運命の人 ~何度、生まれ変わっても~ 【全年齢版】





 お互いを知るための

 お喋りが終わったら

 朝が来るのを一緒に待ちたい

 いつまでも寄り添って



 私は、ステージで歌っていた。
 黒い絹のドレスが肌に吸い付き、深く切れ込んだスリットから脚が覗く。
 清(中国)では、まだ珍しい欧風のナイトクラブ。
 けれど、ここでは何もかもが許される。
 煙草の煙、洋酒の香り、男たちの視線──そのすべてを、私はステージの上で受け止めていた。

 カーボンマイクの前に立ち、私はゆっくりと唇を寄せる。
 音は少しだけざらついて、でもそのノイズさえも、私の声に艶を与えてくれる。
 ピアノが静かに入り、コントラバスが低く唸る。
 私は目を伏せ、歌い出した。

 ──愛してはいけない人を、愛してしまった女の歌。

 客席は満席。
 軍服の男、洋装の商人、黒いスーツの影。
 誰もがグラスを傾け、私の声に酔っていた。
 けれど、私は誰の視線も受け入れていなかった。
 ただひとつ、奥の席に座る男の目を除いて。

 ──際立って、美しい男だった。
 黒髪は艶やかに撫でつけられ、額にかかる一筋が無造作で計算されたように見える。
 切れ長の瞳は、光を吸い込むように深く、睫毛の影が頬に落ちるたび、空気が揺れる。
 青いシャツの襟元はわずかに開き、喉元の筋が、言葉より雄弁に男の熱を語っていた。
 暗い店内でハッキリしないが年は30くらいだろう。
 やたら色気がある──指先はグラスに触れていない。ただ、私を見つめていた。


 1曲が終わり、拍手が起こる。
 次の曲が始まった瞬間、空気が変わった。
 軽快なポップス。
 客たちの顔が曇り、ざわめきが広がる。

「なんだこの曲は」
「色気が台無しだ」

 ブーイングが飛び交い、私は一瞬、マイクの前で立ち尽くした。
 そのとき──

 パン、パン。

 乾いた音が場内に響いた。
 奥の席の男──ハンサムな彼が、テーブルを叩いたのだ。
 空気が凍りつく。

「なんだ、若造が生意気な!」

 数人の男たちが立ち上がる。
 彼はゆっくりと立ち上がり、無言で腕まくりをした。
 その動きに、場内の空気が一気に張り詰める。

 私は、咄嗟にマイクを外し、アカペラで歌い出した。
 ピアノもベースもない。
 ただ、私の声だけが空間を満たす。

 男たちの怒気が、少しずつほどけていくのがわかった。
 私は歌いながら、彼の黒い瞳を見た。
 彼もまた、私を見ていた──まるで、何かを確かめるように。



 鏡台の灯りは黄ばんだ色をしている。
 粉を直し、指で赤を足す。
 ステージで使う黒絹の衣装はまだ体温を含んでいて、肩のラインに夜の熱が残っている。
 私は息を整え、頬骨にハイライトを滑らせた。

 背後の空気が重く沈み、ドアが開いた。
 サースンだ。
 ──この中年男は、香の匂いと銃油の匂いを混ぜたような息を持っている。

「洋香飯店に予約を入れた」

「今日は、支配人と打ち合わせだって言ったじゃない」

 言い終えるより早く、髪が掴まれて世界が反転した。
 鏡台の角が視界を横切り、床の硬さが背に食い込む。
 馬乗りになられ、頬に鋭い音が落ちた。
 皮膚が焼けるように熱くなり、片目の視界が霞む。

「お前は、俺の宝飾品だ! 俺の言うことを黙って聞け!」

 ここで泣く女は次の夜、もっと強く叩かれる。
 サースンが去ると、部屋の匂いだけが残った。

 鏡の中で、紅が少し歪んだ。
 指で整え、冷たい水で頬を叩き、髪をまとめ直す。

 息を吸って、裏口へ出る。
 夜の空気は海のように冷たく、私の頬をなだめた。

 待機していた人力車の車夫が、合図をする。
 私は足をかけたところで、背に柔らかい声が落ちる。

「落としましたよ」

 振り返ると、白いハンカチ。
 差し出す手の指は長く、無駄がない。

「ああ、ありが──あなた、さっき客席にいたわ」

 受け取って、顔をまじまじと見る。
 何もかも美しい。
 特に黒目が綺麗だ。品のある鋭さ。舞台の上から見たときと同じ、値踏みのない視線。

「これは、これは。歌姫に会えるとは。こんな幸運あっていいのかな」

「あなたが怒ってくれて嬉しかった。
 でも、喧嘩はやめてちょうだい。酒場の喧嘩は、命とりよ」

「ご忠告承りました。これ、僕は、青葉 陽(アオバヨウ)」

 名刺。紙の匂い。
 新聞記者と書かれた活字が、薄灯りの下で落ち着いた黒をしている。

「え? 日本人?」

「そう。日本人は嫌い?」

「いえ、私は……けど、この国は」

 戦争の残り火は街の石畳に、まだ熱を持っている。

「わかってるよ。素直なお嬢さん。
 じゃ、また近いうちに会いに行くから。
 それとも、家まで送った方がいいのかな。もう暗いし」

「1人で帰れるわ。さよなら」

 人力車へ身体を向けたとき、顎に彼の指がそっと触れた。
 グッと、上向かされる。
 私は反射的に身を引く。

「何のつもり? 会ったばかりで──」

「怪我してる……暗いから口紅が、はみ出しているのかと思ったけど……」

 彼の目が近い。光をよく拾う瞳だ。
 私はほんの一瞬、嘘を選ぶ。

「……何でもないわ。ぶつけたの」

「こんなところ、ぶつけないだろ」

「放っておいて」

 手を払う。
 彼の指は抵抗に合わせて簡単に離れた。
 しつこさよりも、間合いの上手さが怖い。

「待ってくれ!」

「何なの、しつこい」

「名前、教えて」

「雪 永遠(シュェ ヨン ユェン)ヨンよ」

「わかった、ヨン。
 今夜は会えて、幸せだった。気を付けて帰って」

「さよなら、ヤン」

 彼の名を中国語の読みにすると、目尻がわずかに緩んだ。


 私は人力車に乗り、夜の街を滑っていく。
 頬の痛みが脈打ち、名刺の紙が掌にぴたりと貼り付く。
 風が髪を撫で、どこかで蓄音機の音が滲んだ。


 夜の自室は、静かだった。
 窓の外では風が竹を揺らし、遠くで犬が一声だけ吠えた。
 私はドレッサーの前に座り、髪をほどきながらバッグの中を探る。
 指先に柔らかな布が触れた。
 あの男──青葉 陽から返されたハンカチ。

