僕らは
何もないところから生まれてしまった
すべての景色が止まるくらい
激しい恋に落ちたい
涙が溢れて止まらなくなるくらい
愛したい
一目見て魂が震える
そして強く求める
そんな運命の相手
──たった1人の運命の人
山の匂いが、まだ湿った土と若葉の香りを運んでくる。
私は小さな籠を抱え、陽介(ヨウスケ)と並んで斜面を下っていた。
私達は幼馴染みで同じ年。
背は大人の腰より高くなった。
藍色の着物が似合う彼の短く切った黒髪が、風に揺れた。
立ち止まって子供ながらに完成された、その顔を見る。
「わあ、キレイ。どうしたの?」
陽介が手のひらを差し出すと、そこには小さな櫛があった。
木で作られたそれは、細かな彫りが施されていて、光を受けて淡く光っている。
「やるよ。つくったんだ」
陽介の顔が少し誇らしげに緩む。
彼はいつも、何かを作っては私に見せてくれた。
「ありがとう。とっても上手ね」
私は櫛を受け取り、指先で縁をなぞる。
木の匂いがして、どこか懐かしい気持ちになる。
「いくらでもつくってやるよ、そんなの」
陽介は、胸を張るように言った。
子どもらしい大げささが、私には愛おしかった。
「嬉しい」
私は素直に笑う。
陽介の作るものは、どれも私のためにあるように思えた。
「あのさ……」
陽介が言葉を切る。
彼の黒目が少しだけ逸れる。
「うん?」
「それくらい、いくらでも作ってやるからさ。だから……うちに嫁に来いよ。大きくなったら」
陽介の声は真剣だった。
子どもの口調でありながら、その言葉には揺るがない決意が含まれていた。
「嫁ぐの? 陽のところに?」
私は驚いて、櫛を握る手に力が入る。
「そう」
「わかった」
私は迷わず答えた。
陽介と一緒にいる未来を私も、どこかで決めていたのかもしれない。
「え? いいの? やった! 約束な」
陽介が嬉しそうに言うと、2人で指切りげんまんをした。
小さな約束が、山の静けさに溶けていく。
──その瞬間、茂みの向こうから馬の蹄の音が突き刺さった。
風が止まり、鳥が一斉に飛び立つ。
私は胸の奥がざわつくのを感じた。
茂みが割れ、黒い影が現れた。
馬にまたがった男──顔は布で半分覆われ、鋭い目だけが見える。
腰には短刀、手には縄。馬のたてがみが乱れ、盗賊の衣は泥と血の匂いを帯びていた。
「おい、そこの子ども──」
男の声が低く響く。
陽介が立ち上がり、私の前に立った。
「離れろ!」
陽介の声は震えていたが、怒りが混じっていた。
私は陽介の袖を掴み、後ろへ引こうとした。
だが、盗賊は躊躇わなかった。
馬が一歩前に出ると、縄が振り下ろされ、私の腕を強く掴んだ。
驚きと痛みで息が詰まる。
陽介が叫び、手を伸ばす──だが、馬の勢いは速く、私の体は引き裂かれるようにして持ち上げられた。
「やめて! 陽──」
私の声は風にかき消され、陽介の顔が遠ざかっていく。
彼の目が必死に追いかけるのが見える。指先が私の袖を掴んで離さない。
約束の指切りが、まだ私たちの間に残っているように思えた。
馬が茂みを抜け、盗賊の影が木々の間に消えていく。
陽介は地面に膝をつき、泥に手を突いて私の足跡を追おうとする。
だが、私の視界は揺れ、世界が遠のいていった。
最後に見えたのは、陽介の口元が震え、空に向かって私の名を叫んでいる姿だった。
私の心はその声を追いかけたまま、暗闇に飲み込まれていった。
花魁道中を進む。
豪華な衣装に身を包み、白粉の下で顔を作り、身も心も大人になった私は人形のように歩いていた。
髪には金襴の簪、帯は鶴の刺繍、足元には朱の高下駄。
左右に控える禿(カムロ)たちの足音が、私の存在を際立たせる。
通りの人々は息を呑み、誰もが私を見上げる。
でも、誰も私の中身を知らない。
