯まない。
──銃声が2度。
ジョセフの肩と脚が撃たれ、崩れる。
床に手を伸ばしたままの彼の指先が、私の裾に触れもしない。
体が軽く浮いて、視界が肩越しに揺れる。
男の肩に担がれ、世界の見え方が変わる。
そのまま外に出て、車に押し込まれる。
エンジンが怒ったように吠え、すぐに走り出す──が、タイヤがひと息で悲鳴を上げて、ステンドグラスの破片に刺され、嫌な振動が伝わる。
彼の舌打ちと、低く短い罵り。
車を乗り換える。
教会前に待機していたはずの、新郎新婦のための車。
つややかなボディと白いリボンが、私の今を嘲笑うみたいに揺れた。
私は後部座席に押し込まれ、ベルトを引く暇もなく、アクセルが床まで踏まれる。
サイレンが背中を追う。
車体にシカゴと書かれたパトカーは、撃ってこない。人質が乗っているから、撃てないのだ。
「くそっ! 近くにパトカーがいたなんて……後ろの荷物を片っ端から投げろ!」
彼が叫んだ。
声は若く、命令の質だけが古い戦場の匂いを持っていた。
「え? 嫌よ、買ったばかりのドレスなのに!」
「バカ野郎! 殺されたいのか?! 黙って言うこと聞け! 頭ぶち抜くぞ!」
彼の目は前だけを見ている。
私ではなく、逃げる線だけを。
私は渋々、スーツケースの取っ手を掴む。
硬い金具の感触が現実を固定する。
窓を下げ、追ってくるライトに向かって、思い切り投げる。
ケースが道路に跳ねて、警察車両の鼻先で弾む。
白いリボンが風に千切れて、視界の端で消える。
道が少しずつ空く。サイレンが遠ざかる。
彼はハンドルを切りながら、低く笑ったのか、息を吐いたのか分からない音を出す。
私は胸に手を当てる。
車が逃げ切れたのが、良かったのか悪かったのか。
──これから、一体どうなるのか。
アジトの空気は、湿った地下水のように重たかった。
私はウェディングドレスのまま、階段の途中に腰を下ろしていた。
スカートの裾は埃にまみれ、レースの縁が破れている。
頭を抱えて、膝に額をつける。
冷たい石の感触が、背中からじわじわと染み込んでくるようだった。
部屋の奥では、ギャングたちが15人ほど、煙草の煙と怒声を撒き散らしていた。
裸電球の下、彼らの影が壁に揺れている。
金髪の男が、煙草をくわえたまま言った。
「身代金の要求は済んだか」
太った男が、ソファに沈みながら答える。
「……ああ、今、何も知らない配達員にカードを届けさせた。けど……」
金髪が眉をひそめる。
「なんだ?」
「ジョセフの意識が回復しない。病院に潜伏してる奴から情報が入った」
ジョセフの名前を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
スキンヘッドの男が、壁にもたれながら舌打ちした。
「くそっ、誰だ? 2発も撃ち込みやがって。ジョセフが死んだら、あの女を拉致した意味がないだろう」
サングラスの男が、テーブルを指で叩きながら言う。
「そうだ。身代金の回収に失敗したら、アル・カポネに消されるぞ」
ざわめきが広がる。
怒りと焦りが混ざった声が、部屋の隅々まで満ちていく。
赤毛の男が、私を見ながらニヤついた。
「失敗したら、その女に身売りさせよう。金のためにジジイと結婚する汚い女だ」
笑い声が起きる。
細身の男が、椅子の背に足を乗せながらぼそりと呟いた。
「口封じに殺すんじゃなかったのかよ」
金髪が振り返って怒鳴る。
「バカ、黙れ」
スキンヘッドが舌なめずりしながら、私を見て言った。
「殺すにしろ売り飛ばすにしろ、どっちにせよ先に味見させてもらおうか」
私は思わず肩をすくめた。
そのとき、足音が近づいてきた。
私をここへ拉致した背の高い男だ。
顔半分を覆っていた布を取っており、恐ろしいまでの美貌を晒している。
そして彼は、白い紙に包まれたおにぎりを、私に差し出した。
「……あなたは、日本人?」
私は日本語で訊ねた。
「日系2世だ」
「そう……」
私は視線を落としたまま、答えた。
「食え」
「要らない」
「食え」
彼は私の手を取り、無理やりおにぎりを押しつけてきた。
私は顔を背けた。
金髪が嘲るように言った。
「おい、やめろ。レディー・ファーストだ。これだから日本人はよ」
主犯格が手にしていたおにぎりを床に叩きつけ、金髪に殴りかかった。
鈍い音が響く。
殴り合いが始まり、他の男たちが一瞬たじろぐ。
男の拳が鋭く、速く、正確に相手を打ち据える。
やがて金髪が床に倒れ、場が静まり返った。
勝った男は息を整えながら、仲間たちを見渡しながら言った。
「身代金の回収に失敗したら、この女に隠し金庫まで直接案内させよう。それまで、誰も手出しするな」
ギャングたちは顔を見合わせ、やがて無言で頷いた。
手足を縛られたまま、私は冷たい床に横たわっていた。