 取り出して、洗濯カゴに入れようとして、ふと手が止まった。
 この手触り、縁のステッチ、香り。どう見ても男物。
 ──私が落としたのは、これじゃない。

 バッグを探ると底からもう1枚、薄いレースの縁取りが施されたハンカチが出てきた。
 こちらが私のもの。
 つまり、彼は自分のハンカチを、わざと渡してきたのだ。



 ナイトクラブのステージに立つと、私は別人になる。
 照明が落ち、音楽が始まる。
 歌いながら、私は客席を流し見る。
 その中に、いた。青葉 陽。
 彼の隣には、レイモン──私の"飼い主"サースンと並ぶ上海の影の王。
 陽は何も言わず、ただ私を見ていた。
 目が合った瞬間、胸の奥がひとつ跳ねた。
 私は視線を逸らして、歌い続けた。


 控室に戻ると、花と小さな封筒が置かれていた。
 白い蘭の香りが、部屋の空気を変える。
 封を切ると、短いメッセージ。

「1曲目が良かったよ。この前の……明るい曲も、個人的には好みだ」

 思わず、フフッと笑ってしまった。
 あの夜のブーイングと、彼の怒りが蘇る。
 けれど、革靴の音が近づいてきて、私は慌ててメッセージを鏡台の引き出しに滑り込ませた。

 ドアが開き、サースンが現れる。
 目が鋭く、空気が一気に冷える。

「何している」

「何も……食事に行きましょう。着替えるから店の表で待ってて」


 裏口のドアの隙間から、そっと外を覗く。
 サースンの姿はない。
 素直に表で待ってるようだ。
 私は息を殺し、ドアノブに手をかけた。
 夜の空気が、自由の匂いを運んでくる。
 私は、ヒールの音を忍ばせながら、闇へと滑り出た。

 夜の裏口は、表の喧騒とは別の顔をしていた。
 ネオンの光が届かないその一角に、陽が静かに立っていた。
 煙草も吸わず、ただ夜の匂いを纏って、私を待っていた。

「やあ」

 声は柔らかく、けれど芯がある。
 私はため息をついて、歩み寄った。

「やっぱり待ってると思った」

「出待ちファンだとバレたね」

「ええ、この布は趣味じゃないもの」

 バッグから男物のハンカチを取り出して、彼に返す。
 指先が触れた瞬間、少しだけ鼓動が跳ねた。

「なかなか粋な出会い方だろ」

「嘘つきっていうのよ、それ」

「君と話したかったんだ」

 その言葉に、私は一瞬だけ目を伏せた。
 彼の目はまっすぐで、危ういほど優しかった。

「私とは、関わらない方がいい。十割、後悔する」

「この間の怪我と関係ある?」

「……お花ありがとう。もう行かなくちゃ」

「待って、まだ行かないでくれよ」

「先約があるの」

「こんな時間に?」

 言葉に詰まり、私は俯いた。
 その瞬間、空気が変わった。

 近くで見張っていたサースンの部下が、私に気づいて近づいてくる。
 陽の肩に手を置いた、刹那──

「おい──」

 振り向きざま、陽が拳を振るった。
 部下は声もなく倒れ、私は短く悲鳴を上げた。

「な、なんてことするの? その人は有名なマフィアの部下なのよ。
 こんなこと知られたら、どんな目に遭うか?!」

「逃げよう」

 陽が私の手を掴む。
 その手は強くて、温かくて、でも無謀だった。

「だめ、無理。私が何とかするから、あなただけ逃げて」

「そんなわけにはいかない。
 女に手を上げるような奴のところへは、置いていけない。
 嫌だと言っても無理やり連れて行く」

 そう言って、私を抱きかかえた。
 私は驚きながらも、彼の腕の中で息を整えた。

「わかった、自分で歩けるわ」

 そのとき、背後から声が飛んだ。

「こっちで悲鳴がしたぞ」
「ヨンが控室にいない」

 陽と顔を見合わせ、私たちは同時に走り出した。
 夜の路地に、追手の影が伸びていた。
 靴音が石畳を叩き、私の心臓も同じリズムで鳴っていた。
 逃げる先に何があるかなんて、今は考えられなかった。
 ただ、彼の手を離さないように──それだけを、私は選んだ。



 貨物船の腹は、鉄と油の匂いで満ちていた。
 木箱の隙間に身を潜め、私は膝を抱えて座っていた。
 船の揺れが背骨に伝わるたび、遠ざかる街の灯りが脳裏にちらつく。
 陽は隣で黙っていた。
 その肩がわずかに震えているのに気づいて、私はそっと声をかけた。