この道は、誇りの道であり、見世物の道であり、 そして──私が私を捨てた道でもある。
見物の人だかりの中に、藍色の着物を着た若い男が立っていた。
風に揺れる短い黒髪、澄んだ瞳、完璧だった顔は幼さを消して、精悍に──陽介だった。
足がもつれそうになった。
高下駄が石を滑り、心臓が跳ねる。
すぐに姿勢を整えたけれど、視界の端に残った彼の姿が、私の胸をざわつかせた。
♪Moments by浜崎あゆみ
「雪乃! 花魁道中しくじるなんて、なんて馬鹿なんだい! 見世の面汚し!」
遣り手の罵声が飛ぶと同時に、扇子で膝を打たれた。
裏庭は静まり返っている。
私は黙って頭を下げた。
逆らうと次は冷水を掛けられる。
それより、12年ぶりに見た陽介の顔が、瞼に焼き付いて離れなかった。
数日後の夜。
揚屋の座敷で宴が開かれた。
酒、肴、一通りの物は並んでいるが、大名に比べると見劣りする。
私は入り口の傍に座り、能面を顔に張り付けたまま上座を見る。
──陽介がいた。
盃を手に、静かに座っている。
あの頃と変わらない整った横顔。
指の甲に白い傷がひとつ、昔の記憶を呼び起こす。
「厠へ」
隣の脇女郎に、一声かけて席を立った。
蝋燭の揺れる廊下を歩いていると、遣り手がすれ違いざまに嫌味を言った。
「あんな羽振りの悪い客、相手にするなんて……」
私は足を止めず、横顔だけで返した。
「ぞっとしたでありんす」
座敷に戻ると、私は陽介の隣に座り、盃に酒を注いだ。
慣例では3回、顔合わせするまで隣には座らない。
しかし、掟を破ったところで太夫に手が届きかけている私を、どうにかすることはできないだろう。
「ありがとう、永遠(トワ)」
その言葉に、動揺して手が震えた。
酒がこぼれ、畳に円を描く。
「かたじけのうござんす。どうかお許しくだんし」
私はすぐに布で拭い、動揺を隠した。
「やっぱり永遠なんだね」
彼の声は静かで、確信に満ちていた。
「何をおっしゃりんす。どなたかとお間違いでしょう。
わちきは雪乃(ユキノ)──生まれも育ちも、この遊郭でありんす。
母も、ここで遊女をしていたのでござんす」
そう言いながら、心の奥で何かが軋んだ。
12年前の山の風が、簪の間をすり抜けていった気がした。
もう私は誰でもない。
けれど、彼の瞳が私を永遠と呼ぶ限り──その名が、胸の奥で静かに揺れ続けていた。
夜の揚屋は音が沈み、灯りだけが息をしていた。
私の部屋に、甘い香と薄い酒の匂いが漂う。
屏風に花が咲き、簪の影が壁に揺れる。
私は膝をそろえ、袖口を整え、盃に酒を落とした。
陽介は黙って座っていた。
藍の着物の襟はきちんと合わさり、短い黒髪が灯りで柔らかく光る。
澄んだ黒い視線は、私の肩に──肌理を透く白粉の際に、刺さって留まっている。
視線が熱になって、鎖骨のところがむず痒くなる。
私は気まずく微笑み、肩を隠すように着物の合わせを少しだけ直した。
盃に注いだ酒を、陽介はすぐに飲み干す。
次を注ぐ。飲む。注ぐ。飲む。
いくら注いでも、水のように喉を通っていく。
彼の目は動かず、私に張り付いたままだ。
徳利の底が軽くなった。
私は、それをそろりと畳に置いた。
灯の輪が小さく揺れて、簪に淡い光が乗る。
息を整え、指先を整え、それから、陽介の腕にそっと手を置いた。
袖の藍は少し古びていて、布の温度が生きていた。
「あの……もう、このくらいにした方が……」
言った途端、陽介は前を向いて固まった。
ひと呼吸の後、彼は私の手の上に、そっと自分の手を重ねた。
掌は温かく、指先だけが震えている。
視線は逆に逸れて、私を見ない。
緊張が、畳の目にまで伝わる。
「も、も、もし、嫌なら、無理強いはしないから」
緊張で裏返る声に、笑いそうになる。
「ここは、遊郭でありんす」
言い切った瞬間、灯りがわずかに低くなる。