連れて来られて5時間は経っている。
目を開けても、闇が濃すぎて何も見えない。
埃っぽい空気が喉にまとわりつき、息をするたびに咳が出そうになる。
ギャングたちは眠っているのか、時折いびきや寝返りの音が聞こえる。
さっきより人数は減っていて、5人ほどしか気配を感じない。
そのとき、不意に背後から手が伸びてきて、私の口を塞いだ。
息が止まりそうになる。
「静かにしてろ」
低く、短く、男の声が耳元で囁いた。
あの、おにぎりを差し出してきた美男の声だった。
ナイフの刃が、私の手首の縄を切る。続いて足も。
自由になった身体を、彼がそっと引き起こす。
「こっちだ」
そう言って、私の手を引いた。
私は従って歩き出す。
だが、足元に何かがあった。
寝ているギャングの1人──あのスキンヘッドの男の足に、私はつまずいた。
体が前に傾く。
思わず声が出そうになったその瞬間、彼が私の腕を掴んで支えてくれた。
「ううーん……」
ギャングが、うめき声をあげる。
私は息を止めた。心臓が耳の奥で爆音のように鳴っている。
けれど、男は再び寝息を立て始めた。
彼は何も言わず、私の手を引いて、再び歩き出した。
外に出た瞬間、夜の空気が肌を刺した。
アジトの建物の奥から、赤い光が空を照らしている。
火の粉が舞い、煙が夜空に溶けていく。
「燃えてるぞ!! 火事だ!」
誰かの叫び声が背後から聞こえた。
彼は私の手を引いたまま、停めてあった車へと駆け出す。
人気のない倉庫の前に、車が停まった。
エンジンが止まり、静寂が戻る。
彼は私を連れて、倉庫の入り口へ向かって歩き出した。
そのとき、倉庫の中から灯りが揺れながら近づいてきた。
ギャングたちが5人、警戒した様子で姿を現す。
1人が、鋭い目で私を見て言った。
「なぜ、その女をここへ連れてきた?」
「どういうことだ?」
別の男が続ける。
「まさか、身代金を独り占めする気か?」と、3人目が声を荒げた。
彼は私の前に立ち、小声で言った。
「下がってろ」
私は無言で頷いた。
次の瞬間、殴り合いが始まった。
拳がぶつかる音、呻き声、足音。
彼は1人で5人を相手にしていた。
動きは鋭く、容赦がなかったが、数の差は大きい。
彼の肩が揺れ、口元から血が垂れる。
それでも、彼は全員を倒した。
荒い息をつきながら、私の方を振り返る。
「おい、建物の中に入れ──」
言葉が途中で止まった。
彼の目が見開かれる。
「……おい。おい!」
私はもう、そこにはいなかった。
車のエンジンが再び唸りを上げ、彼の声を振り切るように、夜の闇へと走り出していた。
ハンドルを握る手が震えていたが、私は振り返らなかった。
名前も知らないその男を、置いて。
ジョセフの豪邸は夜ごと、音楽と笑い声で満ちている。
夫の怪我はまだ完治していないが、私達は連日パーティー三昧。
招待客たちは色とりどりのフラッパードレスを翻し、カクテルのグラスを光にかざしては笑う。
シャンデリアが幾重にも反射して、夜が昼みたいに明るい。
水面は電飾を飲み込んで、星みたいに揺れていた。
私は水着のままプールサイドで伸びをして、肩甲骨から背中まで、ほどける音を身体の内側で聞く。
近くには給仕が直立して待機している。
真っ白な制服と無表情が、夜気に溶けて無機質に見えた。
「はあ、最高!!」
声が水面に落ちて、小さな波紋になった。
けれど、次の瞬間──
**「失敗したら、その女に身売りさせよう。金のためにジジイと結婚する汚い女だ」**
ギャングの言葉を思い出した。
「『汚い』か……」
私は膝を抱え、顎を乗せる。
塩素の匂いと、遠くから漂ってくる酒の甘さの間に、さっきの言葉が薄い刃みたいに挟まっていた。
私の笑いは、さっきまでの私を裏切っている。
畳8畳分のウォークイン・クローゼットに入る。
向かい合うように同じ大きさのクローゼットがもう1つ。
ガウンの裾がふわりと揺れて、ふかふかの絨毯が足音を吸い込む。
ライトは柔らかく、ドレスのビーズが壁一面の夜空みたいに点滅する。
私は楽しげにハンガーを滑らせていく。
──サテン、シルク、ビーズ、羽根。
その手が、ある瞬間、ぴたりと止まった。
……血の気が引く。
ドレスとドレスの間から、銃口がこちらを向いている。
1歩ずつ、後ろに下がる。
心臓の音が、自分の足音を追い越す。
「手を上げろ、声を出すな」
私は両手を上げる。
肘から手首まで、血が重力に従って降りていくのが分かる。
「そのまま、じっとしていろ」
結婚式で私を拉致した主犯は、銃を懐にしまった。
次の瞬間、唇が重なる。
…… 冷たい。
けれど、触れた感触の奥に、奇妙に知っている温度があった。
彼が顔を離す。
そのとき初めて、私の頬を涙が伝っていたことに気づく。