「震えてるの? サースンなら日本まで追って来ない」

「サースンが怖いんじゃない」

 陽は笑った。
 けれどその声は、どこか熱を帯びていた。

「つい、この間まで遠くで見つめるしかなかった君が、今は隣にいるっていうのが信じられないんだよ」

 私は、ため息をついた。

「あなたは私のこと何も知らないし、私もあなたのこと何も知らない。それなのに、こんな……」

「これから1つずつ知っていけばいい。時間はいくらでもある。
 大丈夫。君がもし稀代の悪女だとわかっても、俺は君を海に放り投げたりはしない」

 私は思わず笑ってしまった。
 こんな場所で、こんな言葉を聞くなんて。

「あなたが例えどんな人でも、今の私には、あなたしか頼る相手がいない」

「家族は?」

「孤児よ」

「ごめん」

「いいえ、いいの。修道院にいたの」

「へえ、キリスト信仰なんだ」

「そんなんじゃない、神なんかいない。
孤児院との繋がりで、そこしか行くところがなかっただけ。
 いい生活じゃなかったわ。ろくに手回り品すら買えなかった。

 後ろ盾のない人間には、何をしていいと思ってる輩もいるし、逆に迷惑かける家族がいなければ捕まってもいいと思う輩もいるし。
 同じ穴の狢なのかな……わからない。
 ある日、皆いなくなった」

「いなくなった? 修道院が潰れたってこと?」

「全員、殺された」

 陽の顔が凍りついた。

「まさか……」

「サースンがやったの。私を連れ出すために。どこかで見かけて、目を付けたみたい」

「美しさ自体は罪じゃないが、罪を生む。
 なるほど。それで君は、奴から逃げられないと思ってたわけか。
 随分、怖い思いをしたね。もう大丈夫」

 彼の手が、私の手をそっと包んだ。
 温かくて、強かった。

「あなたって……不安になったりしないの?」

「新聞記者は、度胸が命なんだ。戦争も経験したしね」

「ええ……そうね。今度は、あなたのことを教えて」

 船が大きく揺れた。けれど、私の心は少しだけ静かだった。
 やけに馴染むこの手を、もう離したくないと思った。


 ♪Far Away by浜崎あゆみ


 朝の光はまだ柔らかく、畳の目に沿って細い筋を描いていた。
 私は膝を折り、運んできた膳を置くと、陽が箸を取るのを見つめた。
 揃いの浴衣が目に眩しい。
 彼の所作はいつも通り静かで、箸先に乗った卵焼きを口に運ぶたびに、美しい顔の筋が緩む。

「随分、上達したね。最初の頃に食べた肉団子が懐かしい」

 その言葉に、私は小さく笑った。
 胸の奥がふわりと温かくなる。
 彼は私の手元を見ているのではなく、私を見ているのだとわかるとき、世界は少しだけ安定する。

「今は、お味噌汁も作れるようになった」

「日本語もうまくなった」

 夫になった陽の褒め言葉はいつも簡潔で、でも重みがある。
 私は箸を置き、少しだけ背筋を伸ばした。

「仕事した方がいいかしら?」

「まさか。家にいてくれ。心配だから。なるべく外に出ないで」

 その言葉に、私は胸の奥が締めつけられるのを感じた。
 外の世界はまだ私にとって危うく、彼の望みは私を守ろうとする優しさだと知っている。
 言葉にはしなかったが、彼の視線の温度を受け止めながら、私は静かに頷いた。

 洋装に着替えた陽が出かける時間になると、私は自然に彼に近づき抱きしめた。
 彼の肩に顔を埋めると、彼の鼓動が伝わってくる。
 短い時間の中に、言葉より確かなものがある。

「いってらっしゃい」

「うん。行ってくる」

 彼が出て行くと、玄関の空気が一瞬だけ広がった。
 靴音が遠ざかると、私はふと足元に落ちている封筒に気づいた。
 ──忘れ物らしい。
 拾い上げて封を切ると、中身を見て首をかしげた。
 文字が並んでいるのは、わかる。けれど、その意味を読み取ることはできない。
 日本語がまだ私のものになっていないのだと、改めて思い知らされた。



 新聞社の玄関は、朝の光と人々の足音で満ちていた。
 受付の女性が私を見て、封筒を受け取ろうとする。

「青葉 陽? ですか? 青葉なら、すでに──」

 言いかけたところへ、上司らしき人物が近づいてきた。
 彼の声は低く、職場の空気を一瞬で変える。

「どうした? 青葉がなんだって?」

「奥様だそうです。忘れ物を届けに来たと」

 上司は封筒を受け取り、軽く頭を下げる。
 彼の言葉は丁寧だが、どこか好奇心を含んでいた。

「忘れ物? ……ああ、そうですか。わざわざすみませんね。
 青葉は、今ちょうどその書類を取りに戻ったところです。行き違いになるといけません。お預かりしましょう。
 いやあ、青葉の奥様がこんなに美人だとは知らなかった。お子さんは、今どちらに?」

「子供は、まだいませんが」

 私が首を傾げると上司は少し間を置いてから、気まずそうに笑った。
 私はその笑顔を見て、ここが私の知らない世界であることを改めて感じた。



 陽の動きが荒い。
 畳の上に置かれた書類の束をめくり、引き出しを開け、机の下を覗き込む。
 焦りが空気を震わせていた。
 私は自宅玄関を開けて戻ると、その様子に眉をひそめた。

「ちょうど良かったわ」

 私が声をかけると、陽がこちらを振り返る。
 額に汗がにじんでいた。

「ここにあった書類、知らないか」

「知ってる。さっき、会社へ届けたところよ」

「会社? 新聞社に行ったのか?」

「ええ。あなたの上司に渡したわ。
 あなたは今、その書類を取りに戻ったところだって言ってたから」

 陽の顔が一瞬で強張った。
 目の奥に、見たことのない色が走る。

「植木か……なんてことだ……よりによって新聞社に……」

「どういうこと?」

 私の問いに、陽は一瞬だけ口を閉ざし、それから低い声で言った。

「ヨン、清へ戻るぞ。すぐ支度するんだ」

「清へ? そんな、まさか……」

「いいから、早くしろ!」

 彼の声は鋭く、命令のようだった。
 私は息を呑み、何も言えずに頷いた。
 夫の目が、ただ事ではないことを物語っていた。



 潮の匂いと錆びた鉄の香りが入り混じる、小さな小屋。
 壁には古びた地図が貼られ、隅には使い古された木箱が積まれている。
 目つきの鋭い老人が、煙草をくゆらせながら椅子に腰掛けていた。