陽介はぎこちない動きで、体をこちらへ傾けた。膝の位置を確かめ、襟元に触れそうで触れない距離まで近づく。
私は戸惑いながらも逃げず、首の角度を小さく合わせた。
軽く、唇と唇が触れた。
白粉の甘さと、薄い酒の涼しさが混じる。
そこで1度、彼は顔を離す。
間の空気が薄く鳴り、瞳が真正面に合った。
昔の呼び名が喉の奥で波立つのを、必死に沈めた。
再び、ぎこちなく口付けをする。
今度は少しだけ長く、少しだけ深く。
私の胸に、12年前の風が通り抜ける。
約束の指が遠くで交わる気配がして、それでも私は、ここにいる私として唇を結んだ。
簪がかすかに鳴り、夜がその音を飲み込んだ。
朝の光が障子を透けて薄く、高級品の並ぶ部屋の奥へ差し込んでいた。
隣に、雪乃の体温。
同じ布団に潜り込んだまま、俺はしばらく彼女の寝息を聞いた。
胸の奥に、12年ぶりの安堵が広がって、それでも落ち着かない鼓動が喉を叩いていた。
やがてそっと身を起こし、畳に手をついて鏡台の前へ移る。
鏡の中に、昨夜の酒気がまだわずかに残る自分の顔が映る。
視線を落とした先──鏡台の上に、見慣れた木の艶があった。
櫛だ。細かな彫り、淡い赤の滲み。あの時、山で永遠に渡した櫛。
指でそっと縁をなぞると、木の匂いが昔の風のように立ち上がる。
俺は櫛を手に取って、布団へ戻った。
彼女の髪の黒は、灯りのない朝に溶けて深い。
肩の線が、思い出の中の少女とは違う女の輪郭を持っている。
「もう起きたのかえ」
瞼がゆっくり開き、俺を見た。声がやわらかく絡む。
俺は櫛を少し掲げるように見せた。
「これ……俺がつくったんだ。この赤いの、絵の具でつけた模様じゃない。俺の血豆が潰れてついちまった血なんだ。できるのに1カ月以上かかった。
何度も何度も失敗して、やっとできたんだ。やっとできて、それで……」
言いながら、指先の痛みまで思い出す。
凍えた夜、灯の弱い小屋、何度も彫り直しては欠けた歯。
雪乃の睫毛が震え、涙がハラハラと頬を滑り落ちる。
「永遠……会いたかった。
ずっと探してたんだ、この12年間。やっと会えた」
言葉の重さが胸を貫いて、俺は彼女を抱きしめた。肩の温度、髪の香り──失われた時間を詰めるように腕に力を込める。
すぐに抱擁をほどき、指先だけの確かさを選ぶ。
彼女の手を握ると、永遠──雪乃は顔をそむけた。
「今の私を見ないで……。私はもう、あの頃の永遠ではないの」
その一言が、喉の奥に冷たい針のように刺さる。
俺は首を横に振った。
「何を言ってるんだ。何も臆することはないよ。今も昔も変わらず、ずっと好きだ。
──順番が逆になっちゃったけど、約束通り俺と結婚してくれ」
「そんな……そんなこと言われても」
「身請けする」
「あなたに身請け金は払えない」
「何とかする」
「いいえ、大名か豪商でもなければ無理なの」
「だったら一緒に逃げよう。遠くに家を用意するから、2人でひっそり暮らそう」
雪乃はゆっくり首を振った。
涙で濡れた睫毛が、朝の白い光を欠片にする。
「……あと8年で年季が明ける。そしたら迎えに来て」
「8年?! そんなにここで働いたら、病気で死んじまう」
「逃げても、見つかったら殺されるわ」
「そんな……奉行所に言って、どうにかしてもらおう。拐われたんだ、永遠の落ち度じゃない」
「借用証を書かされてるのよ。どうにもならない」
現(うつつ)の重さが畳の目の間からせり上がってくる。
金、証文、年季──言葉の束が昔の約束を押し返す。
櫛が、俺の膝の上で静かに光った。
12年前、目の前で連れ去られた、あの瞬間が血のように蘇る。
「あの時、目の前で連れ去られて、何もできなくて悔しかった。後悔してた。ずっと……どうすれば」
「陽介のせいじゃない。
お願い、年季が明けるのを待って」