ぽろぽろ──止めようとしても止まらない。
「わ、悪かったよ。泣かないでくれ。あ、あんたに泣かれると堪えるんだ。
無理やり最後まで、するつもりなんて元々なかった。ほんの少し触れてみたかっただけだ。
これ以上、何もしない。本当だ、約束する」
彼は両手を上げる。降伏の仕草。
私は泣き止まない。
涙が意志と関係なく零れていく。
彼は狼狽して、黒髪を掻きむしった。
「わかった。出てく。出てくから、また人質になってくれ。 屋敷を出るまででいい。
無事に脱出したら解放する。頼むよ」
「ヤン!」
私は衝動のまま、彼に抱きついた。
腕が、過去を抱きしめにいく。
「は? え?」
「会いたかった! 私よ! ヨンよ! わからないの?」
彼の目が、困惑に濁る。
「どうして、先に死んだりしたの? 私は生きてたのに!」
「な、何を言ってるんだ? ヤンだのヨンだの、中国人か?」
「思い出せないのね? いいわ、約束通り迎えに来てくれたんだもの」
「はあ? 精神病なのか、もしかして」
「抱いて、今すぐ。そうしたら思い出すから、きっと」
「じょ、冗談じゃない! ヤバい女だ! 帰る!」
「待って! 帰さない! 駆け落ちしましょう」
私は彼の腕を掴む。
指が滑らないよう、力を込める。
彼は身を捩って、私の手を振りほどこうとする。
「やめてくれ、離してくれ!」
そのとき、衣裳部屋の外から声がした。
「誰かいるのですか? 奥様?」
メイドの声に、空気が一気に硬くなる。
私は慌ててドアを振り返った。
扉を閉める音が、やけに大きく響いた。
私はすぐに体を扉の前に滑り込ませて、中が見えないように立つ。
胸の鼓動がまだ落ち着かない。
廊下にはメイドが1人。
眉をひそめて、こちらを見ていた。
「奥様、今、中から声が……」
「なんでもないわ」
私は微笑んで、髪をかき上げる。
声が震えないよう、喉を締める。
「でも、男の声が──」
「寸劇の練習をしてただけよ。
ほら、今夜の余興あるでしょ? ちょっと感情が入りすぎたのかも」
メイドはまだ納得していない様子だったが、私の視線に押されるようにして、渋々その場を離れていった。
扉を閉めて中に戻る。
空気が違う。
さっきまでいたはずの彼が、いない。
窓が開いている。
カーテンが夜風に揺れて、月明かりが床に斜めの線を描いていた。
私は駆け寄って、外を覗き込む。
彼がいた。
塀を越えて、闇の中へと走っていく後ろ姿。
「誰か!! 泥棒よ、捕まえて!!」
私の叫びに、屋敷中がざわついた。
メイドや小間使いたちが廊下から飛び出してくる。
けれど、彼はすでに庭を抜け、門の向こうへと姿を消していた。
♪Daybreak by浜崎あゆみ
ハンドルの上に拳を置いて、イライラと指を鳴らす。
車は動かない。前の車も、その前の車も。
── 渋滞。最悪だ。
フロントガラス越しに、警察の検問が見える。
制服の着こなしが妙に雑で、帽子は目深にかぶられ、サングラスで顔が見えない。
2人の警官が、俺の車の窓に近づいてくる。
「人相書きにソックリだ。ヨウ・アオバ──花嫁誘拐の犯人だな?」
1人が似顔絵を差し出す。
「他人の空似さ。俺はもっとハンサムだ、よく見ろ」
肩をすくめて笑ってみせる。
「いいや、お前だ」
警官の帽子と眼鏡が外され、金髪が露になる。
──ギャング仲間のゴールディだった。
もう1人の“警官”が、無言で銃を取り出し、俺のこめかみに突きつける。
俺はゆっくりと両手を上げた。
鉄の扉が閉まる音が、棺の蓋みたいに響いた。
酒と汗と血の匂いが混ざった地下室は、薄暗くて息が詰まりそうだ。
床に膝をついたまま、顔の左半分が腫れているのを感じる。
唇の端から血が垂れ、舌先に鉄の味が残っていた。
俺を囲むのは、5人の男たち。
それぞれが俺を見下ろし、楽しげに息を吐いている。
「女1人のために、仲間10人も殺すなんてイカれてるぜ」
ゴールディの笑いに、地下の空気が震えた。
「おい、あの女の何がそんなにいいんだ? 締まりがいいのか、それとも胸がデカいのか」
坊主頭で耳に小さなナイフの刺青があるバズが、下卑た声で言う。
「こいつがそこまでのめり込む女なら、もう1回さらって来ようぜ」
赤いスカーフのレッドが壁にもたれながら口を開く。
俺は顔を上げ、そいつを睨みつけた。
レッドの拳が俺の顔面に叩き込まれる。
頭がぐらりと揺れ、世界が白く滲む。
鉄の味が口いっぱいに広がる。
だが、意識はまだ落ちない。落とさない。
「そろそろトドメを刺そう」
偽警官スリックが冷たく言い、腰のホルスターに手をかける。
「まだ殴り足りない。殴り殺そうぜ」
ゴールディが再び拳を振り上げた──そのとき、バズが急に声を上げた。
「やめろ、やめろ!」
いつもの強がりは消え、声は震えている。