 陽が私の手を引いて入っていく。

「清まで2人。頼む」

 老人は煙を吐き出しながら、ゆっくりと首を振った。

「今は無理だ」

「急ぐんだ」

「義和団の件で、出国停止喰らってる。どこへ行っても、今は船は出せない」

 陽の拳が震えた。唇を噛み、低く唸るように言葉を吐く。

「くそっ……」

 私はその背中を見つめながら、胸の奥に冷たい波が広がるのを感じていた。
 逃げ場のない夜が、また始まろうとしていた。



 馬が泉の縁で水を飲んでいた。
 月の光が水面に揺れ、木々の影が静かに踊っている。
 私は泉の中で肌を清めていた。
 夜の水は、昼よりも深く、静かで、何もかもを洗い流してくれる気がした。

 背後の気配に気づいたとき、私は振り返らなかった。
 陽の足音は、私の胸の奥に届くほど馴染んでいた。

 彼がそっと背中に腕を回す。
 水の中で抱きしめられると、心臓の音が水面に響くようだった。

「君に嫌われたくなかったんだ」

 彼の声は、泉の温度よりもずっと低く掠れていた。
 赦しを求めていた。

「毎日、仕事に行くふりして、どこへ行ってたの」

「仕事さ」

「何の?」

「言えない。君のためにも。元々は本当に新聞記者だったんだよ」

 私は目を伏せた。
 彼の言葉は真実かもしれない。
 でも、真実だけでは足りないこともある。

「あなたとサースンは、何が違うの」

「君の目には、どう映ってる?」

「……同じよ。酷い人たち。ただ……」

「『ただ』なに?」

 私は息を吸い、彼の腕の中で言葉を探した。

「私は、もうあなたを愛してる。ウォーアイニー」

 その言葉を口にした瞬間、泉の水が少しだけ温かくなった気がした。
 彼の腕が強くなり、私の胸に彼の鼓動が重なる。

「俺も愛してる。この先、何があっても信じてくれ。この気持ちに偽りはない」

 私は頷くと、唇と唇が合わさった。
 信じることは怖い。
 でも、今は彼の声が、私の世界のすべてだった。

 その時──遠くで馬が嘶いた。

「服着て、すぐに」

 彼の声が現実に引き戻す。
 私は泉から上がり、濡れた髪を絞りながら、夜の空気を吸い込んだ。


 ♪A Song for XX by浜崎あゆみ


 陽と並んで歩く市場は、石畳の隙間から草が顔を出していた。
 人の声、屋台の湯気、果物の香り。
 久しぶりに「日常」の匂いがした。
 道行く人が、夫の整った顔に見惚れるのを感じて、少し誇らしい気分になる。

「ヨン、宿についたら倒れるくらい食べるんだぞ。3日も野宿させちまったからな」

「桃饅頭が食べたい」

「日本の宿に桃饅頭はないよ。代わりにどこかで、おはぎでも買って──」

 そのとき、陽が私の前に手を伸ばし、歩みを止めた。
 彼の目が、何かを捉えている。

「どうしたの? 宿までもうすぐじゃない」

「見張りがいる。あいつら、日本中の宿を虱潰しに探す気だ」

 彼の声が低くなる。
 私は思わず周囲を見渡した。
 確かに、道の端に立つ男たちの視線が、私たちをなぞっていた。

「仕方ない。隣の県まで行けば、親戚の家がある。そこまで行こう。そこなら奴らが知らない」

 陽が引き返そうとした瞬間、反対側の通りにも、ガラの悪い男たちがうろついているのが見えた。
 私の心臓が跳ねる。

「やっぱり人の多いところへ来たのは、間違いだった。こっちだ」

 陽は私の手を取り、左手の小道へと滑り込む。
 狭く、薄暗い路地。
 洗濯物が頭上を横切り、猫が驚いて飛び退いた。

 私たちは息を潜め、足音を殺して進んだ。けれど──

「いたぞー! こっちだ!」

 追手の声が、背後から響いた。
 私は思わず振り返る。
 男たちの影が、路地の入口に現れていた。

「走れ!」

 陽の声に、私は反射的に駆け出した。
 手を繋いだまま、石畳を蹴る。
 足が痛い。
 けれど、止まるわけにはいかない。

「こっちだ、ヨン!」

 陽が角を曲がる。
 私は彼の背中を追い、風を切る。
 市場の喧騒が遠ざかり、代わりに怒号と足音が迫ってくる。

 このままでは、また捕まる。
 あの夜に戻ってしまう。
 私は唇を噛み、陽の手を強く握った。

 ──お願い、離さないで。


 塀の向こうに、逃げ道がある。
 けれど、そこへ辿り着く前に、私たちは囲まれていた。
 ──4人。追手の目は、獣のように光っていた。

 陽が私の前に立ち、両手をゆっくりと上げる。

「真似して」

 小さな声が、私の耳に落ちる。
 私は彼の背中を見つめながら、同じように両手を上げた。

 風が止まり、時間が張り詰める。
 追手たちが、じりじりと間合いを詰めてくる。
 足音が、石畳に乾いた音を刻む。

 ──その時だった。

 陽の足が、小さな石を蹴り上げた。
 石は弧を描いて、追手の一人の顔面に当たる。
 短い悲鳴と共に、空気が一瞬だけ揺らいだ。

 その隙に、陽が走り出す。
 塀を蹴って、軽やかに跳ね上がる。
 私は思わず手を伸ばした。

「陽!」

 けれど、彼は振り返らなかった。
 塀の向こうへ、影が消える。

「逃げたぞ! 追え!」

 追手たちが一斉に動き出す。
 私はその場に取り残された。
 足が動かない。
 心臓が、胸の奥で何かを叫んでいた。



 薄暗く、空気が重い。
 埃と油の匂いが混ざり、喉の奥にまとわりつく。
 私は腕を掴まれたまま、薄暗い小屋の中へ引きずられていた。
 周囲には見慣れない顔。
 日本語と中国語が飛び交う。
 ただ、視線と笑い声の温度で、私がどう見られているかは理解できた。