彼女の声はかすかだけれど、芯があった。
俺は彼女の手を、もう1度強く握る。
──必ず迎えに来る。
その言葉をまだ口に出せず、胸に焼き付ける。
朝の光が少し強くなって、雪乃の髪の黒が深さを増す。
俺は視線を逸らさず、彼女の現在と、あの頃の永遠を同時に見つめた。
♪Who... by浜崎あゆみ
月が、まるで遠い記憶のように空に浮かんでいた。
白く、静かで、触れられないほど高く。
私は縁側に膝を抱え、夜の風に髪をなぶられながら、その光を見上げていた。
手の中には、あの古い櫛。
木の温もりはもう薄れているのに、指先に触れるたび、彼の声が蘇る。
「やっとできたんだ」
──そう言って、少し照れたように笑った顔。
あの時の山の匂い、風の音、指切りのぬくもり。
全部、ここにある。
でも、私はもう、あの頃の永遠じゃない。
あれから1年が経った。
季節は巡り、私は同じ布団で目を覚ましたが、身体は軽くなかった。
喉の奥が焼けるように痛み、咳が胸を揺らす。
布団の向こうで陽介が目を覚まし、すぐに私の背中をさすってくれた。
彼の手は温かく、指先の力は変わらず優しかった。
「大丈夫か? 体も冷たいし、どうしたんだ」
その声に、私は小さく息を吐いた。
朝の光がまだ窓の隙間から差し込み、彼の横顔を白に縁取る。
「医者に、もう長くないと言われたの」
自分でも驚くほど平らな声だった。
陽介の顔が一瞬で硬直し、瞳が大きく見開かれる。
「なんだって?!」
「お願い、私のことは忘れて。どうか他の人をお嫁にもらって、幸せになって。
ここへは、もう来ないで」
そう言うと、胸の奥にあった言葉の塊が崩れ、涙がひとつ、頬を伝って落ちた。
陽介の手が止まり、部屋の空気が一瞬凍るように静まる。
「そんなわけにいくか! 俺は絶対、永遠と一緒になるんだ!」
抱きしめられ、彼の体温が私の背中に伝わり、櫛の木の匂いがふっと蘇った。
でも、私はもうあの頃の私ではない。
──現実は私たちの約束を簡単には許してくれない。
陽介の決意は美しく、切実で、私を救いたいという気持ちは痛いほど分かる。
けれど、私が彼を縛ることはできない。彼の未来を奪うことだけは、どうしてもできなかった。
夜の台所は油の匂いと、煤の熱で満ちていた。
俺は手早く油壺に火を入れ、炎が芯に触れるのを確かめると、心の中で1度だけ深呼吸した。
計画は単純だ。
煙を上げて見世の者を外へ誘い出し、その隙に永遠を連れ出す──そう決めていた。
だが、火は思ったよりも素早く喰らいついた。
火柱が一気に立ち上り、油の匂いが鋭く変わる。
板の隙間を舐めるように炎が広がり、台所の影が踊り出した。
誰かが叫ぶ声が遠くで割れ、すぐに外から「火事だー! 火事だー!」という喚声が夜を裂いた。
表へ出ると、空気が熱を帯びていた。
俺は梯子を取り出し、手早く立てかける。
永遠の部屋の障子が揺れ、彼女が裾と袖をタスキで縛って、ゆっくりと梯子を降りてくるのが見えた。
白粉の下の肌は朝とは違う、夜の光に溶けるように薄く、でもその目は確かにこちらを見ている。
今度は塀に向けて梯子を掛け直す。
足元が滑る感触を確かめながら、俺は梯子の上で体重を支えた。
永遠が一段一段、慎重に登ってくる。
誰かが走る音、足音が近づく。
番頭の怒鳴り声が風に乗って届いた。
「おい、何してる!」
番頭が追いかけ、梯子に足をかけて登ろうとする。
永遠が塀の上へたどり着いた瞬間、俺は勢いよく梯子を蹴った。
木が軋み、番頭ごと梯子が倒れる。
暗がりに、男の呻きと木の弾ける音が混ざった。
懐から太い麻縄を引き出し、その先に繋がる鉄の熊手を、今いる塀の梁に引っ掛ける。
そして、遊廓とは反対──外の世界へ続く道との間にある堀を見下ろした。
遊廓の外側は脱走防止用の堀がある。
「さ、来いよ。しっかり捕まって。向こうへ飛び下りるぞ」