彼の視線が入口の方へ向くと、他の連中もつられてそちらを見る。
階段の上に、黒い影が現れた。
葉巻の煙がゆらりと揺れ、白スーツの男がゆっくりと降りてくる。
その背後には、無言の部下たちが列をなしていた。
伝説の名が、地下室の空気を一瞬で凍らせる。
「──アル・カポネだ」
バズが小さく呟いた。
その声は、まるで墓場の鐘のように重かった。
アル・カポネは俺を一瞥し、そしてギャングたちに向き直った。
彼の声は低く、だが一語一語が銃弾のように重い。
「そいつの身柄を渡せ。それでお前らが、うちの縄張りで酒売ったことは帳消しにしてやる」
ギャングたちの顔から血の気が引いていくのが見えた。
ゴールディの笑いは消え、レッドの目は泳ぎ、スリックの手は震えた。
彼らはカポネの前で、ただ黙って跪くしかなかった。
倉庫の空気は冷たく、埃っぽかった。
薄暗い照明の下、拉致犯──ヨウは両手足を縛られ、床に座らされていた。
美しかった顔は腫れ、黒髪は血と泥にまみれている。
周囲には使用人たちがずらりと並び、誰もが無言で彼を睨んでいた。
ジョセフが前に出て、拳を振り上げる。
「このっ……!」
鈍い音が響く。
ヨウの顔が横に跳ねる。
「やめて!」
私は思わず叫んで、ジョセフの腕を掴んだ。
「もう死にかけてる。これ以上は……」
「死んだって構うもんか」
ジョセフの目は怒りに燃えていた。
「2人で話をさせて」
「しかし……」
「一番怖い思いをしたのは、私なのよ。私が納得するようにしたいの」
ジョセフはしばらく黙っていた。
そして、深く息を吐いて頷いた。
「わかった」
彼は使用人たちを手で制し、静かに倉庫を出ていった。
扉が閉まる音が、空気を一段と静かにした。
私はヨウのそばに膝をつき、そっと顔に触れた。
傷だらけの肌が熱を持っていて、痛々しい。
「骨が折れてる……。あとで医者を呼ぶわ」
「……そんなことしなくていい」
彼の声はかすれていた。
私は水と味噌汁とおにぎりを、盆に乗せて運んできた。
味噌汁の椀を手に取り、彼の前に差し出す。
「飲んでみて」
彼はゆっくりと椀を受け取り、一口すする。
口の端が切れているせいで、顔をしかめた。
「それは、あなたが教えてくれた味噌汁なの」
私は静かに語り始めた。
「あなたは日本人、私は中国人だった。 中国で出会って、一緒に日本へ逃げた。
私は日本語もわからない、着付けもできない、和食もつくれない。
でも、あなたが根気よく1から教えてくれて、できるようになった。
日本で暮らした最後の日に、あなたは『随分、上達した』って褒めてくれた」
「……どうなった? その後」
彼がぽつりと尋ねる。
「私は中国に連れ戻されて、あなたもその後を追って迎えに来てくれた。
1度は逃げるのに成功したけど、また捕まって……」
私は首を振った。
記憶の中の痛みが、今も胸を締めつける。
「あなたは、前世もヤクザだった。現世でも……」
ため息が漏れる。
彼の運命は、いつも血と暴力にまみれていた。
「悪いけど、思い出せそうにない」
彼の言葉は、静かだった。
「わかった。諦める。もういいの」
私は微笑んだ。
「ありがとう、付き合ってくれて。気が済んだ」
椀をそっと盆に戻し、私は立ち上がった。
彼の記憶が戻らなくても、私の中には、確かに彼がいる。
現世では一緒に、なれなかったけど……。
ガレージには車が何台も並んでいた。
ヘッドライトの丸い目が眠っていて、金属の匂いが夜気に混じる。
私はヨウを連れて、奥の黒い1台の前で足を止める。
「この車を使って」
「いいのか?」
「ええ」
鍵を手渡すと、彼は短く頷いて運転席に滑り込んだ。
私は窓の外に顔を寄せ、ガラス越しに彼の腫れた横顔を見る。
「幸せになってね」
「自分が幸せになるか、ならないかなんて考えたことない」
「そう……残念」
私は小さく笑って息を吐く。
倉庫の埃と、さっきまでの怒声の余韻が、まだ喉の奥に残っている。
「私は明後日また式を挙げ直す。教会じゃなく、ここでだけど」
「そうか。それは良かった」
「ええ。さようなら、ウォーアイニー」
「『ウォーアイニー』……どういう意味だ?」
「教えない、もう行って。夫が気付いたら、あなたは殺されるかもしれない。
──早く!」
彼は視線を前に戻し、キーを回す。
エンジンが低く唸って、ガレージの影が震えた。
──車が走り出す。
私はその背中の赤いテールランプを、切ない顔で気持ちで追い続けた。
♪HANABI by浜崎あゆみ
居間の空気は重かった。
シャンデリアの光が冷たく、床の模様が目に刺さる。
次の瞬間、頬に衝撃が走って、私は床に倒れ込んだ。視界がぐらりと傾く。
「大バカ者! 誘拐犯を逃がすなんて聞いたことない! 夫が撃たれたんだぞ?