「約束通り女は連れてきた。取引を再開してくれ」

 ヤクザの1人が、私の背を押す。
 私はよろめきながら、サースンの前へと進んだ。
 ……清(中国)へ戻ってしまった。
 そして夜王の目は、これまでと同じだった。
 私を所有物として見ている。
 逃げても、逃げても、そこに戻される。

「待った。ブツを女に持たせろ」

 荷物が手渡される。重い。中身はわからない。
 でも、これはただの運搬ではないと、肌が告げていた。

 私は荷物を抱えたまま、サースンの前に立つ。
 次の瞬間、頬に焼けるような痛みが走った。
 視界が揺れ、地面が近づく。

「このバカ女!!」

 私は倒れ込み、手から荷物が転がり落ちた。
 木と土の匂いが鼻を刺す。

 ──その直後だった。

 背後で、風が切れる音。金属の擦れる音。叫び声。銃声。

 私は顔を上げた。
 サースンの背後から、彼の部下たちが現れ、武器を手にヤクザたちへ襲いかかっていた。

 一瞬で、空気が血の匂いに変わる。
 私は動けなかった。
 ただ、地面に伏せたまま、目の前で繰り広げられる惨劇に耳を塞いだ。



 鍵を回す手が震えていた。
 扉が開くと、夜の空気が背中から押し寄せてきて、私はようやく息を吐いた。
 足を引きずりながら中へ入り、靴を脱ぐ余裕もなく、久しぶりのベッドの上に崩れ落ちる。

 傷だらけの身体が、ようやく自分の匂いを取り戻す。
 血と埃と、見えない恐怖の残り香。
 私は這うようにして棚へ向かい、引き出しを開けた。

 陽の名刺が、そこにあった。
 白い紙に、落ち着いた黒の活字。
 私はそれを手に取り、しばらく見つめたあと、ゴミ箱に放り込んだ。

 けれど、数秒後にはもう、手が勝手に動いていた。
 ゴミ箱の中から名刺を拾い上げ、埃を払う。
 裏返すと、そこに文字があった。

「何かあれば、ここを頼れ」

 住所が書かれていた。
 その文字は、私の中に小さな火を灯した。
 ……信じてはいけない。けれど、捨てきれない。

 私は名刺を胸元にしまい、窓辺に立った。
 月が、雲の切れ間から顔を出していた。
 あの夜、泉に映った月と、同じ光だった。


 ♪still alone by浜崎あゆみ



 店内には、バターと香辛料の匂いが漂っていた。
 赤いベルベットの椅子、床まで垂れたテーブルクロス、壁には西洋の絵画。
 ここが清であることを忘れそうになる。

 サースンとその部下2人、そして私。
 テーブルには肉料理とワインが並び、ナイフとフォークが静かに光っていた。
 私の傷はすでに癒えていたが、心の奥の痛みは、まだ熱を持っていた。

「お前は取引を有利に進めるための人質として連れて行かれたんだ、バカ女」

 サースンの声は、肉を切るナイフよりも冷たかった。

「お前を連れ去った男は、取引相手のジャパニーズマフィアだ。
 何の手違いか、取引場所示した暗号文を新聞社に渡しやがった。もう少しで役人に踏み込まれるところだった。奴らとは2度と取引しない。
 バカ男にバカ女、見渡す限りバカばかり」

 私はフォークを置いた。唇を噛み、視線を逸らす。
 そのとき、店内に女性の悲鳴が響いた。

 振り返ると、武器を持った男たちが店内になだれ込んでくる。ヤクザだ。
 サースンと部下たちが即座に立ち上がり、銃を構える。
 テーブルが倒れ、皿が割れる音が響く。

 私は反射的にテーブルの下へ潜った。
 クロスの奥、床にわずかな隙間がある。
 指先で探ると、そこには板の継ぎ目。
 力を込めて押すと、板がわずかに沈み、空間が開いた。

 ──抜け穴。
 私は迷わず身体を滑り込ませた。
 闇の中、小さな小路が続いている。
 背後では銃声が響き、誰かの怒鳴り声が混ざっていた。

 私は振り返らず暗い道を進んだ。


 抜け穴の先は、土の湿り気が薄まり、古い木の香りが強くなる。
 指先で壁を探りながら進むと、微かな明かりが滲んだ。出口。
 顔を出すと、外は真っ暗だった。

「おかしい、いつもなら見張りがいるのに真っ暗」

 身を引いて引き返そうとした瞬間、闇の向こうから声が落ちてきた。

「ヨン?」

 胸が強く跳ねる。
 忘れようとしても忘れられない声。

「……ヤン? ヤンなの?」

「1人か?」

「そう」

 手が差し出され、私はその手を掴む。
 引き上げられた身体が、陽の腕の中に収まった。
 体温が、現実を確かな線に変える。

「ごめんな、置き去りにして。でもヨンは、殺されないってわかってたから」

 胸に額を預け、私は彼の鼓動を数えた。

「どうやって、ここまで来たの?」

「義和団の鎮静部隊に志願した。で、清についてすぐ脱走した」

「あなた、もう日本に帰らない方がいい」

「俺も、そう思う。会いたかった」

「ちょっとだけ恨んだけど、来てくれたから許す」

「ありがとう」

 唇が触れ、短く、でも確かな熱が残る。
 その時、微かな物音。
 陽がすぐに私を後ろへ庇う。
 穴の中がまたうごめき、月明かりが壁の隙間から差し込む。

 光の中に、汗だくのサースンの顔が浮かんだ。
 乱れたことのない白スーツが、破れている。

「取り込み中だったみたいだな。女を返せ。そう何度も渡しはしない」

「ヨン、先に逃げろ」

「でも……」

「どこへ行けばいいか、わかってるな? そこで後で落ち合おう」

「わかった」

 私は頷き、名残を胸に押し込めて走り出した。
 背後で、木が軋む音と、重い息のぶつかる音が混ざり合う。
 振り返らない。
 約束だけを握りしめて、夜へ滑り込む。


 ヨンの足音が闇に溶けるのを聞き届け、俺は正面の中年男を見据えた。
 闇の中でも獲物の匂いを嗅ぎ分けるような目だ。
 月明かりが壁の隙間から差し込み、互いの輪郭だけが紙の切り抜きみたいに浮かぶ。