永遠の手が震えている。
「む、無理よ。そんなの!」
塀の上で尻込みする彼女に、俺は片手を伸ばした。
「大丈夫。落ちてもいいように、下に板も渡してある。命さえあれば、何も要らないだろ」
そうしてる間に番頭は、再び梯子をかけ直し、永遠の背後へ迫る。
俺は一瞬の猶予も与えず、梯子を倒しす。
「早く! 俺を信じろ!」
永遠は目をぎゅっと閉じ、俺にしがみついた。
指先が着物の布を掴む感触が、俺の腕に伝わる。
彼女を片手に抱き、もう片方の手で命綱を掴み、堀の外へ向かって飛び下りた。
──地面に着地する。
冷たい夜風が背中を撫で、火の熱が塀の向こうで広がる。
「ほらな。大丈夫だったろ」
口笛を一つ吹くと、遠くから馬の蹄の音が近づいてきた。
用意しておいた馬だ。
塀の向こうで、番頭の怒号が上がる。
「おーい、女郎が逃げたぞー! 誰かー!」
俺は永遠を馬に乗せ、自分も鞍に飛び乗った。
馬が勢いよく走り出すと、見世の灯りが後ろへ流れていく。
夜風が顔を切り、櫛の木の匂いと彼女の髪の香りが混ざる。
馬の背で、永遠の華奢な体が震えているのを腕の中で感じた。
胸の中に渦巻くのは恐怖でも後悔でもなく、ただひとつ──守るという決意だった。
空の端がわずかに白み始め、木々の影が長く伸びている。
泉の水面は鏡のように静かで、馬がその縁に顔を寄せて音もなく水を飲んでいた。
私はしゃがみ込み、両手で水をすくった。
冷たさが掌を刺し、指の先から腕へと沁みていく。
顔を洗うと、白粉の名残が流れ落ち、肌がようやく自分のものに戻った気がした。
「塀の外に出たのは、何年ぶりだろう」
ぽつりと呟いた声が、泉の水面に落ちて波紋を広げる。
胸の奥がじんわりと温かくなった。自由の空気は澄んでいる。
陽介は少し離れた木陰で、周囲を警戒していた。
手には弓、背には矢筒。
目は鋭く、でも私を見たときだけ、ふっと柔らかくなる。
「まだ、しばらくかかるから少しでも休んでおけよ。体、悪いんだからな」
「うん」
私は頷き、泉の水をもう一度すくって口に含んだ。
冷たさが喉を通り、胸の奥まで染みわたる。
生きている。
♪SEASONS by浜崎あゆみ
季節が巡り、山の中に小さな畑ができた。
陽介と私は、土に手を入れ、苗を植え、草を抜いた。
陽の光が肌を焼き、風が汗を乾かす。
土の匂いが爪の間に入り込み、指先がひび割れても、私はそれを誇りに思った。
持病が平癒し、遼介(リョウスケ)が生まれて2年。
小さな足で畑を駆け回り、私たちの足元にまとわりついてくる。
「おとーだっこー」
陽介が笑いながら抱き上げ、私はその逞しい背中を見つめながら、胸の奥に満ちていくものを感じていた。
暗くなると、小屋の中では囲炉裏の火がぱちぱちと音を立てた。
陽介と私、そして遼介。
3人で囲む食卓には、山菜の煮物と焼いた川魚、炊きたての飯。
質素だけれど、どんな御馳走よりも温かい。
遼介が箸をうまく使えずにこぼすたび、陽介が笑い、私は手を伸ばして拭ってやる。
目が合うと、陽介が微笑み、私も自然と笑っていた。言葉はいらなかった。
そこにある空気が、すべてを語っていた。
いつもの朝。
陽介は矢を背負い、弓を肩にかけて馬のそばに立っていた。
私は弁当を包んだ布を手渡す。
「早く帰ってきてね」
そう言うと、陽介は笑って頷いた。
「ありがとう。暗くなる前に戻る」
馬に乗る姿は、昔と変わらず頼もしかった。
私はその背中を見送りながら胸の奥で、そっと願った。
どうか、この日々が続きますように──と。
囲炉裏の火が小さく揺れていた。
夜の山小屋は静かで、虫の声すら遠く、まるで世界に私と遼介しかいないようだった。
遼介は膝の上で眠たげに瞬きを繰り返し、私はその髪を撫でながら、何度も戸口に目をやった。