今すぐ指名手配だ。連絡してくる」
ジョセフが荒い息で怒鳴り、出て行こうとする腕を、私は必死に掴んだ。
「待って! やめて! あの人が助けてくれなかったら私は今頃、殺されてたか売り飛ばされていたのよ」
「拉致したのは、あいつだ! 感謝などする必要ない!」
「お願いだから」
「誰のおかげで、いい生活ができてると思ってるんだ。口答えするな、恩知らずめ!」
──蹴りの衝撃が腹に沈み、息が詰まる。
私は床に手をついて必死に呼吸を探す。
シャンデリアの光が滲んで、耳の奥で血の音が鳴った。
人里離れた治療院は、外の風音を遮るように静かだった。
薄暗い電球が1つ、天井からぶら下がり、白い壁に影を落としている。
木製の診察台にうつ伏せに寝かされていると、体のあちこちが重く、痛みが波のように押し寄せるのがわかる。
「くっ、イテテ」
声にならない呻きが喉から漏れる。
背中を押す手の感触は荒く、指先が骨の位置を確かめるように押し込むたびに、鈍い痛みが走った。
「うん。折れとる。それも何箇所も。内臓もかなり損傷してる。
最低1か月は動くな。死ぬぞ」
老医師は濃い眉の下でこちらを覗き込み、淡々と告げる。中国訛りの混じった英語だ。
白衣の袖口に血の染みがついているのを、ぼんやりと見た。
「そんなに……」
「このまま入院するといい。治療費は後で、たんまりもらう」
医師は笑い混じりに言う。商売人の顔だ。
だが、その目は確かに医者のものでもあった。
手際よく包帯を巻き、折れた箇所を押さえる。
「心配しなくても、金はあちこちに隠してある。
ほとぼりが冷めたら取りに行く」
金のことを考えると、体の痛みが少しだけ遠のく気がした。
「そうしてくれ」
「なあ……ウォーアイニーって、どういう意味だ? 中国語だろ?」
問いは、昨夜の彼女の最後の言葉を引き戻すためのものだった。
意味がわかれば、何かがつながるかもしれないという期待が、まだ胸の奥に残っている。
「女に言われたな? 若い女か?」
「そうだ」
医師は肩を震わせて笑った。
低く、腹の底から出る笑いだ。
「あはははははは! そりゃめでたい」
「早く意味を言え」
俺の声は強張っていた。
記憶の欠片を掴みたいだけなのに、言葉はいつもすり抜ける。
「そうだなあ……英語にするなら、あれだ、エンドレス・ストーリー」
医師は指で空中に輪を描くようにメビウスの輪を描いた。
──永遠。終わりのない物語。
俺はその言葉を反芻する。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるようだった。
ウェディングドレス姿の彼女が、はしゃいでいた。
水面に映る笑顔、指先で弾く光。無邪気で、どこか遠い。
甘く、そして残酷に消えた。
ハッと目が覚めると、喉が渇いていた。
天井の電球が眩しく、世界が少しだけ現実に戻る。
「夢か……どのくらい寝てた?」
「丸1日」
医師の声が近くで答える。
俺は起き上がろうとした。
体が反応する前に、筋肉が悲鳴を上げる。
包帯がきつく、骨の折れた箇所が鋭く疼く。
「おい、起きるな……どこへ行く?」
医師が慌てて手を伸ばす。声には本気の焦りが混じっていた。
俺は一瞬、窓の外に見えた夜の闇を見返す。
彼女が俺を置いていった赤いテールランプの残像が、まだ網膜に焼き付いている。
♪forgiveness by浜崎あゆみ
水面が銀色に震え、プールサイドの光が揺れる。
私はタキシード姿のジョセフに向かって一歩、また一歩と進んでいた。
牧師の声が遠くで続き、参列客の視線が私の背中を追う。
白いドレスの裾が水辺の空気を切るたび、心臓が小さく跳ねる。
──そのとき、空が裂けた。
小型飛行機が低空で現れ、エンジンの唸りが空気を震わせる。
誰もが目を見張る間に、機体の下縁にぶら下がる黒い影が見えた。
片手で機体にしがみつき、もう片方の腕で私を抱き上げる男──それがヨウだと理解するのに、私の頭は一瞬ついていけなかった。
歓声でも悲鳴でもない、言葉にならない音が一斉に上がる。
ヨウは私を抱えたまま、機体と一体になって空へと上昇していった。
青い空の裂け目に赤いテールランプの残像が残り、プールサイドに立つ人々は唖然と立ち尽くす。
誰も何が起きたのか説明できない。
私自身も、抱かれた腕の温度と、風に揺れるドレスの感触だけを確かめるようにして、ただ地面を見送った。
山の風が冷たく、松の匂いが鼻を突く。
小さな草地に停められた車の前で、俺は医師に鍵を渡した。
老医師は腰をさすりながら、まだ興奮と痛みで顔を赤らめている。
永遠はウェディングドレスのまま、機体の脇に呆然と立っていた。
ドレスの裾は草に触れて泥がついているが、彼女の顔には不思議な静けさがあった。
「飛行機の操縦なんて初めてやったわい。ああ、腰が痛い。わしの頭が良くて良かった!」
医師は息を吐き、俺の方を見て笑った。
「それで車をわしに渡して、お前さんらは、どうやって移動するつもりだ?」