「女を返せ? お前の手には戻さない」

 言葉は短く、身体は先に動く。
 間合いを詰めると、サースンは躊躇なく踏み込んできた。
 拳が風を切り、頬に熱い線が走る。骨の重さを感じる打ち合いだ。
 ──拳、肘、肩、膝。
 狭い室内では、大きな技よりも、小さな積み重ねが効いてくる。

 サースンの呼吸は低く長い。
 殺し慣れている呼吸だ。
 俺は正面で受けて散らし、踏み込みの瞬間に胸の中心へ掌底を叩き込む。
 体勢が揺らいだ隙に、顎へ右、肋へ左。
 だが、重心の戻しが速い。
 反撃の蹴りが脇腹を捉え、肺が一瞬空になる。

 足場が悪い。
 古い床板が軋み、散らばった物の感触が靴裏を不安にする。
 月明かりが斜めに差すその線の外、黒い塊が転がっていた。
 ──さっき片付けた、奴の手下達。
 嗅覚が鉄の匂いを拾い、思考がほんの刹那、獣に戻る。

 サースンが体勢を入れ替え、右のフックで顔面を狙う。
 俺は半歩沈み、肩で受け流す。
 肘を返して喉元へ突く──が、読まれている。
 前腕で封じられ、逆に肘が頬骨を打つ。視界が瞬間白く弾ける。

 踏み替える。
 床板の鳴きが一拍遅れる。
 その一拍を使って、低く潜る。
 サースンの踏み出した足が、転がった死体の肩に乗って滑った。バランスが崩れ、体がわずかに流れる。

 そこだ。
 俺は躊躇なく距離を潰し、腰を切って体勢ごとぶつかる。
 サースンが崩れ、背中が床に落ちる。
 馬乗りになり、拳を振り下ろす──頬、鼻梁、こめかみ。打撃の音が、古い木に乾いた雨のように散る。

 反撃の腕が空を切った瞬間、喉元へ左手を差し込み、右手で頸動脈の線をつかむ。指に脈が当たる。締めれば落ちる。
 ──2度と起き上がらない程度に、確実に力を込める。
 サースンの目が、ふっと細くなる。
 抵抗の力が散っていく──はずだった。

 しかし、床が鳴った。軋みではない。低く広い音。
 古い梁が悲鳴を上げ、床板が一斉に沈む。
 重心が抜け、世界が裏返る。

 ──崩落。

 俺とサースンの身体は、同時に暗い穴へ吸い込まれた。
 月明かりが一瞬だけ線になり、次の瞬間、音と埃が喉を塞いだ。
 掴めるものを探す手は空を切り、足は踏み場を失う。

 落下の間に俺はただ一度、ヨンの名前を反芻した。




 空が少しずつ白んできていた。
 馬の手綱を家の脇の柱に結び、私はその場に座り込んだ。
 身体の芯まで疲れていて、目を閉じるとすぐに眠りに落ちそうだった。

 けれど、眠るにはまだ早い。
 陽の言葉だけを頼りに、ここまで来た。
 この場所が本当に安全なのかも、まだわからない。

 うとうとしかけたそのとき、家の中から足音が聞こえた。
 籠を抱えた女性が、戸口から姿を現す。

 小太りで、顔色は悪く、目の下に深い影がある。
 生活に疲れているのが、見ただけでわかる人だった。

「どなた?」

 私は慌てて立ち上がり、頭を下げる。

「ニーハオ。こんな時間にごめんなさい。私はヨン。ヤンに言われて来たの」

 女性は少しだけ目を細めた。
 その表情に、何かを思い出すような気配があった。

「ヤンに……そう。わかった、中へ入って」

 私は頷き、馬をもう一度確認してから、彼女の後を追った。


 家の中は質素だった。
 木の床は軋み、壁には古い布が掛けられていた。
 けれど、どこか温かい空気が流れていた。

 小さな子供が2人、座ってこちらを見ていた。
 目が大きくて、頬が丸い。
 私は思わず微笑んだ。

「可愛い。旦那さんは、どこ?」

 女性──リーは、籠を台に置きながら、私を一瞥した。

「それはこっちが聞きたいわ。あの人は、今どこにいるの?」

 私は一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
 誰のことを言っているの?

「『あの人』? あなた、ヤンのお姉さん……でしょ?」

 リーは、静かに首を振った。

「妻よ。前にも、こういうことあったの。あなたで何人目かしら。
 まあ、あの人はハンサムだし。まだ若いから仕方ないわね」

 心臓が、音を立てて止まった気がした。
 視界が少しだけ揺れる。血の気が引いていくのがわかる。
 私は、言葉を紡げずに立ち尽くした。



 客のいないナイトクラブは、暗く沈んでいた。
 照明のまだ落ちない天井から、埃だけが光る。
 私は椅子に、ふんぞり返るサースンの部下の前に立った。

「これは、これは。探す手間が省けた」

 部下──確かリョイが、大袈裟に驚いて見せた。
 芝居がかっている。
 周りに侍る見覚えある男達が、含み笑いする。

「サースンは、どこ?」

「サーなら死んだ。今は俺がボスだ」

「そう。なら、どこに行けばいい? 行くところがないの」

 男は高らかに笑い、床を指差す。

「俺が飼ってやる。ずっと自分のモノにしたかったんだ。何年憧れてたことか」

 私は身体の芯が抜けるように膝をついた。
 心は静かで、世界だけがざらついている。

 次の瞬間、空気が裂けた。
 銃弾の音が室内を走り、男たちの叫びが重なる。
 照明が震え、テーブルが軋み、誰かが倒れる音。
 私は顔を上げない。音だけが私の上を通り過ぎていく。