「遅いな……。
『暗くなる前に戻る』って言ったのに。何かあったのかな」
胸の奥がざわついて、落ち着かない。
陽介は約束を破るような人じゃない。
だからこそ、こうして戻らないことが、余計に不安を煽った。
その時、外から馬のいななきが聞こえた。
「あ、帰ってきた」
私は遼介を布団に寝かせ、急いで玄関へ向かった。
引き戸を開けた瞬間、足が止まる。
そこにいたのは、陽介ではなかった。
月明かりの下、5人の侍が無言で立っていた。
鋭い目、腰の刀、そして1人の男が懐から何かを取り出した。
「御用改めである。この簪(カンザシ)に見覚えがあるな?」
私は息を呑んだ。喉が詰まり、声が出ない。
差し出されたのは、見間違えるはずもない、あのかんざし。
遊郭にいた頃、名だたる大名が贈ってくれたもの。
生活が苦しく質に入れたはずのそれが、なぜ──。
「お前が遊女だった頃に、身に着けていた品であろう。質流れ品から、ある方が見つけた。
まさか、こんなところから足がつくと思わなかったか」
男の口元が歪む。皮肉と勝利の笑み。
私は1歩、後ずさった。
「さ、我々と一緒に来い」
腕を掴まれた瞬間、背筋が凍った。
遼介の寝息が、奥の部屋からかすかに聞こえる。
私は振り払おうとしたが、力が入らない。
そのとき、風を裂く音がした。
矢が一閃、侍の胸を貫いた。
次の瞬間には、二の矢、三の矢が飛び、侍たちが次々と倒れていく。
驚きと混乱の中、物陰から陽介が飛び出してきた。
「永遠! 無事か?!」
私は駆け寄った。
彼の姿を見た瞬間、張り詰めていたものがほどけて、涙が滲んだ。
「あなた!」
陽介は私の手を強く握り、すぐに言った。
「今すぐ馬に乗るんだ。別動隊が近くにいるかもしれない」
「わかった、遼介を……」
私は家の中へ戻ろうとした。
けれど、陽介の手が私の腕を掴んで止めた。
「遼介は置いていく。馬が遅くなる。連れて行くと足手まといだ」
「なんですって? まだ2歳なのよ?」
信じられなかった。
あの子を置いていく? そんなこと、できるはずがない。
「お奉行が子供を殺すはずない。置いて行っても命は助かる。大丈夫だ、急げ」
「そんな……」
言葉が喉で詰まる。
遼介の寝顔が脳裏に浮かぶ。
あの小さな手、笑い声、泣き声。
私は足が動かない。
しかし、陽介は迷うことなく私を抱き上げ、馬に乗せた。
夜の山道を駆けながら、私は何度も振り返った。
小屋の灯りが遠ざかり、遼介の名を呼びたくなる衝動を、唇を噛んで堪えた。
明け方の海は、霧に包まれていた。空と水の境が曖昧で、世界が白く溶けている。
小さな舟の上、陽介が無言で櫂を漕いでいた。
私は彼の向かいに座り、顔を布で覆っていた。
陽介も同じように、笠を深くかぶり、顔を隠している。
波は静かで、舟の軋む音だけが耳に残る。
逃げて、逃げて、ここまで来た。
けれど、心は重く沈んだままだった。
無人島の海岸に、私は膝を抱えて座っていた。
砂の冷たさが着物越しに伝わり、潮の匂いが鼻を刺す。
目の前には、私たちを運んできた舟が波に揺れていた。
「遼介……」
名前を呼ぶだけで、胸が締めつけられる。
あの子の寝顔が、声が、手の温もりが、今も指先に残っている。
陽介が、森の奥から木の実を抱えて戻ってくる足音が聞こえる。
「食え。死んじまうぞ」
陽介が無造作にヤマモモを差し出す。
私は顔を上げずに言った。
「あなたは自分のお腹を痛めてないから、そんな顔してられるのよ」
陽介の手が止まる。
しばらくの沈黙のあと、彼は低く言った。
「わかった。俺1人で戻って、連れてくる」
そう言って、船へ向かおうとする。
私は咄嗟に立ち上がり、彼の腕を掴んだ。
「やめて! 今更、戻るなんて。自殺行為よ!」
陽介が振り返る。
「だったら、どうしろっていうんだよ?!