俺は指で機体を指差す。
小さなプロペラ機が、夜明け前の薄明かりに銀色を帯びている。
「これ」
「ど、どこへ行くつもりだ?」
「ジパング」
医師の顔が真っ青になる。口が震え、言葉が出ない。
「な、ば、バカな!」
「シャラップ!」
俺は声を荒げる。
胸の中の熱が冷めない。
彼女を抱えたときの重さ、彼女の鼓動、あの瞬間に決めたことが、今も俺を突き動かしている。
「彼女が俺のエンドレス・ストーリーなんだ。
それに、ここに飛行機があればあんたもいずれ捕まる。
俺たちが飛び去ったら、地面についた車輪の跡を消しておけ。ついでに車も、さっさと売ってしまえ」
月明かりが彼女の頬を淡く照らす。
俺は無言でうなずき、彼女を抱き上げて自分も機内に滑り込んだ。
エンジンが唸り、プロペラが回り始める。
草地に残る車輪の跡が、夜風に揺れる草の影に溶けていくのを、俺はちらりと見た。
医師が慌ててシャベルを手に取り、跡を消しにかかるのが見える。
世話になったな、と俺は短く呟いた。
風が顔を叩き、耳の奥でエンジンが唸り続ける。
ゴーグルの縁が頬に食い込み、吐いた息がたちまち冷える。
2人乗りの小型機は軽い揺れを繰り返し、機体の骨組みがきしむ音が全てを塗りつぶす。
声は空に攫われ、言葉は届かない。
ヨウの肩がほんの少しだけこちらに寄り、私はその距離を頼りに座り直した。
視界の端でドレスの布地が風に千切れ、その白が空の青に溶けていく。
海沿いの小さなレストラン。
窓ガラスに潮の跡が白く残り、テーブルの上には焼きたてのパンとシチューの湯気。
私はワンピースに着替えて、手元のスプーンをじっと見つめていた。
「アメリカを出たら、しばらく無人島しかない。今のうちに食っとけ」
ヨウの声は穏やかだが、落ち着きなく指がグラスの縁を叩く。
~「ヨン、宿についたら倒れるくらい食べるんだぞ。3日も野宿させちまったからな」~
1901年の日本の市場で、ヤンが言ったのを思い出す。
あの後、追手に捕まって清(中国)に戻された。
「……うん」
返事をすると、ヨウが急に指先で顎を持ち上げた。
視線がかち合う。
「怪我してるのか? 口紅がはみ出てるのかと思った」
~「怪我してる……暗いから口紅がはみ出しているのかと思ったけど……」 ~
あれは上海のナイトクラブの裏で、初めて言葉を交わした時だった。
「……何でもないわ。ぶつけたの」
「こんなところ、ぶつけないだろ」
「放っておいて」
言った途端、涙がこぼれた。
「わ、悪かったよ。痛かったのか? ジョセフの奴め、シカゴに戻ったら殺してやる」
私は首を振る。
そんな理由で泣いたりしない。
「……あの人に拾われなかったら、私と弟は餓死するか身売りするしかなかった。 戦争で孤児になって、親戚も誰にも引き取ってもらえなかったから。
ジョセフのおかげで弟は、学校を出て就職できた。私1人じゃ無理だった。だから感謝してる」
「そうか……。弟はいくつだ?」
「4つ下、19才」
「俺と同じ年だ」
「え?!」
「老けてるって言いたいのか? お互い様だぞ」
「そうね」
永遠は笑って、ナプキンの端を指で折る。
「ねえ、ヤン」
「俺はヨウだ。ヤンじゃない」
「ヨウ? もしかして太陽の陽?」
「さあ、知らない。漢字はあまり詳しくないし」
「だったら、なぜ日本に行きたいの?」
「思い出したいんだ、早く」
「記憶がまだ戻らないのに、私を連れてきたの? どうして?」
「頭から離れない、四六時中あんた……ヨンのことが。自分でも、どうかしてるってわかってる。
でも、どうにもならない。 会いたくてたまらなくなるんだ。離れたくない」
私はテーブル越しに彼の手をギュッと握った。
指先の熱が、言葉よりも正確に伝わる。
「嬉しい」
微笑むとヨウは目をそらし、耳まで赤くなる。
窓の向こう、海がゆっくり呼吸をして、次の波へと入れ替わった。
飛行機の扉を開けた瞬間、日本の山の空気が肌に触れた。どこか懐かしい匂い。
私は思いっきり背伸びをして、空に向かって腕を伸ばす。
「ああ、お尻が痛い……ねえ、あなたは平気?」
振り返ると、ヨウが倒れていた。
まるで糸が切れたみたいに、地面に崩れ落ちている。
「ヨウ!」
私は慌てて駆け寄り、彼の額に手を当てた。
──熱い。信じられないくらい熱い。指先が焼けるようだった。
「すごい熱! 大変……!」
焚き木の火が揺れている。
赤い光がヨウの顔を照らし、彼の額には濡らした白い布──私のウェディングドレスを破いて作ったもの。
彼はひどく呻いていた。息が荒くて、時々喉の奥で何かが引っかかるような音がする。
「ヨウ! ヨウ! しっかりして!」
「ああっ……ヨン……モルヒネ持ってきてくれ。運転席の下にある」
「モルヒネ?!」
「いいから、早く……」
私は彼の顔を見つめた。
目がうつろで、痛みに耐えているのがわかる。
だけど、私は首を振って、そっと彼にキスをした。
唇が触れた瞬間、彼の体から力が抜けていくのがわかった。