 ♪End roll by浜崎あゆみ

 馬車の揺れは眠気に似ていた。
 私は虚無なまま、窓の外の闇を見つめ、同乗するヤクザ達の視線を避けた。

「もうサースンは死んだの。私を連れて行っても、人質としての価値はない」

 日本語で伝える。

「ある。陽を捕まえる餌にする。あいつは組織の裏切り者だ」

「あの人は生きてるの?
 どちらにせよ、もう私には関係ないわ。妻子がいたの、知らなかった」

 そのとき、馬車が急に大きく傾いた。
 車輪が外れる音がして、乗り物は止まる。
 男たちが慌てて外へ飛び出し、怒鳴り声が重なる。

 夜の空気を切り裂く音──銃声。
 私は座席の端を握りしめ、息を殺した。
 闇の向こうで、何かが決着に向かっている。



 家はひどく静かだった。
 陽のリーも子供たちもいない。
 囲炉裏の火は落ち、薄い闇が居間を満たしている。
 私はぼんやりと座り、手の血の匂いだけがまだ皮膚に残っているのを意識していた。

 怪我を負った陽が、茶碗に水を汲んで戻ってくる。
 そして、無言で私に差し出す。

「疲れたろ。これ飲んで、お休み」

 私は彼を見上げた。
 その顔に、幾つもの夜が重なって見えた。
 次の瞬間、私は茶碗の水を彼の顔にぶつけた。
 水が弧を描き、彼の頬を濡らす。

「私に『結婚しよう』って言ったじゃない! 何が嘘で、何が本当なの?! あなたは一体、誰なの?!」

 勢いのままに叩く。掌に骨の硬さが伝わる。
 陽は逃げず、私を封じるように抱きしめた。

「傷つけたかったんじゃない、救いたかったんだ。本当だ、嘘じゃない」

「……離して……自分の家に帰るわ。ここじゃない、私のいる場所は」

 彼は息を深く吸う。言葉が、静かに落ち始める。

「初めて君を見た時、魂が震えた。すべての景色が止まったんだ。どうしようもない、求めてやまない。片時も離したくない。本当だ。
 リーは、彼女は戦時中、重傷を負って生死の境を彷徨ってた俺を、助けて匿ってくれた。だから、望み通り妻にした。
 でも愛したことはない。単なる恩人だ。ウォーアイニー、君だけを愛してる。信じてくれ」

 私は目を閉じた。
 信じることは、刃の上を歩くことに似ている。



 朝の光が木板の隙間から差し込む。
 静かな温度が、素肌の上で薄く広がる。
 私は目を開け、隣にいる彼の寝息を聞いた。
 近すぎる距離に、昨夜の熱が蘇る。

 起き上がろうとすると、陽の手がそっと私の肩を引き戻した。

「まだ寝てろよ」

 私はためらい、そして身を預けた。
 彼の胸に耳を当てると、鼓動がゆっくりと数えられる。
 外では鳥が一声だけ鳴いた。
 世界は動いているのに、この部屋だけが止まっている。


 しばらく微睡んだ後、陽が背を向けて、黙々と身支度をし始めた。
 帯を締める手つきが、どこか急いている。
 私は寝室から出て、まだ下着姿のまま、床の上を裸足で歩いた。

「何してるの? どこ行く気?」

 陽は振り返り、私の姿に一瞬だけ目を細めた。

「食糧調達に行かないと」

「しばらく外へは出ず、籠ってましょう。元の仲間からも、サースンの部下からも狙われてるのよ?」

「そんなこと言ってたら飢え死にする。
 大丈夫。保存食を買い溜めしてくるから」

「やめて。嫌な予感がする」

 私の声は震えていた。陽は歩み寄り、私を抱きしめた。

「いろいろあったけど、こうしてまた一緒に居る。この先に何があっても、必ず迎えに行くよ。約束する」

 私は何も言えなかった。ただ、逞しい背中に指を添えた。
 その温もりが、もう一度消える気がして、怖かった。


 陽を見送り、寝室にある化粧台の前で、私は髪を梳いていた。
 陽の櫛を借りて、ゆっくりと絡まりをほどく。
 鏡の中の自分は、まだどこか遠くにいるようだった。

 ふと、鏡の端にヒビが入っているのに気づいた。
 そこに、乾いた血がこびりついている。
 私は眉をひそめ、手を伸ばして台の下の引き出しに触れた。

 引き出しは固く、何かが引っかかっている。
 力を込めて引くと、ガタンと音を立てて開いた。

 中には、折りたたまれた手紙と、小さな黒い小瓶が入っていた。
 私は手紙を開いた。

 そこには、血で書かれた文字があった。

**「これを飲んで死ね」**

 手が震えた。
 小瓶を持ち上げると、液体がとろりと揺れた。
 何かが崩れる音が、胸の奥で響いた。

 私は手紙と瓶を握りしめ、何も考えずに立ち上がった。
 着替えることも忘れ、裸足のまま、家を飛び出した。


 ♪Free & Easy by浜崎あゆみ


 朝の市場は、まだ眠気の残るざわめきに包まれていた。
 野菜の山、干物の香り、売り子の声。
 けれど、その喧騒の中に、私は異物として現れた。

 下着姿のまま馬にまたがり、私は人々の視線を裂いて進んだ。
 誰かが叫び、誰かが笑い、誰かが目を逸らした。
 けれど、そんなことはどうでもよかった。

 視界の端に、陽の姿が見えた。
 そのすぐそばに、ナイフを構えた女──リーだ!