俺にとってはお前が、この世で1番大事なんだ。他は二の次だ。お前さえいればいい!」
その言葉に、私は息を呑んだ。
陽介の手が震えていた。
私のために、すべてを投げ出してきた男の、剥き出しの心がそこにあった。
「あなた……」
その瞬間、風を裂く音がして、槍が私たちの足元に突き刺さった。
砂が跳ね、私は思わず後ずさる。
陽介がすぐに私を背にかばい、弓を構える。
「下がってろ」
霧の向こうから、船が3艘、こちらへ近づいてくる。
舟の上には、あの時の侍と同じ装束の男たちが6人以上。
中央の船には、小さな影──遼介がいた。
「待って、あなた。遼介の泣き声がする。撃たないで」
陽介の腕が止まる。
舟がさらに近づき、遼介の泣き声がはっきりと聞こえた。
小さな手が誰かにしがみついている。
私は震える声で言った。
「もう大人しく捕まりましょう。放火は獄門だけど仕方ない。
遼介に何かされるくらいなら、罪を償った方がいい。陸へ戻っても、どうせ捕まる」
陽介は矢を握ったまま、動かない。私は彼の背中に手を添えた。
もう、終わりにしよう。
逃げることよりも、守ることを選びたい。
霧の中、舟の影が私たちを包み込もうとしていた。
私たちは、静かに両手を差し出した。
陽介と並んで、頭を垂れ、波打ち際に膝をつく。
朝の霧はまだ晴れず、海と空の境が曖昧なまま、ただ潮の匂いだけが濃く漂っていた。
船が砂を割って近づき、侍たちが次々と上陸してくる。
6人、7人、いや、もっと。
足音が砂を踏みしめ、私たちの前に立ちはだかる。
先頭の男が、冷たい目で私を見下ろした。
「我々は同心などではない。高岡藩城主・佐々野義文の命で参った。殿は、雪乃、お前を所望している。
気の休まらぬ山小屋暮らしより、城に囲われた方が幸せだろう。大人しく一緒に来い。息子は生かしてやる。
──男は邪魔だ、斬れ」
その言葉が終わるより早く、陽介が私の方へ手を伸ばした。
けれど──
斬撃の音が、霧を裂いた。
陽介の体が、ぐらりと傾いた。
脇にいた侍の刃が、彼の脇腹を深く裂いていた。
血が、霧よりも濃く、砂に広がる。
「陽介!!」
私は叫び、肩を掴んだ侍の手を振り払って、倒れた陽介のもとへ駆け寄った。
「しっかりして! 死なないで! 私も……私も、あなたが1番大事なの!!」
陽介の手が震えながら懐を探り、血に濡れた指先で何かを取り出した。
木の櫛だった。細やかな彫り、赤く染まった縁──それは、彼がまた私のために作ってくれたもの。
「新しく作ったんだ……前のは、もう、だいぶ古いだろ……」
その声はかすれていたけれど、確かに届いた。
私は彼の手を握り、櫛を包み込むように抱きしめた。
陽介は、ニッと笑った。
子供の頃と同じ笑顔……。
そして──そのまま、動かなくなった。
「陽介……陽介……嘘、いや……嘘でしょ……陽介!!」
叫びは風に溶け、霧に吸い込まれていった。
私は彼の胸に顔を埋め、何度も名前を呼んだ。
けれど、返事はない。
侍たちが私の腕を掴み、力づくで引き剥がす。
私は抵抗する力もなく、ただ陽介の体にすがりつこうとする。
「待って! 手当をして! 体は、まだ温かいの! 医者に連れて行って! お願い!」
責任者らしき最初に声をかけてきた侍が、再び冷たく言い放つ。
「もう事切れておる」
その言葉に、私は膝から崩れ落ちた。
視界が滲み、世界が音を失う。何もかもが遠ざかっていく。
そのとき、小さな手が私の背に回った。
「かあ……かあ……」
遼介だった。
無邪気に、何も知らずに、私に抱きついてくる。
私はその体を抱きしめ、震える唇で何も言えずにいた。
やがて、私たちは船に乗せられた。
陽介の体は、浜辺に残されたまま。
海が静かに揺れ、船が岸を離れていく。
私は振り返り、遠ざかる島を見つめた。
♪Dearest by浜崎あゆみ