「そんなもの打ったら余計悪化するし、中毒になってしまう。私が今から山を降りて、医者を連れてくるから待ってて」
立ち上がろうとすると、彼が私の手を掴んだ。
「明るくなってからにしろ」
「でも、少しでも早く行った方が……」
「自分より先に死なせたくないんだ、どうしても。死ぬ時は、一緒に死のう」
その言葉に、私は何も言えなくなった。
胸がぎゅっと締め付けられて、涙が出そうだった。
「……わかった」
私は彼の手を握り返し、焚き木に薪を足した。
火がぱちぱちと音を立てて、夜の静けさを少しだけ和らげてくれた。
空が赤から紫に変わり、やがて月が顔を出した。
俺は地面に横たわったまま、動けずにいた。
痛みは波のように繰り返し襲ってきて、意識が何度も遠のいた。
飛行機が視界の端に見える。
何度も、何度も見てしまう。
──あれに乗って、空を飛んだ。
彼女を抱えて。あの瞬間だけは、確かに生きていた。
限界が来た時、草を踏む音が聞こえた。
動物か? 俺は懐に手をやり、身構える。
──馬だった。
馬に乗って、永遠が戻ってきた。
隣には日本人の医者。
「いやあ、これはひどい。よく生きてるな」
医者が俺の容態を確認する。
指先が冷たくて、でも丁寧だった。
「馬に乗せて運びましょう」
日本語で永遠が言う。
親が日本人だから、多少の日本語はわかる。
「だめだ、動かさない方がいい」
「ここに、ずっと置いておけっていうの?」
「化膿止めと鎮痛剤は持ってきた。応急処置するから、1週間このまま安静にして。その後、診療所まで運ぶ。
幸い、今は夏だから凍死することはない」
「獣が出てきたら、どうするの?」
「火を焚き続けてれば寄って来ない。この辺は熊もいないから安心して」
医者の言葉に、永遠が少しだけ安堵の表情を浮かべる。
俺はその顔を見て、ほんの少しだけ痛みが遠のいた気がした。
月の光が彼女の黒髪を照らし、焚き木の火がその影を揺らしていた。
彼の頭を膝にのせると、体温が布越しに伝わってきて、私の呼吸は自然とゆっくりになった。
カルピスの瓶は泉の水で冷やしておいたから、口に運ぶと、白い甘さが彼の喉をすべっていく。
頬の赤みはまだ引ききらないけれど、目の光は3日前の往診よりも、ずっと安定していた。
私は瓶を両手で支えながら、彼の髪の根元を指先で整える。
「そろそろ買い出しに行かないと」
そう言うと、彼は私の手をぎゅっと握った。
切なそうな目──離れたくない、その気持ちが伝わってくる。
「随分、甘えん坊さんになっちゃったのね」
私は笑って、膝に乗る重さを少し直す。
彼の髪に指を通し、耳の後ろの汗を拭う。
「日本に映画はあるか?」
「あるに決まってるじゃない。未開の地だとでも思ってるの?」
「そうか。良くなったら、観に行こう。映画は面白い。俺はフィリックスが好きだ」
「だったら今度、暇なときシャツに刺繍してあげる」
「そんなの恥ずかしくて着られないじゃないか」
「なら、ハンカチにしましょう」
「いいな。映画観て、食事して、ダンスホールで踊って、ドライブしよう」
「素敵」
私は彼の髪を撫で、額に落ちた前髪をすくうように後ろへ払った。
泉の光がきらめいて、木漏れ日の斑点が彼の頬に落ちる。
泉のほとりで、私は彼の体を洗った。布で汗と土を拭い、泉の水を絞って、首筋から肩、腕へと丁寧に撫でる。
髭はかなり伸びていて、その無骨さが、妙に安心になる。
体の傷の色は薄くなり、顔色もいくらか戻ってきた。
「こんなに愛されたことない、大切にされたことも……。一生かけて返していくから」
「私は、あなたの近くにいられるだけで幸せ」
「今プロポーズしたんだぞ。鈍いな。答えはYESだろ?」
「もうヤクザは、まっぴら」
「ああ、今度はちゃんと堅気になるから」
「あなたは強い。だからその力を、人を傷つけるためじゃなくて守るために使って」
「わかった。約束する」
私は濡れた布を絞って、彼の掌に重ねた。
泉の音が小さく続き、風が草を撫でる。
彼の指が私の指を包み、その握りは、未来のための練習みたいに、優しく確かだった。
泉のほとりに、風がそっと吹いた。草が揺れ、木々がざわめく。
私はボロボロになったウェディングドレスの裾を引きずりながら、泉へと歩いていった。ドレスはもう真っ白じゃない。泥と草の染みがあちこちに広がっていて、レースの縁もほつれている。
でも、今日はこれがいいと思った。これでいいと思った。
頭には、自分で編んだ花かんむり。泉のそばで摘んだ野の花を、レースのハンカチに包んで髪に結んだ。
手には、同じ花で束ねた小さなブーケ。香りは控えめで、でも確かに生きていた。
ヨウは、泉の岩陰で横になっていた。私の姿を見て、驚いたように目を見開く。
そして、慌てて布団代わりにしていたジャケットを手に取り、とっさに裏返して羽織った。
裏地は白く、まるで即席の礼服みたいだった。
私は彼の隣にしゃがみ込み、目を見つめた。