「ヤン!」

 私は馬から飛び降り、裸足のまま駆け出した。
 陽が気づくよりも早く、リーの腕が動いた。
 私は体ごとぶつかるようにして、彼女に飛びかかった。

 ナイフが宙を舞い、地面に落ちる。
 私とリーはもつれ合い、地面を転がった。
 彼女の目は、もう何も映していなかった。
 怒りでも悲しみでもない、空っぽの執念だけがそこにあった。

 そのとき、周囲に黒い影が差し込んだ。
 日本のヤクザたちだ。
 私と陽は、あっという間に取り押さえられた。

「離して! お願い、彼を──」

 叫ぶ間もなく、リーが地面に落ちたナイフを拾い上げた。
 そして、陽の腹に突き立てた。

「ヤン!」

 血が、陽の服を濡らしていく。
 彼の顔が歪み、膝が崩れる。
 私は声にならない声を上げた。



 連れてこられた部屋は、異様な静けさに満ちていた。
 壁には拘束具、鞭、鉄の輪。
 空気が冷たく、皮膚の上を這うようだった。

 レイモンとその部下たちが、私を見下ろしていた。
 私は彼の前に突き出される。

「服従を要求する」

「もう男共の玩具にはならない」

 私の声は震えていなかった。
 レイモン──サースンと並んで上海の2大巨頭だったが、今は実質トップである。
 その目が細くなる。

「おい」

 部下たちが、息も絶え絶えの陽を連れてきた。
 腹には布が巻かれ、血が滲んでいる。

「ヤン!」

「大人しく玩具になるなら、この男は生かしてやる」

「裏切り者……」

 陽の声がかすれていた。
 けれど、レイモンを見る目はまだ死んでいなかった。

「俺がお前に力を貸したのは、最初からその女が目当てだったからだ。お前の持ってる僅かなアヘンなど要らない」

「何の話だ?」

 私を連れてきたヤクザの1人が、眉をひそめる。

「たいしたことじゃない。宴を始めよう」

 そのとき、陽が顔を上げた。

「その男は、俺の妻子を人質に取って、お前たちを裏切るよう持ち掛けた。信用するな」

「なんだと?!」

「信じるな。所詮、死にかけのホラ吹きだ」
と、レイモンが笑う。

「俺1人で、お前たちの行動をすべて把握できるわけない。
 お前たちがサースンをレストランで襲撃した時、俺は予めこいつから聞いていて秘密の抜け穴で待ち伏せた。
 お前たちが、クラブを銃撃する話もコイツに訊いた。だから、通り道でヨンを奪い返せた」

「あっ、それで、あそこにいたのね……」

 私は思わず声を漏らした。
 その瞬間、部屋の空気が変わった。
 ヤクザたちの鋭い目が、レイモンに向けられる。

「そいつを黙らせろ」

「黙るのは、お前だ!」

 怒声と共に、銃が抜かれた。
 乱闘が始まる。
 銃声、怒号、倒れる音。
 私は陽のもとへ駆け寄り、その身体を支えた。

「行ける?」

「……行くしかないな」

 私は彼の腕を肩に回し、混乱の中を掻い潜って走った。
 陽の体温が、腕の中でどんどん冷たくなっていく。
 でも、まだ生きてる。
 だから、私は止まらない。
 この人を、今度こそ連れて帰る。


 陽と私は屋敷の玄関を飛び出し、石畳を踏みしめる音がやけに大きく響いた。
 私達に気付いた門番の影が動く。

「馬を探してきてくれ」

 陽の声が切羽詰まっていた。
 私は振り返る。

「でも……」

「早く!」

 その一言に、私は頷き、走り出した。
 背後で門番が動く気配がしたが、陽がその前に立ちはだかる。
 何かを叫ぶ声が聞こえたが、私はもう振り返らなかった。
 馬を見つけないと、2人とも死んでしまう。


 馬のいななきが聞こえた。
 私は手綱を見つけ、震える手でそれを掴もうとした。
 だが、その瞬間、影が差した。

 ──レイモンだった。
 肩で荒く息をし、顔は血に濡れ、目は狂気に染まっていた。

「俺のものになれ」

 その声と同時に、彼が襲いかかってきた。
 私は叫ぶ暇もなく、闇の中に引きずり込まれた。



 足元がふらつく。血が止まらない。
 痛みは麻痺して、生きてる感覚さえ曖昧だ。
 馬小屋の扉を開けた瞬間、視界が凍りついた。

「ヨン!」

 彼女が仰向けに倒れていた。
 駆け寄り、膝をついてその身体を揺さぶる。
 返事はない。
 白い手から転がり落ちた小瓶が、地面に当たって鈍い音を立てた。

 拾い上げて中を覗く。ほとんど空。
 一口舐めると、喉が焼けるように痛んだ。
 ──毒だ。
 彼女は毒を呷って死んだ。

 馬小屋の隅を探る。
 埃をかき分け、古びたナイフを見つける。
 戻ると、ヨンの顔を見つめながら、そっと隣に横たわった。

「君だけだ。嘘じゃない、ウォーアイニー」

 ナイフの刃を喉元に当てる。
 躊躇いはなかった。
 ただ、彼女の隣にいることだけが、最後の願いだった。

 刃が皮膚を裂き、温かいものが溢れ出す。
 世界が静かに、遠ざかっていった。



 まぶたの裏が、じんわりと明るくなっていく。
 私はゆっくりと目を開けた。
 隣に、陽がいた。

「……ヤン……」

 その姿に、安堵が胸を満たす。
 けれど、次の瞬間、違和感が私を引き戻した。
 自分の手に、服に、温かく乾きかけた血がこびりついている。

 私は陽を揺さぶった。

「……ヤン? ねえ、ヤン!」

 彼の首元に、深い傷があった。血は止まり、肌は冷たくなっていた。
 私は声を失い、肩を落とした。

 もう、何も残っていない。
 言葉も、約束も、未来も。

 私は陽の手からナイフを取った。
 その重さが、今だけは確かだった。

「……ウォーアイニー」

 刃を胸に当て、力を込める。
 痛みが走る。けれど、それは恐怖ではなかった。

 私は陽の上に倒れ、その顔に手を伸ばした。
 指先が彼の頬に触れたとき、ようやく涙がこぼれた。
 世界が静かに、終わっていく。
 ふたりだけの、最後の夜明けだった。


 ♪teddy bear by浜崎あゆみ