彼も私を見返して、何も言わずに頷いた。
「私は、あなたを夫として迎えます。
病めるときも、健やかなるときも、あなたのそばにいます」
彼は、花で編んだ指輪を私の薬指にはめてくれた。
私も、彼の指にそっと花の輪を通す。
そして、唇が重なった。
風が止まり、月光だけが私たちを祝福していた。
白い建物の外に出ると、陽射しがまぶしかった。
私は思わず目を細めて、隣に立つ彼の顔を見上げた。
頬の色も歩き方も、もうあの山の中の彼じゃない。ちゃんと生きて、戻ってきた。
「よかったね、元気になって」
「ああ、これからはバリバリ働いて、ジョセフより金持ちになってやるよ」
私は吹き出して笑った。
彼は本気の顔をしていたけれど、それがまたおかしくて。
「本気だって」
「普通でいいよ」
「ドレス好きなんだろ? いっぱい買ってやるよ」
「私はドレスより、あなたが好きなの。ちょっとでも一緒に居たい」
彼は照れたように鼻をこすり、私の手を握った。
病院の前の道に、風が吹いていた。
白衣の人たちが行き交う中、私たちはただ、未来の話をしていた。
実家の玄関の引き戸を開けると、懐かしい木の匂いが鼻をくすぐった。
畳の匂い、味噌の匂い、そして少しだけ埃っぽい空気。
私は靴を脱ぎながら、声を張った。
「ただいまー!」
奥から足音がして、遼が顔を出した。
少し背が伸びて、声も低くなっていたけれど、あの頃と変わらない優しい目をしていた。
「おかえり、姉さん」
「こちらが、夫のヨウ・アオバ。手紙で伝えた通りよ。
──弟の遼」
遼が前に出て、軽く頭を下げる。
「こんにちわ」
ヨウも、少し緊張した顔で言った。
「よろしく」
たどたどしい日本語で、ぺこりと頭を下げる彼の姿に、私は思わず笑ってしまった。
遼も、ふっと笑って頷いた。
玄関の外では、紅葉を宿した木々が鳴っていた。
畳の感触が懐かしくて、私はそっと座布団に腰を下ろした。
ヨウもぎこちなく正座を真似て、膝をつく。
彼の視線が、部屋の隅々を泳いでいるのがわかる。
「お茶淹れて来るよ」
遼が立ち上がり、台所へ向かった。
「日本家屋は初めて?」
「ああ。ここで育ったのか?」
「そう。あそこに背を測った印があるの」
私は柱を指差した。鉛筆で刻まれた線が、いくつも重なっている。
そのとき、複数の足音が廊下を踏み鳴らした。
振り返ると、遼の後ろにジョセフと見慣れた使用人たちが立っていた。
「ジョセフ……どうして?」
遼が私の前に立ちはだかるようにして言った。
「姉さんをマフィアなんかに、嫁がせるわけないだろ! 拉致されて、すぐ大使館を通して連絡があったよ。
手紙を見た時は腰を抜かした。目を覚ませよ、そいつは犯罪者だ」
「そうだ、バカめ。今すぐアメリカに戻るぞ」
ジョセフの声は冷たく、命令のようだった。
「待って! もう、この人は堅気になるって約束したの。お願い、認めて」
「認められるわけないだろ!」
遼の声が震えていた。
「お前は、俺が金で買ったんだ。俺のものだ」
ジョセフが私の腕を掴もうとした、その瞬間だった。
ヨウが立ち上がり、懐から何かを取り出した。
銃声が響いた。空気が裂け、時間が止まったように感じた。
銃声は、畳に落ちる雨粒のように次々と響いた。
弾が当たった音、倒れる人の体が畳を打つ音。
私は目の前でジョセフと使用人たちが崩れるのを見た。
ヨウは私の手を掴み、引っ張るようにして出口へと走った。
心臓が耳の奥で鳴る。
逃げる、という行為がこんなにも震えるものだとは知らなかった。
外へ出ようとした瞬間、這って追ってきたジョセフの影が見えた。
彼の手が床を這い、唸り声が漏れる。
私は振り返る余裕もなく、ヨウの腕を引いた。
だが、背後から冷たい衝撃が走った。
──ヨウが倒れた。
彼の体が私の前で崩れ落ち、膝をついて彼の頭を支えた。
額に広がる温度が、すぐに冷たくなるのを感じた。
彼の目は半開きで、言葉を絞り出すように震えた。
「え、映画……映画に……」
私は必死で理解しようとした。
彼の唇が動き、かすかな声が夜に溶ける。
「わかってる! 行こう! 行くまで、死んじゃダメ!」
彼はかすかに笑ったように見えた。
次に出た言葉は、私たちだけの合言葉のように、静かに私の胸に落ちた。
「ヨン……ウォーアイニー」
それが最後だった。
彼の体から力が抜け、瞳が閉じる。
私の手の中で、彼はもう動かなかった。
「ヨウ! ヨウ! 嘘でしょ?! またなの?! どうして……」
叫びが喉を裂いた。
信じられない、という言葉はもう足りない。
私はヨウの持っていた銃を掴み、震える指で引き金を引いた。
ジョセフが倒れる音がして、時間がまた少しだけ戻ったように思えた。
だが、戻るはずのないものは戻らない。
胸の中に冷たい空洞が広がる。
怒りと悲しみと、どうしようもない喪失感が渦巻いた。
銃を自分のこめかみに当てた。
そして引き金をひくと暗闇が、すっと落ちてきた。
♪Endless sorrow by浜崎あゆみ



